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トップページ>>パオまるの小説>>魔剣伝承>>第十羽 招待券

第十羽 招待券


「聞いているんですか、綱野さん!」
「ええ、まぁ一応は」
 だだっ広い洋館の中にある珍しくこじんまりとした、そこで綱野麻夜は説教を加えられていた。
 向かい合うように二脚のイスに二人は座っていた。
 真正面から睨み据えるメイド長に対し、麻夜は所在なげに視線をさまざまな方向にさまよわせる。
 朝、部屋の掃除をしている時、突然麻夜はメイド長に呼び出された。
 呼び出された先はこの個室、そして予想通りのお説教がはじまったわけだ。
 理由は簡単、麻夜が先日ガラスの花瓶を殴り砕いたことが原因だ。
 間違いではなく故意に花瓶をくだいたのだ、怒られないわけがない。
 ちなみに情報源はもちろんのこと賢太郎である。
「いいですか、綱野さん。たしかに賢太郎様は物事の分別がつかないところもおありかもしれません。しかし、私たちは赤志野の使用人なのです。確かに智美さんが気の毒な目にあわれたというのはわかりますが、私が赤志野さまに注意すれば少しは良くなるのです。最近はあまり苦情が下から来ないから注意し忘れていたのも事実ですが・・・・・・」
 話を聞くと、どうやら赤志野賢太郎はメイド長に頭が上がらないらしい。
 それはそうだ、メイド長は唯一メイドたちの中で御主人様こと赤志野剛太と話をすることが出来る人間だ。
 賢太郎の不始末も報告できるし、使用人には強いが親には弱い賢太郎をヘコませるにはそれで十分だ。
 だが、赤志野剛太に直訴するのは屈強のメイド長と言えどもそうとう心労がたまるらしい。
 賢太郎が誰かれかまわず幾日もメイドに手を出しつづけた時には上と下からの重圧で倒れてしまったそうだ。
 メイド長はメイドたちから非常に人気がある、何よりもメイドたちのことを最優先に考えてくれるからだ。
 と言って上への対面を気にしないわけではない。
 通すところは通し、譲るところは譲る。
 そして、通すことは賢太郎の悪行の直訴、そして譲るところは助けるとは言え主人の子息をガラスの花瓶を殴り割るというとんでもない行為で賢太郎を脅した麻夜を叱りつけるという部分であった。
 智美を助けるためにやったという部分は考慮しない、それが主人とその家族に対して譲っている個所である。
「とにかく、二度と賢太郎様を脅すようなマネはなさらないように。それにどんな事情であれ、備品を故意に損壊させるなどもってのほかです。花瓶の代金十八万円は給料からさ天引きさせていただきます」
「え、あれそんな値段なんですか?」
「高そうに見えなかったのですか、あなたは?」
 その言葉に、麻夜はバツ悪そうな笑顔を浮かべる。
 たしかに高そうには見えた。
 というかこの屋敷に置いてあるものは全部高そうに見える。
 十八万なんて、きっと値段的に言えば相当下に位置しているのだろう。
「とにかく、今度このようなことがあったらもうかばってあげることはできませんからね。助けるなら次からはもっとスマートになさい、よろしいですね」
「はい、申し訳ありませんでした」
「まぁまぁ、お説教はそこまでにしておきたまえ」
 声が後ろから飛んでくる。
 力強い、中年から壮年の男が出すたくましい声だ。
 振り向くとそこには大柄の男が一人立っていた。
 高そうなガウンに妙に値の張ってそうなメガネ。
 たくましい筋肉を有しながら、張りを無くした筋肉は少しだけ腹の肉を膨らませてしまっている。
「あ、赤志野様!」
「御主人・・・・・・さま?」
 最初の言葉はメイド長の、続く言葉は麻夜のものだ。
「楽にしたまえ、別に君たちを責めようとして来たわけではない」
 ゆったりとした歩調ですぐそばにあるイスまで歩いていき、赤志野の当主、赤志野剛太がイスに腰を降ろす。
「君が綱野麻夜か」
「え〜、はい。一応は」
 やや当惑げに答える。
 実は麻夜、今まで一度としてこの男に会ったことがなかった。
 使用人の雇用は全てメイド長に一任されており、その程度のことで赤志野剛太が動く理由はない。
 その忙しいはずの男がなぜか自分ごとき使用人の前に姿をあらわしたことに、少々戸惑ったわけだ。
「すまなかったな、昨日はウチの愚息が」
「え〜と、賢太郎様のことでしょうか?」
 腹の中ではどう考えていようと一応は様付けしておく。
「あぁ、あいつにはしっかりと灸を据えておいた。せっかく働いてくれているメイドたちに手を出すとはけしからんヤツだ。それもまだ入って一月もたっていない娘に手をだすとは」
「私も管理の甘いところがございました。賢太郎様の私室の近くにメイドたちを近づけさせるなど。いつもあれほどみなには賢太郎様の私室の側には近づくなときつく言っておいたつもりなのですが」
 そのやり取りでようやく麻夜は事情が読み取れた。
 つまり、賢太郎というのはメイドたちに腫れ物扱いされているわけだ。
 父親である剛太に制限され、おそらく賢太郎はメイドたちのいる場所に足を踏み入れるのを禁止されでもしているのだろう。
 だが、向こうからやってくることはない。
 なぜならメイドたちは賢太郎の私室に近づくことを許されていないからだ。
 だが、昨日その禁を破ったメイドがいた。
 何を隠そう綱野麻夜自身だ。
 で、そのとばっちりをうけたのが智美で、剛太に叱られた賢太郎もまたしかりだろう。
「え〜と、すいませんでした」
 二人に向かって頭を下げる麻夜。
 その意味を理解していた二人は、困ったように苦笑した。
「まぁ、次から気をつけてくれればよい、賢太郎には近寄らないようにしなさい」
「はい、注意します」
「そうしてくれ、こちらも面倒事はごめんだからな」
 そう言うと、剛太はイスから立ち上がり、麻夜とメイド長に背中を向けた。
「では、私は仕事があるからこれで」
「はい、いってらっしゃいませ」
 礼儀正しく頭を下げるメイド長。
 それにならって麻夜も頭を下げる。
 それを当然のことだと言わんばかりに剛太は何か仕草で反応することすらせず、部屋から出て行ってしまったのであった。






「失礼いたします」
 扉を開け、中に入る。
「うっ」
 思わずうめく。
 だってそう、これほど異臭のただよう部屋に入れば、誰だってこんな反応を示すはずで、もちろん麻夜にとってもそれは例外ではない。
 メイド長のお説教の後、麻夜はバツ当番としてメイドたちがもっとも清掃したくない場所の掃除を命じられた。
 それがどこのトイレだろうと想像しながらつれてこられた部屋がここだった。
 まず臭い。
 この部屋の主に命じられてこの部屋は一ヶ月に一度しか掃除することを許されていない。
 そのためホコリまみれになり、非常に不潔だ。
 それに部屋の主が掃除もしないために床は散らかり放題、物は投げっぱなし、散乱するポテトチップスの袋は正直数える気にもならない。
 部屋は薄暗く、そして汚い。
 テレビの電気が暗闇の中に存在する唯一の照明だ。
 この部屋の主、赤志野次郎は食い入るようにテレビを見続けている。
 目が悪いのか癖なのか、画面にへばりついて映像を見つづけている。
 距離は三十センチほどしか開いていない、確実に目を悪くするような距離だ。
 テレビは離れて見なさいと言いたいところだが、雇い主の弟に口答えするわけにもいかない。
 ただでさえ、先ほど叱られたばかりなのだ。
「それでは、お掃除させていただきますね」
 天使の如き笑顔を浮かべる麻夜。
 その言葉に次郎は少しだけ振り返って麻夜の顔を見た後、
「へっ」
 半笑いをして、すぐさまテレビの画面に視線を戻してしまう。
 その行為に麻夜は驚きを隠せなかった。
 自分でも自覚しているが、綱野麻夜は超がつくほどの美人だ。
 街中を歩けば誰もが振り返るほどで、言い寄る男は数知れない。
 それなのにだ、目の前の男は自分を一目見ただけで興味を失い、それどころか半笑いまでかましたのだ。
 いったい自分の何がいけなかったのか鏡でも見て確かめたいところだが、この部屋には鏡がないし、その上こう暗くては鏡でも確認は難しいだろう。
 自分の魅力が通じない人種が赤ん坊以外にいることを知り、麻夜は愕然としながら掃除を開始した。
 それにしても歩きにくい。
 マンガ雑誌やアニメのDVDやらで部屋の中は文字通りカオスと化している。
 棚には所狭しとマンガと小説が並べられており、その脇には透明のプラスチックケースに入ったフィギュアなる精巧に作られた人形が並べられていた。
 問題はその人形の見た目だ。
 どこまでも扇情的で胸やら尻やらを強調するポーズ、服装、仕草をしている。
 とりあえず音を立てないように丁寧に掃除をしていく。
 メイド長の話では赤志野次郎はアニメの鑑賞を邪魔されるのを非常に嫌うらしい。
 極力音を立てず、空気のように振舞うのがベストである。
 本棚を片付けると、次は床の掃除だ。
 問題は床だが、まぁ良くぞここまでちらかしたものだ。
 どう見てもポルノにしか見えないゲームやらマンガやらDVDやらが転がっている。
 ため息をつきながら片付けると、麻夜はようやく掃除を終えた。
 掃除機をかける必要はない、そんなことをすればアニメを見る妨害をしたというので次郎にこっぴどく怒られるだろう。
 麻夜は掃除用具を一ヶ所にまとめ、そろそろと部屋を出て行こうとした。
「ねぇ」
 そんな時だ、声をかけられたのは。
「なんでございましょうか、次郎さま?」
「君、見ない顔だね。新入り?」
「はい、一週間ほど前に入りました綱野麻夜と申します」
「あれ? 外人さんに見えるけど」
「えぇ、ハーフなのでそう見えるでしょうね」
 ちなみに真っ赤なウソである、彼女の両親は共に白人だ。
「へぇ、ハーフなんだ。通りでね」
 さっきの半笑いはどうしたのか、次郎は上からなめまわすように麻夜を見つめる。
 正直気持ちよくはないが、自分の魅力に対し、多少の自身を取り戻す麻夜であった。
「そっか、残念だな。まだ入って一ヶ月経ってないんだ」
「え、はい。まだ一週間ですが」
「そう、ならいいや」
 そう言うと次郎は再び画面を見るべく正面を向き直り、一心不乱に二次元の美少女たちが舞うテレビ画面に食い入り続ける。
 そんな次郎を異世界の人間でも見るような目つきをしたあと、麻夜は静かに部屋からでていったのであった。






「ん、あっ・・・・・・ふぅ」
 気まずい、すっごく気まずい。
「あっ、あっ、んんぅ。あぁん・・・・・・」
 声をがんばって押し殺しているのだろうが、丸聞こえだ。
「はぁ、はぁ、あっ、あんっ」
 顔を赤らめながらも耳をふさげずにいる自分を、俗物だねと麻夜は思っていた。
 赤志野次郎の部屋を掃除し終えた麻夜は、休憩がてらにトイレにこもっていた。
 ちなみにもよおしたわけではない、わかりやすくいうとサボりである。
 実際のところ、赤志野次郎の部屋の清掃にはかなりの時間をかける必要があるらしい。
 よって多くのメイドたちは音を立てないように注意しながら時間をかけて掃除する。
 だが麻夜は適当に掃除をすませてさっさと出て行っしまっていた。
 都合三十分の空き時間。
 麻夜は洋式の便器のフタをしめた状態で座って仮眠でもとることにした。
 何しろこの屋敷、トイレですらどこぞのホテルの一室のごとくキレイに整えられている。
 つーか自分のいた事務所よりこのトイレの方が居心地がいいのはどういうわけか?
 自分の生活水準が低すぎるのか、それともこの赤志野の屋敷がおかしいだけなのか、わかりかね首を横にひねりながら、麻夜は座ったままという器用な格好で眠りについた。
 ちなみに座りながら眠れるのは麻夜の特技である。
 いつかランクアップさせて、立ったまま眠れるようになりたいと思ってはいるのだが、どうにも実現の日は遠そうだ。
 そんなわけで眠っていた麻夜だったが、それが失敗であったと気付いたのが目が覚めてからだった。
 目覚し時計は女性の喘ぎ声。
 もう少しで物音を立ててしまうところであったが、何とか無音で意識を取り戻した。
 まぁ、問題は、
「んふぅ、あっ、あっ、あっ、あんっ」
 十分たっても終わらない女性のソロプレイくらいなものだ。
 正直なところ、こういった場面に直面した場合、相手に気付かれないでその場から去るのがもっとも美しい行為であるといことは良くわきまえている。
 問題は一つ、このソロプレイに励んでいる女性に気付かれずに出て行くことが出来るかどうかの一点につきるわけだ。
 可能か?
 可能ではあるがリスクも大きく、困難きわまりない。
 歩くときの足音、扉の開け閉めの音。
 いずれかが聞こえただけで、女性は自分の行為が誰かに知られたと考えてしまうだろう。
 それは美しくない。
 そりゃ、これだけ男に隔離された空間に閉じ込められればソロプレイの一つもしたくなる気持ちはわかる。
 だったら生暖かく見守ってあげるのが優しさというものだろう。
 で、結局自分が取れる最善の方法とは何なのか。
 いたって簡単だ、彼女が出て行くまで待ってからトイレから脱出する。
 運のいいことに麻夜はトイレの鍵をかけ忘れていた。
 なら、行為が終わった後、トイレから出てきた誰かも知れない女性がトイレに入っている自分に気付く確率は極めて低いだろう。
 それで気付かれてしまうようならこちらの知ったことではない。
 変に腹をくくって待っている麻夜の横のトイレでは、女性の行為はさらにエスカレートしていた。
 ぴちゃぴちゃと響く水音に荒い息遣い。
 手で口を抑えているのだろうか、くぐもった喘ぎがわずかに漏れ聞こえてくる。
 それを横にした麻夜は、安堵と緊張の混じった微妙な面持ちをしていた。
 音がデカイ。
 これでは外の誰かに気付かれるかもしれない、しかしこの峠さえ越えてしまえば女性の行為は終わる。
 そして、一分ほどの激しい行為の後、女性の喘ぎ声はやみ呼吸を整えるような息遣いをしはじめた。
(終わった・・・・・・)
 そう考え、思わずため息をつきそうになった麻夜は慌てて自分の手で口を抑える。
 カラカラとトイレットペーパーを引く音が聞こえる。
 大方、後始末でもしているのだろう。
 麻夜はその間も気を抜かずに体を硬直させつづける。
 そして、扉が開く音が聞こえた。
 女性がトイレから出るために、個室のドアを開いたのだ。
「ふぅ」
 かわいらしい、恥らうような声。
「また・・・・・・しちゃった・・・・・・」
 そう残して、女性はトイレから出て行った。
 廊下から聞こえる足音が遠ざかっていくのを確認しながら、麻夜の顔は強張っていた。
「え・・・・・・今のって・・・・・・」
 そう、聞き覚えがあった。
 忘れようはずもない。
 あれは自分がこの屋敷でもっとも懇意にしており、もっとも自分を助けてくれた女性。
「智美・・・・・・ちゃん・・・・・・?」
 そう、その声は智美のものだった。
 麻夜は急いでトイレの個室から飛び出、智美の姿を追おうとした。
 が、
「いけない」
 もう少しで自分の盗み聞きがバレかねない行動をとるところだった。
 冷静になり、一つ深呼吸をしてみる。
「ん?」
 そして落ちついてようやく気付いた。
 あの声を聞きつづけたせいか、自分の下半身がわずかにではあったが火照っていたのだ。
「ダメね、どうも」
 そう呟き、頭をボリボリと掻きながら麻夜は自分の仕事場に向かい歩いていった。






「奥さん、そりゃあんたがわるいよ」
 司会の決め台詞とともに、番組は進行し続ける。
 それをせんべいとお茶を片手に座って見ている女性の姿は、どう考えたっておばさんくさい。
「なぁ、朔夜」
 そんな薙風に、テーブルの上に肘をつきながら向かい側のソファに座っていた柴崎が言った。
「お前、なんでそんなにくつろいでるんだ」
 確かに薙風朔夜はくつろいでいた。
 そもそも、薙風朔夜は守護騎士団と呼ばれる魔術結社の中において、知らぬ者はいないほどの魔剣士だ。
 妖刀にして凶刀にして邪刀とされる魔餓憑緋、薙風はその魔餓憑緋を奉る龍の巫女なのだ。
 彼女の巫女装束は決して伊達や酔狂で着つづけているのではない、魔餓憑緋を操るためには魔術礼装であるこの巫女装束がどうしても必要なのだ。
 巫女装束なしでも操ることも可能だが、やはり巫女装束があった方がより力を発揮できる。
 一番いいのは術式をほどこされた鎧兜なのだが、利便性を考えると一番巫女装束がちょうどいいのだ。
 優良な魔剣士を数多く輩出する剣崎、戟耶、薙風の御三家の出身である薙風、まさに守護騎士団においてはエリートの中のエリートという印象さえ見て取れる。
 外から見たらの話だが。
「いつもいつも気を張ってたら疲れる、たまにはこういうのもいい」
 言ってお茶を吸い上げる薙風。
 ゆったりとソファに身を任せ、テレビの進行に一挙一動する。
 と言ってもその反応はあまりにも微々たるものではあったが。
 そんな薙風を見ているうちに、柴崎は小さく笑みを漏らした。
「どうしたの?」
「ん?」
 突然、聞いてきた薙風に柴崎は短い返事を返す。
「何か嬉しいことでもあった?」
「あぁ、ちょっとな」
 顔をあげて天井を見据え、柴崎は両の瞼を閉じる。
「昔のことを思い出した。やはり腐れ縁というのは悪くない。あの頃は楽しかったな」
「あの頃?」
「まだ私たちが薙風の屋敷にいた頃だ、覚えているか?」
 聞かれ、薙風は右目を閉じ、左目で視線をさまよわせた後、ようやく記憶を呼び起こした。
「うん、覚えてる。あの頃は楽しかった」
「いつも三人で遊んでいたな。たまに四人だったか」
「漸太は病気がちだったから、仕方ない」
 少し顔を曇らせる薙風。
「でも、漸太はがんばって生きていた、そして私たちも」
「そうだな、キリコもそうだった。いつも元気に笑ってたな」
「キリコと戟耶は本当に仲がよかった」
「何言ってるんだ、お前もだろ?」
 と、普通に返した後になって、柴崎はイヤそうな顔をした。
「朔夜、私のことは」
「柴崎司」
「そうだ、今の私は柴崎司だ。他の誰が、何と言おうとな」
「そう・・・・・・」
 断言する柴崎に、薙風は少し悲しそうに目を伏せる。
 そんな態度が居たたまれなかったのか、柴崎は話題を変えることにした。
「ところで朔夜」
「何?」
「魔餓憑緋の件なんだが・・・・・・」
 柴崎は事務所の奥にある麻夜の机の後ろ、そこにまるで飾り物のように置かれている魔餓憑緋の方を見る。
「どうだ、コントロールできるようになったか?」
「まだダメ、魔餓憑緋の声すら聞こえない」
「声?」
 そんなものがあるのかと驚く柴崎に、薙風は両目を閉じて語り始めた。
「魔餓憑緋は邪竜を封じた魔剣、魔餓憑緋を使いこなす秘訣は邪龍との共生にある。魔餓憑緋を操ることによって得られる技能、機動力は全て魔餓憑緋からの供給による。
 魔餓憑緋は力を引き出せば引き出すほどコントロールが難しくなる、邪龍は自らが蘇るために使い手の体を乗っ取ろうとするから。
 でも、声が聞こえるようになると少しは違うと聞いたことがある。
 歴代の巫女が残した書記にはそれが記されていた。でも、私がその奥義を教わる前に書記は失われてしまった。だから私には魔餓憑緋のコントロールにおいて重要な部分を全く知らない状態で魔餓憑緋を使ってる。
 聞いた話だとある特定の感情が魔餓憑緋のコントロールの鍵になるって話らしいけど」
「怖いか?」
「何が?」
「魔餓憑緋がさ」
「ううん、魔餓憑緋は平気」
 首を横に振る薙風。
「私は魔餓憑緋より殺しあうことの方がよっぽど怖い。確かに魔餓憑緋がいればすごく安全だけど、それは絶対じゃない。何度も殺し合いを生き延びたから少しは慣れてきたけど、やっぱり殺し合いは怖い」
「そうか」
「司は怖くないの?」
「怖いさ……」
 何かをあきらめたような微笑。
 そして、柴崎はまるで言い聞かせるように言った。
「でも、それは柴崎司にとって仕方のないことだ。柴崎司は人々を救うために戦いつづけなくちゃいけないんだ」
「その生き方は苦しくないの?」
 悲しそうな声で聞く薙風。
 そんな薙風に対して、柴崎は空元気とも取れる笑顔を持って答えた。
「さて、湿った話はこれで終わりだ。私もお茶でもいただくとするかな」
 そう言って柴崎は周囲を見渡す。
 望むべく人物の姿を見つけられない。
「あれ、短刀使いは?」
「あの子ならどこかに行っちゃった」
「行った? まさか捜査の邪魔でもしてくださるんじゃあるまいな?」
「桂原に捕まらないといいんだけど」
「同感だ、それにしても勝手な行動は慎めというのがわからんのか、あの男は」
 腕を組み、いらだって見せる柴崎。
 はたから見たら彼は相当に怒っているように見えただろう。
 しかし、彼を良く知る薙風は彼が立場上怒ってみせなくてはならないためそのようなポーズをとっているというのが、よくわかっていたのだ。
 そんな柴崎の態度をよそに、薙風は手元で冷めかけたお茶に口をつけたのであった。






 結論から述べてしまうのなら数騎は夜のパトロールをする必要がない。
 理由は簡単だ、敵の居場所がすでにわかってしまっている上に、パトロールをするまでもなく異常を探知できる術士がこの狭い町の中に二人も存在するのだ。
 数騎が御役御免になるのはいたしかたのないことだろう。
「はぁ、やっぱり外はいいなぁ」
 それでも数騎が夜の町を歩いているのは気分転換のためである。
 数騎は夜の町と言うのが大好きだ。
 静まりかえり、街頭の光しか存在しない歩道も好きだし、暗闇の中ランプを輝かせて走る車道を見るのも好きだ。
 上空の星を掻き消さんばかりに光り輝く色とりどりのネオンを見るのも好きだし、それらを高所から見上げるのもかなり好きだ。
 一年に一度ほどだが、三百メートル級の高い施設に金を払ってまで夜景を見に行くことを自分に課すぐらいなのだから、数騎が夜という時間帯を好んでいるのはよくわかっていただけるだろう。
 で、数騎は夜の町を歩くのが好きだった。
 それに加えて家には自分を召使としか思っていない人間が三人いるのだ。
 いや、正確にはそれ以外の感情もあるのだろうが、三人が共通して持っている認識は間違いなく炊事、掃除、洗濯をやってくれる便利な人。
 そこのところに間違いはないだろう。
 事務所にいるとお茶をくれだの肩をもめだの一緒に風呂に入ろうだの言われるし、セクハラはされるし足手まとい扱いされるしで、もうとんでもない。
 少しは外を散歩して気晴らしでもしたいというものだ。
「で、外に出たのはよかったんだけど」
 無意識に歩いたのがいけなかったのか。
 回りを見渡すとそこはネオンの雨。
 右に左にパチスロのお店が乱立し、前に後ろにパブやらキャバクラやらホストクラブが建ち並ぶ。
 美坂町の繁華街は夜になるとカオスと化す。
 ちなみにこれ以上先に進むと風俗街があり、道を歩くだけでポン引きに引っかかる。
 どう考えても目つきの悪いガキにしか見えない自分にまで「いい子いるよ」とか声をかけるのは勘弁してほしい。
 興味はあるが風俗に手を出す気など全くないのだ。
「賭け事はきらいじゃないけどね」
 ここに来たのも何かの縁だと思い数騎は右手にある、やたら騒がしい店に足を踏み入れた。
 正直この繁華街は無法地帯である。
 子供でも平気でパチスロの店に入って遊べるのだ。
 タバコくさいのが難点だが、ここは結構楽に時間を潰せるよい場所だ。
「さて、今日はどの台がいいかな?」
 タバコと汗と体臭と、多くの不潔と熱気の交じり合った微妙な臭いが漂うのがパチスロと呼ばれる店だ。
 アップテンポな曲が鳴り響き、イヤでも気分が高揚してくる。
 ジャラジャラと玉がこすれあう音を聞きながら、数騎は台と台の間を歩いて周り、空いている台を探す。
 数騎はパチンコよりもスロットの方が好きだ。
 パチンコ台が集中しているゾーンを抜けると、数騎はスロットのコーナーまでやってきた。
「さて、どれにするかな?」
 一言にスロットと言っても結構な種類がある。
 いろいろと豊富なキャラクター達がその台を派手に飾り、客寄せをしている。
 美少女だったり殿様だったり番長だったり世紀末英雄だったりと実に豊富なラインナップだ。
「よし、じゃあ今日はリア・デ・フィスティバルでもやるかな」
 そう言って数騎は手近な席につく。
 美少女ディーラー・リアがイメージキャラとされるオタク向けのスロットだ。
 絵柄もかわいいし、人目も引くし、リアというキャラの露出度も高いので一般人もなんなく楽しめる。
 ディーラーとバニーガールを足して二で割ったような、黒いストッキングがステキなリアが画面で手招きしている。
 スロットをやる人間からはリア・フィスという愛称で親しまれるこの機種に、須藤数騎は勇敢に立ち向かっていったのであった。






「くそ、リアなんて嫌いだ」
 店を出るなり毒づく数騎。
 その割には手に持つ財布はパンパンに膨れ上がっている。
「やっぱダメだね、軟派なスロットは。男なら硬派に番長じゃないと」
 そう、数騎は今日の勝負では実に大勝利を収めていた。
 リーチにつぐリーチ、チャンスにつぐチャンス。
 これだけの好機が訪れて、財布が膨れないってのはウソってもんだろう。
 数騎はリア・フィスの後に選んだ台、ド根性番長なる機種に挑み、なんと十二万も稼いだのだ。
 ちなみにリア・フィスの台には五万ほど食われているので差し引き七万の勝ちである。
 こっちが損したって言うのに、リアにあれだけきれいな笑顔をされると画面の一つもぶん殴りたくなったが、怒りを抑えて番長に走り、大成功を収めた。
 結果オーライである。
 数騎は意気揚揚と顔を火照らせながら、すっかりと夜に染め上げられた歌舞伎町を歩いていく。
「いやぁ、今日は七万も勝っちゃったなぁ〜。何か買っちゃおうかな〜、神楽さんへのプレゼントなんかどうだろう」
「じゃあ、お兄さん。いいものがありますよ」
「なっ!」
 突然話かけられ、数騎は飛び上がって声の主を振り返る。
 不潔な服に老化の影響で皺だれ、ゆがみきった顔。
 下衆な笑みを浮かべ、汚い歯を見せつけながら、その男は自分とたいして身長の変わらない数騎に近づいてきた。
「お兄さん、お金持ってますよね? いや、わかるんですよ。あれだけ笑顔で店から出てくるなんて負けてるわけありませんよね」
 ゲヒヒ、とくぐもった笑い声を漏らす。
「風俗なら結構です、お金で女性を買うのは嫌いだ」
「いえいえいえ、風俗なんて安っぽいもんじゃありませんよ」
 背中を向け、立ち去ろうとする数騎の進路をふさぐように子男が回りこんで来た。
「いや、一般にはあまり知られていないんですがね、あるんですよ穴場が。そこらに転がってる不細工な風俗嬢や出稼ぎにきたアジア系の売春婦なんかとは格が違う。どれもこれもが本当に選りすぐられた女の子たちで、全部上玉ときている。
 献身的で美人ぞろいで、おまけに若くてピチピチときてるって寸法だ。どうです、お兄さん。一発やってみたいでしょう?」
「結構です」
 百八十度回転し、立ち去ろうとする数騎。
 だが、子男は数騎のを逃がすまいと再び数騎の正面に回りこんだ。
「ウソ言っちゃいけませんぜ、わかってるんですよ。お客さん、たぶん童貞さんでしょう? 女が欲しいんじゃないですか? わかってますよ、いつまでも右手が恋人じゃさみしいですもんね? 本物の女はいいですよ、やわらかくて、いい臭いで。少なくとも無骨な男の右手なんかよりはよっぽどいいもんだ」
「何度断らせれば気が済むんですか?」
 苛立ちを隠せない数騎。
 実は数騎はわかっていなかった。
 この手のポン引きは相手にするのではなく、無視するのがもっともいい対処法なのだが、数騎はそれを知らなかったので、その術中にはまっていた。
「いえいえ、絶対に損はさせません。招待券があるんですよ」
 数騎の言い分など無視しして、男は妙に凝った造りの高級感漂う一枚の紙を懐からとりだした。
「これさえあればどなたでも楽しめるんです、一日限りですがね。ところでお兄さん、赤志野という名をご存知で?」
「知らないな」
 ドスの聞いた声が後ろから聞こえてきた。
 突然響くその声に、ポン引きはすばやく後ろを振り返り、
「ぐぇっ」
 カエルが潰されたような声を漏らした。
「お前、オレの親友に何やってんだ」
 重苦しいその歩行。
 重量を感じさせる体を揺らしながら、その男はその体重差を見せ付けんばかりに男を数騎の目の前から突き飛ばしていた。
「お、太田くん・・・・・・」
 そう、数騎の目の前に現れたのは太田だった。
 相変わらずの肥えた体に大き目のシャツとジーパン。
 左手には妙に大きな袋を持っている。
 驚く数騎に少しだけ笑ってみせると、太田はポン引きを振り返った。
「オレの親友にそれ以上つっかかるなよ、迷惑だ」
 普段のぼんやりした雰囲気はどうしたのか。
 その時の太田は、まるで別人のようにポン引きを睨みつけていた。
 その威圧感に飲まれたのか、ポン引きは一言も返そうとせずその場から立ち去っていった。
 それを見届けると、太田は数騎を振り返る。
「大丈夫だったかい?」
「うん、ありがとう」
 頭を軽く下げ、数騎は礼を言う。
 一瞬何か鼻をつくような、みょうに嗅ぎ慣れた臭いが太田からしたような気がした。
 まぁ、太田くんはあんまり風呂に入らないからいつもの体臭だろう。
 そんな失礼なことを考えている数騎に、太田はゆっくりと口を開いた。
「ダメだよ、須藤くん。ああいうのは無視するのが一番なんだ。話に乗ったらどこまでもくらいついてくるからね」
「むぅ、覚えておくよ」
 頷いて答える数騎。
 そんな数騎に対して、ようやく太田は顔に笑顔を浮かべた。
「ならよし。じゃあ、帰ろうか」
 そう言うと太田は数騎にせんじて歩き出す。
 その太田を追いかけるように数騎は歩み寄った。
「でも、本当に助かったよ。太田くんがいなかったらもっと面倒なことになってたと思う」
「そうかい?」
「そうだよ」
 太田の行動をたたえるように数騎は微笑んで見せた。
「勇気あるなぁ、太田くんは。僕なんかチキンだから太田くんみたいに助けにはいることなんで出来ないと思う」
「まぁ、僕には力があるからね。須藤くんと違って」
「確かに太田くんと違って僕は貧弱なんだよね」
「それとはちょっと違うんだけどな」
 含みをもたせて言う太田。
 数騎は太田の真意がわからずに首を傾げる。
「どういう意味?」
「いや、たいした意味はないさ」
 そう言うと、太田は歩くペースを早くする。
 数騎は置いていかれないように歩く速度を上げた。
 そして、周囲を見ながら歩く。
 そこはいわゆる風俗街と呼ばれる夜の楽園だった。
 パチスロから出てきた数騎は、気付かぬうちにこっちに来てしまっていたのだ。
「いやぁ、油断したな。こんな道通ってたとは。これじゃポン引きに出くわしても不思議じゃないな」
「そうだね、気をつけなよ」
 注意する太田に数騎は苦笑いして答えた。
 そうして歩いていくうちに、ようやく全年齢対象の店がある道にたどり着いた。
 カラオケやゲームセンター、そしてちょっと年齢制限のパチスロが存在するあたりだ。
 数騎が遊んでいた店もそこにあった。
 にぎやかな音楽が鳴り響く店を左右にして、数騎と太田は繁華街の出口に向かって歩いていく。
「ところで」
 出口に差し掛かる頃、数騎は太田の顔を見上げて尋ねた。
「なんで太田くんはこんなところに?」
「ん、これ」
 言って太田は左手に持っていた巨大な袋を数騎に見せつける。
「いやぁ、今日はリアちゃんのおかげで勝ちの大勝だったよ。あんな勝ちは久しぶりだね。これで当分お菓子には困らないよ」
 どうやら稼いだコインは全てお菓子に化けたようだ。
「リア・フィスで勝ったですか、やりましたね。僕なんかあっさりと負けちゃいまして」
「え、須藤くん未成年者のクセにパチスロやってんの?」
 驚く太田。
 そして次の瞬間から、数騎はそれが失言であることを悟らされた。
 太田は未成年者でありながらパチスロに興じる数騎を徹底的に説教したのだ。
 かなりネチネチと粘着質に、十数分にも渡り太田は分かれ道に着くまで数騎に説教をし続けた。
 おかげさまで数騎は、気晴らしにいったつもりが逆に気を曇らせて事務所に戻っていった。
 彼が帰宅後に家政婦と化して働いてさらに疲労を増したことは特に言うまでもないだろう。






「さて、これはどういうことだと思うね?」
 自嘲ぎみな笑みをもらしてホスト風の男が言った。
「まんまと欺かれたと言うか。やっこさんめ、まさか結界の外に抜け出してこんなことをしてくださるとは思わんだ。そうだろう?」
 男はすぐ傍らにいる女性に向かって言った。
 女性は答えずじっと眼前に広がる光景を見つめていた。
 アパートの一室。
 すでに大家も無く、ただ取り壊されるのを待つばかりの木造建築の二階に位置するそこで、その悲劇は起きた。
 ささくれた畳の上に一人の女性がころがっていた。
 そう、ころがっていた。
 寝ているのではなくだ。
 女性は全裸で体中に青あざが残っていた、暴行時に幾度となく殴打されたのだろう。
 歯は折れ、鼻からは乾燥した血液が口のあたりまで覆っていた。
 陰毛の部分には黄色く乾燥した固形物がこびりついており、その女性が死ぬ直前にいかなる行為を強要されたのかが見て取れる。
 床には女性のものらしい大量の血液が畳を汚し、乾燥したそれは異様な臭気を放っている。
 そしてその五体。
 女性の肉体は切り刻まれ五分割されている。
 両腕、両足、胴体といった風にだ。
 女性の死因はおそらくショック死、胴体を瞬時に切り刻まれればそうなることもあるだろう。
「美しくないな、こんな下品にバラバラ死体をころがしていくとは。見つかるまでに少しは時間がかかりそうな場所に死体を放置するまではいいが、処理がずさんすぎる。これでは見つかるまでの時間が早くなるだけだぞ」
「美しい美しくないなんてない、殺しは殺し」
「やれやれ。九の亡霊(ナインファントム)、薙風朔夜ともあろうお方が殺しを忌むとはな」
「血は嫌いだし人の死も好きじゃない。本当は私だって殺しはやりたくないし殺されたくもない。本当は・・・・・・怖いから戦いたくない、桂原は怖くないの?」
「まぁ、怖くないと言えば嘘になるが、お前は怖いのか?」
「怖い、でも大切な人が死ぬのはもっと怖い」
「だから戦ってるってわけか」
 桂原の言葉に、薙風は黙って頷いた。
「さて、どうしますかね? 匿名で警察にでも連絡するかい?」
 軽口でも叩くように桂原が薙風に歩み寄り、
「ちぃっ!」
 五本の指にそれぞれ指輪をはめている右腕を自分の後方に向かって差し出す。
 衝撃が巻き起こった。
 畳、障子、電灯が、まるで刃物で野菜を切り刻むかのようにスパスパと切り裂かれていく。
 そして数秒後には静寂が訪れた。
 まるで剣豪同士の斬り合いでも起こった後のような部屋の中に、二人の姿はあった。
「危なかったな薙風、オレがいなきゃ死んでたぞ」
「わかってる、私の魔飢憑緋は輝光系の攻撃には強いけど物理系の攻撃には弱いから。桂原が魔術師でよかった」
「そうでもない、とっさに風の結界は張ってみたが敵の攻撃がわからん。どうやって周りのものを切り裂い……」
「来る!」
 薙風の言葉に、桂原は指輪をした右腕を前方に向かってかかげた。
 指輪からほのかに光が生じ、生命のエネルギーである輝光を世界に自身の内界である体内でのみ意味を持つ存在から、外界に干渉し得る力へと変換していく。
「風の精霊よ!」
 桂原の口から呪文が発せられ、桂原と薙風の周囲を風の結界が守護する。
 風の精霊の力を借りる中位呪文だ。
 飛来する弾丸さえそらしてしまうこの中位呪文は、どこからともなく襲い掛かる謎の襲撃をことごとく周囲にそらしている。
 風の結界の外に位置するアパートの部屋は、もはやズタズタに切り裂かれていた。
 轟音とともに切り刻まれていく部屋。
 その中には、惨殺された女性の死体も含まれていた。
「薙風、やっこさんはどこにいるかわかるか?」
「輝光探知が下手だからよくわからないけど、でもこの部屋にいないのは確か」
「その程度ならオレにだってわかる!」
 そう、それが桂原をあせらせている原因だ。
 姿の見えない襲撃者。
 しかしその攻撃は確実に桂原たちを追い詰めている。
 そも、輝光とは生命のエネルギーであり枯渇すれば術者が死に至ることが知られている。
 桂原が使用している魔術は中位呪文、低位呪文に比べると倍多く輝光を消耗する。
 その上、結界というのは効果範囲と輝光の消耗が反比例する特性を持つ。
 桂原一人ならともかく、薙風という余分な人間まで守らなければならないのだ。
 これではすぐ輝光が尽きてしまう。
「薙風、どうする?」
「打開策は?」
「ないから聞いてる!」
 いらだたしそうに桂原は言い放つ。
「試したいことはある」
「どんなことだ?」
「魔飢憑緋を使う」
 言って薙風は左手に携えていた魔飢憑緋を鞘から引き抜くと、両目を閉じて静かに呼吸を始めた。
「何する気だ? 魔飢憑緋の速度でもってこの状況を突破するんじゃないのか?」
「黙って!」
 鋭く叫び、薙風は意識を魔飢憑緋に集中させる。
 そして、その声を聞いた。

『自由を……』
『我に自由を……』
『肉を動かす自由を、空気を感じるその肌を……』
『恐れよ、死を恐れよ……』
『恐れよ……』

「ガァッ! ガアアアァァァァァァ!」
 咆哮、それと同時に疾風を伴って結界から飛び出す。
「薙風!」
 そう、それは薙風だった。
 普段おとなしい薙風のものとは思えないほどの絶叫を放ちながら、薙風は風の結界の中から飛び出した。
 それは見えない敵を探し出すための特攻というよりは、一刻もはやくその場を離れなくてはならないという危機感を携えているようにも見えた。
 病的に体を揺らし、猫背になった薙風がギロリと桂原を一瞥する。
 その目は血走り、黒き瞳は憎悪を湛えんばかりに緋色に染まっていた。
 そこに先ほどまで桂原たちを襲ってきた衝撃が飛来した。
「ちぃっ!」
 桂原はとっさに風の結界を強化した。
 それは、襲い来る衝撃に対してではなく、薙風の魔剣から身を守るためであった。
 しかし、
「魔幻凶塵、呪刻」
 薙風の口から詠唱が流れると同時に、室内を無数の輝光が駆け巡った。
 刃の先から疾風が迸り、不可視の爪が部屋のいたるものを切り裂いた。
 ただでさえ衝撃にさらされていた部屋はそれで完全にトドメを刺され、壁には穴が開き、床は下の階を見渡せるほどになってしまった。
 そんな中、薙風がゆらりと身を起こした。
 その右腕には魔飢憑緋という名の真紅の刀身を持った魔剣が握り締められていた。
 魔幻凶塵餓狼無哭憑惹破滅緋炎葬刻。
 この十六字が魔飢憑緋の本当の名であり、魔飢憑緋とはそのうちの四字を選び抜いたにすぎない。
 頭からの四字、魔幻凶塵はこの魔剣の力を引き出すための呪詛。
 この魔剣は四つの意味を表している。
 魔幻凶塵は、塵と化した凶き魔の幻を具現することを。
 餓狼無哭は、狼のごとく飢えるも哭くこと無く、叫びを封じる紅鉄の刀身を。
 憑惹破滅は、惹かれ憑かれると使い手に破滅をもたらすその事実を。
 緋炎葬刻は、緋の炎を纏う龍を葬りこの魔剣の中にその存在を刻み込むことを。
 魔飢憑緋は緋龍の魂を封印した刀剣だ。
 肉体は滅びたが緋龍の魂は健在で、新しい肉体を得るために使い手の肉体を乗っ取ろうとしている。
 完全に乗っ取るのは難しいが、使い手の輝光を利用して肉体を一時的に具現化することは可能だ。
 魔幻凶塵とは魂の具現化。
 呪刻は緋龍の爪の具現化で、爪による斬撃を効果範囲内にバラまく輝光剣である。
 龍の爪は室内をズタズタに切り裂き、そして切り裂いたものの中に薙風の目にとまるものがあった。
 薙風はそれを拾い上げ、笑みをこぼす。
 それは銀色に鈍く光る糸であった。
 薙風は桂原を一瞥すると、そのまま部屋の外に向かって駆け出していった。
 それを見届けると、桂原は大きく息をつき、その場に座り込んだ。
 風の結界はもう解除してある。
「運がよかった、殺されなかった……」
 それは、もちろん主語に『薙風に』がつく。
 桂原は薙風以上の使い手ではあるが、それはあくまで薙風が魔飢憑緋を使いこなしていないという前提でだ。
 例え魔飢憑緋を使いこなした薙風が相手でも桂原には対等以上に戦う自信はあるが、あそこまで接近された状況では勝ち目がない。
 桂原は柴崎と同様の中距離型、薙風は極端なまでの近距離型なのだ。
「さて、あとは薙風が何とかしてくれるだろう。オレは別の仕事をしなくては」
 立ち上がり、桂原はズボンについたほこりを払った。
「それにしても薙風め、まだ魔飢憑緋をもてあましているのか」
 その言葉は、階下で爆音を生み出し続けている薙風に向かって放たれていた。






「ガァッ!」
 翻る剣閃が、次々と糸による攻撃を切り飛ばしていた。
 アパートの狭い廊下。
 その空間を利用して斬撃による攻撃を繰り出す糸の群れを、薙風は苦とすることもなく切り裂いていく。
 驚嘆すべきはその剣技ではなく体術だ。
 四方から迫ってくる糸を、薙風は左右上と三方向の壁を文字通り地面として使っていた。
 魔飢憑緋の与える瞬発力をもってはじめて可能となる立体歩行術。
 重力の関係上、一瞬しかとどまっていられないものの、壁すらも床として扱うその体術は刀を振りにくいこの狭所において薙風の命を救う唯一の技量として活躍していた。
 かつてはゾンビの命を、須藤数騎の肉体を乗っ取った佐々木小次郎が繰り出した燕返しから救ったのも同様の技術である。
 その様相はまさに蜘蛛の如く。
 壁に張り付き糸を回避し、不可避のもののみを切り裂いていく。
 進撃を続ける薙風は、とうとう糸の発生源まで到達した。
 斬糸を繰るは、文字通りの糸の化け物であった。
 姿かたちこそ人間であったが、それを構成する物質が違った。
 まるで鞠でもあるかのように、その五体全てが糸によって構成されていた。
 糸の化け物が右腕を正面に突き出した。
 右腕が瞬く間にほつれていき、斬糸をもって薙風を強襲する。
 接近すればするほどより多くの糸が薙風を襲ってくる。
 魔飢憑緋の立体歩行術を駆使する薙風は狭所ほどその素早さを増す。
 壁が地面となり、蹴る地面が多ければそれだけ速度を上げることが出来るからだ。
 だが、その反面敵の攻撃は点ではなく線、それも幾十に折り重なりこの狭所においてプラスを受けるのは薙風よりも糸の化け物の斬糸である。
 しかし、
「魔幻凶塵、呪刻」
 この瞬間のみは、魔飢憑緋を持つ薙風がその上をいった。
 迫り繰る斬糸の、そのことごとくを輝光により具現化した緋(あか)く輝く爪が切り裂いていく。
 そして、斬糸を切り裂く余剰分が糸の化け物に襲い掛かった。
 腕、足、胴、およそ行動に必要な末端から中心部分までを龍の爪が切り刻んだ。
 それはまな板の上の野菜でもあるかのように無抵抗にその五体を裂かれていく。
 否、抵抗はしていた。
 だが、斬糸による抵抗はその全てを爪と刀によって切り裂かれ、
「ガァッ!」
 咆哮一閃。
 糸の化け物の首と胴は、紅の鉄によって鍛えられた刀によって斬り飛ばされた。
 宙を舞い、やわらかい音とともに首が地面に転がる。
 力を完全に消失したのであろう、糸の怪物の体を構成していた糸は、まるで裁縫箱の中の糸のようにやわらかく広がってかつて動いた名残を完全に失っていた。






「は、放して……」
 弱弱しい呟き。
 目もふさがれ光を感じることは出来ないが、禍々しい鱗の感触だけはよく伝わってくる。
「ダメ、返して……」
 奪われたものを奪い返そうと薙風はうめいた。
 そこは彼女の意識の中であった。
 どこまでも広がる闇の中に彼女と、そしてその異形は存在していた。
 薙風の自由を奪うために、長い胴体を持つ蛇が彼女の体に鎖のように巻きついていた。
 顔、胴、腕、足、そしてあらゆる関節を押さえ薙風を束縛する。
『恐怖を感じたな』
「だ、誰?」
 聞く薙風に、その声は続けた。
『死は恐ろしいだろう、それはそうだ。誰しも死にたくはないだろうからな。私とてそうであった』
「何の話?」
『我が剣の使い手よ、私がお前を救ってやろう。私に体を委ねればもう心配することはない』
「あなた……魔飢憑緋?」
『そんなところだろう。貴様らは私をそう呼んでいる故にな』
 その声、魔飢憑緋はそう言うと薙風の目を覆っていた蛇の胴体の一部を解いた。
『見えるか、この光景が』
 薙風の目に入ってきたのは糸の散らばる床だった。
 それを見て薙風は一瞬で理解した。
 いや、目は見えずとも外の光景は頭の中に入ってきていたのだからそれが確信に変わったに過ぎない。
 つまり、自分の肉体は魔飢憑緋に乗っ取られ、遅い来る敵を撃破したのだということを。
「あなたが……やったの?」
『そうだ、お前が私に怯えを知らせ、代わりに私が滅殺した』
「私の体で?」
『そうだとも、私はお前の体を求める者だ、全てを私に委ねるがいい。お前は二度と恐怖を味わう必要が無い』
「もう……怖くなくていいの?」
『あぁ、そうだ。そうだとも』
(薙風!)
「え、桂原?」
『邪魔が入ったか、まぁいいだろう』
 魔飢憑緋の薙風を縛る鱗の鎖が少しずつほどけていく。
『いつでも私はお前を救ってやれるのだからな、再び私を呼び起こすがいい。その時こそ、私はお前を救って(とりこんで)やろう』
 そして、薙風は戻ってきた。






「薙風!」
「えっ……」
 正気に戻り薙風はあたりを見回した。
「ここ、アパート?」
「何、馬鹿言ってる。それより平気か?」
「何が?」
「糸のバケモノ倒したと思ったらぼーっとしやがって、早く敵を追うぞ」
「う、うん」
 その言葉で薙風は、自分が魔飢憑緋の中にいた時間がほんの一瞬であることを知った。
 桂原ほどの男だ、五秒ほどで薙風が戻ってこなかったら一人で敵を追いかけているだろう。
 薙風は気を取り直し、桂原と共に敵が逃げたはずの曲がり角へと走り出した。
 それと同時に扉が開き、閉じる音が響く。
「廊下の外に出たな、待ち伏せに気をつけろ!」
 桂原の忠告にうなづいて答え、そして曲がり角を曲がる。
 そして、
「なにぃ?」
 桂原がそう口にした。
 薙風も口には出さないが同じ感想だった。
 そう、そこは行き止まりだった。
 扉など存在せず、ただ荷物を置くだけのスペース。
 階段も無ければ窓も無い、完全な行き止まりだ。
「薙風、どう思う?」
「わからない、敵はどこから逃げたの?」
「能力か?」
「たぶん」
 うなづいて答える薙風。
 そんな薙風を見て、桂原は舌打ちしながら来た道を戻っていく。
「帰るぞ、薙風」
「追わないの?」
「二つ悪条件が重なった、ここは退く」
「何、それ?」
 桂原は歩みを止め、薙風を振り返りながら口を開いた。
「一つ、伏撃が怖い。一対二なら勝率も高かったが応援でも呼ばれると厄介だ。それに能力がわからなければどんな奇襲をされるかわかったもんじゃない」
「もう一つは?」
「お前だバカ」
 冷たく、叩きつけるように桂原は薙風にそうぶつけた。
「魔飢憑緋に飲み込まれたな、龍の巫女とあろうものがなさけない」
 その言葉に、薙風は悲しそうにうつむいてみせる。
「お前の戦力が期待できない上にこちらでも狙われたらたまらない。負ける気はしないが止めると殺すが同義になるぞ。手加減して確実に止められるほど私は強くない」
「ごめんなさい」
 詫びる薙風。
 桂原は再びため息をつきながら薙風を見る。
「まぁ、いい経験だったろう。何で自分が魔飢憑緋に取り込まれたかよく考えておくがいい。お前が魔飢憑緋を使いこなしてくれさえすれば、これからの任務もずっと楽になるだろうからな」
 そう言うと、桂原は薙風に背を向けて歩き出した。
 置いていかれないよう、薙風は抜き身にし続けていた魔飢憑緋を鞘にしまいこみそれに続いた。
 薙風の内心では、魔飢憑緋に対する恐怖が渦巻いていた。

































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