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第十三羽 曲芸


 放たれる月光を背景に、一人の男が崩れかけたホテルに足を運ぶ。
 漆黒の外套が揺らめき、その中には幾枚かの白い仮面がのぞかれる。
 周囲に存在する空きビルの看板に描かれた文字は反転し、それはまるで鏡写しのような世界。
 その中を、仮面使い柴崎司は一歩一歩進んでいく。
 眼前の建物には間違いなく罠、もしくはそれに準ずるものが存在しているだろう。
 しかし、向う他はなかった。
 すでに玉西、二階堂という人質を取られた上、
「やってくれる」
 右手に包まれた紙切れを握りつぶす。
 その紙には、彼の仕事仲間である薙風までもが囚われの身になったことを告知する文章が紡がれていた。
 解体を待つだけの巨大な建築物。
 その内部で、これからある悲劇が起ころうとしていた。






「何かある」
 呟いてそれを原動力とする。
 つまるところ、これは自分の勘違いか否か。
 それはまず間違いなく否と言えるだろう。
 だってそうだ。
 鏡の中に入った感触は間違いなく本物で、その中で吸った空気も決して偽りではないだろう。
 なら、これには何か理由があるはずだ。
 もしかしたら僕の頭がイカれてるだけかもしれないが、どうせあてもないのだから行動してみて損はないはずだ。
 いや、一応あてはある。
 あるにはあるが、僕はあの巫女さん探偵を全面的に信用できるほど人間ができてない。
 そんなわけで、僕は昨日の現場に来ていた。
 両脇には商店街の入り口として存在する鳥居のような入り口。
 周囲には電灯が灯り、今の時間も暗いアスファルトの上をスーパー帰りの会社員がぽつぽつと帰途についている。
 そんな中、僕はじっと見つめ続けていた。
 何をかって、別に言うまでもなくわかるだろう。
 もちろん、昨日、僕が鏡の世界の入り口として利用した薬局の入り口にある鏡だ。
 じっと見つめるも、鏡は僕の求める反応を行わず、ただ僕の姿と向こう側の店の中を見せるのみだ。
 僕は鏡に向かって手をかざす。
 冷たい感触。
 しかし、僕の腕が鏡の中に飲み込まれることはなかった。
 今度はノックするように叩いてみる。
 しかし、やはり何も起こらない。
 僕は腕を抱えて首をかしげた。
 一体どういうことだろう。
 昨日は確かにこの鏡から鏡の世界に入れたのだ。
 あの全てが反転した真逆の世界。
 でも、それが僕の幻覚であったと言わんばかりに鏡は僕の姿のみを映し出すだけだ。
 と、鏡が新たなる人物を映し出した。
 つかつかと歩み寄ってくる。
 そして、口を開いた。
「何か御用ですか?」
 それは店の主人だった。
 五十を過ぎる白髪交じりのおじさん。
 顔にはしわが深く刻まれ、意志の強そうなその目はこんな時間に何のようだとこちらの顔を凝視する。
「あ、いえ。なんでもないです」
 そう言って、僕はおじさんに背を向け薬局を歩み去る。
 そんな僕の背中を見つめながら、店のおじさんは鼻を鳴らすと店のシャッターを閉めにかかった。
「やっぱ、幻覚なのかな?」
 一人ごちる。
 未練たらしく一度だけ薬局を振り返った後、僕はアパートに帰るために歩きだしたのであった。






「で、あたしたちにこんなことして何を企んでるの?」
 ネオンの雨を眺められる高さにあるホテルの一室、といってもすでに取り壊しが進んでおりカーペット一つ敷いていないその部屋に一人の女性の声が響く。
「まぁ、司を呼び寄せるにはもってこいだろうけど。あんなヤツ呼び寄せて、一体あんたに何の利益が生まれるってのよ?」
 茶色い外套の上から縄で縛られて地面に転がされているその女性は玉西彩花だった。
 彼女の両手と両足には鉄でできた手枷と足枷が取り付けられており、身動きが取れない。
 しかも、その枷は鉄で出来ている。
 金属は輝光を打ち消すために、術を行使することが出来ず、今の彩花はそこらへんにいる女子大生と大差のない力しか持ち合わせていない。
 捉えた術師には金属の枷を、これは裏の世界の人間の中では常識と言える事柄だった。
「さて、お主は知らんのか?」
 答えたのは鎧を纏った老騎士だった。
 まだプレートメイルが作り出されていない頃の人間なのか、彼は鎖帷子にマントと中世後期の騎士に比べれば軽装な出で立ちだ。
 もちろん、その腰には十字架に見紛うロングソードを下げていた。
 その周囲に存在するのは身長二メートルを越す巨漢の男で、どこぞのインディアンのように色黒の肌に怪しげな刺青、だが最近の若者のような流行の服装に身を包み、髪の毛は金に染め上げている。
 そしてその後ろに三人の灰色のローブを纏った魔術師が控え、さらに奥に、こちらに背を向けたまま長イスに腰掛ける漆黒のローブを身に纏う魔術師の姿があった。
「私は何も知らないわよ、あんたの親玉にここに連れてこられてから数日何も聞いてないからね。部屋に閉じ込めてたと思ったらこんなクソ寒い部屋に連れてきて一体何のつもりよ?」
「さて、我輩は何も知らぬが?」
 両手を組み、首を傾げる老騎士。
 そのあまりにもふざけた顔つきに、玉西は表情を変える。
「知らぬって、あんた何様のつもりよ!」
「我は騎士なり、それ以外の何者でもないわ」
「騎士って、女性や子供を守る正義の戦士じゃないの?」
「何じゃそりゃ?」
 呆れ顔になる騎士。
「わけのわからないことを言う女子じゃな。我輩が守るものは己の志と神の教えのみ。それ以外のものは二の次、三の次じゃ」
 騎士の言いように絶句する玉西。
 そんな玉西の背に声が飛んできた。
「無駄だ無駄だ、玉西。そのじじぃ、頭イカれてやがんだよ」
 震えるような太い声の主は二階堂だった。
 無能力者と理解されている二階堂は玉西とは違い、手を後ろに回した状態で縄で手首を縛られているだけだったために、腰を下ろして地面に座っている。
「オレの世話してくれてたのはそのじじぃだったからな。そいつの性格はよくわかってる。騎士道ってのは騎士がいなくなった時代の人間が昔を懐かしんで作り出した幻想なんだってよ。あいつらは私利私欲に走る宗教戦士なんだとさ。
 大切なのは自分と神と信者だけだそうだ」
「ほぅ、お主もわかってきたではないか」
 口元の白くなった髭を吊り上げ、笑顔を浮かべる老騎士。
 老騎士に視線を向けられると、二階堂は不機嫌そうに舌打ちした。
「ところでよぉ」
 二階堂よりもさらに太く低い声が響く。
 声の主は浅黒い肌をした巨漢だった。
「これ、一体どんな魔剣なのよ?」
 そこの手には湾曲した刀が握られていた。
 両手で握ってもなお余りある長すぎる柄を持ち、その鞘は朱漆で塗られ月光に煌く様が
 美しい。
「むぅ、我輩もそれなりの魔剣士のつもりではあるが、そのような桁外れの妖刀など初めて見るわ」
 老騎士は突然、真剣な顔を取り戻して巨漢の腕の中にある刀を直視する。
「その刀に触れないで」
 静かに澄み渡った声が始めて響いた。
 声の主に視線を向ける。
 そこには両手両足を縄できつく縛られて地面に座り込んでいる巫女装束の女性、薙風の姿があった。
「それは私の魔剣、返して」
「そうはいかないんだよね、お嬢ちゃん」
 刀を片手でもてあそびながら巨漢は薙風を見下ろすようにして続ける。
「オレ、魔剣士じゃないけどさ。これのすごさだけはわかるぜ。お嬢ちゃん、よくこんなじゃじゃ馬乗りこなせるな。オレも乗ってみたいもんだぜ、この魔剣にもあんたにもさ」
「つまらない冗談」
「冗談じゃないんだけどよ」
 そう言うとその巨漢は薙風のそばに近寄りその巫女装束に手をかける。
「へぇ、かわいい服着てるじゃん。民族衣装っての? オレの実家の連中もそういうの着てるヤツいるけど、時代遅れだと思わない?」
「思わない」
 襲われかけていると言うのに、薙風は臆することなく言い返す。
 巨漢の手が巫女服の隙間から薙風の胸の辺りに侵入する。
 薙風は身じろぎ一つせず巨漢を睨み続ける。
「へぇ、いい度胸してんじゃん。楽しいね」
「よさんか」
 声は奥から。
 長イスに座った魔術師の下から放たれた。
「もうすぐ客も来る。その客がその女が手をつけられたとしたら懐柔もままならんというのがわからないのか?」
「懐柔って、脅迫だろ? これだけの戦力……」
 言葉を切り、周りを見渡す。
 老騎士、三人の魔術師、そして黒きローブの魔術師。
「それにあんただっているんだ。立ち向かえるはずねぇって。あんた一人だってオレたち全員がかりでも殺せやしない」
 小さく舌打ちしながら、薙風の胸元から手を抜き取り、
「そう、殺せないからな」
 巨漢はさもつまらなそうに薙風に背を向ける。
「そう言えば、あいつはどこだ?」
「綱野麻夜、か?」
 黒きローブの魔術師が巨漢の言葉に答える。
「違ぇよ、どこほっつき歩いてんだ?」
「さぁな、獲物でも狩りにいったのではないか?」
「どっちがだよ」
 苛立ちを隠さずに巨漢はそう言い捨てる。
 そんな中、階段を上ってくる音がホテルの部屋に響き渡ってきた。
 近づく音は下から迫り、ようやくそこに辿り着いた。
 漆黒の外套に白い仮面を被った青年が部屋の入り口に立つ。
 灰色のコンクリートの壁面に右手をつき、その青年は部屋を見渡した。
 部屋の奥には地面に転がる三人の仲間たち。
 そして、
「ようこそ、ぼっちゃん」
 部屋の真ん中あたりには浅黒い肌をした巨漢、そしてその後ろにたたずむ老騎士と魔術師たち。
「ようこそおいでいただいたってとこかな」
 薄く笑いを浮かべながら巨漢がほえる。
 仮面から覗く鋭い目を見開き、柴崎司は巨漢を歩み寄りながら睨みつけた。
「貴様らの要求どおり出向いてきてやったぞ。さぁ、用件を言ってみろ」
 一瞬だけ視線をはずし、三人の仲間に視線をやる。
 多少、近づいて見ても怪我をしている様子はない。
 内心、ほっとしながらも、柴崎は再び巨漢を睨みつける。
「どうした、言え」
「いや、言ってやりてぇところなんだけどよ。オレもどうするかは聞いてないのよ」
 言って後ろを振り返ると、座り込んでいる漆黒の魔術師に向かって声をかける。
「御大将、どうすんだい!」
 その言葉に、黒きローブの魔術師がゆっくりとイスから立ち上がる。
 体に纏わりつくローブを翻しながら、魔術師は柴崎と正面から向かい合う。
「なっ!」
 柴崎の口から思わず驚愕が漏れる。
 それに気をよくしたのか、魔術師はさもおもしろそうに深く被ったフードを脱ぎ去った。
「数日振りだな、仮面使い(ウィザルエム)」
「貴様、ヴラド・メイザース……」
 ひょろっとした縦に細長い痩身の男。
 顔にはおびただしい皺が刻まれ、相当な老齢の魔術師。
 そう、そこにいた魔術師は間違いなくヴラド・メイザースであった。
「貴様、死んだはずではっ!」
「死んだかどうか、貴様は疑問に思ったのではなかったのか? 正解だというのに、トドメも刺さずに消えてしまうとはな。手ぬるい手ぬるい」
 ヴラドの囁きに一瞬気おされ、柴崎は半歩後退する。
 自分で見たわけではない。
 だが、玉西の言葉通りならこの男はミンチのようにバラバラとなっていたはずだ。
 それ以上にどうトドメを刺せというのだ。
 これには何か理由がある。
 ミンチになっても蘇生できる力でもあるというのだろうか。
 もしかしたら、対する敵は不死の能力、もしくはそれに準ずるものを所持している可能性が高い。
「だが」
 柴崎はコートの中から得物を取り出す。
 右手には刻銃、左手にはアゾトのカタール。
 臨戦態勢に入り、柴崎はヴラドを睨みつける。
 が、ヴラドは浮かべた微笑をそのままに両手を広げる。
「待て待て仮面使い(ウィザルエム)、私たちは人質をとっているのだぞ。変なことは考えないほうがいい」
 剣を握りなおす音が響く。
 そちらに目をやると、老騎士がロングソードを玉西の首に押し付けている。
 玉西は震えながら柴崎を見つめる。
 その瞳を見て、柴崎は手にしていた刻銃とカタールを床に投げ捨てた。
「……言え、何が目的だ」
「何が、と?」
「殺そうと思えば私の仲間を殺しつくし、それだけの数を持ってすれば私一人を相手取るのに問題はないだろう。必勝の状況で仕掛けないのには意味がある。言え、私に何を要求しようと言うのだ?」
「そう大したことではない。君が取引に応じてくれさえすれば仲間たちは返そう。喜んでな」
「取引?」
 訝しみ、ヴラドの表情を読もうと努める柴崎。
「そう、取引だ。君にはある魔剣の起動を試みてもらいたい、ただそれだけだ。ただそれだけしてもらえるば君の仲間たちの命が助かり、君も何一つ失わずに帰ることが出来る。この際だ、君が私に働いた無礼は許そうじゃないか。確かに痛かったが許せないというわけではない。私は寛大な性格の持ち主なのでな」
 語り終え、嬉しさを隠し切れないのか、忍び笑いを漏らす。
 しかし、柴崎は愛想笑いの一つも浮かべず、ヴラドを睨みつけた。
「条件を言え」
「魔剣の起動と言ったろう」
「違う、そうじゃない」
 一呼吸置き、続ける。
「魔剣の起動と言ったが、どのような魔剣だ?」
「界裂(かいれつ)」
「界裂(かいれつ)?」
 聞いたことのない名前に柴崎は眉を寄せる。
「自作の魔剣か、そのような名前など耳に覚えがないな」
「確かに、この名前では知らないだろうな。だが、確かに貴様は別の名でそれを聞いた事があるはずだ。 まぁ、今はどうでもいい。そのような事は、そうだろう仮面使い(ウィザルエム)?」
「確かにそうだ。ともあれ、魔剣の起動が条件なら乗ってやろう。さぁ、私の前にその魔剣を持ってくるがいい」
「いいだろう、持っていけ」
 ヴラドはそう言うと黒き肌の巨漢に向かって本を投げつける。
 空中で巨漢は本を受け取ると、ゆっくりと柴崎の眼前まで歩み寄ってきた。
「ほらよ」
「………………」
 渡される本を無言で受け取る。
 そして、離れていく巨漢を尻目にヴラドを見据えた。
「これが界裂(かいれつ)か? 世界を裂くとは面白い冗談だな」
「いやいや、それはあくまで起動式が織り込まれた魔道書にすぎん」
「起動式?」
「そう、この地に眠る退魔(たいま)皇(おう)剣(けん)が一振り。界裂の起動式だ」
「退魔皇剣……だと……」
 退魔皇剣、それは遠い昔に存在したとされる神代の魔剣だ。
 そも、魔剣というものは遥か昔、魔皇と呼ばれた神たちが振るっていた超絶なる威力を誇る魔皇剣と呼ばれるものを基本として作り上げたレプリカに過ぎない。
 神たちは異常な力を持つ魔皇剣を振るい、暴虐の限りを尽くした。
 それを排除するため、世界は神を打倒しうる究極の魔皇剣を作り出した。
 魔皇を退ける剣、退魔皇剣。
 退魔皇剣の力はあまりのもすさまじく、それを用いた大戦争が神代に引き起こされたという。
 退魔皇剣は魔皇剣を振るう、ほぼ全ての魔皇たちを排除したが、世界は大きく荒廃した。
 これが退魔皇戦争と呼ばれる戦いである。
 最終戦争が記される神話は、全てこの戦いのことを記しているとデュラミアの魔術師たちは語っている。
 その証拠に、魔皇剣と呼ばれる桁外れの魔剣は現存し、多くの組織が希少品であるそれを後生大事に保管している。
 が、それを退けるほどの退魔皇剣を所持している組織はどこにもない。
 魔皇剣を持つものは赤の魔術師にさえ匹敵する力を持つとさえ言われているのに、それを退ける魔剣を手に入れることが出来たらどうなるか、考えるまでもない。
「そうか、合点がいった」
 冷や汗を流し、柴崎は凄みのある声を出す。
 なるほど、界裂とはよく言ったものだ。
 退魔皇剣ほどの魔剣ならば世界を切り裂くとまで評価されてもおかしくなどない。
 おそらく、その能力は比喩でも誇張でもないのだろう。
 魔術結社の魔術師の中では、もともとパンゲアと呼ばれる一つの大陸であった世界が分裂したのは退魔皇戦争による被害であると主張する魔術師もいるほどなのだ。
「仮面使い(ウィザルエム)、急いでその魔道書を起動していただけないかな? 我々も急いでいるのだよ」
「何故だ?」
「実はだな、我々の他にも界裂を手に入れようとしている輩がいるわけだな。ヤツらは被害を小さくするために一年がかりの計画で界裂を起動させようとしている。我々はそれを横取りするために強引に起動式を作り上げたのだがな、これが特級の魔剣に匹敵する力を持っているため、そんじょそこらの魔剣士では起動できないだよ。なにしろクリフォトの力の一部を取り込んだ魔剣なわけだからな」
「クリフォト、だと」
「そう、並みの魔剣士ではクリフォトの一部すら取り込むようなEXクラスの魔剣の起動など不可能だ。世界に誇る日本の魔剣士の一族、剣崎、戟耶、薙風の当主でもなければこの魔剣を起動など出来ない。しかし、彼らには強力な護衛がついている。私たち程度の戦力では突破しきれないほどの護衛がな」
「それは残念だったな」
 柴崎は皮肉をこめて呟く。
 が、そんな柴崎にヴラドは含みを込めた笑みを浮かべ、
「いや、だがしかしだ。我々は見つけ出してしまったのだよ。三当主に勝るとも劣らない力を秘めながら魔術結社で尖兵などをしている魔剣士を」
 柴崎を嘗め回すように見た。
「そう、剣崎戟耶。君のことだ」
 その名前を耳にした瞬間、柴崎の体に旋律が走る。
「いつまで柴崎司の仮面を被り続けている気だ。お前は柴崎司、いや仮面使いなどではないはずだ。さぁ、その力を示せ。界裂を起動させるのだ」
 鬼の首でもとったようなはしゃぎ様で、ヴラドは柴崎に向かって言い放つ。
 柴崎はしばらく両目を閉じたあと、ゆっくりと目を開いた。
「三つ、聞いておきたいことがある」
「どうぞ、御自由に」
 これから訪れる歓喜を創造しながら、ヴラドはこぼれだす笑みを抑えながら答える。
「一つ、どうしてお前の敵は界裂の起動に一年近い歳月を必要とするんだ?」
「奴等も魔術結社と正面きって激突するつもりはない。騒ぎを大きくしないためにこそこそやっているというわけだ」
「わかった、では二つ。奴等がとり得なかった起動式を用いる強引な方法。それはいかなる騒ぎを引き起こす?」
「この町の崩壊かな。荒れ狂う界裂の力が暴走して町中がズタズタに切り裂かれるだろう。あぁ、安心したまえ。他の場所がどうなるかは知らないが、このホテルだけは大丈夫だ。気脈を計算に入れた結果、このホテルの周辺だけは絶対に安全と答えが出ている。
 ここで界裂を起動しても、何も問題は起き得ない」
「なるほどな」
 呟き、柴崎は左手で本を持つと、右手を外套の中に忍び込ませる。
「おっと、おかしな考えはよしたほうがいい。我々には人質がいることを忘れてくれるな」
 その言葉に、女の悲鳴が答えた。
 見ると、玉西の首に剣を押し付けていた老騎士が、その刃をわずかに滑らせたのだ。
 玉西の綺麗な首筋から血が滴り落ちる。
 それと同時にヴラドの周りにいる者たちも動いた。
 一縷の隙も見出せぬよう、柴崎を四方向から包囲する。
「さぁ、お前に選択肢はない。仲間を死なせたくはないだろう? お前もまだ死にたくはあるまい。私は寛大な性格だ。界裂さえ起動すれば貴様のような尖兵、鼻にもかけず見逃してやろう。どうだ?」
「三つ、この町には何人の人間が暮らしている?」
「何?」
 意味のわからない柴崎の質問に、ヴラドは疑問の声を漏らす。
「何と言った?」
「この町には何人の人間がいると聞いた」
「さて、十万やそこらじゃなかったかな?」
「そうか、十万か」
 呟き、柴崎は外套の中から剣の柄を取り出した。
 それは、カタールに取り付けられたのとは別のアゾトの剣だった。
「十万と四人じゃ比べるまでもないな」
 アゾトの光り輝く刃が出現し、柴崎は剣を振り上げる。
「交渉は決裂だ」
 その言葉と共に、柴崎は本を放り投げると、空中で一刀の元に切り捨てた。
 破壊された本の形をした魔剣は炎を伴い、床に落ちながらパチパチと燃え続ける。
「き……」
 起こった出来事の重大さにヴラドは激昂し、
「貴様ーっ!」
 そばにいる老騎士に手で指示を出す。
 頷き、老騎士は剣を持つ手に力を込める。
「ひっ……」
 彩花の端正な顔が死の恐怖にゆがむ。
 そして、
「世界(ワールド)」
 巨大な魔力が部屋に放出された。
 閃光が走り、一瞬視力が奪われる。
 目を開くと、彩花の首を切り裂こうとした老騎士の姿が失われていた。
「なっ!」
 驚きを隠せないヴラド。
 無言でいる柴崎の心境も、ヴラドと大差のないものだったろう。
 そして彩花、二階堂、薙風の三人が転がされている場所に一人の男が現れた。
 黒髪黒瞳、肌の色は日本人のそれに近いがやや白め程度という男だ。
 身長はかなり高く、百八十後半近くはあるだろう。
 彫りの深い顔、口元には綺麗に整えられた髭。
 高くそそる鼻は彼が何代も前からの日本という島国に住む民族の血を引いていないことを物語っている。
 意志の強そうな太い眉に、かなり後退していて禿げ上がった頭。
 そして何よりも、見たものの心を威圧せんばかりの鋭い目が印象的な壮年の男。
「養父……さん……?」
 呟きを漏らす柴崎。
 そこに立っていたのは、西洋の鎧と魔術師のローブを組み合わせたような衣装を身に纏う壮年の男。
「あ、アルカナム!」
 二階堂の口から男の名が迸る。
 壮年の男は腰に下げた剣をゆっくりと抜き放ち、その切っ先をヴラドに向けて突き出した。
「ヴラド、いや。マクレガーとでも呼んだ方がよかったかな?」
 低く、力強いアルカナムの言葉。
 その言葉を聴くだけで、意志の弱いものは怯み、その言葉に操られて行動を束縛されてしまうだろう。
 しかし、その強力な重圧に逆らいながら、ヴラドはアルカナムを睨み返す。
「そういう貴様こそアルカナムとは笑わせる。確かに貴様にはお似合いのあだ名だな。アレイスター!」
「何とでも呼ぶうがいい。だが、貴様の計画もお終いだろう。ローゼンクロイツの写本は燃え尽きた。貴様の策は敗れたのだ」
「確かにな、クリフォトをも取り込む『Mの書』がなければ計画はおじゃんだ。だが、総力戦となれば貴様にも勝ち目はあるまい?」
 杖を構えるヴラド。
 その周りにいる彼の仲間もすでに臨戦態勢に入っている。
「やめておけ、お互いに無益な消耗戦になるだけだ。貴様と私以外、全て死に絶えることとなるぞ」
 それは脅しではなかった。
 日常会話でも交わしているような口調。
 されどこの男の言葉の重みには、絶対の揺るぎない真実以外に感じさせることはない。
 それを理解しているのか、ヴラドは睨みつけるようにしてアルカナムに対して言い放った。
「いいだろう、見逃してやる。今回は私の負けだ」
 舌打ちを漏らしながらヴラドは杖をローブの中に仕舞い込む。
 それを見て、アルカナムは指を鳴らした。
 それと同時に消えたはずの老騎士が突然姿を現し床に転がる。
 どれほどの激戦を潜り抜けたのか、体中は埃にまみれ、いたるところに打撲、出血、裂傷のあとが見られる。
「師匠、いいとこだったのに何でやめさせるんだ」
 透き通る青年の声。
 そこには柴崎に勝るとも劣らない、長身で美形の男がいた。
 アルカナムより、やや身長の低いその男は少しだけ首を傾けアルカナムの顔を見上げる。
「交渉は成立だ、両者痛み分けというわけだ」
「嬉しくもない」
 圧倒的に有利な戦況だったのだろうか、青年は舌打ちしながら仕留めそこなった老騎士を眺める。
「いいよ、帰りな。次はこうは行かないぜ」
「これで勝ったと思うなよ」
 忌々しげに口走ると、ヴラドは呪文の詠唱をはじめた。
 それに二階堂、薙風、柴崎はとっさに警戒するが、アルカナムと青年、そして玉西はやや緊張を解いていた。
 呪文が完成すると、ヴラドをはじめとするヴラド一派が自分たちの立っている影の中に吸い込まれていく。
 そして、そこには柴崎をはじめとする六人だけが取り残された。
「影を利用する空間転移呪文だ。高位呪文だから知らなくても無理はない」
 自分の知識をひけらかすように青年が柴崎に語りかける。
「桂原さん」
「久しぶりだな」
 桂原と呼ばれた青年は嬉しそうに笑みを浮かべると柴崎に歩み寄り、その尻を撫でる。
「な、何するんですか!」
「いや、相変わらずいい尻をしてると思ってね」
「お前たち」
 言い合っている桂原と柴崎を見つめ、アルカナムは続けた。
「遊んでないで彼らの縄を解いてやれ」
 言いながら、アルカナムは薙風の腕を縛る縄を解いていた。
「はいはい、わかりましたよ」
 面倒くさそうに二階堂に歩み寄り、桂原はその縄を解き始める。
 柴崎は戦いが終わったことに安堵の息を漏らすと、縄の戒めから開放するために、彩花に歩み寄っていった。






 やっぱり僕の頭はおかしいんだ。
 激しい脱力感にまみれ、僕はコンビニで立ち読みをしていた。
 これがなかなかおもしろく、気がつけば二時間近く立ち読みをしていた。
 四冊目の本を棚に戻し、外を眺める。
 外は相変わらずの闇に包まれ、僕の帰還を促していた。
「帰るか」
 呟き、僕はコンビニを出ることにする。
 もちろん、おいしそうな肉まんを買って帰るのは忘れない。
 肉まんを頬張りながら夜の道を行く。
 街灯に照らされながら硬いアスファルトを踏みしめ、一歩一歩進んでいく。
 三月の夜はまだまだ寒く、冷え性の僕はコートにマフラーに手袋という重装備だ。
 それでも風が吹くと体を震わせて縮こまる。
「あ〜、さぶさぶ」
 肉まんを頬張りながら歩き続ける。
 口の中には熱い肉汁が迸り、肌には冷たい風が吹き付ける。
 プラスマイナスゼロで中間の温度にならないかな、とくだらないことを考えながら歩く。
 と、僕はそこで駅の近くまで歩いてきたことに気がついた。
 僕の住んでいるアパートは駅の向こうだ。
 だから踏み切りを超えて、僕はアパートを目指す。
 実は駅のそばには美坂大学と呼ばれるものがある。
 なかなかに有名な大学らしく、結構遠くの県からも応募が殺到するらしい。
 就職率もかなり高いそうだ。
 しばらく歩くうちに、かなり豪華な四階建ての建物が見えてきた。
 大き目の窓からは部屋を照らす蛍光灯の明かりが漏れている。
 そこは美坂大学の学寮だった。
 地方出身者のための学寮で、美坂大学の人気の高さから二十倍の申し込みがあるほどらしい。
 僕はさらに歩いた。
 アパートから商店街は結構遠く、歩いて三キロほどの距離がある。
 その間には踏み切り、学寮、そして美坂大学があった。
「これは……」
 僕は思わず立ち止まって見上げた。
 広大な敷地を覆いつくす塀、門は堅牢で外部の者一切を拒絶している。
 敷地内には行く本もの木が植えられ、大学を美しく見せようとしているが、あいにくと夜なのであまり映えていない。
 白い校舎は大きく、そして心ひきつけられる姿だった。
 よくある白い感じの校舎だけではなく、その両側はガラス張りで中を覗けるようになっている。
 素晴らしい校舎だ、思わずそう心に感じた。
 しかしそこは大学だった。
 僕には縁のないところだ。
 理由は簡単、僕は中学までしかいかず、高校に通っていないからだ。
 高校に行こうとも思わなかった。
 そういえば、全く話さなかったクラスの女子の会話を小耳に挟むと、やれこの高校の校舎がどうだの、中庭に噴水がついてるの何ので盛り上がっていた。
 成績のいいヤツらは引く手あまただったが、成績にの悪いヤツらには関係のない話だ。
 僕の成績は三と四しかないという、中の上って感じの成績だったが僕は高校に行く気もなかったので関係ない。
 なぁに、べつに高校なんか入んなくても生きていけるさ。
 でも、学園生活にあこがれがなかったわけじゃない。
 マンガで読んだみたいな楽しい学園生活は体験してみたかった。
 友人と微笑みあい、授業を受け、休み時間ははしゃぎ、今日はどんな学食にしようか財布と相談し、バイトし、恋人を作り、思い出を積み上げ。
 しかし、そのような生活は僕とは無縁のものだった。
 頼み込めば高校くらいには行けたかもしれない。
 でも、頼む気もなければ留まる気もなかった。
 あの家にいたら、いつ僕が殺されるかわかったもんじゃない。
 僕は父の連れ子だった。
 母親とは早く死に別れ、父親は母を失うと、その数年後に再婚した。
 その再婚相手が最悪だった。
 彼女は血のつながりのない僕に幾度となく暴力を振るい、僕は何度となく病院送りにされた。
 何が悪いかって、母親がかなり腕力に自信のあるお方だったってことだ。
 僕の父親はひょろっとしてる小柄な男だった。
 で、僕もちっさくてひょろい。
 それに比べて彼女は昔、プロレスラーを目指してたレスラーくずれだ。
 身長は高く、横もややがっしり。
 で、どちらかといえば美人って感じのお方でヒステリー持ち。
 何が気に食わなかったのか。
 おそらく全部だったのだろうが。
 彼女はことあるごとに僕を虐待した。
 ご飯がもらえないのは当たり前で、殴る蹴るの暴行は日常茶飯事だ。
 僕の体がひょろいのは父親のせいだけじゃなくて、たぶん母親のせいで何度も絶食を経験したからだろう。
 ついでに視力もメガネなしだとキツイくらい下がっているが、これは多分遺伝。
 でも、メガネを作るたびに母の拳で砕かれるもんだから、今じゃ危なっかしくてメガネなんかつけらんない。
 おかげで僕の席はいつだって最前列だった。
 おまけに殴られすぎたせいで右目がかなりおかしくなってる。
 左目はそれでも0,1はあるが、右目はあと桁が二つか三つ、もしくは四つくらい違う。
 普通は成長したら虐待ってのは少なくなるもんだが、僕がいつまでたってもひょろい上に母親が筋肉質なので、中学に入ってからも暴力は止まらなかった。
 ちなみに父は助けてくれない、どうがんばっても母に勝てないからだ。
 実は勉強をがんばって成績を中の上まであげたのは、力がない僕でも頭で他人と渡り合おうとした結果で、どこかの都立高校に入ろうともくろんでいたのだが、右目の視力を二桁近く減す結果を招いた、振り下ろしの右拳を食らった次の日、僕はそれを断念した。
 これ以上この家にいたら間違いなく障害を持つ体にされてしまう。
 右目の視力を大幅に失ったのはその最終警告だ、僕はそう思った。
 いても立ってもいられず、僕は家を飛び出した。
 数週間後に高校の試験もあったが、それもボイコット。
 友達の家を転々とし、とりあえず中学の卒業証書だけいただいて家に戻り、空き巣まがいのことをして僕はこの町にやってきた。
 正直に言うと僕は母親を憎んでいる。
 継母のほうだけじゃなくて、血のつながった方もだ。
 だって母が死ななければ、僕はあの町でも心地よくあれたはずなんだ。
 でも、彼女の死が僕の居場所を奪ってしまった。
 だから僕は母親が嫌いだ、大嫌いだ。
 だって、彼女が生きていてくれれば、僕は目の前にそびえるような学校で友達と楽しくやっていけたはずなのだから。
 と、風景が歪んだ。
 考え込みすぎて、また泣きそうになってるのだ。
 涙を拭こうと思い手を動かす。
 が、その動作が一瞬止まった。
 門の向こうに見えるガラスで出来た校舎。
 ガラスに金髪の美女の姿が映っていたのだ。
 振り返ってみるが、そこに金髪の美女はいなかった。
 背筋に緊張が走る。
 見間違いかどうか確かめるため、僕は袖で涙を拭き、再びガラスを見る。
 間違いなく、そこには金髪の美女が存在していた。
 しかし、振り返ってみてもそこには誰もいない。
「鏡の世界か!」
 やはりあの時見たのは見間違いではなかったのだ。
 僕は警備員がいないことを確認すると、すぐに門を乗り越えた。
 校庭を走るように突っ切り、校舎の前に立った。
 僕は目の前のガラスに手を触れる。
 そして、僕の手は何の抵抗もなくガラスの内側へと埋まっていった。
「よし!」
 僕は意気込んで鏡の中に進入する。
 反転した世界。
 真逆になった鏡の中は校舎に飾ってあるカレンダーの文字すら反転させ鏡文字になっていた。
「やっぱりこの世界は実在したんだ」
 感慨深く呟き、しばしこの世界の中で呆然とする。
 が、すぐにすべきことを思い出すと、僕は校舎に進入することを決めた。
 だって僕は見たから。
 僕の大切な人、綱野麻夜の姿をこの目で見たのだから。
 さっき見た麻夜さんは、何を急いでいるのか汗だくになりながら中央の白い校舎の中へ走り去っていた。
 ようやく見つけた。
 僕は麻夜さんの真意を問いただすべく、ガラスの校舎から離れると、中央の白い校舎に向かって走り出した。
 麻夜さんはすでに校舎の中へと入り込んでしまっていた。
 今から叫んでも麻夜さんに聞こえないかもしれない。
 そう思って叫ぶのをやめると僕は麻夜さんに追いつくべく、その姿を求めて校舎の中へと入っていった。
 改築したばかりの校舎はキレイの一言に尽きる。
 いろいろなポスターを貼る壁は今だに画鋲の穴の跡は少なく、汚れもほとんどない様子で綺麗な黄緑色をしている。
 コンクリートの壁ももちろん綺麗で、廊下は転んでしまいそうなほどにツルツルで、窓から差し込む月の光でピカピカと輝いている。
 そんな中、僕は足音も殺さずに走り続けた。
 麻夜さんの姿を求めて校舎の中を駆け回る。
 と、その時だ。
 上の階からけたたましい爆発音が聞こえた。
 生で爆発の音など聞くのは初めてだが、テレビで聞いたのもまぁあんな感じだ。
 違うのは迫力と音の大きさと伝わってくる振動。
 こればっかりは臨場感に欠けるテレビでは味わえないというものだ。
 この時になって、僕はようやく麻夜さんが僕の元から去った理由がわかった気がした。
 もしかしたら麻夜さんはヤバイことに巻き込まれている。
 そして僕を巻き込まないために僕から離れたのかもしれない。
 憶測に過ぎないが、この爆発音はちょっと普通じゃない。
 まぁ、鏡の中に入ってしまうこと自体が普通ではないわけではあるが。
 僕は足音を殺し、慎重を期して爆発音の場所に向かうことにした。
 走って向かうことも出来たが、虫の知らせというやつだ。
 気配を殺し、ゆっくりとした歩みで僕は爆発の現場へと辿り着いた。
 改築したばかりの校舎は無残なありさまになっていた。
 塗り固められたばかりで汚れ一つなかったであろうコンクリートは砕かれ、中身が露出し、中から金属の棒のようなものがのぞいている。
 床は塗装がはがれてデコボコになって、注意して進まなければ転んでしまいそうだし、教室の扉は叩き砕かれて二つに折れ曲がり、果てには廊下の壁に人が通り抜けられるような穴が開いている。
 歩きながら先に進み、廊下の曲がり角で人の気配を感じ、顔だけ出して様子を見る。
 その先の方の廊下で、二人の女性が対峙していた。
 一人は顔も知らぬ、金髪碧眼の女性。
 もう一人はこちらに背を向けてはいるものの、あの流れるような金髪に男と見紛う長身。間違いない、麻夜さんだ。
 一方、麻夜さんに対峙している女性は麻夜さんほどの身長はないが、がっしりとした体つきで、結構筋肉がついているように見える。
 が、それ以上に目に付くのが右手に握り締める短剣だ。
 装飾の施された綺麗な短剣で、思わず手にとって見たくなってしまう。
 と、その女性が上段へと短剣を振り上げる。
 そして、
「爪刃!」
 咆哮とともにその短剣を一閃させる。
 瞬間、剣の先から閃光が放たれた。
 閃光は壁まで一直線に突き進むと、轟音とともにその壁を粉砕した。
 目を見開くが声はもらさない。
 僕の頭の中で最大限に警鐘がかき鳴らされる。
 目の前の相手に自身の存在を気付かれてはならない。
 僕は可能な限り、自身の存在を隠蔽することに決めた。
 と、金髪の女性が舌打ちをする。
 そう、女性は発せられた閃光で間違いなく麻夜さんを狙っていた。
 一直線に放たれた閃光を、麻夜さんは人間離れした脚力をもって回避していたのだ。
 女性の追撃から逃れるべく、麻夜さんは回避をしながら隣の教室へと逃げ込んでいた。
 舌打ちからコンマ一秒もかけず、女性は麻夜さんを追撃すべく、教室に向かって動き出していた。
 何か良くわからないことが起こっている。
 理解なんかできなかった。
 鏡の中に入れることも。
 爆発の閃光を放つ短剣のことも。
 肉食獣のごとき速度で行動する麻夜さんのことも。
 何もかもが理解できなかった。
「でも……」
 一つだけ理解できることがある。
 それは、麻夜さんを助けなくてはならないということだ。
 麻夜さんは狙われている。
 麻夜さんはあいつから逃げようとしている。
「なら」
 とるべき行動は一つしかない。
 僕は布の上からポケットの中身を確認する。
 体温を吸収した金属の板。
 それは、須藤数騎に許された唯一の暴力であった。






「ちぃ!」
 後方から迫る閃光を、振り返ることなく殺気を感じ取るだけで回避する。
 廊下の先は行き止まりではなく、右に曲がれば先があるのでそのまま走りながら曲がると、背後で廊下の壁が木っ端微塵にくだかれた。
「私もそろそろ年貢の納めどき? 冗談!」
 自らに言い放ち、麻夜は手近な教室に飛び込んだ。
「爪刃!」
 その叫びと共に、今度は教室の入り口が木っ端微塵に消し飛ぶ。
 爆発の影響で飛来する飛礫を腕で防ぎ、麻夜は見た。
 ゆっくりとした歩みで、自分のもとに歩み寄ってくる金髪の女性の姿を。
「ようやく追いついたわ、バケモノ」
 油断なく、閃光を発する短剣を握り締めながら金髪の女性はそう吐き捨てた。
「どっちがバケモノよブラバッキー、いつのまに私に対抗できるような能力を身に付けたってわけ?」
「ふん、言うわね」
 ブラバッキーと呼ばれた女性は、鼻を鳴らして続けた。
「同じ転生復活者だからあんたを殺してないだけ、べつに出会い頭に殺してやっても構わなかったのにそうしなかったのよ」
「私よりも数段劣る能力者のくせに口だけは達者ね」
「今のあんたがそんだけ弱っちいってことよ。伝説の三姉妹の末女が聞いて呆れるわ」
「で、見逃してくれるってことはないの?」
「命は助けるわよ、私たちに協力してくれればね」
「協力?」
 油断なく目を光らせる麻夜。
 そんな麻夜に、ブラバッキーは嬉しそうに語りかける。
「そう、我らが盟主、ヴラド・メイザースの傘下に入っていただければいいのよ。そうすれば赤の魔術師に施された貴女の呪いも解いてさしあげるわよ」
「呪いを解いてくれるってところは大歓迎だけど、ヴラド? 冗談じゃない。なんであんなテロリストに協力しなきゃならないのよ。闇の救世主たるアルス・マグナと同じくらい性質が悪いじゃない」
「そうでもないわよ、ヤツらの目的は世界の再生だけど、私たちの目的は世界の支配。それも退魔皇剣の一振り『界裂』が手に入ればなるわ」
「退魔皇剣?」
「そう、私たちの狙いは魔皇剣をしのぐ退魔皇剣。あらゆる組織の長たちがこの魔皇剣を所持して内外に睨みを効かせているのは知っているわね。多くの自分勝手な人間たちが組織のために動くのは、何も使命感や報酬のためだけじゃない。圧倒的な力による支配がなるからよ。その証拠に守護騎士団だって聖女が天辺に存在してるじゃない」
「さぁね、そこらへんの事情は知ったこっちゃないわ」
 ブラバッキーの語りように、麻夜は吐き捨てるように答えた。
 そんな麻夜に、思い出したようにブラバッキーは告げた。
「で、答えを聞いてなかったわね」
「答え?」
「そう、答えよ」
 ブラバッキーは右手に持つ短剣をちらつかせながら続ける。
「ヴラド・メイザースに服従するか、このままおっ死ぬか。さぁ、答えなさい!」
 言い放つブラバッキー。
 だが、麻夜はこの提案に乗る気はなかった。
「答えは・・・・・・」
 呟きながら麻夜は全身の筋肉を膨張させ決死の突撃をかけようとし、
「えっ?」
 最大のチャンスを自ら殺してしまった。






 暗き教室に黒き閃光が走った。
 眼前の女の青い瞳に移ったそれを見ていなかったとしたら、間違いなく自らの首を切り裂いていただろう一撃をブラバッキーはギリギリのところで回避する。
 裂かれたのは首の薄皮一枚。
 しかし、それはブラバッキーの冷静さを失わせるには十分すぎるダメージ。
「ちぃっ!」
 黒き襲撃者は必殺を期した初撃を回避されると、すぐさまに連撃を叩き込む。
 金属と金属が触れ合う鎖の音が教室に響き渡ったかと思うと、ブラバッキーの眼前に一振りの、鎖を柄にとりつけられた短刀が飛来した。
 されど、ブラバッキーとて歴戦の兵(つわもの)だ。
 初撃に対する対処こそ遅れたが、何のひねりもなく急所を狙うだけのその一撃に対処できないはずがない。
 手にした短剣を一閃させ、飛来する短刀を叩き落す。
 が、
「ちぃぃぃ」
 いまいましげな声を漏らし、歯を食いしばる。
 左腕に短刀が突き刺さされていたからだった。
 そう、襲撃者にとって鎖短刀の投擲はおとりにすぎない。
 狙ったのは初撃から数えて三連撃目。
 首を狙った初撃、飛来する鎖短刀による追撃、そしてそれに対する防御の隙を狙って繰り出された短刀の投擲。
 ブラバッキーは見事にそれに引っかかり、回避不可能であったために左腕で短刀を受けざるを得なかったのだ。
「まだだ!」
 突き刺さった短刀など意にも介さず、自らに傷を負わせた相手を睨み付けようとして、ブラバッキーは拍子抜けた。
 なんと、問題の襲撃者のみならず、始末しようとしていた綱野麻夜までもが眼前から消失していたのだ。
「なるほど、ウチに欲しいね。あのチビ」
 奇襲、偽装、連撃。
 ブラバッキーを仕留めようと繰り出されたと思っていた一連の行動、それはすべて陽動。
 本来の目的は、綱野麻夜と逃走するための隙を作り出すことだったのだ。
「やってくれんじゃないのさ」
 怒気を孕む声を絞り出しながら突き刺さった短刀を右手で引き抜く。
 それと同時にブラバッキーの筋肉が膨張し始めた。
 皮膚からはなまくらな刃物なら軽くはじき返す厚い毛と皮に覆われ、彼女は獣へと変じはじめた。
 獣の叫びが轟く。
 それは獲物を逃がさないと決めた猛獣の誓いのようにもとれた。






「数騎、どうしてここに?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」
 わめきながら一心不乱に二人は廊下を走り続けていた。
 ちなみに二人が走っている廊下は二階ではなく一階。
 ブラバッキーが爪刃で床に開けた穴に飛び込み、最短距離で逃走を試みているのだった。
 と、獣の咆哮が校内に響き渡った。
 思わず二人は顔を見合わせる。
「ちぃ、あのクソ女。魔剣士にして獣憑きとは、数段落ちは言い過ぎたかしら」
「え、何ですかそれ?」
「説明してる暇はないわ」
 素早く口にすると、麻夜は数騎の腰に手を回し、丸太でも抱え込むかのように数騎を自分の脇に持ち上げる。
「って、何するんですか!」
「あんたのすっとろい走りより、こっちの方が全然速いのよ!」
 語尾は風に流れた。
 人一人を小脇に抱えているというのに何という速度か。
 チーターにこそ及ばないものの、間違いなく馬ごときでは追いつけないほどの速度で二足歩行の哺乳類が廊下を駆けていた。
 数騎は抱えられながら走られているため、麻夜の振動に伴い体が上下に揺れ、思わず気持ち悪くなる。
 中学の頃、数騎はある不良と仲良しになり、車の無免許運転を教えてもらったりバイクの後ろに乗らせてもらったりしたことがあったが、それに勝るとも劣らない風圧を顔に叩きつけられ、数騎は目を白黒させる。
「来た!」
 鋭く走る麻夜の声。
 それと同時に、壁を粉砕しながら咆哮をあげる巨大な灰色熊が姿を現した。
 その速度たるや、麻夜にこそ及ばないもののかなりの速度だった。
 そも、体重が重く鈍重と思われている熊だが実際にはそうではない。
 その重量に似合わず、熊という動物は相当に俊敏な速度を持つ猛獣なのだ。
 数騎はその巨体を凝視するために、わずかに身をひねって顔を後ろに向ける。
 そして違和感を覚えた。
 後ろから追いすがる熊の姿が、熊と人間の中間に位置する姿に、狼男のようにさえ見えたのだ。
 後から聞いた話だが、どうやら獣人と呼ばれる者たちは人間態と猛獣態、そしてそれらの中間に位置する獣人態という三つの形態を持ち、状況により使い分けるという。
 人間態は普段から能力を開放し疲労を蓄積させない通常態、猛獣態は破壊力と耐久力を最大にした最強戦闘形態、そして獣人体はそれを程よく混雑させた長期戦闘形態なのだそうだ。
 時間さえかければ確実に倒せると踏んだあの女は、獣人態という効率のいい姿で僕達を追尾していたのだそうだが、この時の僕には何も理解はできなかった。
 迫りくるブラバッキー。
 速度で勝る麻夜であったが、次第に速度が落ち始めてきた。
 そして、数騎はその時になって気がついた。
 なんと麻夜は右足に怪我をしていたのだ。
 おそらくブラバッキーの魔剣によって傷つけられたものであったのだろう。
 このような怪我を負いながらも、麻夜は数騎を見捨てることなく抱えて逃げ続けたのだったが、それももう限界だった。
「あっ」
 気の抜けた声と共に麻夜が転倒する。
 それと同時に数騎も地面に転がった。
 素早く起き上がり周囲の状況を確かめる。
 そこは校庭だった。
 あまりにも見通しの良すぎる校庭。
 数騎は自分の体にまとわりつく砂埃など気にもせず、麻夜に駆け寄った。
「麻夜さん、立ってください」
 大丈夫ですか、などと無駄なことは言わない。
 数騎は麻夜に肩を貸し、麻夜を立ち上がらせる。
 といっても麻夜の身長も体重も数騎より数段上であったため、数騎は大した役にはたっていなかった。
「あの熊が来ます、早く……」
「逃げても無駄」
 言葉の続きを横取りされ、数騎は素早く声の発生源に視線をやる。
 そこには全身に毛を生やし、筋肉を膨張させた獣人、ブラバッキーの姿があった。
「さて、もう逃げられないわね。頼みの綱の綱野麻夜はその様。それに坊や、無能力者ね。だからあんたの接近に気付けなかった。惜しかったわね、さっきは。私に血を流させたことは褒めてあげるけど」
 左腕を見せつけながら語りかける。
 が、その左腕の傷はとうの昔に完治していた。
 獣人の回復力のなせる業である。
「さて、最後に質問よ。私達の仲間に……」
 そこまで呟き、ブラバッキーは目を閉じて考え込む。
「ならないかな? 無理してここで参入させても後で裏切られちゃ意味もないし。あのオッサンもダメそうなら邪魔になるから消せって命令してることだし」
 そう決めると目を開き、二人の姿をねめつけて短刀を後方に構え彼女の右腕から、
「じゃあね、お二人さん」
 突如として短剣が消え去った。
「なっ!」
 声を上げたのは誰だったか。
 おそらくは全員だったのだろうが確認のしようがない。
 繰り出されるはずの彼女の短剣は彼女の手を離れ、遥か遠くの地面に突き刺さっていた。
「さてと、あまり良くない趣味をしているように思えて現れてはみたのだが」
 ゆっくりと歩み寄るその姿。
 いかなる暗殺術の持ち主か、この広い校庭の中においてその瞬間まで誰一人としてその存在に気がつかなかったのだから。
 百九十にとどくほどの長身に、それにひきかえなさけない横幅。
 髪は長く腰に届くほど伸ばしているが、首の後ろでまとめているために邪魔にはなっていなさそうだ。
 生え際から結び目までは白く、そこから先の髪は真っ赤に染まっている。
 だがそれ以上に目がいくのはその瞳の色、血のように濡れる赤。
 魔術師を思わせる灰色のローブを纏う、その赤き魔術師はローブの袖をはためかせながら一歩一歩近づいてくる。
「どうした、ゲド。久しぶりだな。美しいお嬢さんと夜の逢引かな?」
「逢引とは無粋な言い草だな、赤の魔術師」
 そう口にしたのはブラバッキーだった。
 かすかに微笑をたたえ、赤の魔術師と呼ばれた男はブラバッキーの方に顔を向ける。
「ほぅ、私を知っているのか?」
「貴様を知らない裏の住人など一人としていないだろうさ」
「それはありがたいことだな」
 ありがたくもなさそうに答える。
 それを聞き、ブラバッキーは歯軋りをする。
「消えろ、赤の魔術師! こんな小僧たちがどうなろうと、貴様には関係のないことだろうが」
「ところがそうでもない、ゲドとは少なからず縁があるのでな。そうそう見捨てるわけにもいかないのだ、これが」
 やれやれと言わんばかりに肩をすくませる赤の魔術師。
 それを見て、ブラバッキーは吼えた。
「邪魔立てするというのであればただでは済まさん!」
 筋肉を膨張させ、全身の体毛が激しく伸び始める。
 それは獣人態などという生易しいものではない。
 それは猛獣態、獣人と呼ばれる者たちが最大限に力を発揮しえる戦闘形態だった。
 ブラバッキーはその瞬発力を生かして、一瞬にして『爪刃』回収してくると、赤の魔術師に振り返る。
「後悔することになるぞ!」
「どちらがかな?」
 嘲るように微笑む。
 それが起爆剤であったのか、文字通りブラバッキーは爆ぜるように赤の魔術師に向かって突進していった。
 強大な暴力が、無慈悲なる豪腕が赤の魔術師に迫る。
 その手には装飾の施された短剣形の魔剣、『爪刃』。
 本来ならば放出する飛び道具として扱うそれを、刀身に纏わせ輝光の長剣と化し接近戦で決着を狙ったのだ。
 最大戦闘能力において、魔剣士では魔術師に勝てない。
 瞬間放出できる輝光の最大量が、並みの魔剣士では並みの魔術師に及ばないからだ。
 並でなければ例外はあるが、この状況下において大切なのは魔術師のデメリットだ。
 瞬間最大放出の高い魔術師は、基本的に呪文の詠唱という最大の弱点がある。
 その隙があるため、魔術師は後衛として活躍することが多いのだ。
 もし、ブラバッキーの前に立った人物が世界最強の魔剣士であったならば、ブラバッキーはためらうことなく戦闘から離脱を試みただろう。
 敵うはずもないからだ。
 だが、眼前にいるのは世界最強と称される魔術師(・・・)。
 いかに強かろうと、呪文詠唱という弱点を持ち合わせている。
 どんなに強力でも、使えなければ対戦車ミサイルも出刃包丁より役に立たないというわけだ。
 それにこちらには爆速の瞬発力。
 最大放出二十を数える魔剣にちょっとやそっとの攻撃などでは答えもしない獣の肉体。
 これだけの勝因が揃っていて、なぜ退くいわれがあるか。
 内心、歓喜隠し切れず、ブラバッキーは超高速で赤の魔術師に迫り両手に握り締める『爪刃』を構え、
「もらったぁ!」
 横薙ぎに剣閃が繰り出された。
 それは疾風のようでもあり、死神の鎌のようでもある。
 無慈悲なるその一撃に応えるのは流麗なる弾丸。
 いや、それは弾丸を思わせるほどの速度で飛来する短刀だった。
 服の中から無限と思わせるほどの短刀が取り出され、まるでその両手が銃身であるかのように高速で短刀を投擲する。
 その短刀繰りは失敗する光景などというものを想像させない。
 だってそう、サーカスにいるような熟達のナイフ投げ師はハラハラさせながらも、的にナイフをはずしたりはしないのだ。
 それと同じ。
 長身の男の短刀繰りは、まさに曲芸を思わせた。
 高速で仕掛けられる類の中位呪文を警戒し、必殺を期して懐に飛び込もうとしていたブラバッキーは完全に出鼻をくじかれた。
 ちょっとやそっとの連打できる低位呪文程度なら獣の肉体で十分耐え切れる。
 連打の聞かない中位呪文なら、『爪刃』の刃で相殺できる。
 しかし、ブラバッキーは思いつきさえしなかった。
 目の前の魔術師が、魔術戦以外の戦術を持ち合わせているということを。
 輝光を纏う短刀はいとも簡単にブラバッキーの、獣の肉体を突き破る。
 腕、胸、足、致命傷にいたる箇所以外のほとんどの場所に短刀を命中させ、ブラバッキーは地面に転がって回り、その間に赤の魔術師は数騎たちの元までやってきていた。
「さて、どうするかな獣人。魔術結社がどういうスタンスをとるかは知らないが、私としてはマクレガーたちと敵対しようとは思わない。別に貴様らがこの世界を支配しようと私の知ったことではないからな。それ以上にレーンシェルストのような思想を持った闇の救世主の方がはるかにやっかいだ。見逃してやる、代わりにこいつらも見逃してやってはもらえないかな」
 そう言って赤の魔術師は初めてブラバッキーを睨みつけた。
 ブラバッキーは恐怖を隠しきれず、しかしそれでも誇りを失わずに赤の魔術師をにらみつける。
 すでに立場は逆転していた。
 今ブラバッキーは、どう敵を殺すかではなく、いかに殺されずに退避するかを考えさせられてしまっていたのだ。
 見逃してやるなどと言ったからといって本当に見逃すと考えるのは素人だけで十分。
 一瞬でも隙を見せれば命を落とす、それがこの世界のルールなのだ。
「あれ、ブラバッキー。もしかしてピンチってヤツなのかしら?」
 と、その女性の登場に、その場にいた赤の魔術師以外の全員が驚いた。
 黒い髪に黒い瞳、そしてやや日焼けしたようなやや黒めの肌に、漆黒の装束を身に纏った女性が姿を現した。
 動きを阻害することなく、暗闇の中を他者に察知されることがないようにと作り出された忍者と呼ばれるものが纏うであろう装束で、その女性は姿を現したのであった。
「こんにちは、赤の魔術師さん。私は烏揚羽、以後よろしくお願いしますね」
「マクレガーの使いか?」
 赤の魔術師にそう言われると、カラスアゲハは小さくため息をついた。
「まっ、そんなとこかしら。もしかしたらブラバッキーが喧嘩売ってるかもしれないから止めに行けって命令されてたのよ。遅かったみたいだけど」
 言ってカラスアゲハはブラバッキーに視線を向ける。
「こっちも反省してるってことで、ここは痛みわけにしてもらえませんか?」
「ほぉ、まぁこちらはそのつもりで言っていたのだがな」
 その言葉に、ブラバッキーは耳を疑った。
 この男、殺せる相手を見逃すというのか。
 聞いていた噂では命乞いをする敵を笑いながら殺す魔術師との噂だったが、どうやら噂はあくまで噂のようだ。
「じゃあ、引き上げさせてもらってよろしんですね?」
 尋ねるカラスアゲハに、赤の魔術師はゆっくり頷く。
 それを見て、カラスアゲハは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、正直あなたが敵に回らなくて感謝しています」
「それはこちらも同じことだ。カラスアゲハと言ったか、大した陰影だ。それほどの陰影の使い手はそう多くはないだろう」
「でも、私のこと気付いてたじゃないですか。だからブラバッキーに完成してた呪文をぶつけなかったんでしょう?」
「そこまで気付かれていたとは」
 くくく、といやらしく笑う赤の魔術師。
 そう、赤の魔術師はカラスアゲハの存在に気付いていた。
 だからこそ、ブラバッキーにぶつける予定であった炸裂呪文を開放せずに手元にのこしていたのだ。
 カラスアゲハは陰影という能力の使い手だった。
 陰影とは暗殺者が持つ能力で、気配を敵に察知されないというものだ。
 これは数騎も持っている能力だが、厳密に言うと数騎とカラスアゲハの能力は別物だ。
 陰影とは二つ種類があり無能力者の持つ陰影と能力者の陰影とは別のものだ。
 無能力者はその力が存在しない故に敵に存在を感知されない、ただそれだけの能力だ。
 そのため明るいところでは敵に発見されやすく、力を持たないため殺害対象との交戦時には返り討ちにあう可能性も高い。
 目で見なければ迎撃できないという有効性はあるものの、暗いところ以外では役に立たず、戦闘力も低いため、裏の世界の暗殺者に数騎のような人間は全くと言っていいほどいない。
 大抵はカラスアゲハのような能力としての陰影を行使する。
 数騎の陰影は、ないものは感知されようがないというものであるのに対し、カラスアゲハの陰影は、あるものを感知させないという能力である。
 自らの存在を能力によって隠蔽させるのだ。
 能力者はその能力が優秀であるほど敵を輝光で感知する。前方しか見れない視力より、あらゆる方向を感知できる輝光感知の方が優秀だからだ。
 カラスアゲハの持つ陰影はその輝光感知をすり抜ける能力を持つ、つまり違和感なくその場には何もないという偽の情報を掴ませるのだ。
 カラスアゲハには無理だが陰影の達人ともなると、目の前にいても探知できなくなる。
 輝光だけでなく、認識さえも偽の情報を送ることによって錯覚させてしまうからだ。
 殺されても痛みさえ認識をずらすことのできるものさえいるという話だ。
 一見優秀な能力だが、弱点がある。
 カラスアゲハの陰影は能力の低いものであればあるほど認識をごまかしやすいが、輝光の達人に対しては有効でないことも多い。
 卓越した輝光探知は輝光探知をすり抜けた足跡さえも掴んでしまうからだ。
 逆に数騎の陰影は能力の高い者にこそ有効となる。
 達人は輝光探知に頼りすぎる傾向にあり、数騎のような陰影をされると、よほど近くにこられても自分の能力を頼りすぎて逆に五感による索敵をしなくなってしまうからだ。
 ちなみに能力者たちは厳密に言うと能力でない数騎のような無能力者を区別して、数騎のような人間の使う陰影のことを無影と呼んでいる。
 カラスアゲハは小さく微笑みながら口を開いた。
「じゃあ、そろそろ逃げてもよろしいですか?」
「そうだな、正直これ以上呪文を維持するのは疲れる」
 そういうと赤の魔術師はあごで学校の校門を指し示す。
 そこから帰れという意思表示だ。
 カラスアゲハは赤の魔術師に一礼し、ブラバッキーは赤の魔術師を憎悪に満ちた目で睨みつけながら校門へと向って走り去っていった。
「大丈夫か、ゲド」
 敵が逃走したのを確認すると、赤の魔術師は地面で縮こまっている数騎に向かって声をかけた。
「あ、うん。助かったよ。ジェ・ルージュ」
 自分の名前を数騎の口から聞くと、赤の魔術師は心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。














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