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トップページ>>パオまるの小説>>魔剣伝承>>第十羽 思い出

第十羽 思い出


 一言で言うなら、腐ったリンゴの腐った部分だけ取り除いた傷んだリンゴ。
 今の生活はまさにそんな感じのものだった。
「数騎、そこ雑巾がけして」
「へいへ〜い」
 クリスに言われ、数騎は面倒くさそうに雑巾を手に畳の上を這いずり回る。
 そういうクリスは破れた障子の張り直しをしていた。
 陽光の差す、昼食から二時間後の明るい時間帯。
 窓を全開にして数騎とクリスは大掃除を始めていた。
 とりあえず二人の住んでいたアパートはいい感じにひどかった。
 一応毎日クリスが掃除こそしていたが、掃除しずらいところにはゴミがたまってどうしようもない。
 唯一の救いが、このアパートが木造建築というところだろう。
 木は常に呼吸を続けるために埃がたまりにくく、住み心地としては最適の一言に尽きる。
 太平洋戦争中はこれが災いし、日本の家屋は燃えやすい木でできていると察知したアメリカに大空襲をされるのだが、それはまぁ数十年前の話なので置いておく。
 それでも人が住んでいる以上、掃除という行為は避けては通れない。
 身長と体力に問題があったクリスは、数騎に届かない所や仕事量の多い場所を任せ、体力がなくても出来る面倒な仕事を率先してやっていた。
 数騎の雑巾はすでに三枚目になっていた。
 汚くなった雑巾で拭いても汚れるだけなので、ある程度汚くなったら交換するのが常識だ。
 それでも汚れがひどかった。
 それもそのはず、数騎と麻夜がこのアパートに同棲したのが三月、そして数騎がこのアパートに戻ったのが九月で、部屋を掃除していた唯一の存在であるクリスがこのアパートにやってきたのが十一月。
 汚れていないわけがない。
 かび臭い部屋にクリスが宣戦布告したのは今日の昼食後。
 数騎がタンスの裏に落とした五百円を取ろうとして腕を誇りまみれにしたのが原因だった。
 さすがに畳をひっくり返すほどの本格さではないものの、家具を移動させての徹底的な掃除という意味では大掃除の類に入るだろう。
 すでに開始から一時間が経過している。
 小さなアパートということもあって、ほとんど仕事は終わっていると言っても過言ではない。
 クリスが障子を張替え、数騎が畳の雑巾がけを終えれば今日の掃除はお終いだ。
「よし、これで終わりっと」
 雑巾を絞り終え、キレイになった畳を見下ろしながら数騎は嬉しそうに言った。
「やっぱ掃除するとすっきりするな」
 クリスの方を見ながら口にする数騎。
 そんな数騎に、クリスは皮肉げに答えた。
「じゃあ、毎日掃除手伝ってくれる?」
「それは遠慮しておこう」
 薮蛇だった。
 話をそらさなくては毎日掃除させられると危機感を覚えた数騎は玄関に向かって歩き出す。
「今日は何かオヤツでもいただこうか、クリス何が食べたい?」
「アイス」
「この寒いのにか?」
 そう、今月は十一月。
 それはもうしっかり寒い。
 窓が全開のため、数騎はばっちりコートまで装備するという重装備だが、寒さに強いクリスは普段着にマフラー程度の装甲だ。
 小さい子は元気である。
「寒くてもアイスはおいしいの! 寒い冬に暖房を聞かせた部屋で食べるアイスほどおいしいものなんてないよ、研究所でもそうだったもん」
「あぁ、なるほど、暑い夏に冷房をガンガンに効かせて鍋を囲むのと同じ理屈か」
 妙な納得の仕方をして、数騎はコンビニにアイスを買いに行った。
 十分ほどして、数騎がアパートにビニール袋を片手に帰ってくる。
 その頃にはクリスの障子の張替えは終わっており、黄色がかった障子は晴れて真っ白な障子へとクラスチェンジしたのであった。
 二人は暖房をつけ、コタツに入り、カップアイスを片手に並んでコタツに入っていた。
 クリスのアイスはストロベリー、数騎はチョコが好きなのでチョコバニラ。
 薄い木の板でアイスを削りながら、二人はアイスを食べ始めた。
「いやぁ、やっぱアイスはチョコだろ。チョコサイコーだな」
「そんなことないよ〜、アイスは絶対ストロベリーだもん」
 嬉しそうに顔をほころばせながら答えるクリス。
 数騎のチョコ絶対主義に公然と立ち向かうセリフだった。
「そうかぁ? だってストロベリーって何か微妙なんだよなぁ。オレはイチゴはイチゴとして食べるのが上手いと思うぜ。ストロベリーアイスって何か劣化版のイチゴってイメージがあるし」
「それを言ったらチョコは甘すぎるよ、ストロベリーアイスみたいな上品な甘さがないもん。ギトギトした甘さでしつこすぎると思うよ」
「何言ってやがる、この甘さが強いのがチョコの味なんじゃねぇか」
 チョコアイスをほおばりながら、大人気なく反論する数騎。
 どちらも自分のアイスの方がおいしいと譲りたくないらしい。
「よし、なら判定はお互いの舌に委ねようじゃないか」
 そう言うと、数騎は思いっきりチョコアイスを削って木の板の上に乗せると、クリスの眼前に突き出した。
「さぁ食え。一口食えばチョコアイスの偉大さがわかるはずだ」
「えぇ〜、そうかな〜」
 クリスは少しだけ文句を言いながらチョコアイスを口にする。
 すると、
「おいし〜」
 極上の笑みをもってチョコアイスを楽しみ出した。
「すっごく甘くて疲れた体にはたまらないよ〜、チョコもおいしいんだね」
「違うね、チョコがおいしいんだよ」
 勝ち誇る数騎。
 そんな数騎に対抗すべく、ちょっとだけ怒った顔で今度はクリスがストロベリーアイスを数騎の眼前に突き出した。
「じゃあ今度は数騎はストロベリー食べてみて」
「ふっ、甘いねぇ。チョコアイスよりも考えが甘すぎるぜ、オレがストロベリーアイスごときで」
 そこまで言ってクリスが突き出したアイスを一口いただき、
「超ウメェ」
 一瞬にして前言を撤回した。
「ばかな、甘すぎないこのスゥィ〜トなお味。これがイチゴ、これがストロベリーの味なのか。しつこすぎないまろやかな食感、控えめでありながら主張を忘れない麗しい淑女のようで、活発な女優のようなこの味わい。イチゴとは、ストロベリーとはこれほどのものであっったのか」
「おいしいでしょ〜、これがストロベリーだよ」
「むぅ、ウマイのがストロベリーなのか、それともストロベリー自体がウマイのか。現代の科学力では解き明かせない謎だな」
「それほどの謎でもないと思うけど」
 真剣に悩み始める数騎に、クリスは溶ける前に食べようと言って食べるのを急かした。
 二人はものの見事にアイスを完食させると、掃除によって得た心地よい疲労に体を負かせ、ゆったりとコタツの中で過ごしていた。
 数騎は両手を後ろに回し、体を支えながら天井をぼーっと見つめ続け、クリスは逆に体を前に倒し、コタツのテーブルの上に体を預け、目をつぶってごろごろと猫のようにのどを鳴らしながら目をつぶっている。
 そんな様子を目にして、数騎は気になって聞いてみた。
「眠いのか?」
「んん〜、思い出してただけだよ」
「思い出してた?」
 予想もしてなかった答えに数騎は少し驚く。
「うん、思い出してたの。ミシェルお姉ちゃんのこと」
「ミシェルっていうと、フィオレ研究所ってところのか?」
「うん、そうだよ。研究所から私たちが逃げるときにね、お姉ちゃんも一緒に来てって私頼んだの。でもダメだったの、お姉ちゃんはおじいちゃんのフィオレ博士が心配だから行けないって。でも、その代わりに教えてもらったの。寂しくなったら目を閉じなさいって」
「目を閉じる? 閉じると何があるんだ?」
「目を閉じるとね、思い出したい人の顔が目に浮かぶでしょ。お姉ちゃんが言ってたんだ、『例え一人ぼっちになってもさびしくなんてないよ。目を閉じたら、そこにはきっとわたしがいるから。たとえ二度と会えなくなっても、あなたの瞼が覚えているから』って」
「瞼が……覚えてるか……」
 なかなか上手い言い回しだと思った。
「だからね、私は一人で寂しかった時はいつも目をつぶることにしてるんだ」
「今も寂しかったのか?」
「そんなことないよ、今は数騎がいるもん。ただ、ミシェルお姉ちゃんのことが懐かしくなっただけなの」
「なるほどね」
 そう言うと、数騎は体を腕で支えるのをやめて、そのまま寝る体勢を作った。
 コタツの魔力に負けて惰眠をむさぼる以上の贅沢は、このアパートにはそうそうない。
 数騎は体を横にすると、さっそく寝ようと全身の力を抜いた。
「クリス、ちょっと寝るわ。二時間くらいしたら起こしてくれ」
 と、言われたのも束の間。
 コタツに体をあずけていたクリスも数騎に倣って体を横にし、数騎の隣に寝転がる。
 もちろん右手は数騎の手を握り締め、両腕で数騎を包み込むように抱きしめる。
「一緒に寝よ」
「寝るのか? まぁ、いいけど」
「えへへ〜」
 嬉しそうに笑うクリス。
 数騎もクリスと寝るのがいやというわけでもなく、特に文句も言わず、クリスのしたいようにさせた。
 数騎の胸に頬をこすりつけ、クリスは穏やかな表情を浮かべる。
「大好きだよ、数騎」
 そうして二人はその内睡魔に抗えず、穏やかな寝息を立て始める。
 二人の右腕は、しっかりと繋がったままだった。






「で、お前が代わりってわけか?」
 時刻は午前二時。
 人々が眠りし時刻に、三人の人間がビルの屋上から眼下を見下ろしていた。
 そこから見える看板の広告は文字が反転している。
 そう、そこは鏡内界の中だった。
「魔飢憑緋の魔剣士を欠くってのは手痛いダメージだと思うけどね、オレは」
 そう言って柴崎に皮肉げな笑顔を向けるのは戟耶だった。
 刃羅飢鬼と呼ばれる魔剣を隠した竹刀袋を背負っている。
 そんな戟耶に、柴崎は魔飢憑緋を見せつけながら口を開く。
「安心してください、薙風の穴は私が埋めます」
「まぁ、期待してるぜ」
 期待してなさそうに言う戟耶。
 柴崎に興味がなくなったのか、そばにいる里村に視線を向けた。
「どうだ、敵の動きは?」
「えっと、今のところ動いてはいないようですね?」
「索敵範囲は?」
「虫も漏らさぬ警戒態勢ですので半径は五十メートルほど」
「ミスってもいい、数を増やして策的範囲を広げろ、五百メートルだ。奇襲されたらオレと柴崎でカバーする」
「わかりました」
 頷き、里村は腕につけた腕輪を振るう。
 いつもはメイド装束を着込む里村も、実戦においては戦闘に向かないメイド装束は着ていない。
 衝撃、輝光に強い合成素材で作られた戦闘服を身に纏っている。
 柴崎や戟耶のコートは普段から着ていても周囲から浮かない見た目をしているため同じ素材でも防御力が多少落ちるが、里村の戦闘服は防御力のみを考えているためその防御力は二人の物より上である。
 といっても個人の能力によって左右される戦闘に、戦闘服はそこまで大きな役割を果たさないため、二人はそれをそこまで重要視はしていないし、なにより防御は自分の術で行うのが裏世界の住人のルールだ。
 防御装甲に全幅の信頼を置くような真似はしない。
 と、里村の腕輪から光り輝く小人が何人も現れた。
 透明の翼を持つ小人、それはフェアリーと呼ばれる使い間の類だ。
 だが、厳密に言うならばそのフェアリーは本物のフェアリーではない。
 里村の輝光によって生み出された擬似生命体。
 これを自在に操り、索敵などの援護を行うことが可能な魔剣が里村の操る『妖精光輝』、情報戦を得意とするEクラスの援護系魔剣だ。
 基本、腕輪一つにつき精霊は五体しか作ることが出来ないため、普通は妖精五体しか操れない魔剣だが、里村は体中のいたるところにこの腕輪を装備することによって一度に大量の精霊を操ることが出来る。
 もちろん、クラスの低い魔剣とは言え同時に大量に操ることは非常に困難とされ、ましてや三十もの魔剣を同時に使役することは不可能に近く、柴崎でさえ二桁の魔剣を同時にあやつることは不可能だ。
 これは里村の努力ももちろんだが、里村という薙風の分家筋という血統の力も手助けをしている。
 そのため、血統において上回るほかの剣崎、戟耶、薙風の魔剣士を差し置き、ランページ・ファントムと呼ばれる精鋭部隊に所属が許されているのだ。
 新たに展開した妖精は三十を数えた。
 これで現在同時に動く妖精の数は八十だ。
「行きなさい」
 里村の命令が飛ぶと、妖精たちが一斉に四方に散っていく。
「一度出した妖精は帰還させるまで戦闘に使用できません。敵の能力を考えると七十は残しておかないと」
「了解だ、本来なら全員使いたいところだが、迎撃要員がオレと柴崎だけじゃあ仕方ないな」
 戟耶一瞬だけ視線を柴崎に向け口にする。
 そう、本来なら四人一組で動くはずの彼らであったが、現在は三人一組で動いている。
 薙風を本部である探偵事務所に残すという提案は、思いのほかあっさりと受け入れられた。
 やはり、こちらの本部が敵に知られている可能性も十分にあるため、その警護が必要と言うことがみんなの頭のなかに存在していたのだ。
 そのため、状況は柴崎と薙風にとってさらに利する方向へと進んだ。
 事務所の戦力を確保するために事務所には三人が残り、出動部隊の六人は五分以内に合流できる距離で行動、戦闘時には片方の救援に間に合うように動いている。
 五分以内に合流できる距離と一言で言っても、柴崎たちは全員異能者である上に凄腕で知られる精鋭部隊の隊員だ。
 よって二つの集団の距離は一キロメートル近く、探偵事務所との距離は無制限だが、あそこには拠点であるために強力な結界が施されえている。
 その上に、薙風、麻夜、そして歌留多という戦力が残存しているのだ。
 真実を知る身として薙風の戦闘力はあてに出来ないが、麻夜の能力は柴崎も実戦において確認をしており、歌留多の方はアルカナムがその戦闘力を保障してくれている。
 よって十数分は持つものと仮定が可能なため、戦力をいつでも最大限に発揮できる状態が構築されていたのだ。
「柴崎さん、よろしいですか?」
 里村から声がかかった。
 柴崎は里村の表情が変わったのに気付く。
「何かわかりましたか?」
「十時の方向、距離二百に敵影を発見しました、数は三。武装はわかりません」
「伏兵は?」
「おそらくいないでしょう、周囲三百メートルに敵影は捉えられませんでした」
「味方は?」
「六時の方向に千五百、少し離れすぎてますね」
 その言葉を聞いた瞬間、柴崎は戟耶に目配せする。
 戟耶は嬉しそうに頷いた。
 それを見て柴崎は里村に提案を口にする。
「奇襲といきましょう、援軍を待つ時間はありません速戦即決です。一応伝令を飛ばして救援に来れるように伝えてください」
「もう伝えました、六分で到着するので待てとの連絡が……」
「待てん」
 里村の言葉を戟耶がかき消した。
「柴崎の言うとおりだ。逃げるかもしれない敵を六分も放置できん。オレたちだけで行くぞ。それに援軍も約束されて敵の伏兵もいないなら願ったり叶ったりだ」
「そうですが……」
 救いを求めようと里村は柴崎に視線を送るが、柴崎は里村に助け舟を出そうとはしなかった。
「里村さん、いままで私たちは敵に奇襲されることが多かった。しかし今回は運良く奇襲がかけられます。この利点は大きい。逃すわけにはいきません」
「わかりました、お手伝いいたします」
 意を決し、里村も覚悟を決めた。
「行くぞ、ついて来い」
 言って戟耶が先陣を切った。
 ビルとビルの間を跳躍し、一気に距離を稼ぐ戟耶。
 その戟耶の後ろを、柴崎と里村が追う。
 高速で移動する三人は、瞬く間に目的の場所に到達した。
 ビルとビルにはさまれたやや広い車道。
 その車道に、月に照らされた三つの影が存在した。
 その三名を、柴崎たちはビルの上から見下ろしていた。
 と、戟耶が柴崎の顔に目をやりながら口を開いた。
「よし、配置としては上々だな。仕掛けるぞ」
「はい」
 答え、柴崎と戟耶は同時にビルから飛び降り、かつ、空中で回避不能な状況を防ぐためビルを垂直に、そして高速で駆け下りていく。
「魔幻凶塵(まげんきょうじん)、餓狼無哭(がろうむこく)」
「刃怨狂陣羅轟魔葬(ばえんきょうじんごうひまそう)」
 紡がれる詩。
「憑惹破滅(ひょうひはめつ)、緋炎葬刻(ひえんそうこく)」
「飢装炎武鬼塵咆哮(がそうえんぶきじんほうこう)」
 韻を踏み、幻夢織りなすその唄は、
「刃羅飢鬼(ばらがき)」
「魔餓憑緋(まがつひ)」
 この時をもって、二つの魔剣を同時に起動させた。
 起動する二振りの魔剣。
 ここに至って、ようやく路上の三人が柴崎と戟耶の存在に気付いた。
 魔剣を起動していない魔剣士は隠密性が高く、襲撃の直前まで敵に気配を察知されないことがほとんどだ。
「デュラミア・ザーグかっ!」
 叫んだのは一見してリーダー格とわかる男だった。
 身長二メートルを越す巨漢の男で、どこぞのインディアンのように浅黒い肌に怪しげな刺青、だが最近の若者のような流行の服装に身を包み、髪の毛は金に染め上げている。
「獣化しろ!」
 巨漢の叫び声に対応し、残る二人が獣化を始める、叫んだ男も同時に獣化をはじめた。
 三人の内、左右を固める二人の男の肉体がその姿を変え始める。
 右の男は蛇、そして左の男は蝙蝠をイメージさせる姿へと変化していった。
「へぇ、こないだ取り逃がしたやつらじゃねぇか。柴崎、あの二人はオレによこせ」
「わかりました、では私は」
 ビルの壁を駆け下りながら、巨漢に目を移す。
 そこにはトカゲに変じた巨漢の男の姿があった。
「あのトカゲを抹殺します」
 言葉は風に流れた。
 魔飢憑緋の能力を開放した柴崎は、超高速の踏み込みをもって瞬く間に地面に降り立った。
 正眼に魔飢憑緋を構える柴崎。
 実のところ、柴崎と魔飢憑緋の相性はあまりよくはない。
 魔飢憑緋には『龍』と呼ばれる属性が存在しており、柴崎は龍と最悪の相性を持つ『龍殺し』の属性を持つ。
 が、それがかえって魔飢憑緋を操る場合にはプラスした。
 相性の悪さ故に魔飢憑緋は柴崎の肉体を操ることが不可能なのだ。
 そのため、百パーセントの恩恵を受けられなず、魔幻凶塵と呼ばれる奥義も使用できないのではあるが、身体強化だけは可能なノーリスクにしてハイリターンな力を振るうことが出来る。
 最大戦闘能力では劣るが、使い勝手では確実に柴崎は薙風の上を行く。
 そんな自負を持ちながら、トカゲの獣人に対峙する柴崎。
 と、眼前の獣人が唾液を滴らせながら口を持ち上げた。
「おや、マガツヒって魔剣は巫女のお嬢ちゃんの魔剣じゃなかったのか?」
「お前……あのときメイザースと一緒にいた男か?」
 もちろん見覚えはある。
 聞いた話では薙風にちょっかいを出していたと聞く。
「せっかくマガツヒの魔剣士がいるって聞いたから張り切ってたのに、巫女のお嬢ちゃんじゃないってんじゃガッカリだぜ」
 唾を道路に吐き捨て、露骨に嫌そうな顔をするトカゲの獣人。
 そんなトカゲの獣人に、柴崎は、剣先を揺らしながら呟く。
「薙風でなかったのは残念だったな、それは心からお詫び申し上げる」
「へぇ、ご丁寧にどうも」
「だが」
 あしらうように返事するトカゲの獣人に、柴崎は裂帛の意志を押さえ込みながら続けた。
「退屈だけはさせないことを約束しよう」
「へぇ、そりゃあお誂え向きだな」
 答えるトカゲの獣人がその両手の先から鋭い爪を伸ばした。
 肉を切り裂く鋭利な爪。
 見るからにたくましいあの腕の筋肉によって振るわれれば、恐らく人間の肉体など一撃のもとに粉砕されるに違いない。
「名乗れ、デュラミア・ザーグ。死ぬ前に貴様の名を聞いておこう」
「名乗りは自分からするものだ、礼儀知らずめ」
「ほぉ、確かにその通りだ」
 柴崎の受け答えに怒った風もなく、トカゲ男は自らの名を名乗った。
「部族の連中からはドラコと呼ばれている。聞いた話じゃこの国では名前の最後に『コ』がつくと女の名を意味するらしいが、あいにくと私は男だ」
「見ればわかる」
 言いながら、柴崎は魔飢憑緋から左手を離すと、懐から仮面を取り出す。
「ではこちらも名乗ろう。私の名は柴崎司。仮面使いだ」
 ドラコにそう告げると、柴崎は左手の仮面を顔に装着する。
「叫ぶがいい、仮面舞踏の始まりだ」
 こうして、夜空の下に仮面舞踏が宣言された。






「刃怨狂陣、爪破!」
 戟耶の叫びが響き渡るのと同時に旋風が巻き起こった。
 青き刀身から放たれた疾風は、街路樹やガードレールなどを切り刻みながら周囲の物質を蹂躙する。
 だが、対峙する敵は獣人だった。
 優れた瞬発力を持つ獣人たちは、戟耶から放たれた魔風の被害を受けることなく、戟耶の正面に立っていた。
 柴崎とドラコが激闘を繰り広げている地点から三十メートル。
 容易に援護にいけそうな距離ではあるが、もちろん行く気は毛頭ない。
 戟耶は手にする刃羅飢鬼を片手で構え、ゆったりとした姿勢で脱力をしていた。
 肉体の筋肉というのは常に力を入れているとその瞬発力を失う。
 リラックスした状態から緊張状態へ、この幅が大きければ大きいほど瞬発力は高まる。
 戟耶は首を左右に動かし、首の骨をバキバキ鳴らし始める。
 敵を誘っているのだ。
 だが、対峙する獣人たちは動かない。
 それもそのはず、彼らは三対一という圧倒的有利な状況において戟耶の前から撤退した者たちなのだ。
 戟耶の強さは十分に承知している。
 だから彼らは待っていた。
 味方の中でも最大戦力のドラコが対象を屠り、救援に来ることを。
 もちろん二人で戦っても勝算がないわけではない。
 だが、命がけの状況で高い勝算が約束される選択肢を選ぶのは当然の行為だと言えよう。
 そして、対峙する戟耶もその考えに同調していた。
 すなわち、こちらから仕掛けることにしたのだ。
「さて、行こうか」
 呟き、戟耶は呪文の詠唱を始めた。
 周囲の空気が変わった。
 戟耶の前に立つ獣人たちに動揺が走る。
 術の完成を待っていてはいけない。
 それだけは食い止めなくてはならない。
 そう感じた二人の獣人は、示し合わすまでもなく、全く同時に戟耶に向かって走り出していた。
 二人の到着よりも戟耶の詠唱が早く完成した。
 だが、驚いたことに戟耶が詠唱をやり直し始めた。
 全く同じ詠唱を紡ぎ始める。
 戟耶の術の完成よりも早く獣人が戟耶に襲いかかった。
 振りかざされる豪腕。
 蛇の獣人によるその攻撃を、戟耶は後方に飛ぶことで回避する。
 と、挟み込むように蝙蝠の獣人が戟耶に迫る。
 戟耶の術が完成した。
 しかし戟耶は術を解き放たない。
 蝙蝠の獣人の爪が戟耶に襲い掛かる。
 戟耶は回避しようとしたが回避しきれず、刃羅飢鬼を一閃させ、防ぎきれない攻撃は左手で防いだ。
 左手の骨がへし折れ、血が噴出す。
 だが、戟耶はその状況を全く苦に思っていなかった。
 さらに完成した術を放棄して三度術の詠唱を始める。
 襲い掛かる二人の獣人。
 だが、戟耶は握り締める刃羅飢鬼を縦横に振り回し、獣人の攻撃を何とか防ぎきる。
 そして、彼の術が完成した。
「降魔(ごうま)、業魔(ごうま)、轟魔(ごうま)、迸るは灼熱の息吹」
 流れる詩は風に乗り、
「刃怨狂陣(はえんきょうじん)、呪怨(じゅえん)」
 その術が解き放たれた。
 突如、刃羅飢鬼の刀身から輝光によって構成された、蒼く輝く龍が出現した。
 三つの首を持つ蛇のような龍。
 その三つの首の先にある顔が、同時に口を開いた。
 その喉の奥から、火炎弾が繰り出される。
 蛇の獣人は何とかその火炎を回避することが出来たが、蝙蝠の獣人はそうはいかなかった。
 追尾するように繰り出された火炎は舐めるように蝙蝠の獣人に襲い掛かり、その体を焼き尽くす。
 いや、焼き尽くすなどというかわいい表現を使うのは間違っていた。
 火炎弾は蝙蝠の獣人に襲い掛かると同時に、まるで手榴弾のごとく炸裂したのだ。
 それが同時に三つ、防御力に優れる獣人とは言え、この一撃に耐えられるわけもない。
 肉体は肉塊と化し、先ほどまで蝙蝠の獣人だった物体がびちゃびちゃと音を立てて地面を汚した。
「五十越えだと……化け物め!」
 吐き捨てるように蛇の獣人が言い放つ。
 そんな蛇の獣人を前に、無事な右腕だけで刃羅飢鬼を握り締める戟耶は落ち着き払って言った。
「化け物はどっちだ、ふつーの人間なオレか? それとも蛇の獣人様か? 誰がどう見たってお前の方が化け物じゃねぇか」
 楽しそうに笑う戟耶。
 戦力差は圧倒的だった。
 戦いとは機動力において上回る者が戦いの主導権を握ることが出来る。
 だが、結局のところ勝負を決めるのは火力だ。
 射程が同じと仮定するならば、火力が高い者が勝利するなど誰だってわかるはずだ。
 そして、戟耶という男が操る刃羅飢鬼という魔剣はその火力において特化した魔剣だった。
「さて、お前も死んどくか?」
「それは遠慮させていただこう」
 後ずさりながら言うと、蛇の獣人は戟耶の前から逃走しようとした。
 だが、
「冥鏡死翠(めいきょうしすい)!」
 その魔剣の力が解放された。
「なっ!」
 蛇の獣人の体に言いようのない重圧が圧し掛かった。
 致命的ではない。
 せいぜい濡れた服を着て体を動かさなくてはならないという程度の束縛。
 だが、
「降魔(ごうま)、業魔(ごうま)、轟魔(ごうま)、迸るは灼熱の息吹」
 目の前の魔剣士を前にして、
「刃怨狂陣(はえんきょうじん)、呪怨(じゅえん)」
 その重圧は、あまりにも致命的であった。
 再度出現する三つ首の龍。
 打ち出された火炎弾は直撃と同時に爆砕。
 蛇の獣人は蝙蝠の獣人と同じ末路を辿ることとなった。
 敵の沈黙を確認すると、戟耶は刃羅飢鬼を鞘に収め、呪文の詠唱を始めた。
 すぐさま術式を構築し、術をかけた右手の平をへし折られ、切り裂かれた左腕に当てる。
 戟耶が使用した術は治癒呪文だ。
 戟耶ほどの術師が使う治癒呪文なら、三十分ほどでこの程度の傷は完治させる。
 戦闘中にその時間は致命的だが、敵の殲滅後なら十分すぎる速度だ。
 と、治癒をしている戟耶の側に駆け寄る影が一つ。
 戟耶はその影に向かって声をかけた。
「ナイスフォローだ、里村」
「陽動感謝します、戟耶さん」
 そう、戟耶の前に現れたのは、ビルの上に残っていた里村であった。
「もう少し早く来てもらいたいものだったんだがな、この通りだ」
 負傷した腕を見せ付ける戟耶。
 そう言う戟耶に対し、里村は頭を下げた。
「申し訳ありません、やはり結界の展開には時間がかかりすぎてしまって」
「構わねぇよ、こっちが無理言って前線にひっぱって来てんだからよ。魔術師の魔術結界と違ってお前の魔剣は戦闘に特化してるわけじゃねぇからな」
 言って戟耶は里村に首に巻かれているネックレスに目をやった。
 紫色の宝石がはめ込まれたネックレス。
 これこそが里村の切り札、『冥鏡死翠(めいきょうしすい)』という結界系の魔剣だった。
 里村は戦闘に特化したタイプの魔剣士ではないが、決して戦闘向けでないとも言い切れない万能タイプの魔剣士だ。
 索敵から援護、さらに戦闘にまで用いることの出来る『妖精光輝』、これは玉西の操る死霊と似て非なるものだが、有用性に大差はない。
 そこで玉西と里村の決定的な違いに玉西は魔道師であることに対し、里村は魔剣士である。
 つまり玉西が魔道師であるが故に応用が利かないのに対し、里村は魔剣の持ち替えによって幾多の能力を操ることが出来る。
 輝光の操作、術式の構築を得意分野とする里村は結果系の魔剣を使用することで力を十分に発揮することが出来る。
 『冥鏡死翠(めいきょうしすい)』の能力、それは自分の望んだ能力を持つ結界を構築することができるという応用範囲の大きなものである。
 代償は労力、つまり多大な効果を望む場合は能力発動までの条件が厳しくなると言うものだ。
 例えば敵の体に重圧を与えるなどの簡単な結界なら、せいぜい直径三十メートルの範囲に結界を張る場合は一分もあれば展開することが可能だ。
 その場合の条件として対象者が結界の中に二分近く留まること。
 つまり構築にかかる時間、術式発動までに対象が結界の中にいる時間、そして効果と範囲によって比例する消費輝光量。
 これによって大きな術から小さな術まであたゆる効果を引き出すことができる魔剣がこの『冥鏡死翠(めいきょうしすい)』だ。
 この里村の魔剣は一時期敵の手に落ちて敵に使用されていたこともある。
 九月に起きた連続殺人、この際に丘の上の屋敷で使用され、結界を発生させた魔剣こそ『冥鏡死翠(めいきょうしすい)』だった。
 あの時は対象の精神に大きな影響を与えるという効果を狙ったために一ヶ月という時間を必要としたが、範囲も威力も低い、敵に対する重圧程度なら数分で展開できたと言うわけだ。
「で、どうするよ。柴崎の援護には行くかい?」
 治療を続けながら聞いてくる戟耶。
 そんな戟耶に、里村は首を横に振った。
「見たところ戦闘は一進一退、それに仲間たちもすぐに到着します。それよりも伏兵に戟耶さんが襲われる危険の方が無視できません」
「オレがやられるとでも?」
 挑発されたかのようにつっかかる戟耶。
 里村は特に気にした風もなく告げた。
「文句があるなら早く腕を治してください。その後は何を言っても構いませんので」
「生意気な女だぜ」
 言って戟耶は地面に唾を吐き捨てる。
 そして、周囲に敵の伏兵がいないか警戒しながらも、柴崎とドラコの戦いを観戦することにした。






 激闘は計ったように停止した。
 柴崎も、ドラコも、その膨れ上がる輝光を感じ取り、戦闘を思わず中断した。
「三十、四十、五十……七十五だと!」
 ドラコが吼えた。
 人間とは違う発声器官のために、少しだけ声が聞き取りずらい。
 だが、柴崎はそのような事は気になどならなかった。
 それほどまでに戟耶のやってのけた行為が異常であったからだ。
 普通の人間が扱いうる輝光量は五十が限界、それ以上を望むにはその規格を外れるか、魔皇剣と呼ばれる弩級の魔剣を用いる必要がある。
 だというのに、戟耶はそれ無しでそれをやってのけたのだ。
 叩き出した数値は七十五、それが教えるのは圧倒的な実力の差。
「なるほど、ヴラドの言っていた五十越えの魔剣士ってのはあいつのことか。なるほどなるほど」
 ドラコはそう言って大きく後方へ飛びのいた。
 それを見て柴崎が刻銃を構える。
「逃がすと思うのか?」
「まぁ、頑張ってはみようと思ってね」
 答えると同時にドラコの体が一変した。
 筋肉が蠢き、鱗が流れ、輪郭が変化する。
 そして、トカゲの獣人だった男は、まるで翼竜と呼ばれる種類の恐竜を思わせる姿となった。
「じゃあな」
 言って背中を向けるドラコ。
 柴崎は半ば呆然としながらも、刻銃の引き金を引き絞った。
 放たれる刻銃の通常弾。
 だが、高速で飛翔しながら遠ざかっていく、プテラノドンと化したドラコに命中させることは出来なかった。
 飛び道具というのは敵が接近しようとしている時にこそ最大の効果が発揮される。
 遠距離から反撃を受けないで攻撃できることこそが飛び道具の最大の利点だというのに、最大のパワーを発揮するのが近距離という辺りがなんとも皮肉だ。
 敵が近ければ近いほど飛び道具は命中率を増す。
 そして、遠ざかれば命中率は落ちていく。
 ドラコにとって脅威だったのは最初の一撃だけだ。
 それ以外は十分な距離をとれたために回避は比較的容易かった。
 柴崎の射程外に逃れ安心して逃走を続けるドラコ。
 そこに一筋の閃光が飛来した。
 油断しきってはいたものの、ドラコの反応速度は凄まじかった。
 隠し持っていた短剣を一閃させ、飛来物を叩き落す。
「ぬかったか」
 呟くドラコ。
 無傷であったとは言え、油断さえしてなければ確実に回避できていたはずの攻撃だ。
 短刀で迎撃できない類のものであったら致命的な事態に発展した可能性は否めない。
「油断しすぎたな、気をつけなくては」
 そう言って自分を戒めると、ドラコは空の彼方へと消えていく。
 小さくなっていくドラコの姿を、柴崎は無言で見つめていた。
「なんだ、逃がしちまったのか?」
 後ろから声がかかる。
 柴崎が振り向くと、そこにはにやけ面の戟耶がいた。
「こっちは怪我してまで二人討ち取ったんだぜ。テメェももっと頑張れや」
「すいません、取り逃がしました」
「見りゃわかる」
 謝る柴崎にそう言い放つと、戟耶は顎で柴崎の前方を示した。
「とりあえずあそこに落ちてる短剣拾ってきてくれねぇか? まだ腕が痛くてよ」
 負傷した腕を見せる戟耶。
 柴崎は小さく頷くと、ドラコに打ち落とされた短剣を取りに走る。
 四十メートルほど先のアスファルトの上に短剣が落ちていた。
「なっ」
 思わず言葉を失った。
 柴崎にはその短剣に見覚えがあった。
 数瞬その短剣を見下ろしていた柴崎だが、意を決して柴崎は短剣を拾い上げ、戟耶の元に戻った。
「お、ご苦労さん」
 ねぎらい、戟耶は柴崎の手から短剣を受け取る。
「ん〜、敵もやるな。逃がすまいと思って投げたんだが。やっぱ片腕が折れてるから全力がでなかったかな」
 独り言を言いながら戟耶は短剣の刀身をじっくりと眺める。
「血の一滴もついてねぇ。完璧にしくじったな。なさけねぇ」
 ため息をつき、戟耶は短剣をコートの懐に隠した鞘の中にしまいこむ。
 と、そこでようやく柴崎の視線に気がついた。
「どうしたよ、柴崎?」
「その短剣」
 言葉を切り、柴崎は続けた。
「その短剣は、どこで?」
「どこ? 何言ってやがる。これは昔っからオレの魔剣だよ。欲しいのか? やらねぇけどな」
「………………」
 戟耶にきっぱりと言い切られ、柴崎は返す言葉を思いつかなかった。
 と、後ろから何者かが接近してきているのに気付き、柴崎は後ろを振り返る。
 そこには、遅れて到着した桂原たち三人の姿があった。
 柴崎はため息をつく。
「まったく、遅いご到着で」
 今宵の激闘は終わりを告げた。
 できれば敵は全滅させておきたかったが、仕方がない。
 月光に照らされ、車道の上に立つ柴崎がその時考えたのは、そのようなことであった。






「あ〜、昼間の掃除がいけなかったか。それともコタツで寝たのがいけなかったか? どっちだろうな?」
 胡座をかき、数騎はクリスの横に座りながら続けた。
「あ、無茶すんなよ。今日はもうゆっくり休めって。無理は体に良くないぜ」
 そう言って頭を撫でてやる。
 クリスはくすぐったいのか、嬉しそうに笑みを浮かべた。
 アパートの一室、時刻は夜の八時。
 数騎とクリスは部屋の中でじっとしていた。
 クリスは布団の中、そして数騎はその脇。
 そう、クリスは病気で寝込んでいた。
 コタツで寝ていた数騎が目を覚ますと、クリスが苦しそうに寝ているのに気付いた。
 体調が悪いと判断した数騎は、すぐさま体温計で熱を測る。
 体温計は三十八度を示していた。
「まぁ、寒い季節に窓全開で二時間もいたら風邪ひいたっておかしくないよな。うん、よくあることだ」
 優しく語り掛ける数騎。
 そんな数騎の態度が嬉しくて、クリスは微笑み返したが、体調が悪いためにその笑顔は弱々しかった。
 数騎はその様子に少しだけ表情を曇らせるが、クリスに不安が伝わらないように、精一杯の笑顔を作って見せた。
「じゃあ、飯も食ったことだし、そろそろ寝るか。寝る前にトイレは行くか、行くなら連れてってやるぜ」
「その前に、お願いがあるの」
「ん、どうした?」
「あのね、ダメかもしれないけど」
 言いにくそうに言葉を切り、クリスは続けた。
「あの、お風呂入れないのに汗かいちゃったから。お湯とタオル用意してもらえないかな?」
「あ〜、構わないぜ、でも体つらくないか?」
「ちょっとだるいけど、汗がベトベトして眠りずらいの。ダメかな?」
「わかった、ちょいと待ってな」
 数騎は床から立ち上がると風呂場から回収してきた桶の中に電気ポットの熱湯をいれ、適量の水道水でちょうどいい温かさにお湯を保つと、五枚ほどのタオルを携行してクリスの布団まで戻ってきた。
「じゃあ拭いてやるから顔出しな」
 数騎は桶のお湯にタオルを入れてしっかりと絞ると、温かさを残すタオルでクリスの顔を拭き始めた。
 ベトベトしてクリスの気分を害し続けた汗がタオルによってふき取られていくたびに、クリスは気持ちよさそうな顔をした。
「ちょっと脱がすぜ」
 数騎はクリスが着ているパーカーを脱がせ、上半身を裸にすると、二枚目のタオルで丁寧に体を拭き始めた。
「くすぐったいよ〜」
 嬉しそうに笑みを浮かべるクリス。
 数騎も楽しんでクリスの体を拭いていたが、一瞬だけ表情を曇らせた。
「ん、どうしたの?」
「あ、いや。何でもない」
 あわててそういうと、数騎はクリスの体を拭き続けた。
 その後、全身の汗をふき取り、さっぱりしたクリスは数騎を自分の布団の中に招きよせ、数騎と手を繋いで心地よさそうに眠った。
 暗くなった部屋の中、クリスがすやすやと寝息を立てるその隣で、数騎は暗闇で目を凝らすように天井を見つめて続けていた。
 声は出さない。
 ただ、頭の中で考えていた。
 クリスの体を拭いている最中、数騎はあるものを見つけた。
 見覚えはあった。
 だが、二度と見たい類のものではなかった。
 歯軋りする。
 それが何を意味するか考えただけで腸が煮えくりかえる心地だ。
 目をつぶる。
 そして、思い出す。
 クリスの腹部。
 すでに傷が完治したその辺り。
 そこには奇妙な、そして大きさで言うなら小指に満たないほど小さな刺青が刻まれていた。
 数騎にはその刺青に見覚えがあった。
 忘れるはずもない。
 忘れるわけがない。
 その刺青は、ある魔剣によって呪われた者の肉体にのみ出現し、解呪しなくては対象者の肉体は灰燼と帰す呪いが具現化する。
 数騎は自分の知り合いを、この呪いによって一人失っている。
 その凶悪な呪いを敵対者に施す魔剣。
 その魔剣の名は、呪牙塵と言う名前であった。



















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