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トップページ>>パオまるの小説>>魔剣伝承>>第七羽 判明
第七羽 判明
何もしなくていいということは本当に心地よいことだと思う。
現に今がそういう状態だ。
学校に行っている時や、探偵事務所で働いていた時にはありえなかった無尽蔵とも思えるほどの無駄な時間。
だが、それは決して無駄ではなく、それなりに意味はあるのだろう。
そんなことを頭のどこかで考えながら、数騎はアパートの汚れた天井を見つめ続けていた。
両腕を組んで枕にした姿勢のまま、両足をコタツに突っ込みすでに三十分ほど惚けつづけている。
昼食が終わり、することもなかった数騎はそのままコタツから出ることなくごろごろとしていた。
コタツの魔力は恐ろしい。
今までなら寒さを防ぐために日本酒に手を伸ばしていたところだが、今の数騎にはコタツがある。
すばらしき文明の利器だ。
まぁ、電気のなかった時代にもコタツは存在したが、文明の利器という点に関して言えばコタツの発明された当時から変わりはしないのだろう。
それにしても、数騎は思った。
群れで生きる生き物は感情を共有するという話をよく聞く。
一匹のゴリラがあくびをすると他のゴリラまでもがあくびをし始めるのだ。
これはゴリラに限った話ではなく、人間にも共通する現象なのだそうだ。
ならば、このような無気力な空気まで感染するものなのであろうか。
おそらく答えはイエスだろう。
「ん〜」
かわいらしい猫なで声。
「むふ〜」
やわらかい吐息、それは心地よさの絶頂を思わせる旋律に似て。
「んふふ〜」
「どうしたよ、クリス」
眼球を下の方に移動させてその少女を見る。
クリスはいつも通り、数騎の左隣を陣取ってコタツに潜っている。
体勢は数騎と同様、畳の上に寝転がっており、まるで吹雪の中で唯一存在するぬくもりだと言わんばかりに数騎の胴に抱きついている。
「あのね、やっぱりコタツっていいな〜って思ったの」
「あぁ、同感だ」
実にその通りだ。
何か用事があったりしてコタツから出るときの辛さが一体どれほどのものかというのは、まさしく筆舌し難いというものだ。
こればかりは入ったことのある人間にしかわからない。
こういう時ばかりは、心のそこから日本人であることが嬉しくなってくる。
窓を見る。
外は雨。
天井と壁のおかげで風雨をしのぐ数騎とクリスは、降水量がいかに増えようとも関係はない。
ただただ、このぬくもりの存在するコタツという住処に住まい続ける。
数騎は心地よさそうに両目を閉じた。
「それにしても、なんだ」
「ん?」
数騎の言葉に反応するクリス。
といっても顔は数騎の方を向いてはおらず、気持ちよさそうに数騎のわき腹にほっぺたを押し付けている。
「なんだか本当に心地いいな」
「そうだね〜」
その返答には一切の曇りもない。
その後、二人はしばらく無言だった。
語る気がないのではなく、語るだけの元気がないのだ。
次第に睡魔が襲ってきた。
これがコタツの魔力たる所以だ。
数騎は目を開けて意識を取り戻すなどという無粋な真似はせず、ゆっくりと心地よい倦怠感に身を任せる。
ただ、左腕だけはその倦怠感に逆らった。
心地よく喉を鳴らすクリスの頭を、左手は優しく撫で続けている。
そして数騎の右手は、クリスの小さな右手をしっかりと握り締めていた。
そもそも自分は何を目指していたのか。
柴崎司は、いや剣崎戟耶は事務所のソファに転がる体勢をとって、それを再考していた。
まだ幼く、剣崎戟耶を名乗っていた時期。
特殊な家庭環境ながらも、剣崎戟耶は真っ直ぐに育っていた。
子供向けの特撮番組を見ると、それの真似事をして遊んでいたような普通の子供だった。
特撮戦隊の基本は五人の中に女性が数人入っているので、仲間たちと遊ぶときは大抵、剣崎は一番いやな女性役ばかりやらされていた。
子供たちの中で一番年下で、しかも弱かったからだ。
そんなことがあっても剣崎戟耶は正義の味方に憧れていた。
彼が幼い頃、剣崎戟耶は特撮番組に登場する正義の味方はテレビの外にもいると信じ続けていた。
そして実際いたのだ、魔を狩り、世界の裏で人々を救う人間が。
そしてその具現こそ、薙風の屋敷で厄介になっていた、剣崎の分家筋でありながら凄腕のデュラミア・ザーグとして知られた柴崎司という女性であった。
幼い頃の剣崎戟耶は柴崎司にとってまさしく憧れであった。
柴崎司は中距離向けの刻銃、近接武器であるアゾトの剣、そして極め付けに仮面を武器としていた。
仮面を被り、魔を屠る者。
それは剣崎戟耶にとってテレビの中から飛び出したヒーローのそれのように思われた。
彼は屋敷にいる間中、柴崎司に甘え続けた。
薙風の屋敷の生活は、剣崎戟耶にとって幸福としか言えないものであった。
そんな中で、幼い剣崎戟耶が耳にし続けた言葉。
それが柴崎司の理想であった。
「私はね、世界中の人間全員を助けていきたいんだよ」
そう、それは柴崎司の理想。
争いはなく、全ての人間が等しく笑って生きることの出来る世界。
柴崎司は完全な日本人ではなく、中東に渡った剣崎の人間と現地の女性との間に出来た子供だった。
ポテンシャル的には剣崎に恥じぬものを持っていたが、出自のために日本に戻ってきた際、柴崎の姓を名乗ることを命じられたのだった。
ちなみに彼女の両親は共に他界している。
中東で起こった紛争によって、両親は共に死亡していたからだ。
柴崎は本家から嫌われ、やはり薙風の里に放りこまれた。
どうも本家の連中は厄介者は薙風に押し付けることにしているらしい。
そんな彼女は紛争の中で育った。
日本に来たのが十六の時だったから、二十八の彼女は人生の大半が紛争の中にあったと言える。
彼女は戦争を、そして人の死を忌避していた。
自分には何ができるか。
考え悩み、見い出した答えは裏の世界に存在した。
彼女はデュラミア・ザーグとして動き、そして人々を救うために戦った。
幾多の戦場を訪れ、紛争の中、命をかけて人々を救う。
それが彼女の生き様だった。
彼女には二人の相棒がいた。
一人はアルカナム、そしてもう一人は裏切り者たるヴラド・メイザース。
この三人のコンビは、当時の裏の世界においても注目の的であったという。
そして、彼女によって剣崎戟耶の骨格が形成された。
いつしか、剣崎戟耶は柴崎司と同じ夢をみるようになっていた。
人々を守るために戦い、そのためにはどれほど傷つこうとも怯むことなく。
それを実現するために、幼き剣崎戟耶は魔剣士としての訓練を異常なまでの努力をもってこなしていった。
柴崎司が里にいるときは、常に付っきりで訓練をしてもらっていた。
そして、いつかは忘れたが剣崎戟耶は彼女に言った。
「いつか僕も戦うよ。強くなってみんなを守るんだ。朔夜も、漸太も、キリコも、そして司お姉ちゃんも僕が守ってあげるんだ」
「そうなの? でも大変だよ」
「大丈夫、僕ならできるよ。だって僕は司お姉ちゃんの弟子だもん」
そのころの柴崎司にとっての世界は薙風の里だけだった。
見渡せる限りを守るだけなら簡単だと思っていた。
そして、柴崎司がヴラド・メイザースの死によって死亡した時、剣崎戟耶は柴崎司となった。
そして絶望した。
アルカナムに師事した彼は、今までの自分の人生が茶番に過ぎなかったことを理解した。
世界は広く、助けるべき人々は圧倒的な数を誇りながら、そのひとかけらを救うことさえ困難だったのだ。
これほどの難題にぶちあたり、それでもお姉ちゃんが戦いをやめなかったことに柴崎司は驚いた。
しかし、約束はまだ思い出に変わらない。
柴崎司は、絶望的な現実に向かって戦いを挑んだ。
そして、全ての人間を救えないとわかると、柴崎司は苦い選択を行う覚悟を決めた。
それは多を救うために小を切ることだ。
一人でも多くの人間を救うために、少ない人間を犠牲にする。
それが数百人の人間を殺そうとするテロリストグループ数十人を皆殺しにすることや、人体実験を繰り返して何千人という人間を狩り続けた異端者を葬ることであったり。
柴崎司は血にまみれてきた。
剣崎戟耶にとって、その修羅の道は耐え切れるものではなかった。
しかし、剣崎戟耶はすでに柴崎司なのだ。
剣崎戟耶は柴崎司の仮面を被り、彼女としての生を謳歌している。
その意味において、柴崎司は紛い物ではなしに、真の仮面使いであると言えた。
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫を上げて飛び起きた。
数騎の胸に抱きついていたクリスが、慌てて数騎の体から離れる。
コタツで眠っていた数騎は頭を抱えて苦痛の声をあげ始めた。
だが、まだ意識は戻っておらず、夢の中で苦しんでいるように見えた。
「数騎、数騎!」
何か良くないことが起きたのではないかと心配し、クリスは数騎の体を揺さぶる。
数騎は目を覚ますと、苦しみに顔を歪めながら這いずり始めた。
向かう場所は、そう。
数騎がドラッグを隠している押入れだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
薬を求める衝動がよほど強いのか、数騎は脂汗を流しながら押入れから薬を取り出すと、震える手で注射器を構える。
「くぅっ」
注射を開始した。
数騎の苦痛が音を立てて砕け散っていく。
そして、数騎にようやく平穏が訪れた。
「ふぅ」
一息つき、数騎は壁にもたれかかるようにして倒れた。
「数騎」
呼びかけられた。
声のした方向に顔を向ける。
「どうした、クリス?」
「もう、やめようよ」
悲しそうな顔。
目に涙をたたえながらクリスが続けた。
「もうお薬やめようよ」
「何言ってんだ、やめろだって?」
「うん。だめだよ、これ以上は。数騎ボロボロになっちゃうよ」
「悪いな、これはやめようと思ってやめられるもんじゃないんだ」
「でも、カラスさんはやめようとすればやめられるって」
「無理矢理やめさせるんだろ、発狂しちまうよ」
舌打ちをもらす数騎。
そんな数騎の傍らに、クリスがしゃがみこむ。
「でも、こんなこと続けてたら。数騎いつか死んじゃうよ」
数騎に涙目で訴えるクリス。
クリスの両手が数騎の顔に伸びた。
ドラッグのせいで削げ落ちた数騎の頬を触ろうとしたのだ。
が、数騎はその手を邪険に払いのけた。
「触るな」
「っ!」
手を引っ込めるクリス。
そんなクリスに数騎は鋭い目つきを向ける。
「オレがドラッグキメんのはオレの勝手だろうが! とやかく言いやがると容赦しねぇぞ!」
叩きつけるような言葉。
その言葉にクリスはぽろぽろと涙をこぼす。
「泣くなら余所で泣け。オレはいまから眠るからな、起こしたらただじゃおかねぇ」
まるで親の仇に対してでも言うような口調で言葉を突きつける数騎。
クリスは数騎の側から逃げるようにして別の部屋に逃げてしまった。
数騎はその後ろ姿を見て鼻を鳴らし、ゆっくりと目を閉じる。
薄れゆく意識。
心地よい脱力感。
さぁ、また会える。
数騎は意識の喪失感を覚えると同時に、かつて彼が愛した者の幻影に出会っていた。
ドラッグを服用した後の数騎は妙にご機嫌だった。
さきほど悪意ある声で怒鳴った事さえ忘れ、数騎はクリスを外食に誘った。
始めはさっきの出来事に対して何かしたの罰を与えられるのではないかと思ったクリスだったが、どうやら先ほどの出来事を数騎が忘れ去っていることを感じ取り、上機嫌で数騎とアパートから外に出た。
時刻は夜七時、夕食にはちょうどいい時間だ。
数騎とクリスは徒歩十五分ほどで来れるファミレスに辿りつく。
「どれどれ?」
店の中を覗きこむ数騎。
一番のかき入れ時間だというのに二、三と空席を見つけることができた。
人気のある店でこの時間帯の空席は珍しいが、数騎にとっては実に好都合だった。
ガラスで出来た扉を開け、中に入る数騎とクリス。
数秒もしない内にウェイトレスから声をかけられた。
「いらっしゃいませー、何名様ですか?」
「二人、禁煙席で」
「それではこちらのお席にどうぞ」
その言葉に導かれ、数騎とクリスは案内された席に腰をかけた。
二人が来た店は全国チェーンのファミレス、ベルシェストという店だ。
お代わり自由のドリンクバー、お代わり自由のスープ、いずれもセルフサービスで飲み放題。
それに料理は値段も手ごろで種類も非常に豊富だ。
これで流行らないというのは嘘というものだろう。
「ん? 前にも同じようなこと考えたような気がする」
思わずぼやき、ややあって思い出す。
そう、ここは数ヶ月ほど前に玉西という女性と一緒に食事を取りにきた店だ。
だが、今度の相方は玉西のような美女ではなく、色気もくそもない幼女だ。
自分も堕ちたもんだなと自嘲しながら、数騎は案内された席に腰を降ろした。
窓際でなかなかいい席だ。
向い側にクリスがちょこんと座っている。
窓から見える景色がよほど珍しいのか。
走り抜ける車のライトを、目で追っている。
「クリス、とりあえず何か頼んどけ」
「あ、うん。ごめんなさい」
慌ててメニューを手に取るクリス。
数騎は一瞬で頼むべきものを決めると、メニューをテーブルの上に置き、何を食べるかを悩むクリスを見つめていた。
ページをめくり、目を動かし、真剣に迷っているクリス。
数騎がクリスを外食に連れて出るのはこれがはじめてだ。
よっぽど嬉しいのだろう。
目をきらきらさせながら、食い入るようにメニューを眺める。
と、クリスが困った顔をした。
上目遣いに対面に座る数騎の顔を覗き見る。
「ん? どうした?」
「ん〜とね、ん〜っとね」
言いにくそうな顔をするクリス。
「とりあえず言え、言わなきゃわからない」
「あのね、あのね」
おずおずと口にするクリス。
そして、勇気を振り絞って告げた。
「数騎、もしよかったらこのパフェ頼んでもいい?」
メニューを指差すクリス。
そこには恋人御用達、その名もラブラブパフェと呼ばれる少し大きめでスプーンが二つほどアイスに突き刺さっているパフェの写真が載っていた。
「……ここファミレスだよな」
どうやらこの店は客層を広げるためにいろいろと頑張っているらしい。
思い返してみれば玉西と来た時はこのメニューはなかったはずだ。
「まぁ、構わないぜ。まだ金は残ってるし。いいぜ、食後のデザートはそれにしよう。でもな」
「でも?」
「まずはメシ頼め。デザートはそのあとだ」
「うん、わかった」
にっこりと微笑むクリス。
そして、数騎はウェイトレスを呼ぶと、自分とクリスの食事を両方注文する。
もちろん食後にパフェを持ってくることは忘れずに頼んだ。
食事は数分ほどで運ばれてきた。
数騎はビーフシチューを、クリスはオムライスを頼んだ。
パンを引きちぎり、シチューにつけながら食事をする数騎。
と、数騎が思い出したようにクリスに尋ねた。
「ところでさ」
「んぐんぐ……何?」
オムライスを飲み込み、問い返すクリス。
数騎は少し言葉を選びながら続けた。
「今までまったく気にしてなかったけどさ。お前ってどこから来たの?」
「どこって?」
「んや、デュラミア・ザーグから逃げてるってことは何かやらかしたんだろうけど、それまではどこで暮らしてたかって聞いてんだよ」
「えっと……」
顔を曇らせるクリス。
だが、隠し通したいわけでもなかったのか、クリスは少々躊躇いを見せた後で続けた。
「私はね、研究所から来たの」
「研究所?」
「うん、フィオレ博士たちがいる研究所。私と私の仲間達は研究所に拾われた孤児だったり、人工的に作られた人間だったりしたの」
「研究所に……拾われた? 作り出された……人間?」
いやな予感がした。
数騎はそれ以上言わなくていいと止めようとしたが、それよりも早くクリスが続けた。
「私達は研究所で実験されてたの。よくわからないけど魔剣の実験って言ってた。
いっぱいお薬飲まされて、お注射もいっぱいされてすごくいやだった」
「そうか、悪い事聞いたな」
数騎も麻夜から、裏の世界の人間には人道に反する事をしている者がいるという話を聞いた。
その被害者が目の前にいることに、少しだけ憐憫を覚えた。
「でもね、何週間か前に研究所で事件が起こったの。すごい事件だった。みんなの悲鳴が聞こえてきて、爆発音が何度もなって、みんな大慌てだった。そんな時、ミシェルお姉ちゃんが助けてくれたの」
「ミシェルお姉ちゃん?」
「そう、お姉ちゃん。フィオレ博士のお孫さん。私達実験体の面倒を見てくれるお姉さんなの。すごく優しいお姉ちゃんで、私に名前をくれたの」
「名前?」
「うん、クリスティーナって。苗字はフィオレをそのまま。研究所では私達実験体は番号で呼ばれたけど、お姉ちゃんは私達全員に名前をつけてくれたの」
そこまで聞いて、数騎はクリスが最初に名乗った名前を思い出した。
四十(フォーティ)、あの名前はそういう意味があったのか。
「お姉ちゃんは私達が実験体にされるのをいつも嫌がってた。だからお姉ちゃんは事件に乗じて私達全員を助けてくれたの。私達はみんな別々の方向に逃げたの。みんながどうなったかはわからない。でも、私の所には追っ手としてデュラミア・ザーグが来たの。
それで怪我しちゃったけど何とか逃げ延びて、そこで数騎と出会ったの」
なるほど、だから血まみれだったわけか。
数騎は初めて会った時のクリスの姿を思い出す。
と、数騎は今まで持っていた疑問を口にした。
「ところで、クリスは初めて会った時怪我してたけど、何であれだけの怪我が一瞬でなおったんだ?」
「私達は実験体だから、強力な自己治癒能力が植えつけられているの。下手な実験で命を落とさないようにって」
それを聞き、数騎は舌打ちを漏らした。
実験体だって。
目の前の、力を持たない少女に対してそれはあまりにも過酷な現状。
数騎はそのような状況に少女を追い込んだ研究者たちに怒りを覚えていた。
「じゃあ、クリス。あともう一つ聞きたい。これは正直どうでもいいことなんだが」
頭をかきながら聞くべきか聞かないべきか、少し悩んでみる。
だが、やはり気になるので質問してみることにした。
「お前さ、何で寝る時オレと手をつなぎたがるわけ?」
そう、クリスは寝る時、かならず数騎と手をつないで寝ていた。
手を解くとどんなに熟睡しても一瞬で目を覚まし、すぐさま手をつなぎなおすのだ。
その質問を聞いたクリスは、悲しく目を細める。
「それはフィオレ博士が私達が逃げ出さないようにする呪いなの」
「呪い?」
「うん、研究所の中は結界が張ってあるから大丈夫なんだけど、私達実験体は結界の外に出ると決して眠ることができなくなるの?」
「眠る事が……できない?」
「うん、人間って睡眠がとれないといつか死んじゃうらしくて。毒を盛るわけには行かないってことでフィオレ博士は実験体に眠れなくなる呪いをかけるの。
だから実験体は研究所から逃げられない、逃げれば眠れなくなって死んじゃうから。
でも、一つだけ眠る方法があるの」
「それが、手をつなぐことだっていうのか?」
「うん、実験体の呪いは他者と密着している時にはその効力を失うの。具体的には手をつなぐと一番良くて、そうすると呪いが失われるの。
これは結界が機能しなくなって実験体が全滅しないように最初から組み込まれた非常手段みたいなものなんだけど、それのおかげで今まで大丈夫だったの」
「なるほどな、そういう事情があったわけか」
と、数騎がそこまで口にして思い至ったことがあった。
が、それを口にしようとは思わず、食事を続けることにした。
二人が食事を終わらせると、食後のデザートに特大のパフェが姿を現した。
とてつもない量だったが、それはさしたる問題ではなかった。
なぜならクリスが獅子奮迅の働きを見せたからだ。
苦手というわけではないが、数騎はあまり甘いものを多く食べれない。
あまり多く食べる事を好まないのだ。
おかげであまり太る事がなく、太った友人からは羨望のまなざしを送られることもあったほどだ。
クリスが超のつくほどの甘党であったことが救いだった。
子供の胃袋とは思えないほどの食欲をもって、クリスは特大パフェの八割を食い尽くす。
三割くらいは食べようかなと思っていた数騎は、瞬く間に消えていくパフェを見て思わず呆然としてしまったほどだ。
その後、会計を済ませて数騎とクリスは店を出た。
クリスはゲップをしながら、大きく膨れ上がったお腹をさすりながら天使のような笑顔を浮かべている。
「おいしかったか?」
「うん!」
聞くまでもなかった。
クリスはうっとりとした表情で続ける。
「あんなにおいしいパフェははじめてだよ。ミシェルお姉ちゃんの作ってくれたケーキよりもおいしかった」
「よろこんでもらえたなら光栄だな」
数騎は思わず夜空を見上げる。
綺麗に瞬く星々。
「じゃあ、また来ようか」
「え?」
視線を下げる。
そこには数騎を見上げるクリス。
その碧い瞳には、空に浮かぶ星が反射して見える。
「またパフェを食べに来よう。今度はまるまる一つクリスだけに食わせてやるよ」
「ほんと!」
「あぁ、本当だとも。オレは約束を破るのが嫌いなんだ。それに金ならあるしな」
金、それは数ヶ月前、数騎と暮らすアパートから出て行った時に麻夜が置いていった金。
数騎はそれをそっくりちょろまかしており、それに依存して生活をしていた。
体を売っているのはドラッグを買う用のお小遣いかせぎである。
「指切りしようか」
しゃがみこみ、クリスと同じ視線の高さにする。
「指切りしよう、また来るって約束だ」
「うん!」
同じ目線の高さにいる、数騎に対してクリスは自分の薬指を差し出す。
そうして二人は約束した。
また一緒にパフェを食べに来る約束。
再び訪れる出会おう幸福を思い描き、クリスは極上の笑顔を浮かべたのであった。
そもそも数騎は隠れること自体は得意だが、隠れている相手を見つけ出すことにおいて常人並のセンスしかもっていなかった。
だからこそ囲まれていることに気付いたのは襲撃者が必勝を期して姿を現したあとだった。
薄暗い路地裏、アパートへの帰り道。
数騎とクリスは並んで歩いているところで襲撃を受けた。
相手の数は前に八人後ろに七人。
左右にはビルの壁、さらにこの路地裏とその周辺は人通りが少ない。
襲撃にはもってこいの場所であった。
「あんたら、何の用だ?」
数騎はポケットに手を突っ込みながら自分たちを包囲する男を睨みつける。
だが、その体は恐怖によって震え、止めようもなく冷や汗が流れ落ちる。
無理もない話であった。
数騎たちを取り囲む男たちはいずれも屈強な、筋骨隆々たる男たちだった。
着ている服はみな着崩したスーツ、髪型も粗野に調えられ、その姿はステレオタイプと言って差し支えない極道者。
つまり、ヤクザたちに数騎は囲まれていたのだ。
「あ、あいつです!」
前の方にいたヤクザの一人がクリスを指差して叫んだ。
「あのガキにオレはやられたんです!」
叫んだ男に数騎は視線を向ける。
その男の右腕には手が存在していなかった。
腕のない手首の辺りには包帯が幾重にも巻かれている。
と、最も体の大きいリーダー格の男が数騎たちに向かって一歩踏み出した。
「よぉ、にいちゃん。ちょっといいかい?」
どうすれば相手を威圧できるか、他者の心理を知り尽くした声。
他者を恐喝することに長けた極道ならではの恐怖を煽る声色。
だが、数騎は表面上は怯むことなく尋ね返した。
「構いませんが、オレたちに何の用ですか?」
「まぁ、にいちゃんはオマケみたいなもんなんだがなぁ。そっちの嬢ちゃんに用があるんだよ」
「どんな用ですか?」
すでに心臓は破裂しそうなまでに高鳴っており、その音が相手に聞こえて自分が動揺しているのがバレるのを恐れながら数騎が返答をする。
と、いままでの中で一番ドスを聞かせた声で、極道の男が口にした。
「どうやらそのお嬢ちゃん、ウチの身内をやってくれたそうじゃねぇか」
その迫力に数騎は思わず身をビクリと震わせる。
どんなに体を抑えても隠しようがないほどの恐怖。
しかし、それでも数騎は平静を装った。
「やった? 何をしたんです?」
瞬間、右頬に激痛が走った。
続く衝撃。
揺れる脳を何とか律し、数騎は現状の把握に努める。
極道の身長が恐ろしいほど高くなっている。
いや、自分が地面に転がっているだけだ。
そして右方の痛み。
どうやら殴られたらしい。
ありがたいことに歯は折れていないようだ。
それにしても右からの攻撃とはえげつない。
数騎は右目がつぶれているため右が死角なのだ。
追撃がないことに気付いた数騎は、ゆっくりと立ち上げる。
体を震わせながら立ち上がる数騎を、極道の男は、今度は脚の裏を叩きつけるような蹴りをもって迎え入れた。
中腰だった数騎の体が後方に飛び、コンクリートの壁に叩きつけられる。
「がっ!」
一瞬呼吸が停止した。
腹部に走る激痛と、背中の衝撃。
思わず胃から液体が逆流し。さっき食べたものと混ざって口の中に味が広がる。
「知らねぇってか、ふざけやがって」
極道の男は陰惨な怒りの表情を浮かべ、後ろにいる右手のない男を一瞥した。
「オレの子分の手首切り落としたくせに知らねぇっていうのか?」
「手首を?」
もちろん数騎にはそんなことは知りようもなかった。
極道の男は数騎に歩み寄り、その胸倉を掴むと吊るすように立ち上がらせる。
数騎と男との身長は二十センチくらい差がある。
文字通り数騎は宙に吊るされるような格好になった。
「にいちゃん、しっかりとオトシマエはつけてもらうぜ」
ぼろぼろの数騎にそう口にした瞬間、極道の男は周りにいる部下を一瞥する。
部下たちは包囲網を狭めると、クリスに対して歩み寄りはじめる。
「な、何する気だ!」
「うっせぇ!」
数騎を吊るしていた極道の男が数騎に対して右腕を振るった。
繰り出される豪腕は数騎の左の頬を直撃し、数騎は再びコンクリートの壁に叩きつけられる。
地面に倒れふした数騎は、何とかクリスの方を見ようとただ一つ残る左目をクリスに向けた。
周囲から迫り来る男たちに、クリスは怯えた目を数騎に向けている。
「アニキ、こいつ犯っちまっても構いませんか?」
包囲する男の一人がそう口にした。
いくら幼いとはいえ、クリスは将来は美人になることが約束されているといっても過言ではないほどかわいらしい。
それを見て男は欲情しきっていた。
「構わねぇ、しっかりとこの世界のルールってやつを叩き込んでやれ。代わる代わる犯してやれ。三日間は一睡もさせるんじゃねぇぞ」
絶対的な権力を持つもの特有の冷酷で、自分の言葉が現実を左右することを喜ぶ歓喜をもって数騎を殴打した男は告げた。
そして、
「ああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫が走った。
誰もがその声の主に視線をめぐらせる。
それは命令を発した極道の男のものだった。
その丸太のように太い太股に黒い短刀が突き刺さっていた。
「があああぁぁぁぁ!」
咆哮と共に男が数騎に向かって拳を振るった。
その一撃をこらえきれず、数騎は三度後ろに殴り飛ばされる。
だが、今度はコンクリートに叩き付けられたりはしなかった。
「い、いてぇ! なんだこりゃぁ!」
極道男は数騎に繰り出した右拳を凝視する。
殴るために握り締められた拳。
そこには骨に突き刺さるほど深く、白銀の短刀が突き刺さっていた。
「あああああああああああああああああああ、殺れ、殺せ!」
号令一下、クリスを取り囲んでいた男たちの半数が数騎に向かって走り出す。
その手には拳銃やナイフ、そしてドスと呼ばれる短刀を握り締めていた。
数騎は左手の長袖をずり上げる。
左手首のすぐ下には多数の糸が巻かれており、その先端には漆黒の鉄塊。
数騎は糸を必要なだけほどくと、漆黒の鉄塊、分銅を右手に持ち、遠心力をいかして回転をし始めた。
数騎は舌打ちをもらす。
状況は圧倒的に不利だ。
リーダー格の男はほとんど無効化に成功したが、そのおかげで武器を二つ失ってしまった。
残るは分銅だけだが、これだけの人数を相手にするには向いている武器とは言い難い。
だが、これを突破しなければクリスが危ない。
数騎は奇跡を祈り、クリスに向かう方向に陣取る男を突破するために分銅を投げかける準備をする。
が、
「いやああぁぁぁぁ!」
クリスの悲鳴が響いた。
もはや数騎にためらう時間はない。
数騎は目の前の男に向かって分銅を投擲し、その後突撃をかけて包囲網を突破しようとした。
その時だった。
雨が降った。
それは激しい雨。
だが、実際には雨と違うところが多すぎた。
まず方向。
雨は上から降る。
だが、その雨は下から上へと噴出していた。
次に匂い。
雨にはこんな鉄くさいにおいはついていない。
最後に色。
だって、雨はこんなに、
「ぐああああああぁぁぁぁぁ、オレのっ! オレの腕があああぁぁぁ!」
こんなに、赤くなどないのだから。
何人かが同時に地面に倒れた。
問題は倒れ方だった。
地に倒れる男はその胴を、腕を首を、脚を、それぞれ切断され、赤い噴水として機能しながら地面に倒れていた。
倒れた人間は七人。
クリスを囲んでいた男たちは、まったく同時にその肉体を切断され、その半数以上がショックにより絶命していた。
「な、なんだ!」
その惨状に、数騎を包囲していた男たちが驚きの声を上げる。
数騎はその隙を逃さなかった。
分銅を投擲し、取り囲む男たちの内、一人の後頭部に分銅を叩きつける。
何かが砕けるようないやな音が響いた。
そこに至り、男たちは数騎という脅威をようやくのことで思い出す。
そして、その人生を終えた。
血煙が舞い、首が、胴が、頭が。
およそ生命を持続させるために失ってはいけない機関を失い、男はたちは血の海に沈む。
これまでの間に三十秒も立っていない。
だというのに、十五人いた男たちの内、十四人がすでに絶命している。
まだ息のあった者は、倒れた次の瞬間に止めを刺されていたからだ。
「ひぃっ!」
数騎にナイフで刺されて動けなかった男だけが生き残っていた。
そしてその惨状を全て目に焼き付けていた。
彼が恐れるのは眼前にせまる少女だ。
返り血に全身を真っ赤に染めた少女。
彼女はその小さな手を自らの眼前にかざす。
その手、その先にある小さな指。
そしてその指についている爪。
その爪が異常な形をしていることに数騎も気がついた。
それは爪というよりは刃物に近かった。
全長はおよそ一メートル。
指の先から伸びた爪は、斬撃に特化した様を誇るかのごとく、日本刀のように湾曲していた。
クリスが右腕を天にかかげる。
それと同時に指先の爪がさらにその長さを増した。
「化け物めっ!」
男が懐から拳銃を引き抜き、弾倉の限りをつくして弾丸をクリスに繰り出した。
だが、それは全て無意味だった。
迫り来る弾丸を、クリスは迫る殺気を頼りに左腕に伸びた爪で迎撃した。
裏世界に属する剣術師に弾丸は通用しない。
機関銃ならいざ知らず、単発式拳銃ではいくら連射したところで、剣術師はそれを上回る速度でそれを危険範囲外にそらしてしまうからだ。
クリスにもそれだけのスキルが備わっていた。
三メートルの距離からの銃撃、その全てを爪によって弾き飛ばしていた。
空になった拳銃の引き金を幾度も引き、弾丸が出ないことに、いや、弾丸をもってしても殺すことができなかった少女を前に、男は失禁していた。
「た、たすけっ……」
最後まで口にすることはなかった。
一歩たりとも動くことなく、相手に届くだけの長さまで爪を伸ばしたクリスは、目にもとまらぬ速さで横薙ぎの斬撃を繰り出していた。
鮮やかな体裁き。
繰り出された斬撃は苦もなく男の首を切り飛ばした。
首を失った体は、まるで噴水のように血液を迸らせる。
それを黙ってみていた数騎は、クリスに視線を戻した。
クリスは伸ばしていた爪の長さを普通の人間並みの長さに戻すと、表情のない顔で数騎の方を向く。
「ばれちゃったね」
数騎の言葉を待つことなく続ける。
「私ね、実は魔剣士なんだ」
「そう……か」
数騎は目をそらすことなく答える。
そりゃそうだろう。
魔剣士でもなければ、屈強な十五人のヤクザを一分で皆殺しにできるわけがない。
「私ね、研究所で体に魔剣を埋め込まれたの。ホムンクルスっていう人造人間だから、この世に誕生した瞬間に組み込まれて、フィオレ博士は私のこと魔剣人間って呼んでた」
「そうか」
「私の魔剣は鋼骨、炭素っていう物質を操ることに特化した魔剣なの。身体能力は研究所で達人並みに強化されたから弾丸をはじいたのは技術だよ。
炭素を操って骨を強化して、それで刃を作るの、こんな風に」
爪が伸びた。
それは寸分たがわず数騎の首の横まで到達する。
「私が骨を炭素で強化するとね、人間の体はもちろん、鉄だってなんだって切れるんだよ、硬度プラス輝光強化で最大限まで切断力を高めてるからなの」
「首も斬れるのか?」
「斬れるよ」
言ってクリスは数騎の方に向けている指をわずかに動かす。
数騎の首に刃が触れた。
「一つ、聞いていいか?」
虚ろな目で尋ねる数騎。
「何かな?」
「さっきオレが聞くのをやめたことだ」
「どうぞ」
許可をいただいた数騎は、大きく息を吸い込んで聞いた。
「オレと会うまで、お前はどうやって睡眠をとっていたんだ?」
それは当然の疑問。
誰かと手を握っていないと眠れないクリス。
だが、身内でもない人間と手を繋いで寝てくれる人間は多くない。
そして、魔剣士であるクリスはおそらく結界を張る力はない。
ホムンクルスであるからそのような能力を付与できないわけでもないだろうが、呪いをかけた研究所側がその能力を与えるとは思えない。
だがらこれは当然の疑問。
その疑問の答えは数騎にはついさっき思い浮かんでいた。
そしてその通りの答えがクリスの口から放たれた。
「通り魔をしてたの。人気のない場所にいた人を襲ってその人の手首を切り落としてたの。それでそれが腐ったらまた新しいのを手に入れて。でも、やりすぎちゃってデュラミア・ザーグに襲われちゃったんだ」
それが答えだった。
数騎は予想通りの答えに大きく息をついた。
そんな数騎に、クリスは何事もなかったような声で続ける。
「私ね、本当は数騎とずっと一緒にいたかったんだ。数騎はやさしいし、いっしょにいて楽しかった。でもダメ。数騎には私の能力がばれちゃったもん。誰かに言われたら困るから死んでもらわなくちゃいけないんだ。目撃者は殺す、これが裏世界の常識だよ」
「または記憶の除去、だろ。そっちじゃダメなのか?」
「ダメだよ、私できないもん」
殺すことしか、か。
数騎は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「なるほどね、それじゃあ仕方ない」
まんざらでもないと思った。
神楽さんを失った時から、早くこうしたいと思っていた。
でも、死ぬことが怖かったから自殺なんかはできなかった。
結局オレにできたのはドラッグをキメて時代の底辺まで転がり落ちることくらいだった。
はやく死にたいと思っていた。
でも、死ぬ勇気はなかった。
それでも、もしどうあがこうが死ぬ状況に追い込まれたなら。
それこそが須藤数騎が最も望み、そしてもっとも拒んでいた事態だった。
「二つ頼みがある」
「何?」
「オレの骨は、桐里神楽って人が眠ってる桐里家の墓にこっそりと埋めておいて欲しい」
「もう一つは?」
「やるなら一撃で頼む、苦しめないようにな。できれば惨殺よりは刺突で、心臓を一突きってやつで頼む」
「わかった」
あいもかわらず無表情だった。
クリスは数騎の首の横にあった爪を、数騎の心臓の前まで移動させる。
「じゃあ刺すね」
「一撃でだぜ」
数騎は目を閉じてその一撃を待った。
これでようやく終われる。
果たして自分が死んだ後、神楽さんに会うことはできるのだろうか。
自分は無神論者だ、死後の世界などないと言い張り続けていた。
だが、最後の最後になって死後の世界を望んだ。
神楽さんともう一度会いたい、それだけを願い。
数騎はその一撃を待った。
だが、一撃はこなかった。
静寂が空間を支配する。
数騎はゆっくりと目を開けた。
胸の前には鋼の爪。
だが、その爪は動くことなく数騎の心臓の前で停止したままだ。
クリスの顔を見る。
あいかわらずの無表情。
数騎は面倒くさそうに口を開いた。
「はやくしろよ」
クリスは答えない。
いらだつ数騎はクリスに向かって歩み寄る。
自分から心臓を爪に向かって刺そうとしたのだ。
だが、数騎の前進にあわせて爪が短くなった。
結果、数騎の心臓に爪は突き刺さらない。
数騎はさらに前進した。
それに応じて短くなる爪。
それを繰り返したために、爪はその長さを三十センチまで短くしてしまった。
そして、とうとう数騎の限界が来た。
「何で殺さない!」
迸る怒り。
ようやく覚悟を決めたというのにそれはないというものだろう。
「なぜためらう!」
その爪を伸ばせ、そして刺せ。
あの十五人に及ぶ男たちを惨殺した時のように。
「突き刺せ、早くオレを殺せよ!」
数騎の激励に、クリスはその腕を振るわせ始めた。
とうとう殺す気になってくれたか。
数騎は嬉しそうな笑みを浮かべる。
さぁ、その爪を伸ばせ。
震える刃で、貫いてくれ。
笑みさえ浮かべている数騎。
だが、爪はいっこうに動かない。
数騎の忍耐が頂点に達した。
数騎はクリスの右腕を掴むと、それを引き寄せて自分の胸に突き刺そうとした。
そして胸に爪が触れた。
しかし、その時爪の長さは三センチを下回り、鋭利であった先端もヤスリで磨かれた後のように丸くなってしまっていた。
「どうして、殺さないんだ?」
「殺せるわけ……ないよ……」
クリスがそう口にした。
短くなった爪を見つめ続けていた数騎は、顔をあげてクリスの顔を見る。
その瞳からは涙があふれ、無表情だった顔は悲しみに歪んでいた。
「できるわけないよ。だって私……数騎のことが大好きなんだもん…………」
それだけ口にすると、クリスはわんわん泣き始めた。
自分の能力を目撃した人間は殺さなければならない。
自分の能力が他人に知れることは、この世界では死に直結することも珍しくはないから。
クリスもそう教えられていた。
だからこそ容赦なく殺すこともためらわなかったし、でも能力を視認すらできなかった手首を切り落とされた人間くらいは見逃すことくらいはあった。
それでも、クリスの常識から言えば数騎は殺すべき人間だ。
それでもダメだった。
クリスには数騎を殺すことが出来なかった。
数騎が好きだから。
数騎が大切な人間だったから、クリスには数騎が殺せなかった。
殺すべきという義務と、殺したくはないという私情。
その二つがせめぎあい、クリスの涙はとどまることを知らなかった。
涙と鼻水を流し、大声で泣き続けるクリス。
そんなクリスを見つめ続け、数騎は呟いた。
「死に損ねたか」
悲しそうに空を見上げる。
「無様だな、本当に」
神楽さんにはまだ会いに行けそうにないな。
そんなことを考えていて、あやうく見過ごすところであった。
気がつくと、クリスはすすり泣きながらどこかへ行ってしまおうとしていた。
歩きながら立ち去ろうとするクリスの背中に、数騎は語りかける。
「どこ行くんだ?」
「どこか……数騎と一緒にいられないから」
少しだけ振り返って答えるクリス。
その顔は涙と鼻水と、そして大量の返り血でいっぱいだった。
「一緒にいられない?」
数騎は少しだけ考え、わからず聞いた。
「なんで?」
「えっ?」
驚くクリス。
「数騎……私のことが怖くないの?」
「どこが怖いって?」
数騎は周囲を見回す。
そこは血で埋め尽くされた斬殺空間。
しかし、須藤数騎の心を振るわせることはなかった。
数騎は人の死に接しすぎた。
ドラッグのせいで精神的におかしくなりはじめているのもあいまって、クリスに対する恐怖心など微塵もなかった。
「怖くなんてない、クリスはあいつらに襲われたから殺したんだろ、自業自得ってやつさ、こいつらも」
数騎はゆっくりとクリスに歩み寄る。
そして、目の前まで来るとクリスの頭を撫でてやった。
「守ってやれなくてわるかったな。怪我はないか?」
「………………」
クリスにはなぜ数騎がここまで自分に優しいのかわからなかった。
なぜ、これだけのことをした自分から離れていかないのかわからなかった。
自分は殺そうとしたのだ。
出来なかったとはいえ、数騎に対して殺意を抱いたのだ。
それなのに、数騎は自分のことを許してくれる。
なさけなかった。
自分がなさけなかった。
数騎を殺そうとした自分が。
受け入れてもらえないと思って拒絶しようとした自分が。
「いいの?」
「ん?」
おずおずと聞いてくるクリス。
たどたどしい口調で、クリスは続けた。
「数騎と、これからも一緒にいていいの?」
聞かれ、数騎はきょとんとした表情を見せる。
が、すぐに今のこの男が浮かべられるとは思えないやさしい表情を見せ、
「何言ってる、家族は一緒にいるもんだろう?」
何をつまらんことを、とでも言いたそうな口調で答えた。
「……!」
もはや涙を止める術をもたなかった。
クリスは数騎の体にしがみつき、声を押し殺して泣いた。
涙が、鼻水が、温かく広がって数騎の胸を濡らす。
嬉しかった。
自分を受け入れてもらえたことが。
自分のことを、家族と言ってもらえたことが。
そして、
「大好き……大好きだよ」
数騎とこれからも一緒にいられることが。
喜びは涙の堤防を破壊し、クリスはそれから十数分ほど数騎の胸で涙を流し続けた。
その間中、数騎はクリスの頭を撫で続けてあげていた。
時刻は深夜二時。
夜更かしが好きな人間、もしくは朝遅くまで眠っていられる人間でもない限り、普通は就寝している時間。
柴崎は暗がりの事務所にて、麻夜の机にあるソファに腰掛けて窓の外を眺めていた。
窓からさす月光が事務所を照らし出す。
柴崎たちが行動を開始するのは明日の夜からだが、だからといって寝ずの番をして警戒する人間を用意しないわけにはいかない。
だが、柴崎は今日一日中魔術結社本部に提出する書類の製作で忙しかった。
見ると時折柴崎の体がビクンと揺れる。
特に首は前に倒れたり起き上がったりとせわしない。
具体的に言えば船を漕いでいるという状態。
なるほど、端から見ればこれは言いえて妙である。
たしかに船を漕いでいるように揺れて見える。
まぁ、つまるところ柴崎司はとても眠かった。
何とか意識は残っているものの、いつ寝てしまってもおかしくはない状態。
頼みの綱のコーヒーを飲んでも眠さは収まらなかった。
もし、この場で次の事件が起こらなければ柴崎は不覚にもあと五分以内に眠りについてしまっただろう。
だがこの電話が幸運であったか不幸であったか、柴崎にとっては判別のつきにくいところだったが、彼ならば不幸だと答えたであろう。
「なっ!」
飛び起きるように目を開いた。
電話のけたたましくなる音。
事務所にいる柴崎以外の人間全てが寝静まっているとくればなおさら大きく聞こえるものだ。
柴崎は他の人間を起こさないよう、素早く電話を取った。
「はい、こちら綱野探偵……」
「やべぇぞ、柴崎!」
とんでもない大声。
柴崎の眠気は跡形もなく吹き飛んだ。
「どうした、二階ど……」
「とんでもないことになった!」
二度も柴崎の言葉は途中でかき消される。
電話の主は二階堂だった。
「落ち着け、とりあえず落ち着け。何があったんだ?」
「やばいぜぇ、ついにとんでもないことが起こりやがった」
「だから何が?」
核心に迫ろうとする柴崎。
電話の向こう側で二階堂が唾を飲み込む音が聞こえた。
「ちょっと四チャンネルつけてみろ、すごいぜ」
言われ、柴崎は机の上にあるリモコンを使ってそのチャンネルを表示した。
緊急特番!
路地裏で起こった惨劇!
暴力団による抗争か!
「はい、現場の遠藤です。さきほど午前零時三十分に届いた通報により警察が現場にかけつけました。事件現場をお見せすることができませんが、大量殺人が発生したようです。
被害者の身元はいまだ特定できませんが、十数人に及ぶ被害者は全員刃物で殺害されております、詳しくは……」
「なんだコレは?」
テレビから目を離し電話ごしに二階堂に尋ねる。
「見ての通りだ、なかなかステキな事件が起こりやがった」
「どこまで掴んでる?」
「情報屋なめんなよ。被害者の特定、殺害方法などバッチリと調査済みだ」
さすがは二階堂。
深夜、しかも病院の中にあってもその力は衰えない。
「被害者は全員暴力団員だ。ニュースでは抗争って言ってるが、もちろん抗争じゃない」
「魔剣士か?」
「おそらくな、全員刃物で一刀両断されてる。体の中に残ってた鉄の成分が一緒らしいから、被害者は全員同じ刃物で殺されている。一名だけ違う金属片も出たけどそれは死亡原因になるようなやつじゃないらしい」
刃物で他者を殺害する場合、わずかではあるがその金属片が体の中に残るらしい。
おそらく鑑識が調べ上げた結果を二階堂はハッキングでもして知ったのだろう。
ニュースよりも情報が早いとは、戦闘力がないとはいえとんでもない男である。
「抗争ではないと断定できる理由は他にもある。殺されたのは十五人、しかもその全てが同じ組に所属している」
「全員身内か」
「そう、しかも転がってる武器からほぼ全員が武装していたらしいこともわかった。光ものは長ドスが十四、しかも全員ポケットの中にナイフまで持ち歩いていたそうだ」
「銃はないのか?」
「ないらしい、さすがに拳銃は音が出るからまずいだろう。って言っても現場は住宅街から離れてるらしいから拳銃の音くらいなら誰にも聞こえなかったかもしれないけどな」
そこまで言うと、一呼吸置いて二階堂は続ける。
「とりあえずオレが掴んだのはここまでだ。こっから先は」
「わかっている、私たちの領分だ」
「そゆこと」
楽しそうに言う二階堂。
「ってわけだから、とりあえず今日のオレは徹夜だ。もっといろいろ情報を集めてみるよ。何かわかったら連絡する」
「了解だ」
「じゃな」
それだけ言うと、二階堂は電話を切った。
柴崎は電話を受話器に戻すと、扉のそばまで歩いていき電気をつける。
「さぁ、みんなを起こさなくては。今夜は忙しくなりそうだ」
それだけ呟き、みんなの寝室に向かう扉を開く。
その晩、綱野探偵事務所は午前四時まで誰も寝ることを許さない状況が続いた。
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