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トップページ>>パオまるの小説>>魔剣伝承>>第九羽 暴行
第九羽 暴行
「ぐっ、あっ……」
いつもの感覚が襲ってきた。
ドラッグを求めるあの感覚だ。
それに気付いた数騎は、コタツから這い出るとドラッグの隠し場所を求めて這いずりだす。
数騎のドラッグに依存する状況はさらにひどくなっていた。
最初は神楽の幻影を見るために使っていたはずが、気がつくとくドラッグなしでいることに耐えられなくなったために使うという状況にまでなっていた。
ようやく数騎にもドラッグの真の恐ろしさがわかっていた。
が、もしも今すぐ服用をやめればやめられると言われたところで、数騎にはドラッグを手放す勇気はない。
ドラッグがなければ、数騎は神楽の幻影を見ることができないからだ。
ゆえに数騎は服用する、そして数騎は夢を見る。
二度と会うことの出来ない人を求めて。
二度と見ることの出来ない光景を夢見て。
数騎は襖を開ける。
押入れの中に隠してある数騎のドラッグ。
それを使用するために。
だが、ドラッグはなかった。
いつもならあるはずのドラッグの姿が見つからなかった。
焦った。
もしかしたら別のところにあるのかもしれない。
数騎は押入れにある布団などをどかし始め、押入れの中にあるもの、一切合財を押入れから外に出し、入念なまでにドラッグを探し始めた。
「どこだ?」
次は引き出しを探した。
見つからない。
見つからない。
ドラッグが見つからない。
数騎は部屋中を探し回った。
荒くなる呼吸。
薬を求めて血走る目。
それでも、ドラッグは見つからなかった。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫が轟いた。
平常な人間が発するとはとても思えない声。
ドラッグを渇望する数騎の精神は、すでに平常を保っていなかった。
「どこだっ! どこだあああぁぁぁぁ!!」
叫び、コタツを蹴り飛ばした。
襖を蹴り飛ばし、襖が外れて地面に転がる。
電気ポットを投げ飛ばす。
フタが外れた、お湯が入ってなかったため、熱湯が畳を濡らすことはなかった。
「どこだっ! どこだっ! どこだあぁっ!」
吠え猛る数騎。
と、そこで数騎の視線が少女の方を向いた。
荒れ狂う数騎を恐れ、部屋の隅で小さくなっていた少女。
それは白いパーカーに身を包んだクリスだった。
「クリス!」
通常なら発し得ないであろう叩きつけるような声。
数騎はクリスに歩み寄りながら続けた。
「お前、薬の場所を知っているか?」
血走った目。
もはやドラッグ無しではいられなくなってしまった、異常者の目。
そんな目を向けられながら、クリスは答えた。
「知ってる」
「本当か?」
救いを求めるように、数騎の顔が穏やかになった。
「教えてくれ、どこだ? 薬はどこにあるんだ?」
渇望を込めたまなざしにクリスは、
「……教えない」
拒絶するような声で答えた。
「なんだと?」
「もう薬を使っちゃだめ、このまま薬を使い続けたら数騎はダメになっちゃう。でも、言っても聞いてくれないと思ったから、私が薬を隠したの」
「隠した……隠しただと!」
叫び、数騎はクリスのパーカーの襟を可能な限りの力をもって掴む。
「ふざけるな! 出せ! 薬を出せ!」
「だめ! これ以上薬に頼ったら、数騎は……」
「うるせぇっ!」
怒りに震える数騎は、襟を掴んだ右手を素早く振るい、クリスを畳の上に叩きつけた。
「うっ……」
畳に叩きつけられた衝撃に、クリスは一瞬呼吸が出来なくなった。
数騎は畳に転がっているクリスの襟を掴んで上半身だけ起き上がらせた。
「言えよ、今のオレはちょっと機嫌が悪いんだ。早く隠した場所を教えないとどうなるかわかんねぇぞ?」
「ダメ……、薬は……ダメだよ……」
「まだ言うってのか? お前はよぉ……」
歯軋りし、表情を憎悪に染めていく数騎。
と、ふとその物体に気がついた。
素早く視線が左の方を向く。
フタを空け倒れた電気ポット。
熱湯の入っていなかった電気ポットの中。
その中に、数騎の大切なドラッグのしまってあるプラスチックケースが入っていた。
「ガキのわりには頭が回るじゃねぇか、あんな所に隠していやがるとはな」
興味がなくなったのか、数騎はクリスを開放すると、ドラッグの箱を回収しに立ち上がる。
すぐさまフタを空け、ドラッグの中身を確認する。
大丈夫、全部そろってる。
数騎は安心して笑みを漏らすと、二種類ある内のどちらの薬を使おうか迷った。
片方は昏睡して幻覚を見せるドラッグ。
もう一つは興奮状態を作り出して気分を良くしてくれるドラッグ。
数騎は基本的に前者を用いて幻覚を見て、神楽に会うことを好んでいたが、今日は別にそれほど神楽に会いたいという気持ちが強かったわけではなかったため、後者を服用してみることにした。
注射をする。
痛みが走るが、その後に訪れる心地よさはその痛みさえも我慢させるほど誘惑に満ちてた。
薬が体を駆け巡った瞬間、数騎の周りの世界が一変した。
脳が薬物によって刺激を受け、数騎が普段理性で抑えている常識、そのほとんど全てを決壊させる。
その光景をクリスは悲しそうな顔をして見ていた。
もはや数騎はドラッグなしではいられない。
自分には、数騎を助けることが出来ない。
と、数騎が突然クリスの方に視線を向けた。
その目は正気を疑いたくなるほど焦点が揺れている。
「そういえば、今日のクリスは本当に悪い子だったな」
のそりと立ち上がり、数騎はクリスに歩み寄る。
「お仕置きが、必要だよな」
それだけ言ってクリスの目の前に立つと、数騎はクリスの頬を殴打した。
小さな悲鳴が上がった。
座り込んでいたクリスは畳の上に倒れる。
倒れたクリスの上に、数騎は逃げ道を塞ぐように覆いかぶさった。
「まさかオレの薬を隠してただで済むたぁ思っちゃいねぇよな」
「や、やめて……」
何が起ころうとしているのか予期したクリスは、涙目になりながら懇願する。
だが、数騎は止まる素振りを見せない。
数騎はそのままクリスの体を押さえつけると、クリスの着ている服を脱がせ始めた。
「や、やめて! やめてよ数騎っ!」
「うるせぇ! おしおきだって言ってんだろ、二度と隠そうなんで気は起こさないようにしてやるよ!」
パーカーを、スカートを、ショーツを。
数騎は力任せにクリスの体から剥ぎ取っていった。
あらわになる白い肌。
抗おうとも、クリスの幼い体では、数騎の力に抗うことはできなかった。
ただ一つの例外を除いては。
「どうした、殺(や)らねぇのか?」
その言葉にクリスはその例外を思い出させられた。
それは鋼骨と呼ばれる魔剣。
炭素と金属を操る殺戮の魔剣。
数騎はそれを使えとクリスに促しているのだ。
「嫌なんだろ? なら殺しちまえばいい、そうすりゃお前は助かるんだぜ、そうすりゃオレは……」
神楽さんの所に行ける。
もちろん、この言葉は喉の奥に飲み込んだ。
「ほら、さっさとしろよ!」
怒鳴り、数騎は行為を続けた。
クリスは幼い腕で数騎の体を何とか押し戻そうと頑張るが、その弱々しい力では数騎に抗うことができなかった。
「やだよぉ……やめてよぉ……」
「うるせぇな、嫌なら殺せばいいだろうがよ。お前を襲おうとした男たちを殺したように、お前を襲うオレを殺しちまえばいいんだ」
数騎はそれだけ言うと、目的を果たすためにクリスの体を力の限り押さえつける。
クリスは抵抗を続けたが、鋼骨を使うようなことだけは決してしない。
「やめてよぉ……お願いだから……」
弱々しい懇願。
もちろんそんなもので数騎が止まるわけもない。
抵抗はむなしく、クリスは数騎を無理矢理受け入れさせられた。
クリスは最後まで数騎に行為をやめるように願い続けたが、その願いは届かなかった。
それでもクリスは、数騎を傷つけるような真似はせず、最後まで鋼骨を起動させなかった。
涙に濡れる顔。
その瞳に意思の力は感じられず、他に見るものもないのか薄汚れた天井を見つめ続けている。
行為の際に抵抗したため体には所々に青痣が見え、白い肌には痛々しい赤と青が混ざる。
彼女の乗っている畳の上には白と赤の液体が少量存在し、一部が混ざって桜のような色を作っていた。
裸で畳の上に転がる少女の上に、数騎は少女が着ていた服を投げた。
「もういいや、それ着たらお前出て行けよ」
興奮冷めやらぬのか、数騎は楽しそうに笑みを浮かべながら続けた。
「お前だってこんなことをされるのは嫌だろう? ならこの家から出ていきな。なぁに、オレよりまともな人間なんていくらだって転がってるさ。
オレとお前、最初から縁なんてなかったのさ、これでバッサリだ。ちょっと今から出かけてくるからその間に出ていきな。もし残ってたらまたやっちまうぜ」
一転し、数騎は玄関で靴を履きながら、深いため息をついた。
「殺せっていたんだから、さっさと殺しゃあいいのによ」
それだけ言い残すと、数騎はアパートから出て行った。
それからしばらくして、クリスはゆったりとした上半身を起こすと、数騎に返してもらった服を抱きしめてすすり泣く。
その泣き声は悲しく、ただ悲哀にのみ満ちていた。
「くそっ、運が悪い」
柴崎司は町を走っていた。
二階堂を見舞いに行った帰り道、ゆったりと町を見回しながら歩いているうちに雨が降り始めた。
最近雨が少ないこともあってか、今日の雨の勢いはものすごかった。
幸い濡れて困る物は持ち合わせていない。
柴崎はコートをひるがえし、人が絶えた街中を走っていた。
脇の車道では雨に濡れることのない車の中で、運転手がタバコを吸いながらご機嫌にドライブしているのが見えた。
車とは全くうらやましい限りだ。
こんなことなら桂原のジープでも借りればよかった。
いや、あれは天井がないから濡れる。
カバーのようなもので雨は防げるが、カバーをつけたジープはダサくて嫌いだ。
そんなことを考えながら、柴崎は事務所に向かって走っていた。
そして、彼と邂逅を果たすことになる。
「ははははははっ、はーっはははははははっ」
ご機嫌だった。
実にご機嫌だった。
数騎は狭い路地裏を歩きながら狂ったように笑っていた。
いや、実際は狂っていたのかもしれない。
ただ、狂っている人間は自分が狂っているなどとは考えない。
ただそれだけのことなのだろう。
数騎は笑っていた。
何が楽しかったのか。
薬のせいもあっただろう。
だが、数騎には先ほどの行為が楽しくてたまらなかった。
他者を思い通りにできたことが楽しかった。
力に抗えず、泣き叫ぶ少女を見下ろすのが楽しかった。
痛みに苦しみ、涙を流し続けた少女の顔が愉快でならなかった。
常人ならば吐き気を催すような邪悪。
それが数騎には楽しくてならなかった。
「ははは、ははははは」
路地裏から出た。
人通りは少ないが、それでも人がいないわけではない。
そんなところでも、須藤数騎は大声で笑っていた。
誰もが振り返る。
片目のないその少年を、笑い続けるその少年を。
数騎は歩き続けた。
どこに向かっているかはわからない。
その内、雨が降ってきた。
人の姿が少しずつ屋外から消えていく。
それでも数騎は笑い続け、そして歩き続けた。
「ははははは、ははははは」
笑(わら)い咲(わら)い哂(わら)う。
何が楽しくて笑っているのかわからなくなっても、数騎は笑い続けていた。
見覚えのある景色が見えてきた。
気付かない振りをする。
数騎は笑いながら歩く。
そこはいつも通った道。
焦燥を感じながらも笑う。
そして、そこに辿り着いた。
頭上を見上げる。
そこは、いかにもいろんなテナントが入っていますと言う無骨な細長いビル。
コンクリートでできたそのビルの四階。
そこは、
「あぁ」
そこは、
「オレは」
そこは、
「なんで」
そこは、
「戻ってきちまったんだろう」
そこは、綱野探偵事務所と呼ばれる場所だった。
「ぐっ」
呻きが漏れる。
「うぅっ」
呻きは嘆きに。
「あああぁぁぁっ…………」
嘆きは嗚咽に変わった。
降りしきる雨が、数騎の体を濡らし続ける。
何がいけなかったのだろう。
どこで間違ってしまったのだろう。
あの頃は楽しかったのに。
毎日麻夜さんの家政婦として働いて文句を言っていた。
面倒くさがりながらもパトロールをし、帰ってきた時に麻夜さんがココアと共に出迎えてくれた。
嫌になる毎日の買出し、でもその後に訪れる公園での神楽さんとの時間。
なぜ失われてしまったのだろう。
どうしてなくなってしまったのだろう。
それだけは守ろうとした。
それだけを守ろうとしたのだ。
だが守れなかった。
大切なものは失われ、僕は探偵事務所から逃げた。
果たしてそれは正しかったのだろうか。
確かに僕は失った。
世界でもっとも大切だと信じていたものを失った。
それに間違いはない。
僕は母親の胎内から出て初めて、彼女が存在しない世界を生きているのだから。
だが、それが全てだったのだろうか。
桐里神楽という女性だけが、自分の全てだったのだろうか。
それは違う。
そうありたいと思いながら、人間は他人が自分の全てであるということはできないから。
探偵事務所という居場所があった。
麻夜さんという理解者がいた。
故郷には親友もいたし、世界には多くのものが満ちていた。
だが僕は捨てた。
神楽さんが全てだと信じ込み、世界にはもう価値などないと信じ込んで、僕は自分の居場所から逃げ出してしまった。
雨が激しさを増す。
それでも帰ろうとはせず、数騎はビルを目の前に立ち尽くしていた。
もし、あの階段を上ったらどうなるだろうか。
もし、事務所の扉を開けて中に入ったらどうなるだろうか。
きっと元の生活に戻れるだろう。
神楽さんはいなくなってしまったけど、それでも心地よい日常が帰ってくるだろう。
いや、それはありえない。
すでにあの時とは何もかもが違う。
僕は麻薬中毒者と化し、酒に溺れ、昔のような生活はとても送れないだろう。
受け入れてもらえる場所などない。
それは事実だろう。
それでも、事務所には麻夜さんがいる。
受け入れてもらえる場所はなくても、受け入れてくれる人がそこにはいる。
その最後の希望。
それを信じて、須藤数騎は一歩を踏み出そうとした。
「須藤数騎……か?」
その声を耳にする瞬間までは。
声の方向に、数騎は考えうる限り最高の速度をもって首の角度を変える。
雨に濡れたコートに、滴の滴る髪。
端正な顔つきをした青年、柴崎司がそこにはいた。
「短刀使い、と呼んだほうが良かったか?」
「オレの呼び方なんてどっちでも構わねぇよ」
泣いていたことを悟られまいと、取り繕って返す数騎。
涙は拭くまでもない。
これだけの豪雨なら涙と雨の区別はつかないからだった。
虚勢をはる数騎に、柴崎はゆっくりと切り出した。
「戻ってきたのか?」
「そう見えるってか?」
嘲るように返す。
「違うね、ちょっと気になって見に来ただけさ。繁盛しているようで何よりだ」
言って数騎は柴崎に背中を向ける。
「じゃあな」
「待て」
有無を言わせぬ命令口調。
その絶対的な威圧をもって、柴崎は去ろうとする数騎を止めた。
「戻って来い」
「どこにだ?」
「お前の本当の場所にだ」
振り返る数騎。
表情こそ皮肉って見せているが、内心では驚きでいっぱいだった。
「戻って来い。どのような生活をしているかは知らんがろくな生活をしているようには見えない」
まさしくその通りだった。
ただでさえ痩せていた数騎の体は不摂生な生活と薬物のためにさらにやせ細り、目の下には隈が濃さを増し、目には光がない。
「そのままでは死んでしまうぞ、つまらない意地は捨てて戻って来い。お前の居場所はそっちにはない」
内心、数騎は驚きを隠せなかった。
なぜこの男が自分を引き止めるのだ。
僕は玉西を死なせた。
神楽さんを助けるために、玉西を見捨てた。
この男は玉西と浅からぬ仲であったはずだ。
僕はこの男にリンチされたことを忘れない。
だって、それはこの男がどれだけ玉西を大切に思っていたかのあらわれだったからだ。
だからこそこの男は僕を恨まなくてはならないと思っていた。
決して許されるわけはないと考えていた。
だと言うのに。
「戻ってこい」
目の前の男は、僕を助けたいと口にしていた。
「薙風も、ついでに桂原も、それにお前とはほとんど一緒にいなかった里村もお前に帰ってきて欲しいと言っていた。お前の居場所はある、失われてはいないんだ。
戻って来い、お前の居場所はここにある」
数騎にその言葉はどう聞こえただろうか。
漂流中に見つけた一欠けらの流木か。
それとも吹雪の中で見つけた山小屋であっただろうか。
それだけ、数騎にその言葉は救いを持っていた。
誘惑に駆られた。
そうだ、さっきも戻ろうと考えていたではないか。
柴崎の元へ歩き出そうとした。
が、ギリギリのところでその足が止まった。
「いや、やっぱりいいや」
そう言って、数騎は柴崎の誘いを一蹴する。
あの事務所には歌留多という女性がいる。
もしこれから元の生活に戻ろうとするなら神楽という女性を忘れる他に、心に空いた穴を埋める方法はない。
だが、あの女性を前にしてはそれが出来ない。
顔を見るたびに、彼女を思い出してしまうから。
だから、数騎は戻ることをあきらめた。
「誘ってくれてありがとうな、仮面使い」
そう言って立ち去ろうとする。
が、柴崎はそれでも言っておくべきことがあった。
「夢が……」
「ん?」
「お前には、何か夢があるか?」
突然、話の内容が切り替わったため、数騎には柴崎の言いたいことが一瞬理解できなかった。
「夢?」
「そうだ、夢だ。何になりたいとか、将来何をしたいとかいう夢だ」
「それがどうしたっていうんだよ?」
「私にはある、ある女性から託された夢だ。世界中の人を幸せにしたい。涙を流す人を一人でも多く助けたい。一人でも多く、ただ少しでも多くの人を。何を犠牲にしてもだ。
それがオレの夢だ、子供の頃からの夢だ。オレはそれを糧に生きてきた。つらい事も多かったが、それでも踏ん張ってこれた。
夢のおかげだ、追い続けた理想のおかげだ。オレは夢のおかげで、夢への誓いのおかげで生きていくことができた」
「何が言いたい?」
「お前の夢はなんだ? 子供の頃に願ったことはなんだ? もしあるならそれを生きる支えにしろ、それはお前を救ってくれるかもしれない」
「子供の頃の……夢ねぇ……」
言われ、数騎は回想する。
かつて自分は何を望んだか。
何を願い、夢としてきたか。
一瞬にしてそれを思い出し、そして悲しそうに笑った。
「オレの方は、もう叶いそうにないや」
そう言うと、数騎は今度こそ柴崎に背を向ける。
「じゃあな」
歩き出す数騎。
去っていくその後姿に、柴崎はこれ以上かける言葉を持たなかった。
空を仰ぎ、思いにふける数騎。
誰にも聞こえないように呟いた。
「叶うわけ、ねぇじゃねぇか」
かつて夢見た願い。
彼が望んだ子供の頃の夢。
それは、小さな子供の戯言。
お母さんのお婿さんになりたい。
「はっ、ばかばかしいね」
嘲笑する。
その対象がかつての幼い自分に対してか、それとも今の愚かな自分に対してか、数騎には判断がつかなかった。
雨の中を歩き続ける。
足は自然と公園へと向かっていた。
公園に辿り着くと、数騎はベンチの前まで歩いていった。
数ヶ月前まではこの世で最も愛しいと思っていた女性と共に腰をおろしたベンチ。
今、そのベンチを暖める者はなく、その目の前に立つ数騎も座ろうとは思わない。
冷たかった。
雨が、風が、そして心が。
凍えそうなほど冷たかった。
ただ温かかったのは目だけだ。
泣いていた。
声を押し殺して泣いていた。
戻れないことを嘆いて。
大切なものを失ったことを嘆いて。
心地よくありたいと思った。
心地よくあろうと誓った。
心地よくありたいだけだった。
だというのに、大切なものは失われ、自分は今雨空の下に一人だ。
寄り添うものも、共にいる者もいない。
たった一人。
ただ一人の自分。
「もうダメかなぁ」
涙混じりに口にする。
いっそ死にたかった。
だが、度胸がなかった。
自殺する勇気だけは、どんなに頑張っても振り絞ることができなかった。
「どうしろっていうんだよ」
何もかもを失った。
全て手から零れ落ちていた。
大切なものを守ろうと思っていた。
そのために、他の価値あるもの全てを捨て去ってきた。
彩花を見捨てたことも、ナイフを手に取ったことも。
全ては大切な一つのものを守ろうとしたからだ。
それで何を得たのだろうか。
何が間違っていたのだろうか。
もしかしたら、大切なたった一つのものだけを守ろうとしたことが間違いだったのかもしれない。
大切な一つを守るために、二番目から下は無視していた気がする。
いや、頭には入っていたかもしれないが、よほど優先順位に差があったのだろう。
それでこの様だ。
神楽さんのことしか考えないで生きて、麻夜さんや自分の居場所も何もかも失った。
「今のオレには……何も……」
目を閉じる。
涙が次々と溢れ出す。
熱くなっていく目頭。
そして、
「あっ」
その顔を思い出した。
あどけないその笑顔。
側にいたいと願い続けた愛くるしい少女。
そばにいることを喜びとしていた温もり。
やわらかい金髪と、海のような青い瞳をしたその少女。
「クリ……ス……?」
口にして気がつく。
本当にそうなのか?
本当にオレは、何もかもを失ってしまったのか?
確かに失った。
あの時は何もかもを失ってしまった。
この数ヶ月の間、オレは何一つもっていなかった。
失っていっただけだった。
時間を、健康を、そして心を。
だが、本当に失っただけだったのか。
オレは何も得ていなかったのか?
「あ……ああ……」
アパートに戻る前に出会った少女。
血まみれで、弱々しくて、それでもすがるようにオレの手を握った少女。
料理が上手で、人に抱きつくのが好きで、いつも自分の布団にもぐりこんできた少女。
「ああああああああっ!」
ようやく気がついた。
オレは確かに失った。
神楽さんを失った。
麻夜さんを、生活を、その全てを失った。
だが得ていた。
代わりのものを得ていた。
いつも側にいた少女。
オレに温もりを与えてくれた少女。
オレが……汚してしまった少女。
「クリス!」
気付いた後は早かった。
ベンチに存在した未練など何の妨げとなろうか。
数騎は全力で公園の出口へと走った。
薬によって毒された体での全力疾走は堪えた。
息が切れ、目が霞み、足元がほつれる。
それでも走った。
あったのだから。
オレにはまだ失いたくないものがあったのだから。
だから走った。
苦しかった。
豪雨の中だというのに、口の中が乾くほどに疲労した。
それでも構わなかった。
走る、雨の中を。
水溜りに足を突っ込み、アスファルトの地面に転がりそうになりながら、それでも数騎は走った。
商店街を抜け、路地裏に入り、そして。
「クリス!」
アパートが見えた。
ぼろくて安っちいチンケなアパート。
木造で、築うん十年という格安のアパート。
その二階の一室。
そこだけを目指して数騎は走った。
「クリス! クリス! クリス!」
扉まで辿り着いた。
鍵が閉まっていないことを確かめる。
鍵はしっかりと閉まっていた。
数騎は大慌てで鍵を取り出して鍵を開けると、勢いよく扉を開いた。
「クリス!」
部屋に響き渡る声。
そして、
「クリス……?」
それに続いた落胆の声。
そこは無人だった。
誰一人としていない無人の部屋だった。
気配もなく、息遣いもなく。
そのアパートの一室は、間違いなく無人であった。
「クリス?」
呼んでみる。
返事はない。
靴を脱いで部屋に上がった。
畳が数騎の濡れた服のために濡れるが気にせず歩く。
「クリス?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
とりあえず全ての部屋を探すことにした。
部屋は数騎が出て行った状態となんら変化がなかった。
電気ポットは倒れ、襖は外れ、コタツはひっくり返っている。
寝室、コタツの部屋、台所、トイレ、風呂。
アパートを全て探して回ったが、クリスの姿はなかった。
「おい……まさかだろ……」
いやな想像が頭をよぎる。
このアパートを出て行くとき彼女になんと言ったか。
暴行を行った自分が、彼女になんと告げたかを思い出す。
「行っち……まったのか……?」
自分の愚かさに吐き気がしそうだった。
それがどれだけ大切なものかさえ気がつかずに、傷つけ、汚し、そして捨てた。
だが、まだ希望はある。
出て行ったのではなく、出かけただけという可能性はまだ残っている。
その可能性にすがりつくように、数騎はタンスの前に立った。
小さなタンス。
上の段には数騎の、下の段にはクリスの衣服が入っている。
恐る恐るクリスのタンスを開ける。
そして、
「ああぁぁ……」
嗚咽が漏れた。
クリスの衣服がしまってあるはずのそこには、衣類が何一つとして入っていなかった。
出て行ってしまった。
クリスはいなくなってしまった。
すがるべき最後の希望が。
絶望の中に存在した唯一の温もりが。
「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」
声をあげて泣いた。
あまりの涙の量に、数騎は思わず顔に手を当てて泣き叫ぶ。
と、赤い物体が目に入った。
畳にシミをつけるその赤。
それは、数騎がクリスにたいして暴行を働いた際に流れた、クリスの血だった。
「………………」
数騎は押し黙り、涙を流しながらも声をあげるようなことはしなかった。
ただ、その赤いシミが全ての希望を打ち砕くに足るものであることだけは容易に理解できた。
数騎はそれだけ理解すると、風呂場にゆっくりとした足取りで向かった。
風呂場に服を脱いで入ると、数騎はシャワーを出し始めた。
最初は水で冷たかったが、少しずつ温かさを帯びていく。
数騎はシャワーを使って普通よりも早く浴槽にお湯をいっぱいにいれた。
体と頭を念入りに洗うと、数騎は湯船の中に体を沈める。
そして左手の手首をじっと見つめた。
その右手には黒き鉄、数騎が愛用し続けた短刀ドゥンケル・リッター。
数騎はその刃を左手首に押し付け、そして、
「くそぅ…………」
その刃を走らせることができなかった。
いつもそうだ。
死のうとするたびに勇気が鈍るのだ。
自殺する勇気、それが数騎にはなかった。
「ダメだ……オレ、ダメだよ……」
風呂の中にあってさえ、数騎は涙を流し続ける。
そして、動き回った末に泣き疲れた数騎の意識は、次第に薄れていく。
そのまま湯船の温かさに抱きしめられながら、数騎は眠りへと誘われていった。
目が覚めたとき、あたり一面がぼんやりとした霧で覆われていた。
いや、霧ではなく湯気だ。
頭を振って意識を覚醒させる。
風呂の中で寝てしまっていたことに気がつき、数騎はため息をつきながら湯船から出た。
温度を保ち続けたので風邪はひいていないようだ。
逆にゆっくりと休息をとったために体の調子はかなりいい。
数騎は風呂場からでると、タオルで体をしっかりと拭き、思い至った。
風呂から生きて出てくる気がなかったため着替えを用意していなかったのだ。
あるのは洗面台に放り投げたびしょ濡れのさっきまで着ていた服だけだ。
ため息をつく。
死ぬのは怖いが生きるのは面倒。
まったく、世の中というのは上手く出来てるもんだな。
そんなことを考え、大きなバスタオルを腰に巻いた状態で洗面所から出ようとした。
その時だ、数騎はそれに気がついたのは。
「え…………?」
そう、洗面所の出口。
真っ白な扉のすぐ脇に、丁寧にたたまれた数騎の衣服が置いてあった。
それが何を意味するのか一瞬数騎には理解できなかったが、思い至った時には着替えのことなど忘れて数騎は洗面所から飛び出していた。
風呂へと続く洗面所のすぐ近くに台所があった。
そのキッチンを前にして、身長が足りないために台に乗って鍋を煮ている少女。
数騎の瞳に映った光景がそれだった。
「クリス?」
「あ、おかえりなさい、数騎」
数騎を見ると、クリスは笑顔でそう答えた。
どこか寂しそうで、そして悲しそうな笑顔だった。
「今、ご飯作ってるから、後三十分くらいしたら食べられるよ」
「お……お前……」
言葉が上手く紡げない。
濁流となって迸ろうとする言葉を、何とか堤防を築くことによって押しとどめ、数騎は冷静に言葉を口にした。
「どうして……戻ってきた……?」
その言葉を聞いて、クリスはわずかに目を伏せた。
「数騎が……心配だったから……」
「オレが?」
「うん。外に行く時の数騎の顔が、とても寂しそうだから、心配だったの」
ゆっくりと言葉を紡ぐクリスに、数騎は続けて尋ねる。
「じゃあ、何でさっきは部屋にいなかったんだ? お前の服も見当たらなかった。出て行ったかと思った」
「服はまとめて洗うことにしてるの、コインランドリーで。だからさっきはお洗濯しに行ってたの。帰ってきたら数騎はお風呂だったから、着替えを置いておいたんだけど」
言ってクリスは数騎の出てきた洗面所に視線を移す。
数騎もそれにつられて洗面所を振り返るが、着替えよりももっと大切なことを聞くべくクリスに向き直る。
「お前、オレにあんなことされて……それでもここにいる気なのか?」
本当に言いたい言葉はそんなことではなかった。
それでも、数騎は聞かずにはいられなかった。
それほどまでに、数騎の行いは罪深い。
クリスは少しだけ言い淀み、
「だってここには、数騎がいるから」
「オレが……いるから……?」
「ずっと一人だったの、研究所から逃げて、それからずっと。寒くて、眠くて、痛くて、いろんな人に助けを求めたけど、誰も助けてくれなかった。でも……」
そこまで言うと、クリスは真っ直ぐに数騎の瞳を見つめた。
「数騎だけは、私を助けてくれたから」
この時になって初めて、数騎は彼女の境遇を思い立った。
父も母もなく実験体として生きてきた人生。
研究所から逃げ出し実験体として身分から解放された後に訪れるであろう、寒さ、飢え、さらに呪いに苛まれ、追っ手に命さえ狙われて。
だが、その先でようやく出会った。
自分を受け入れてくれる人間に出会えたのだ。
だが裏切られた。
彼女を受け入れてくれるはずの男に、彼女はあろう事か汚されてしまったのだ。
その汚した人間が……オレだった……
「数騎、だからお願いがあるの。私、何があっても気にしないから、どんなことされても我慢するから。だから……出て行けなんて言わないで……」
それがクリスの偽らざる本音だった。
数騎にはクリスしかいなかったのと同じで、クリスにも数騎しかいなかったのだ。
なさけなかった。
クリスのことをろくに考えず、自分のことで精一杯だったことが許せなかった。
数騎はゆっくりとクリスに歩み寄ると、彼女の体を優しく抱きしめた。
「すまない」
「数騎……?」
「本当に、すまない……」
苦渋に満ちた声。
その声を耳にして、クリスは優しく、そしてやわらかい声で言った。
「大丈夫、私はもう気にしてないから」
それは恐らく嘘だろう。
抱きしめようと近づいた時、クリスはオレに何かされるのかと驚いて体をビクッと反応させたのだから。
今まではそんなことはなかった。
そして、そうさせたのが自分だということに、数騎はさらに悔恨を深くする。
そんな数騎に、クリスはあやすように言った。
「私は数騎さえいてくれればいいから、数騎さえいてくれれば大丈夫だから」
数騎はそう口にするクリスの鼓動を感じながら口を開く。
「守るから」
それは誓いの言葉。
「もう二度と、お前を傷つけたりしないから。絶対に、お前を悲しませたりしないから」
数騎は、再び自分を呪うべく、決意を紡ぐ。
「ずっと、オレの側にいてくれ」
それはどのような決意だったのだろうか。
彼の誓いは、教会で永遠を誓う夫婦のそれよりも強く。
それでいて、神に祈りを捧げる者の姿に酷似していた。
「大丈夫、私はどこにも行かないから。ずっと数騎のそばにいるから」
自分を求めてくる数騎に、クリスは力いっぱい抱き返すことで答える。
「大好きだよ」
そのまま二人はしばらく抱き合っていた。
隣で焦げ始めた料理など気にもせず抱き合い続けた。
結果、今夜の夕食が黒コゲの料理になってしまったが、二人はそれを笑顔を浮かべながら食べた。
たとえコゲていたとしても、二人で食べる料理は一人で食べるそれよりも何倍もおいしかった。
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