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第十四羽 静けさ


「無様だ……」
 空は青く雲は白い。
 典型的なお天気の下で、柴崎司はうなだれていた。
 六階建ビルの屋上。
 緑のフェンスで囲まれたコンクリートの床の上に、柴崎司は胡坐をかいて座っていた。
 外の景色が見やすいよう、下に落ちないようにフェンスの真ん前に座っている柴崎は大きなため息をついた。
 気にしているのは昨日の夜の事だ。
 まさかこんな事態になろうとは予想さえしていなかった。
 完璧なはずだった。
 こちらが敵の術にかかっていることに気付いていないと見せかけた誘導迎撃作戦。
 それが完全なまでに裏をかかれた。
 奇襲部隊が逆に奇襲され、こちらの援護を優先させすぎたせいで奇襲部隊を援護できなかった。
 戦死二人、生き残ったのは桂原だけだ。
 それにしても驚きだ。
 桂原がいたというのになぜ二人もやられたのか。
 あの男が味方を守りきれないとは想像もしていなかった。
 桂原が裏切った? 
 まさか、それはありえないことだ。
 桂原とはアルカナムに師事し始めた頃から知っている。
 自分達を裏切るような人間じゃない。
 ならば敵がそれだけ上をいったということだ。
 何しろ奇襲部隊、敵に気付かれないよう桂原が出力を最大限まで抑えていた可能性は否定できない。
 それにしても二人、考えられない数字だ。
 確かに亡霊として動く自分達に人的被害が出なかったことはなかった。
 それでも精鋭部隊の名は伊達ではない。
 もし戦死者が出るとしても一人、二人以上の損害が出る時は紛争地域に派遣され地獄を見てきた時くらいのものだ。
 それがどうだろう。
 敵を待ち伏せして、気付いたら二人殺されていた。
 冗談ではない。
 どれほどの損害だ。
 人材の育成には時間がかかり、精鋭部隊というならそれはなおさら。
 実力の足りないものを入れるわけにも行かず、当分欠員は覚悟しなくてはならないだろう。
「カラスアゲハめ」
 毒々しくののしる。
 いつか事務所の中で鉢合わせた三十に届こうかという女性。
 桂原の言葉によると、二人を殺したのは彼女だそうだ。
 それなら頷ける。
 カラスアゲハといえば暗殺者の里の鬼子、頭領殺しという暗殺者の中でも禁忌中の禁忌を犯した反逆者。
 数多くの要人を殺害し、味方を裏切り世界を敵に回し、それでもまだ生きながらえていることが彼女という存在の恐ろしさを物語っている。
 能力はわかっている、彼女の出身である風隠れの里の暗殺者特有の凶器、鋼糸だ。
 暗殺者という連中は敵に気配を悟られないために極力魔剣や魔術、魔道を忌避する。
 空気中の輝光を打ち消してしまうことから対輝光金属も好まない、そこで彼らは技量をもって対象を屠る。
 彼らの最強の武器は鋼糸。
 魔鋼と呼ばれる裏世界において最高の金属によって生み出された糸はあらゆるものを切断する。
 もちろん、魔鋼の硬度には限界があり、切り裂けるものは限られるが魔鋼は輝光を伝導するために輝光による切れ味の強化が可能。
 さらに、輝光が流れるため鋼糸を自分の手足の延長として自在に操る能力さえ持つ。
 物理系でありながら輝光系、携帯も容易で殺傷力、射程に優れる武装。
 さらに暗殺者の持つ陰影の能力は敵に気配を悟らせない。
 陰影ならば高位の能力者が警戒状態にあれば気付く事は可能、逆に警戒していなければ気付く事はできない。
 風隠れの暗殺者は恐ろしい実力を持っているため、政府の要人は暗殺されないために撲滅を図ろうともしたが、その過程で殺されてはまずいと逆に飼い殺しにすることにした。
 要は敵にさえ回さなければいいのだ。
 暗殺者とはいえ人間、分別はある。
 彼らは宗教家ではないため、本家本元である十字軍の要人を暗殺し続けたアサシンの連中よりも聞き分けがいい。
 そのため、日本において暗殺者が活躍する場合はすべて政府による命令であり、政治的混乱を引き起こすようなことはない。
 実のところ、陰影の技術は日本の暗殺者が最高クラスと誉れ高く、海外の魔術結社や宗教結社はこぞって風隠れの里から暗殺者を引き抜こうとしているが、政府から送られる多額の献金により、彼らをスカウトしようとした魔術結社を狙う暗殺者として風隠れの暗殺者は動いている。
 そこで、海外の魔術結社は抜け忍と呼ばれる里から立ち去ったフリーの暗殺者を雇う。
 その内の一人がカラスアゲハだった。
 彼女が何のために動いているかはわからない。
 わかっているのは数ヶ月前に須藤数騎という少年を助け、そして昨日は自分達の仲間を二人殺害したということだけだ。
「須藤……数騎……」
 そこで始めた柴崎は須藤数騎の名に思い至った。
 思い出してみる。
 須藤数騎という少年。
 それは、いかなる陰影使いよりも巧みに輝光を遮断する少年の名前。
 暗殺者たちが行う陰影による気配遮断は達人級の使い手には見破られてしまう技巧。
 それに対し力を持たない無能力者のみが持つ力、輝光遮断による存在の隠匿。
 世界中のどこを探し回ってもそのような戦い方をする人間はいなかった。
 大抵はどんな低能力の人間でも操れる量産魔剣を手にして戦うか、もしくは自身の輝光はおろか、周囲の輝光までも消し去ってしまうほどの金属量を持つ刀剣をあやつるかのどちらか。
 しかし須藤数騎は違った。
 自身の体から生じる輝光を消し去る程度の、それ以上の金属を持ち歩くことなく適量ですませるために完璧なる輝光遮断。
 彼ならば可能だ。
 適量金属だけを持ち歩く須藤数騎ならば、桂原と里村が行った索敵の網の目を縫う事はできる。
 が、
「ありえん」
 柴崎司はその考えを捨てた。
 それはそうだろう。
 確かに須藤数騎なら可能だ。
 殺傷能力に疑問はあるが、出来なくはないと過程するならば須藤数騎にできた可能性はある。
 だが、しかしだ。
 まず須藤数騎には動機がない。
 その上、彼は元味方。
 魔術結社の尖兵(デュラミア・ザーグ)の一員だったではないか。
 成り行きとは言え、暴走する魔剣士である投影空想の魔剣士を撃破さえしたのだ。
 彼には亡霊を二人も殺す理由がない。
 何が目的で自分達がキルゾーンとしていた地点に乗り込む意味があったのか。
 ただ可能だったかもしれないというだけで須藤数騎を疑うのはばかげている。
 それにそれを言うなら無能力者なら誰でも可能ということになる。
 確かにそれを戦術として確立している人間は須藤数騎の他にいるとは思えないが、いたと仮定するならばこの町に住む人間全てが容疑者ということになる。
「ありえん、やはり犯人はカラスアゲハだ。桂原もそう言っていた」
 だが、頭のどこかであの端正でない片目の少年の存在が引っかかる。
 あの戦術を確立できたのは今まで彼以外存在しない。
 確率的に考えて、裏の世界を知った人間は魔剣を手にし、もしくは技量で対抗するために長物を持ち歩くはずなのだ。
 最小限の金属で気配を殺し、奇襲を持って対象を殺害する。
 その戦術を確率的に確立できたのは須藤数騎だけ。
 だが、桂原は須藤数騎ではないと言っていた。
「ならばやはりカラスアゲハだ。少々考えすぎだったかな」
 呟く柴崎。
 その言葉尻はまるで消え入るよう。
 二人の仲間を失った喪失感を胸に、柴崎司はしばらく街の景色を眺め続けていた。






 戟耶は高ぶりを押さえられなかった。
 今夜が待ち遠しいのだ。
 今夜、鋼骨の魔剣士がこの世から消滅する。
 それを拒むべく、鋼骨の魔剣士は間違いなく自分に挑みかかって来るだろう。
 それを撃破する光景を想像するのが。
 今まで幾度となく行ってきた行為が今夜再び行えるかと思うと戟耶は愉快でならなかった。
 寝転がっていたベッドから勢い良く上半身を起こす。
 四畳半の小さな部屋。
 それが戟耶に与えられた部屋だった。
 ベッドと数少ない生活用品、そして戦闘の際に用いる魔剣以外に荷物はない。
 戟耶には基本的に物欲がないのだ。
 あるのは人間への興味、そして自分への興味だけだ。
 楽しみで仕方ない今夜。
 何が起こるかを想像し、それだけで失禁してしまいそうだ。
 苦痛に顔をゆがめながら襲い掛かってくる、呪牙塵によって呪われた者たち。
 呪いを解くために命がけで挑み、呪われた者を助けるために命をかけて迫ってくる仲間たち。
 その全てを傷つけ、殺し、全ての尊厳を地面に叩きつける。
 それが、戟耶にとってもっとも快感と言える行為であった。
 戦いに勝利した者は敗北したものに何をしても許される。
 もちろん論理的には否定されるが、現実はそれを否定するように出来ていない。
 そして、戟耶はそれをこの世に生を受けた時から。
 いや、この世界に戟耶という存在が根付いた時から思い知らされていた。
 戟耶の母は優秀な魔剣士で裏の世界でも名を馳せていた。
 が、ある戦いの折に闇の救世主たちに敗れ、捕らえられた彼女は闇の救世主の男達に輪姦された。
 闇の救世主はこの世界に不要な人間を全て滅ぼすが、剣崎戟耶薙風に該当する優秀な人材の命を奪う事をよしとしなかったのか。
 それともただ単に味方の救出が間に合ったのか。
 戟耶の母親は殺される前に戟耶の本家に戻った。
 だが、問題はあった。
 戟耶の母親は妊娠していた。
 恋仲であったものがいなかったことから、闇の救世主たちによって孕まされたと考えるべきだろう。
 戟耶の母親は中絶を望んだ。
 だが、戟耶の本家は認めなかった。
 戟耶は同族の血を交配させることによってより濃い血脈を維持し、原初の人間の持つ本来の力を覚醒させようとする家系だ。
 そのため、妊娠して生まれてきた子供が奇形である確率も高く、戟耶の女性は中絶を望む事が多い。
 だからそれを禁止する決りが出来てしまった。
 そのため、戟耶はこの世に生まれて来る事ができた。
 それが戟耶にとって苦しみの始まりだった。
 望まぬ子を授けられた戟耶の母親に、戟耶を愛する気持ちなど全く浮かばなかった。
 思い出すのは憎悪。
 望まぬ相手を受け入れさせられ、望まぬ子供を孕まされた怒り。
 戟耶の顔を見るたびに、戟耶の母親は自分が輪姦された事実を思い出す。
 理由は簡単だ、それほどまでに戟耶の顔は父親に似すぎていた。
 戟耶は母に愛してもらおうと人一倍努力した。
 例え自分が望まれない子供であっても、せめて母親だけには認めて欲しかった。
 だが、それは永久に叶わなかった。
 母は一生戟耶を認めず、戟耶は親戚の家に預けられた。
 それから程なく母親は別の男と結婚し、子供も三人産んで幸せな日々を送る事ができた。
 一度、戟耶は母親に会いに行ったことがあった。
 子供たちと笑いあい、幸せに過ごす母親に。
 だが、それは殺意によって妨げられた。
 もはや戟耶の母親には戟耶を憎む心しかなかった。
 魔剣士としての力を解放し、現れた戟耶を殺そうとまでしたのだ。
 一命を取り留めた後、戟耶は二度と母親に会おうなどとは考えなくなった。
 戟耶は考えた。
 なぜ、こうなってしまったのか。
 なぜ、自分は母親に愛されないのか。
 母親の言葉を思い出す。
 私があいつらに負けたりしなければお前なんか生まれてこなかったのに。
 私があいつらよりも力があればあの男達を殺して、お前の顔を見ることもなかったのに。
 あぁ、そうだったのだ。
 これは全て母親を襲った男の成し遂げたことだったのだ。
 なぜ、母親が受け入れることすら唾棄したくなる男に抱かれたか。
 なぜ、愛のない男の子供を身ごもったか。
 それはそう、その男が母親よりも強かったから。
 母親よりも力を持っていたからだ。
 力があれば何でも出来る。
 女性を組み伏せることも、人を従わせることも。
 理想論はそれを否定する。
 だが現実には力あるものが全てを牛耳っている。
 法が人々を守っていると聞かされたことがある。
 嘘っぱちだ。
 女性を無理矢理犯してはいけないという法律があるのに母は襲われた。
 人を殺してはいけない。
 何を馬鹿なことを。
 戦争が起これば何十万という人間が殺され、殺したヤツらは咎められないし、むしろいじめられるのは仲間をたくさん殺されて負けた方じゃないか。
 なら話は簡単だ。
 勝てばいい。
 強ければいい。
 力があればいいのだ。
 なら目指す道は一つ、強くなることだった。
 戟耶はそれを確信すると、以前にも増して魔剣士としての自分を磨いていった。
 ただ強さを求め、ただ力を求め。
 結果、戟耶は並ぶものがないほどの力を手に入れた。
 特殊能力としては秀でていないが、正面からのぶつかり合いなら魔皇クラスが相手でもない限り引けを取らないほどの力だ。
 魔皇クラス以下でも、特殊能力をもって戟耶を上回る人間がいないわけではない。
 だが、空手という格闘技においてもっとも破壊力がある技は一番最初に習う初歩中の初歩である正拳突きだという。
 ならば戦いはシンプルに力で勝負、多少相手が特殊でも力による真っ向勝負ならば負けはしない。
 その信念のおかげか、戟耶は五十を上回る数値を叩き出す魔術結社屈指の準魔皇として覚醒した。
 魔術結社の人間にとって戟耶の能力は非常に評価されるものだった。
 似合う言葉は見敵必殺。
 一度標的にした敵は、何があろうとがむしゃらに殺害を試みたのだ。
 戦闘能力に優れる戟耶は真正面からの戦闘において敗北を知らなかった。
 連戦連勝の彼だが、問題点が一つだけ残った。
 それは自分に敗れた人間に対する処遇だった。
 賞金稼ぎとして動く者たちは、敵を生け捕った場合はできる限り無傷で魔術結社に引き渡さなければならない。
 そうしないともらえる金が減ってしまうからだ。
 が、戟耶はそれを徹底的に無視していた。
 捕らえた相手が男なら可能な限りの拷問を加え、少しでも長い苦痛を与えた後に殺害。
 女の場合は飽きるまで陵辱を加え、その後に男と同じ処刑法を選ぶ。
 つまり戟耶は今まで一度も対象を魔術結社に生きたまま送り届けた事はない。
 あまりにも使い勝手が悪い。
 そのために戟耶は厄介者扱いされ、対象を完全に撃破する殲滅戦以外ではあまり用いられなくなった。
 実力もあり、実戦経験者でありながら武功が少ない彼は亡霊の頂点の座を桂原ともう一名に譲ることになる。
 それでも戟耶の力は衰えず、思考形態にも変化はない。
 自分の力に敵わず、自分の意のままにできる相手に自分だけが与えられる処遇を与える事に快感を感じる。
 力による他者の征服。
 それが戟耶の望みであった。
 そのために戟耶は命をかけて戦い続ける。
 己の欲望を満たすために。
 己の存在を知らしめるために。
 だが、彼は気付いていなかった。
 気付いていたのかもしれないが、意図的にその感情から目を背け続けていた。
 それは羨望。
 求めて止まず、たった一度だけ感受できた優しさ。
 疲れ果て、床の上に布団を一枚だけかけて寝る母の姿を見た幼い戟耶は、彼女の布団の中にもぐりこんだ。
 その時だけだ。
 その時たった一度だけ、母親は戟耶のことを抱きしめた。
 慈しむように。
 まるで、戟耶は自分が望んだから生まれてきたと彼に告げるかのように。
 それほどの温かさをもって、戟耶の母親は戟耶を抱きしめた。
 その一度だけだ。
 その一度だけの抱擁こそが、戟耶の本当に望むもの。
 戟耶は力で他者をねじ伏せることによって相手に自分の望みを押し付ける。
 それをいくら続けても、戟耶は気付こうとしなかった。
 本当に自分の思い通りになって欲しい相手。
 それは彼を拒絶し続けた自分の母親だということに。
 戟耶は笑う。
 今夜起こる惨劇を期待して笑う。
 望みは叶わない。
 戟耶の母親は、数年前に心臓麻痺で病死していた。
 望みは叶わない。
 もはや愛してくれる相手はない、だからこそ戟耶は気付こうとしない。
 望みは叶わない。
 戟耶が、二度と母親に抱きしめられる事がないという事に。
 笑った。
 戟耶は笑っていた。
 それは歓喜か自嘲か侮蔑か。
 もしかしたら祝福だったのかもしれない。
 自分でもよくわからないまま、戟耶は笑い続けた。
 窓の外に夕日が見える。
 夜はもうすぐそこまで近づいていたのであった。
 それが嬉しかったので、戟耶はもう一度面白そうに笑顔を作ったのであった。






「大丈夫だよ、オレは死なないから」
 胡坐をかいている数騎の太ももに、クリスは頭を乗せる形で数騎の顔を見上げていた。
 電気のついていないアパートの部屋。
 時刻は八時を回り、十一月とあって外も暗くなり、明かりは月の光だけ。
 そんな中、数騎は愛おしそうにクリスの頭を撫でていた。
 クリスは苦しそうに呼吸を繰り返し、全身には呪牙塵の呪いを示す刺青が浮かび上がっていた。
「大丈夫だから」
 あやすように言う数騎。
 クリスは、そんな優しい顔をした数騎に、かすれた声で尋ねる。
「数騎」
「なんだ?」
「今日も戦いに行くの?」
「あぁ、行くとも。お前を助けるためにな」
「私ね……」
 言いずらそうにクリスは続ける。
「私ね、大丈夫だよ」
「何がだ?」
「今日死んじゃっても」
 その言葉に、数騎はわずかに眉を動かす。
 そんな数騎に対して、クリスは語り続けた。
「数騎、死ぬ時に好きな人に看取ってもらえる人間って、この世界にどのくらいいたと思う?」
「わからないな」
「私ね、結構少ないと思うんだ。人はいつ死ぬかわからない。だからどんなに仲のよかった家族でも親の死に目にあえなかったり家族を看取ってあげることができなかったりはよくあると思うの。
 だからね、私は好きな人に看取ってもらえることは本当に幸せな事だと思うんだ」
「何……言ってるんだ……」
 クリスが何を言おうとしているのか。
 それを考え、数騎は動揺していた。
「だからね、私は死ぬ時は絶対に好きな人に看取ってもらいたいと思ってたの。人間は死んでしまったら一人になってしまうってお姉ちゃんは言ってたけど、せめてそれまでは一人でいたくないから」
 言ってクリスは数騎の左手を右手で握る。
「数騎の手って暖かいよね」
「心が冷たいからさ」
「そんなことないよ、数騎は優しいよ」
「どうだかな」
 照れくさそうに視線をそらす数騎。
 クリスは柔らかく目を閉じると、先ほどの話を再開した。
「私ね、別に今日死んじゃってもいいの。数騎がずっと側にいてくれて、最期まで数騎と一緒にいられればそれもいいかなって思うの。確かに死んじゃうのはイヤだけど、今死ななくてもいつかは死んじゃうし、その時一人で死ぬのはイヤだからそれに……」
 言葉を切り、本当に悲しそうな声でクリスは、
「数騎が死んじゃうのは、絶対にイヤだから」
 手を握り締める力がこもる。
 腕からわずかな震えを感じた。
 当たり前だ、怖いわけがない。
 クリスの考えは良くわかった。
 つまるところ、クリスはオレに死なれたくないのだ。
 だから今日はここにいてくれと。
 自分が死ぬまで、この場から離れないでくれと言っているのだ。
 ふざけるな、そんなことはできない。
 できるはずがない。
 以前、この状況でオレはどうした。
 玉西彩花を助けようとしたじゃないか。
 なら大丈夫だ。
 オレは怖くない。
 怖くないなら、どんな相手にだって立ち向かう事ができる。
「すまないな、クリス」
 残酷な言葉を告げているような気がして、数騎はクリスから目をそむけたまま続ける。
「オレは行くよ、お前を助けたい」
「やだよ、数騎は私と一緒にいて」
「それはできない、オレはお前を……」
「やだっ!」
 鋭く響く声。
 クリスは油汗を流しながら体を起こし、数騎と向かい合う。
「やだっ!」
 もはや体を支える事ですらつらいのか。
 クリスは倒れこむように数騎の胸の中に飛び込む。
「やだ…やだよぉ……」
 涙を流し始めた。
 体を震わせ、顔を数騎の胸に押し付ける。
 温かさが胸に伝わり、愛おしさが胸にこみ上げる。
 どうするべきだろうか。
 この泣き続ける少女をこのアパートに残してしまっても構わないのだろうか。
 もし、このまま戦いに出かけて亡霊に殺され、このアパートに戻る事さえかなわなかったらどうなる。
 クリスはこの暗いアパートの一室で気を失う事さえできず、たった一人で死んでいかなければならない。
 それはクリスにとって本当に幸せなことなのだろうか。
 わからなかった。
 何が正しく、どうすればいいか数騎にはわからなかった。
 クリスの言うとおりにすべきなのだろうか。
 この震える少女を、たった一人で死なせてもかまわないのだろうか。
 いや、それはダメだ。
 クリスは死なせない、オレが死なせはしない。
 そうだ、生きて帰ればいいのだ。
 そうすればクリスは悲しまない、オレもクリスを失わない。
 簡単な話だ。
 成功すれば何も問題はなくなる。
「クリス、よく聞いて欲しい。お前がオレを必要としてくれるように、オレにもお前が必要なんだ」
「やだよぉ……」
「お前は今日一日でいいって言うけど、オレはそうは思わない。オレはこれからもずっと、お前と一緒に生きていきたい。お前がいない人生なんて考えられないんだ」
 そう言って、数騎はクリスを抱きしめた。
 強く、強く、決して離さないように。
「オレがお前を助けるから、お前はオレを助けてくれ。オレを一人にしないでくれ。オレとずっと、死ぬまで生き続けて欲しいんだ」
「………………」
「頼む……」
 返事をせず、ただ泣きじゃくるクリスを数騎は力強く抱きしめる。
 もしかしたら、生きて帰ることはできないかもしれない。
 もしかしたら、二度とこの暖かさに触れることはできないからもしれない。
 だから力強く抱きしめた。
 慈しむように、求めるように。
 もう二度と、彼女を抱きしめることができなくとも。
 後悔だけはしないように、数騎はクリスの体を抱きしめ続けた。






「行ってくる」
 決意を固めた数騎を、クリスは止める術を持たなかった。
「必ずお前を助けるから、お前はオレを信じていてくれ」
 戦場に向かう男に、少女はただ涙を流してみせる。
 もう、あの人を止めることはできない。
 もう、あの決意を鈍らすことはできない。
 それを理解していたからこそ、クリスは口にする言葉を決めた。
 決意を鈍らせる言葉でもなく。
 恐れを思わせる言葉でもなく。
 別離を匂わせる言葉でもない。
 それは再開の約束。
 ただ、再び会えることを願う契り。
 だからこそ口にする。
 再び彼と会うために。
 もう一度、彼に抱きしめられるために。
 口を開く。
 紡がれる言葉はたった七文字。
 だが、それは数騎にとってもっともありがたい言葉であった。
「いってらっしゃい」
 一瞬拍子抜けたような顔をする。
 それは戦地に向かう男にかける言葉ではない。
 一番似合う言葉は御武運を、とでもいったところだろう。
 だけど嬉しかった。
 それは須藤数騎という小さな男が、もっとも欲していた言葉だったから。
 帰ってきてくれと。
 帰ってきてほしいとの願いのこもった言葉。
 嬉しかった。
 嬉しくて、数騎は満面の笑みを浮かべてこう答えた。
「いってきます」
 あまりにも不釣合い。
 惨劇の夜に似合わない極上の笑顔。
 その一時を垣間見た人間に、これが殺戮の時刻の序章だと果たして気付くものがいるかどうかは、はなはだ疑問であっただろう。






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