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トップページ>>パオまるの小説>>魔剣伝承>>第十六羽 三銃奏

第十六羽 三銃奏


「これって……」
 異様な感覚が走った。
 一人では眠りにつくことができないために眠れず、それでも疲れを減らすために目を閉じて休んでいたクリスは苦しそうに目を見開いた。
 終わりの時が確実に近づいていた。
 もはや目を開けるだけでも苦しい。
 だが、それでも自分の何かが、どんなに苦しくてもやるべきことをしなくてはならないと告げていた。
 目を開き、ぼんやりしながらも天井を見つめる。
 変わり映えのしない天井。
 違和感は感じられない。
 右を向く。
 そこにはいつも数騎と一緒に足を突っ込む温かいコタツ。
 ……が、あるはずだった。
 慌てて左を見る。
 そこには、右にあるはずのコタツが存在していた。
 驚きに揺れる。
 鏡内界だ、取り込まれた。
 誰に、何のために?
 心臓が高鳴る。
 立ち上がろうとしただけで吐き気を催すと言うのに、頭のどこかから走って逃げろと警戒信号が聞こえてくる。
 感じ取れるほどの殺気がした。
 もはやためらう時間などない。
「鋼骨!」
 クリスは自身の肉体の中に眠る魔剣の名を叫んだ。
 魔剣にとって自身の名を口にされることは魔術師にとっての詠唱に相当し、魔剣の起動には不可欠なもの。
 クリスの指の爪が数十倍に伸び、両手の爪がまるで剣のような長さになる。
 クリスは脂汗を流しながら布団から飛び出すと、玄関に向かって突進していった。
 両腕を振るう。
 研ぎ澄まされた刀のごとき鋭さを持つ爪は、玄関の扉を跡形も無く切り裂いた。
 破片を撒き散らしながら外に飛び出す。
 その直後、クリスの存在した空間。
 いや、数騎とクリスが生活していた部屋で突如爆発が起こった。
 あらゆる家具を吹き飛ばし、爆風に壁やガラスが砕け散る。
 クリスは転げ落ちるようにアパートの二階から飛び降りると、這うようにしてアパートから離れようとした。
 体調が悪化しているのにこれだけの行動を起こしたことで、口に胃液が逆流し始めており、クリスは胃液を吐きながら後ろを振り返ってみた。
 赤々と燃え上がるアパート。
 そのアパートを背にして、愉快そうに笑みを浮かべる男がそこにいた。
「こんばんは、お嬢さん。七日ぶりだねぇ、元気にしてた?」
 白々しく紡がれる言葉。
 アパートの二階の階段から見下ろす革ジャン姿の男は、まるで十年前に生き別れた恋人に再びめぐり合えた男が浮かべるような笑顔を浮かべている。
「会いたかったよ、お嬢さん。この八日間で君を思わなかったことはない」
 わざわざ似合わないキザっぽい喋り方をするのは戟耶と呼ばれる魔剣士であった。
 クリスは体のなかで渦巻く、体調の悪さからくる吐き気と戦いながら機会を待っていた。
 正面からのぶつかりあいでは勝てない、それはクリスにも十分すぎるほどわかっていることだった。
「いいことを教えてやるよ、今日は出血大サービスだ。わざわざオレが持ってきてやったぜ、これをさ」
 言って戟耶は自分の懐に隠し持っていたサバイバルナイフ、呪牙塵を見せ付ける。
「知ってるかな? お前の体調不良はこの魔剣が原因なんだよ。能力もサービスで教えてやる。この魔剣はな、この刃で傷つけた相手に呪いをかけることができるんだ。八日たったら灰になって死んじまう呪いさ。
 おっと、大丈夫、解く方法はあるぜ。超簡単さ、このナイフの柄についている宝玉、これを飲み込めばあっという間に呪いは解けちまうんだ。わかったかな?」
 クリスは何も答えず、ただじっと戟耶を睨みつける。
 能力は全て知っている、それは数騎に教えてもらったことだ。
 教えてもらいたいことは他にある。
 クリスは苦しそうに息をつき、絶え絶えとした調子で口を開いた。
「なんで……あなたがここにいるの……?」
 聞きたいことはそんな魔剣の能力なんかじゃない。
 聞きたいことは、
「数騎は……数騎はどうしたの……」
 自分を助けるために、その魔剣を探している少年のことだった。
 言われた戟耶は見当もつかなかった。
 カズキ、男の名前。
 聞き覚えも無ければ面識だってない。
 さて、どうしたものだろう。
 こっちはどう答えればいいのかな。
「答えて!」
 悲痛な声でクリスは戟耶に叫ぶ。
 と、そこで予測がついた。
 なぜクリスが先ほど知らされた致命的な事実に驚いてすらいないのか。
 そう、きっと知っていたのだ。
 最初から知っていたか、そのカズキという男に教えてもらったのか。
 カズキはどうしたの、という問いかけ。
 もしや、そのカズキという男はオレの呪牙塵を奪うために行動でも起こしているのだろうか。
 そこまで思い至り、戟耶はにたりといやらしい笑みを浮かべる。
「あぁ、カズキって言うのか。あの小僧は」
「答えて……数騎はどうしたの?」
 騙すのには成功、もしカズキというのが若くなかったら今の言葉にこのガキは違う反応を示したはず。
 嬉しくなって、戟耶はさらに続けた。
「いやぁ、お前にも見せてやりたかったぜ。あいつがどうなったのかをよ」
 その言葉を口にした瞬間、ただでさえ青白いクリスの顔がさらに血の気を失う。
 それを楽しそうに見ながら、戟耶は告げた。
「オレの呪牙塵を奪おうなんて身の程知らずな男だったぜ。だからさ、いろいろと教えてやったんだよ。この世の中の厳しさってやつをさ。
 でもよ、オレって男は実に親切でさ。お仕置きしたらちゃんと許してやったよ。一つだけあいつの大切なものを頂くだけで我慢してやったんだ。人道的だろう?」
「大切なものって……何?」
「ん〜、知りたいかい?」
 目を細めて笑みを浮かべながら戟耶ははっきりと言った。
「優しいからさ、たった一つだけで許してやったんだ」
「それって……何……?」
「命一ヶ」
「………………!」
 クリスが目を見開き、苦しそうに体を起こし始めた。
「ん〜、お嬢ちゃん体調悪そうだね。無理しないほうがいいんじゃないの?」
「……殺したの?」
 立ち上がる。
 冷や汗を流しながら立ち上がる。
「……数騎を……殺したの?」
 殺気の灯る瞳。
 両手にはすさまじき切れ味を誇る十の刃。
 近づき難き威圧を放つ少女を前にして、戟耶は始まりを告げる一言を宣言した。
「あぁ、死んだよ。オレが殺した」
 瞬間、疾風が巻き起こった。
 はたして本当に呪牙塵の呪いによって健康を蝕まれているのか。
 そう思いたくなるほど、クリスの跳躍は鋭く、そして速かった。
 すれ違いざまに繰り出される斬撃。
 刃と化した爪を振りぬくクリス。
 が、その一撃は戟耶が眼前に構えた竹刀袋によって防がれる。
「あぶねぇあぶねぇ、まさか二階まで一っ跳びで来るとはいいバネしてんじゃねぇか」
 戟耶は竹刀袋を力強く押し、クリスの爪を押し返した。
 二階の階段から弾き飛ばされたクリスは猫のように衝撃を殺しながら地面に降り立った。
「手負いでそこまでやるたぁ嬉しいねぇ。オレもしっかりと答えられるようにするからよ」
 そう言うと、戟耶は竹刀袋の中から日本刀を取り出した。
「刃怨狂陣羅轟魔葬(ばえんきょうじんごうひまそう)」
 紡がれる言葉、
「飢装炎武鬼塵咆哮(がそうえんぶきじんほうこう)」
 流れる詩は旋律を伴いながら、
「刃羅飢鬼(ばらがき)」
 碧く輝く魔剣が開放された。
「さぁ、楽しむぞお嬢ちゃん。可愛い声で泣いておくれよ」
「よくも数騎を……!」
 冷や汗を流しながら、憎しみの表情を浮かべるクリス。
 こうして、八日に近い日数を経て、二人の魔剣士の戦いがはじまった。






「感じる、戟耶の輝光だ!」
 柴崎が背中に負ぶさっている数騎に早口で伝えた。
 屋上遊園地から離れてすでに三分、深夜の街のビルの屋上を足場にして柴崎と数騎はトランポリンでも跳ねるように跳躍を繰り返していた。
「距離は十時か、アパートから離れているぞ」
「おい、どういうことだよ!」
 問いかける数騎。
 柴崎は、数騎を背負った状態のままビルとビルの間を跳躍しながら続けた。
「戦闘がはじまった、だからこの距離から気配を感じ取れる。戟耶が戦っている」
「相手は、相手は誰だ?」
「わからない、恐らくはお前の保護している実験体だろう」
「クリスか?」
「さぁ? もしくはメイザースの別働隊かもな」
 言って、柴崎は数騎を背負う力を強める。
「もっと強くつかまれ短刀使い。飛ばすぞ!」
 語尾は風に流れた。
 すさまじい速度を放ち、柴崎はビルとビルの間の跳躍を繰り返す。
 振動に脳みそをシェイクされながら、数騎は息も絶え絶えに尋ねた。
「間に合うのか!」
「間に合わせてみせる!」
 答える柴崎の声色は強く、一瞬数騎の心から不安が消し飛ぶほどだった。
 人影が夜の街を跳ぶ。
 だが、彼らが現場に到着するには、まだ数分の時間を要するのであった。






「降魔(ごうま)、業魔(ごうま)、轟魔(ごうま)、迸るは灼熱の息吹」
 紡がれる詠唱は流れるように、
「刃怨狂陣(はえんきょうじん)、呪怨(じゅえん)」
 解き放たれた術式は、死神のようにクリスに襲い掛かった。
 炎の術式。
 いや、これだけの炎だと火というよりは爆発だ。
 相手を燃やし尽くすのではなく、爆砕するかのごとき呪文。
 クリスは、それを紙一重のところで回避した。
 爆発に巻き込まれ、不幸にも異層空間に取り込まれた一般人が五人近くまとめて消し飛ぶ。
 車の停止した道路、アスファルトの地面の上に立ち戟耶とクリスは対峙していた。
 蒼く輝く日本刀を片手で構え、戟耶は飄々とした顔をしていた。
 燃え上がる車。
 停止している車は数十を数えるが、その過半数がすでに戟耶の術によって爆砕され、車に乗ったまま鏡内界に取り込まれた人間が少なからず絶命していた。
 もはや生存者は確認できず、生命を持つものは戟耶とクリスの両名のみ。
「さぁて、そろそろ終わりにしないかい? いいかげん飽きてきたぜ」
 目の前の惨状をなんとも思わないのか。
 まるでつまらない映画を見せられて映画館から出てきた学生のような顔で、戟耶は地面に唾を吐く。
 そんな戟耶を、苦しそうな顔で体を屈め、こみ上げてくる吐き気から口の中が胃の味であふれているような体調だというのに、クリスは怨念をこめた瞳で睨みつけていた。
 戦いは一進一退。
 文字通り一進一退だ。
 戟耶が攻めるとクリスが退く、間違いなく一進一退と言えるだろう。
 クリスは完全に攻めあぐねていた。
 上手い具合に攻撃ができたのは初撃のみ。
 残る攻撃は一度として行えず、戟耶の攻撃の回避ばかりに専念させられた。
 理由は簡単、戟耶の火力が危険すぎるからだ。
 そもそもクリスは物理系だ。
 輝光系の術に対抗する手段が脆弱な上、相手は魔術結社において輝光系の使い手としてトップクラスに入る人間だ。
 守勢に回るのは当たり前だった。
「じゃあ、終わりにしようか」
 刀を頭上に掲げる戟耶。
 そんな戟耶に、クリスは微笑んで見せた。
「何笑ってやがる?」
 忌々しげに尋ねる戟耶。
 そんな戟耶に、クリスは強がりともとれる笑みをもって答えた。
「あなたがバカだから」
 瞬間、クリスは右手を自分の眼前に掲げると、軽快なまでに響く音を親指で人差し指をはじくことによって鳴らした。
「ダイヤモンド・ドッグス!」
 それこそが魔剣起動の詠唱だった。
 クリスの言葉が終わるのと、戟耶によって鉄くずにされた車の残骸が振動するのは同時だった。
「行け、ダイヤモンド・ドッグス!」
 命に答え、犬達が戟耶に襲い掛かった。
 戟耶が目を見張る。
 そう、それは十数頭に及ぶ犬。
 が、戟耶が驚いたのはそんなことではない。
 この犬達の肉体が、紛れも無いダイヤモンドでできているということだ。
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
 あせりながらも、戟耶は遅い来る犬達を刃羅飢鬼を振り回すことによって答えた。
 が、刃羅飢鬼の刃でダイヤモンドの犬を切り裂くことはできなかった。
 戟耶の一撃を耐え抜いた犬が戟耶に襲い掛かった狙うは首。
 頚動脈を掻っ切り、その命を奪おうとする。
「させるか、炎よ!」
 戟耶の左手に炎が集中する。
 戟耶は左拳を振り上げ、襲い来る犬の顔面にカウンターをあわせた。
 ダイヤモンドの皮膚に炎ごときは通用しない。
 正確には通用するのだが、命を持たない犬は炎程度では止まらない。
 だが、それが火ではなく爆発と言う指向性の力ならば話は別だ。
 ダイヤモンドでできた皮膚はあっけなく砕かれ、肉体の内部を構成する血肉がアスファルトの地面に飛び散った。
 警戒したのか、残りの犬たちは戟耶を包囲するかのごとく囲んでみせる。
 それらの犬達に意識を残しながらも、戟耶はクリスは睨みつける。
「腐肉使いか、ガキ?」
「炭素使いよ、間違えないで」
 そう、クリスの魔剣は炭素を操る体内内臓型魔剣『鋼骨』。
 自らの肉体を体内の炭素を操る事で強化、操作して驚異的な身体能力、および殺傷力の高い武装を瞬時に構築することが可能である。
 そして、それは自分の体内の炭素だけにとどまらない。
 自身の輝光を流し込んだ炭素を自在に、輝光の続く限り操ることができるのだ。
 さらに原子配列に働きかけることによって炭素の状態を変化、ダイヤモンドに変換することによって尋常ではないほどの強度を持つ事ができる。
 そしてダイヤモンドの犬達を、クリスは戟耶が殺した死体の持つ炭素を利用する事で構築した。
 もちろん人間の体は全てが炭素というわけではない。
 そこで、足りない量を補うために表面だけを炭素で覆い、内部には死んだ人間の血肉を詰め込んでいる。
 それがクリスの操るダイヤモンドドッグスの正体だった。
 といっても全ての犬の体内に血肉が入っているわけではない。
 車のソファ、外壁をはじめておして重量になりそうなものは全て内部にぶち込んだ。
 表面が硬くても内部が空洞では重さが無く力強さに欠ける。
 数を増やすため、炭素のみでダイヤモンドドッグスを作らなかったために、中身にはさまざまなものをぶちこんでいたのだった。
「いやぁ、楽しませてくれるじゃないかお嬢ちゃん。オレは今かなりビンビンだぜ。幼女趣味はなかったんだがなぁ!」
 楽しそうに宣言する戟耶。
 そんな戟耶に対して歯軋りすると、クリスは声高に命じた。
「ダイヤモンド・ドッグス、殺しなさい!」
 叫びと同時に犬達が再び戟耶に襲い掛かる。
 が、
「堕悪刃(ダーヴァ)、堕悪刃(ダーヴァ)、堕悪刃(ダーヴァ)、砕け散るは無垢なる魂」
 会話の途中に術式を完成させていた戟耶は、
「刃怨狂陣(はえんきょうじん)、薔懺(ばざん)」
 自らの周囲に桁外れの輝光を発生させた。
 爆発が起こる。
 まるで手榴弾がいくつも誘爆でもしているかのように爆発の連鎖。
 爆炎が消え去ると、そこには煙にまみれた戟耶の姿と、跡形も無く消し飛んだダイヤモンド・ドッグスの残骸。
 犬たちを排除した戟耶は、手駒を失ったクリスを楽しむように睨みつけていた。
 その背後に浮かぶ蒼く輝く発光体。
 それは三つの頭を持つ、蒼き半透明の竜だった。
 その時、ようやくクリスは戟耶の魔剣の能力を理解した。
 先ほどの連鎖的な爆発は竜の口から放たれていた。
 ようやく種が説明できる。
 あの魔剣は準魔皇剣、そして封じ込められるは三つ首の竜。
 能力は呪文のストックだ。
 本来、魔術師と呼ばれるものは一度に一つの術士か構築できない。
 そのため最大放出力という壁により術の威力は制限される。
 連打はできない、詠唱のストックなどは不可能。
 よって魔剣士、魔術師問わず最大放出は連打という形では補えない。
 が、あの魔剣はそれを可能にする。
 竜のそれぞれの頭が戟耶の呪文詠唱を蓄積、好きなタイミングでそれを同時に解き放つ事によって自身の限界放出力を三倍まで引き上げている。
 それこそが戟耶の操る準魔皇剣『刃羅飢鬼』、詠唱蓄積によって持ち主の力量を三倍まで引き上げる魔剣。
 クリスの予想は的中していた。
 刃羅飢鬼の能力は、まさにクリスの予想通りのものだった。
 常人に五十を超える瞬間最大放出は不可能。
 だが、蓄積して放てばそれは三倍の威力となる。
 三発あわせて五十超え、それこそが戟耶の強さの根源だ。
「さて、そろそろ終劇だ、お嬢ちゃん。覚悟はいいかな?」
 犬は全滅、込められていた輝光も霧散し、二の手は恐らく無い。
 戟耶はそう考えながらクリスに近づいていく。
 が、クリスはまだ終わってなどいなかった。
「ダイヤモンド・ハウンド!」
 叫びに呼応し、クリスの側に一匹の犬が駆けつけた。
 ダイヤモンド・ドッグが数を重視して作ったものだとすれば、このハウンドは一匹のみ。
 皮膚から内部にかけて全てがダイヤモンドで構成され、さらに重量、体格全てが上回っている最強の下僕。
 これこそが、クリス最期の切り札であった。
 体長一メートルに及ぶ巨躯を誇る猟犬。
 ダイヤモンド・ハウンドは、その巨大な口でクリスを優しく噛むと、その体を自分の背中に乗せ、戟耶に向けて背を向け走り出した。
「おいおい、舞台はまだ途中だぜ、足抜けしてんじゃねぇよ!」
 逃走を試みる犬の背を見つめながら、戟耶が怒りに満ちた声を漏らす。
「いけすかねぇな!」
 それと同時に駆け出した。
 ハウンドの速度は確かに人間のそれを上回るが、背中に人間を乗せた状態では速度が落ちざるをえなかった。
 追いつけはしない、だが距離も離せない。
 戟耶とハウンドの距離に変化は無い。
 が、危機は確実に迫っていた。
 戟耶が腕を一閃させる。
 飛来する銀影。
 それは的確にクリスに襲い掛かり、しかしハウンドの俊敏な反応によって右の二の腕をかすめるだけに留まる。
 そして、それで終わりだった。
 ハウンドの速度はどんどん低下し、数十歩走った後にハウンドはただの炭素の塊に変じてしまう。
 ダイヤモンドの輝きを失ったハウンドは黒々と変化し、背中に乗るクリスの体はアスファルトの地面に落下した。
 戟耶は走る速度を落とし、ゆっくりと自分が投擲したナイフを拾い上げる。
 忌々しき装飾を施されたサバイバルナイフ。
 それは呪牙塵と言うの名の魔剣だった。
「よーし、二度目だ。あと十五分だぞ」
「あ……あ……」
 もはやクリスに抵抗する力は残されていなかった。
 呪牙塵の刃に二度目の傷をつけられること。
 それは呪いの進行を加速され、残り十五分の命とされることと同義であった。
 全身には呪牙塵の呪いを象徴する刺青が完全に駆け巡り、最期の時を確実に告げていた。
「さぁ、お嬢ちゃんどうする? 助かるにはこの呪牙塵についてるこの宝玉を飲み込まないと助からないよ。ねぇ、どうするよ?」
 満面の笑みで尋ねる戟耶。
 クリスにはもはや返事をするだけの気力も無く、ただアスファルトの地面に這いつくばったまま呼吸を繰り返すのみだ。
 それが気に食わなかったのか、戟耶はクリスに蹴りを食らわせた。
 衝撃にクリスの体は横転し、咳き込みながら胃液を吐き出す。
 もはやクリスは限界だった。
 戦う力どころか、生きる力さえ尽きかけている。
「クリス!」
 そんな時だった。
「大丈夫か、クリス!」
 それはあの人の声。
 死んだと聞かされていた彼の声。
「テメェ、クリスに何しやがった!」
 着地音、それと同時に駆け寄る足音。
 対峙する少年。
 戟耶と言う男が放つ殺気に、真っ向から立ち向かう一人の男。
 クリスは力を振り絞った。
 顔を上げ、その少年の顔を見る。
 微笑んだ。
 嬉しくて思わず涙があふれた。
 その少年こそは、クリスにとってもっとも大切な人間。
 黒き装束に身を包み、短刀を構えてクリスを守ろうとするその姿。
 それは、須藤数騎という名の少年だった。






「これは……」
 一分前。
 戟耶とクリスの戦闘によって破壊されたアパートの前に柴崎と数騎はたどり着いた。
「ひでぇ、どうなってんだ?」
「おそらく戟耶だろう、これだけの火力を持つ魔剣士は守護騎士団でもそう多くはいない」
 冷静に語る戟耶。
 数騎を背負ったままの状態ですぐには動こうとしない。
 理由は単純、自らの輝光を抑えた状態で周囲の輝光を探っているからだ。
「仮面使い、クリスたちはどこに……」
「探している、少し黙っていろ」
 そう言われ、数騎はあせる気持ちを抑えながら柴崎の索敵完了を待つ。
「いた、四時の方向!」
 クリスたちの居場所を特定すると、柴崎は数騎を背負ったままの状態でまた駆け出した。
 路地裏を通り過ぎ、その先へ。
 そこは三車線という広さを持つ車道。
 取り込まれたために機能を停止させた数十の車が停止するアスファルトの地面。
 そこは惨劇の場と化していた。
 煙を生みながら燃え上がる炎。
 砕け散った車は残骸のみがアスファルトの上に君臨し、内部の人間は消し炭とされてしまっている。
 人間が焼き殺されたためにすさまじい異臭が鼻を突く。
 柴崎は鼻で呼吸しないようにしながら輝光の発生源目指して駆けた。
 これは一体どんな事態だ。
 聞いた話では鋼骨の魔剣士は物質系、火術を操れると言う話は聞いていない。
 そして、その現場にたどり着いた。
 アスファルトの硬い地面に倒れた金髪の少女。
 そして、その少女を容赦なく蹴り飛ばす戟耶の姿。
「クリス!」
 頭の後ろから怒声が響く。
「大丈夫か、クリス!」
 数騎が柴崎の背中を飛び降りた。
 ポケットからドゥンケル・リッターを取り出すと、正面に構えながら戟耶に向かって吠え掛かる。
「テメェ、クリスに何しやがった!」
 足元に転がるクリスから、戟耶はゆっくりと視線を数騎に移す。
「お前が……カズキってやつか」
 戟耶はまじまじと数騎を観察し始めた。
 顔は不細工な上に片目が無い、こりゃあモテそうに無い顔だ。
 痩せ型で忍者のコスプレ、じつに滑稽。
 だが、この存在感のなさは何だ。
 視界に入っていなければ存在さえ気付けないほどの希薄さ。
「あぁ、無能力者か」
 嘲るように言う。
 が、心の底から見下しているわけでもない。
 無能力者という連中は実に厄介だ。
 存在感が希薄であるためにどこにいるのか捉えにくいことが多い。
 が、ありがたいことにわざわざ目の前に来てくれた。
 これなら安心して殺せ……
「戟耶さん」
 思考が止まる。
 須藤数騎の後ろから見知った人影。
 それは、柴崎司と呼ばれる仮面使いであった。
「説明をお願いできますか?」
「何をだ? この惨状? 金髪のガキ? それともオレのやったこと?」
「全部です」
 言い切る柴崎。
 そんな柴崎を前にして、戟耶は不機嫌そうに唾を地面に吐き捨てた。
「あぁ? うぜぇヤツだな。全部なんて我侭こくな」
「では、このあたりに散乱している死体にはどうやって説明をつけてくれるのですか?」
 言って柴崎は炎上する車の群れを指し示す。
 転がる幾多の焼死体。
 それは全身ばらばらで路上にぶちまけられ、どこを見渡しても生存者などいなかった。
「ん〜、それはだな。オレとこのガキが半分ずつやったんだよ」
「鋼骨の魔剣士も、ですか?」
「いや、殺したのは全部オレだよ。そのガキは死体使いでな、死体を犬に変形させてオレを襲わせたんだよ。いや、なかなか手に汗握る戦いだったぜ。もう少しでオレも死んでたかもな」
 楽しそうに喋る戟耶、とても命のやりとりをした後とは思えない愉快な口調だった。
「念のために聞いておきますが、弁解をするつもりは?」
「あ〜、あるぜ。そいつが逃げたからオレが追った。オレが術使ったらそいつがかわして流れ弾でみんな死んじまったって話さ」
「狙ったのではなくて、ですか?」
「信じろよ、さすがにオレだってそこまで悪党じゃあない」
 戟耶の言葉は本当だった。
 クリスが魔剣を操るには炭素が必要、操ることの可能な物質がなくては鋼骨の能力がそもそも意味を成さない。
 だから、戟耶が無駄に大きく異層空間を展開し、鏡内界に多くの一般人が取り込まれたのはクリスにとっては幸運だった。
 クリスはあえて戟耶の攻撃を誘導、一般人が死体と化し、生きている人間の炭素は操れないという弱点を解消したのである。
 もちろん、戟耶はクリスの意図を理解していた。
 鋼骨の能力自体はわからなかったが、クリスが意図的に自分の攻撃を一般人に誘導していることくらいわかっていた。
 それでも一般人を巻き込んだのはクリスの奥の手が見たかったからだ。
 戦闘の強者である戟耶は同時に戦闘狂でもあった。
 その二人の思惑が多くの死者を生み、そして柴崎の戟耶に対する叱責の原因となっていた。
「無用な一般人の巻き込み、魔術結社のルール違反だ」
 告げる柴崎は懐からロープを取り出す。
 魔術結社の作った、対異能者用のロープ。
 これに体を拘束されると、異能者は異能者としての能力を発揮できない。
「戟耶さん、あなたを魔術結社に連行します。その後にしかるべき処罰を……」
「バッカじゃねぇのか!」
 怒鳴る戟耶。
 怒りが臨界点に近いのか、表情には憎悪が渦巻いている。
「お前ごときがオレを縛り上げるだと? バカにすんな雑魚が! オレはな、一般ピーポーを守るために影で巨悪を討つ正義の戦士様なんだよ。今回の犠牲だって必要な犠牲さ。このガキがさらに多くの人間を殺さないように全力で始末しようとしたんだ。そのせいで死んだ人間だって確かにいるかもしれねぇ。
 だがな、こいつを放置したらもっともっと人間が死ぬんだ。
 一よりも十、十よりも百、百よりも千。それがオレたちだろ、柴崎司! お前が一番そう口にしてるじゃねぇか!}
「そ、それは確かにそうだが」
「そうじゃねぇか、否定するな! オレは正しい、間違ってるのはテメェらさ。それともなにか? オレがこいつを殺さなかったら、オレが今まで異能者を殺してこなかったら何人の人間が死んでたよ? んん? きっとすごい数になるぜ。
 オレは多くの人間を殺し、さらに多くの人間を助けた。誰がどうみたって正義の味方だぜ、ついでにお前も似たようなもんさ」
 激しく言い放つ戟耶に、柴崎は言葉を返せない。
 確かにそうだ。
 多くを助けるためには少しの犠牲はしかたがない。
 それには文句はない、文句はないが……
 車を振り返る。
 散乱した死体のパーツ。
 黒焦げに焼かれ、異臭を放つ肉の塊。
 これは違う。
 これは守るためにやったことではない。
 被害を抑えるためにやったことではない。
 これは違うものだ。
 結果的に人が多く助かっているだけで、防ごうとすればいくらでも防げた事態なのだ。
 間違っている。
 戟耶という男は完全な間違いを犯している。
 柴崎の心は決まった。
 そして、それを戟耶に告げようとしたが、それよりも早く、痺れを切らした数騎が叫んでいた。
「そこの皮ジャン!」
「ん、カズキだったか?」
 自分に食いかかってくる数騎に、戟耶は面倒くさそうに視線を向ける。
「何か用か、片目」
「呪牙塵をよこせ」
「あぁ?」
 怒りに眉を寄せる戟耶。
 そんな戟耶に、数騎が一歩距離を縮める。
「お前がクリスをやってくれたらしいな。今オレはめちゃくちゃ機嫌が悪いが、素直に呪牙塵を渡せば半殺しで済ませてやらないこともない」
「無能力者が、ほざきやがって」
 戟耶が刃羅飢鬼を正面に構える。
 そして、そのまま大きく後ろに跳躍した。
 クリスと戟耶の距離が離れる。
 数騎はチャンスとばかりにクリスに駆け寄り、その体を抱き起こした。
 荒い呼吸。
 口元から頬に流れる胃液のせいで鼻を突く異臭がしたが、苦しそうな呼吸音からクリスが生きていることがわかる。
 抱きしめた腕に感じる体温をありがたく思いながら、数騎はクリスを抱きしめていた。
「気を抜くな、短刀使い!」
 叫びながら、柴崎は携帯していた魔飢憑緋を鞘から解き放つ。
 柴崎は戟耶の口元に注目し続けていた。
 動き言葉を紡ぎ続ける戟耶。
 声は小さく、だがその意味はあまりにも大きかった。
「魔幻凶塵餓狼無哭!」
 間に合うかどうかは賭けだった。
「憑惹破滅緋炎葬刻!」
 紡がれる言葉。
 だが、それよりも早く。
「刃怨狂陣(はえんきょうじん)、呪怨(じゅえん)」
 戟耶の術式が解き放たれた。
「魔飢憑緋!」
 わずかに遅れたとはいえ、柴崎も魔飢憑緋を開放した。
 瞬間、魔飢憑緋によって与えられた身体能力強化が柴崎の肉体をさらに俊敏なものにした。
 戟耶はクリスを抱きしめる数騎の体を回収すると、致死量の火炎を持って繰り出された戟耶の炎術を巧みに回避しきる。
 戟耶の炎術は回避され、アスファルトの地面に直撃した。
 激しい爆砕音とともに地面が弾けとび、煙と共に現れたのは丸く削り取られてできた穴。
「柴崎……何してやがる」
 数騎とクリスをそれぞれ両脇に抱えた状態で対峙する柴崎に、戟耶は怒りを隠しきれずに言った。
 そんな戟耶に対し、柴崎は凛とした表情でもって答える。
「これ以上の殺戮に意味はありません。対象は戦闘不能、この少年は私が無力化します。任務は中断せよとの桂原からの指示もあります。加えて戟耶さんにはこの惨状の弁解を魔術結社本部で行っていただきます。刀を納めてください」
「あ〜あ〜あ〜、誰がどの口で誰に何言っちゃってるのかな〜?」
 今の言葉が恐ろしく機嫌を害したらしい。
 戟耶は可能な限りの神経を逆撫でできそうな声で応じる。
「バカ言ってんじゃねぇよ、これは仕方なかったのさ。そうそう、正当防衛ってやつだ。それにこれ以上の殺戮は無意味だっていうが、そんな事はありえねぇ。
 そのガキはオレにケンカを売った、なら買ってやらねぇのは不親切ってもんだろう、それにオレはその実験体に殺されかけたんだ。殺し返したって誰も文句はないはずだ」
「私があります」
 柴崎が即答し、続ける。
「私が異議を申し立てます、あなたのやり方は間違っている」
「まぁた、あの時みたいに言うつもりか、紛いモン」
 殺気が立ち上ってきた。
 戟耶が刀を握り締める力を増し始める。
 柴崎も両手を離し、魔飢憑緋を握る力をこめた。
 脇に抱えられていたクリスと数騎が地面に落ちる。
 冷や汗の流れ出るのを感じながら、柴崎は戟耶を見つめる。
 火力においては戟耶が圧倒的に有利。
 いつもなら刻銃聖歌の火力をもってして火力戦を有利に戦う柴崎にとってはやりにくい相手だった。
 だが、今日は機動戦闘にもってこいの魔飢憑緋がある。
 チャンスは戟耶の詠唱が完成するまでの詠唱時間。
 蓄積詠唱は詠唱を重ねて唱えるというものであるため、単純計算詠唱時間が三倍必要となる。
 術士の弱点は詠唱時間であるとあらゆる異能者が知っている。
 そして、それは三倍の詠唱時間を必要とする戟耶にも当然あてはまる。
 もちろん戟耶とて剣術や体術において無能というわけではない。
 だが、身体能力強化によって柴崎の近接戦闘能力は戟耶の上を行くはず。
 そのように、柴崎は戟耶との戦闘による勝算を計算していた。
 その時だった。
「……さん……」
 か弱い声が聞こえた。
 もし誰もが口を開いていない時でなかったら、聞こえなかったであろう声。
「お……とう……さん……?」
 全員の視線が集中する。
 黒い煙をあげる車の中。
 天井が吹き飛び、ボンネットが叩き砕かれたその車の中から声が聞こえた。
「おか……さん……どこ……?」
 顔が見えた。
 黒炭のようになってしまった二つの、人の形をした消し炭の間から、白い顔が現れた。
「どこ……どこ……?」
 周囲を見回していたのは五歳にも満たない少年だった。
 外から見ていればわかる。
 彼が探している両親の姿は、彼のすぐそばにいた。
 おそらく戟耶の炎から守るためだろう、二人の親は自分達の体を盾にして少年を守った。
 そして死んだ。
 肉体を黒焦げにされながらも、二人は子供を守りきった。
 そのおかげだろう、少年は軽いやけどを負いながらも、奇跡のように白い体をしていた。
 瞬間、輝光がうねりをあげた。
 加速する殺気。
 そして、それが解き放たれた。
 繰り出されたのは火炎。
 渦を巻く火炎が、惨劇の中で唯一生き残った少年に襲い掛かる。
 動きは疾風、対応はまさに神速。
 まるで軽業師のような機動をもって、柴崎が少年の前に立っていた。
 振りかざす刀は真紅。
 その一閃を持って、襲い来る火炎を断ち切る。
 輝光によって作り出された炎は、輝光をかき消す紅鉄の刀によって存在を無とされた。
 刀を縦に一閃させた状態で動かない柴崎。
 その後ろでは、とうとう堪えきれなくなった少年が泣き出していた。
「何の……つもりですか……」
「何のつもり? 何言ってんだよ」
 炎を打ち出した張本人である戟耶が、不思議そうに聞き返した。
「目撃者は消す必要があるだろ? 何言ってやがる?」
「それは止む終えない時のみです、通常は薬物による記憶操作だと決まっているはずです」
「うるせえやつだな、面倒なんだよ、お前の言ってることはよ」
 次の瞬間、戟耶は柴崎の予想外の行動に出た。
「今はお前と遊ぶ時間じゃねぇ、少しだけ待ってな。すぐ遊んでやるからよ」
 戟耶は両足に輝光を集中させると、人間をはるかに超える速度で車道から道路まで走り抜けると、そのまま建物と建物の隙間、路地裏へと消えていってしまった。
 残された柴崎は激情を隠しきれなかった。
 魔術結社の尖兵は、裏の世界の異端者を討ち、人々を守るための存在のはずだ。
 だが、それが人々を襲い、さらに生き残った少年までも焼き殺そうとした。
 許されないことだ。
 自分の仲間とは、仲間と呼べる者は人々を守るための同志。
 それを外れた人間は、裏切り者や異端者となんら代わりが無い。
 柴崎は押さえきれない激情を胸に、戟耶の後を追おうとした。
 と、肩に何かが触れる。
 柴崎はとっさにそれを切り捨てようと振り返ったが、すぐに数騎の顔が見えたので、なんとか魔飢憑緋を停止させた。
「落ち着け、仮面使い」
「私が落ち着いていないと?」
「殺気だちすぎだ、それじゃ殺されるぞ」
 数騎の言葉は真実であった。
 激情にとらわれながらも、柴崎はなんとか冷静さを失ってはいなかった。
 落ち着きを取り戻すと、柴崎は数騎の顔を真っ直ぐに見る。
「助言は感謝する。もう少しで何も考えずに突っ込むところだった」
「お前らしくも無いな、もっと冷静になってくれ」
「承知した」
 柴崎は魔飢憑緋を鞘に収めると、戟耶の後を追おうと歩き出す。
「ちょっと待て」
 引き止める数騎。
「オレも連れて行ってくれ」
「お前を? 足手まといだ」
「そうでもないだろ?」
 試すように言う数騎。
「お前、あいつより弱いんだろ?」
「輝光の量も測れないお前にわかるのか?」
「わかるさ、お前あいつの前だと緊張しっぱなしだった。あいつのほうが技量は上なんだろ、一人で勝てるか?」
「やるしかないだろう、どのみちヤツを見逃すわけにはいかない」
「増援は?」
「期待できないな、仲間は全員交戦中だ」
 言われ、数騎は少しだけ苦い顔をする。
 何しろヴラド一派が桂原たちを足止めしているのは自分が原因なのだ。
 それに言及しないようにしながら、数騎は口を開いた。
「オレが協力する、あいつを殺すぞ」
「協力すると言われても、どうする気だ?」
「知らん、オレはお前ほど戦闘に卓越してない。でもわかってることは、あと十分ちょっとでクリスが死ぬってことだ」
 言って、数騎はちらっと苦しそうにしてアスファルトに横たわるクリスを見る。
「仮面使い、オレが冷静に見えるか?」
「見える」
「そうでもない、オレはかなり焦ってる。今すぐにでもあの革ジャンを殺しに行きたい。でもわかってる。オレ一人じゃあの革ジャンは殺せない。お前の助けがいる、助けてくれ。オレは何だってする。だから……」
 言葉を切り、数騎はゆっくりと続けた。
「だから、オレにクリスを助けさせてくれ」
「……いいだろう、協力してもらう。続きは走りながらだ」
 そう言うと、柴崎は数騎に背中を向けて走り出す。
必死でついて来る数騎に、柴崎は拳銃を放りなげた。
 それは黒き銃身、刻銃と呼ばれる柴崎の魔剣だった。
「これは?」
「刻銃、私の切り札だな。正確にはこれだが」
 そう言うと、柴崎はさらに懐から弾丸を取り出してみせる。
「刻銃聖歌、瞬間放出二十五を誇る私の切り札だ。受け取れ」
「ちょ、ちょっと待て。オレは無能力者だぜ。魔剣なんか使えないぞ」
「いや、使える。この刻銃と言う魔剣は無能力者も使用可能な魔剣なんだ」
「おい、昔オレには使えないって説明しなかったか?」
「お前に無茶させたくなかったから方便を使っただけだ。それに、今はそんな話をしている暇はないだろう?」
「わかった、使い方を教えてくれ」
 言われ、柴崎は数騎の手にする刻銃のシリンダーに刻銃聖歌の弾丸を装填する。
「刻銃の能力は無能力者に一級の戦闘力を付与するために製造された魔剣だ。だが、弾丸の制作費が法外すぎて大量生産に向かないという弱点を持ち合わせている。弾丸は装填して詠唱を唱え引き金を引けば術式が開放される。呪文は知っているか?」
「我が放つは、断罪の銀」
「刻銃聖歌。その通りだ、わかっているじゃないか。刻銃聖歌と唱えるタイミングで引き金を引け。絶対に詠唱を忘れるな、詠唱無しに魔剣は起動しない」
「わかった」
 刻銃を胸に抱きしめ、数騎はしっかりと頷いてみせる。
 そんな数騎に、柴崎はもう一つ弾丸を取り出して、数騎に見せ付ける。
「作戦は簡単だ。私があの男を引き寄せる。お前は私がヤツをおびき出す場所で待機していろ。そしてそこに刻銃を叩き込む。伏撃を決める。これ以外に勝利することはできない」
「真正面からは勝てないのか?」
「難しいな。やつの最大放出は九十、だが詠唱時間の関係で魔飢憑緋を持つ私相手には放出量二十の火術が限界だろうな」
「じゃあ刻銃で勝てるじゃないか」
「無理だ、やつはそれを同時に三つ撃ちだしてくる。合計で威力六十。それが戟耶という男の力だ」
「仮面使い、思うんだけど伏撃だけじゃ勝ち目が薄いと思う」
「なぜだ?」
 少しだけ振り返りながら聞く。
 数騎は必死で走りながら続けた。
「上手くお前が誘導できてもあの革ジャンが詠唱をストックしてたらどうしようもない。一辺に放出するなら六十かもしれないけど二十を三回繰り出すことも可能なはずだ。伏撃もいい手段だ。でも、あの革ジャンを殺したいならその一段上を行かないと」
「どうしろというのだ?」
「もちろん伏撃。ただし真正面からぶち倒す」
「どうやって?」
「その前に質問、刻銃の弾丸って銃身がないと使えないのか? 実際の拳銃の弾は銃身無しで一応飛ぶけど」
「できなくはないぞ、ただし詠唱の時間が倍以上になる」
「なんでだ?」
「魔剣たる銃身が詠唱の手助けをしてくれるからだ。そもそも刻銃の弾丸は魔術師が呪文を唱えるための輝光をストックするためのバックアップにすぎない。それに術式を加えて魔術とするにはさらに詠唱が必要だ」
「なるほど、じゃあ詠唱さえ唱えれば、刻銃がなくても、誰でも刻銃聖歌は撃てるんだな?」
「撃てる」
「なら行ける、真正面から打ち破るぞ」
 自信を持って数騎が答えた。
 そんな数騎に、柴崎は疑問をぶつけた。
「どうする気だ?」
「オレが刻銃を使って、仮面使いは詠唱を唱えて刻銃聖歌を打ち込む。これで合計五十」
「あと十はどうする気だ?」
「魔飢憑緋でかき消す」
 数騎の視線は柴崎の腰にある魔飢憑緋を見ていた。
「なるほど、魔飢憑緋の対輝光能力が三つ目の術の代用となるわけだ。なるほど、それなら戟耶が術式を完成させていた状態でも確実に取れる」
「あとはタイミングだ。タイミングよくオレとお前の術が打てなければあの男の勝ちになる」
「任せろ、お前が撃つタイミングで術を解き放ってやる。タイミングはお前が決めろ。それで勝負をつける」
「わかった、任される。その前に、二つ頼みがある」
「何をだ?」
 尋ねる柴崎に、数騎は早口で告げた。
「一つは弾丸だ。失敗した時のために予備が欲しい」
「いいだろう、五発あるからお前に三発渡しておこう。もう一つは何だ?」
「いつ何が起こるかわからない。刻銃が無くても詠唱が唱えられるように刻銃無しで刻銃聖歌を撃つ詠唱を教えてくれ」
「構わないが、意味は無いかもしれないぞ」
 言葉を切り、柴崎は真剣な顔で続ける。
「お前の手から刻銃が離れた場合、おそらくは私達の敗北が決まっている頃だろう。戟耶ほどの男を前に、なんの体術も持たないお前が詠唱しきれるほど短い詠唱ではないぞ」
「それでもだ、知らなくて後悔するなら知っていて後悔したい」
「わかった、それでは教えよう」
 柴崎は、三度同じ詠唱内容を口にし、数騎はそれを完璧に暗記する。
 その後、柴崎は数騎を絶好の迎撃位置まで案内すると、すぐ側にいるであろう戟耶の側まで向かったのであった。






「待たせたな、戟耶」
 月光が照らすその路地裏。
 横幅八メートルという広さを持つそこで、戟耶がつまらなそうに、鞘に入れた刃羅飢鬼手にしながら待っていた。
「おい、げ・き・や・さ・ん……だろうが」
「貴様など戟耶で十分だ、この殺人鬼め」
「テメェとどう違うっていうんだよ? お前だって殺しまくってるじゃねぇか」
「私はお前とは違う」
 柴崎はそう答えると、腰にさしていた魔飢憑緋の鞘に手をあてがう。
「オレとやるってか、楽しいねぇ」
 嬉しそうに口元をゆがめながら、戟耶は続けた。
「それにしてもお前だけとはね。あと十分であの金髪が死ぬからカズキって男の方が来ると思ったぜ」
「貴様と戦って無駄死にさせるのも可哀そうだからな、置いてきたよ」
「なるほど、柴崎さんはお優しいことだな」
 そう口にすると同時に戟耶が刃羅飢鬼を抜き放った。
 それに呼応するように柴崎も魔飢憑緋を引き抜く。
「刃怨狂陣羅轟魔葬(ばえんきょうじんごうひまそう)」
「魔幻凶塵(まげんきょうじん)餓狼無哭(がろうむこく)」
 響き響き渡る詠唱。
「飢装炎武鬼塵咆哮(がそうえんぶきじんほうこう)」
「憑惹破滅(ひょうひはめつ)緋炎葬刻(ひえんそうこく)」
 月下に輝く紅と蒼。
 そして、
「刃羅飢鬼(ばらがき)」
「魔餓憑緋(まがつひ)」
 二振りの準魔皇剣が全く同時に起動した。
 互いの距離は八メートル。
 詠唱を唱えるには十分な時間だった。
 先に仕掛けたのは柴崎だった。
 魔飢憑緋によって与えられる身体能力強化をいかして戟耶に接近する。
 あまりに早い接近、だが戟耶の詠唱はそれを上回った。
 繰り出される炎。
 柴崎はそれを魔飢憑緋の対輝光能力で対応しようとするが、すぐに危険性に気付いて後方へ飛ぶ。
 爆砕音。
 柴崎がいたであろう場所で炎が爆発を起こし、轟音と破壊を撒き散らした。
 戟耶本人の最大放出は三十。
 その限界ギリギリの破壊力を持ったその一撃を、戟耶は惜しげもなく繰り出してきた。
「へぇ、かわしたか。突っ込んでくるかと思ったぜ」
「やる……」
 いきなり戟耶は不利を悟ることとなる。
 そもそも、魔飢憑緋のゾンビを倒すために柴崎がとった作戦が魔飢憑緋の対輝光能力を上回る輝光放出魔剣による一撃。
 それと全く同じ対処方を戟耶はとってきたのだ。
 しかも威力は刻銃聖歌よりも上。
 正直言って対処できる威力ではない。
 いきなり柴崎は不利になった。
 術は飛び道具。
 それに対して刀は近接武器。
 加え、飛び道具とは対象に近づけば近づくほど命中率を増す。
 導き出される結果は、近接戦闘を強要される魔飢憑緋で、打ち消せないほどの威力の術を持つ敵との戦闘は圧倒的に不利であるということ。
 しかも戟耶はその致死性の呪文を三つまでストックできる。
 通常の魔術師に対して用いる、呪文発動と詠唱の隙を突くという戦術が取れない。
 刃羅飢鬼と呼ばれる魔剣。
 それは魔剣でありながら魔術師の手に渡ると異様なまでの力を発揮するという理不尽な魔剣だった。
「さぁ、どうする柴崎。来ないのか」
 挑発する戟耶。
 それに対し柴崎は、動かず戟耶の出方を待つ。
 もちろんこのにらみ合いは柴崎に不利だ。
 詠唱して呪文をストックする戟耶に、時間を与えることは自分が不利になる原因を作るに他ならない。
 そうこうしているうちに戟耶の術が三つ全てストックされた。
 詠唱でわかる、術は詠唱時間と威力のバランスが一番効率のよい火術。
 合計輝光量は六十だ。
 柴崎は後ずさりしながら戟耶から距離をとると、不利を悟って一端戟耶に背中を見せる。
「逃げる気かよ、逃がすか!」
 叫び、戟耶は背中を向ける柴崎に追いすがった。
 柴崎は、チラチラと戟耶が追ってくるのを確認しながら距離を離しすぎず、されとて近づけすぎない距離を開けて逃走を続ける。
 ここにきてようやく数騎の進言をありがたく思った。
 戟耶の術ストックを枯渇させて迎撃地点までおびき出すのは、今考えれば至難の罠と言える。
 その上、ストックが減っている状態で逃げて見せては怪しまれてしまうだろう。
 だが、ストックが満タンの状態で逃げたなら話は違う。
 それは不利を悟っての退却として戟耶の目に映る。
 戟耶は獲物を追うつもりで、自分が獲物として扱われているとは夢にも思わない。
 三流は獲物を罠に追い込むが、一流は罠に誘い込む。
 敵を誘い込み伏兵でもって殲滅する戦術は、多くの名将が用いた釣りの野伏と呼ばれる。
 柴崎はまさにそれを実践していた。
 迎撃地点の近くまで来たのを悟ると、柴崎は輝光を全開にして戟耶から一気に距離をとった。
 もちろん逃げる地点がわからなくならないようにしっかりと自分の輝光を高ぶらせて戟耶が気配を感じ取れるようにする。
 そして、そこに到着した。
 横幅が六メートルほどある路地裏。
 三方をビルで囲まれ、非常階段こそ設置されているものの、一言で言って袋のねずみというヤツだった。
 戟耶が来るまであと二十秒。
「覚悟をきめろ、仮面舞踏の始まりだ」
 自分にそう言い聞かせ、まず柴崎は仮面を顔にかぶる。
 それが終わると、だいたいの予測を立て、柴崎は詠唱を唱え始めた。
「我、邪悪を討ち滅ぼす光を欲する」
 迫る気配。
 慌てることなく詠唱を続ける。
「与えたまえ剣を。与えたまえ鏃(やじり)を。魔たるものを討ち滅ぼすため、数多の光を取りそろえ、我は邪悪を討ち滅さん」
 気配はもうすぐ側だった。
 詠唱が間に合わないかもしれない。
 柴崎はあせりを押し殺しながら続ける。
「神罰の炎、煉獄の雷。破壊をもって嗤う邪悪を、光をもって昇華せん。与えよ力、与えよ魔力。金色(こんじき)に光しその牙を、我らが前に示したまえ」
 ようやく戟耶が柴崎の眼前に現れた。
 術式は完成間近。
 あとは須藤数騎の術式発動を待つだけだ。
「柴崎、お前とも長い付き合いだったな」
 刃羅飢鬼を真正面に構えながら、柴崎に戟耶はゆっくりと歩み寄っていく。
「だが今日でお別れだ。仲間連中にはお前は鋼骨の魔剣士と戦い勇敢な戦死を遂げたと伝えておいてやるぜ」
 そう口にした瞬間、戟耶の輝光が急激に高まり始めた。
「降魔(ごうま)、業魔(ごうま)、轟魔(ごうま)、迸るは灼熱の息吹」
 詠唱が紡がれる。
 一度ストックした呪文の再起動に長い術式は必要ない。
「刃怨狂陣(はえんきょうじん)、呪怨(じゅえん)」
 最小限の詠唱。
 宙に浮かび上がる三つの頭を持つ竜。
 その口から、無視する事などできない規模で火炎が迸る。
 そして、
「我が放つは……」
 その詠唱は、
「断罪の銀!」
 戟耶の術式と全く同時に紡がれていた。
「刻銃(カンタス)聖歌(グレゴリオ)!」
 非常階段の二階。
 地面からは死角になっている位置に潜んでいた数騎の握る銃口から、戟耶に向かって輝光弾が繰り出された。
 火炎に食らいつく刻銃の弾丸。
 だが、威力において数騎が劣っているのはあまりにも明白。
 だからこそ、
「我が放つは……」
 柴崎はその呪文を、
「断罪の銀!」
 数騎の術が残っている間に解き放つ。
「刻銃(カンタス)聖歌(グレゴリオ)!」
 戟耶がまるで野球場に立つピッチャーのようにして弾丸を投擲する。
 弾丸は光に包まれ輝光弾と化すと、数騎の術に覆いかぶさるように戟耶の炎に襲い掛かった。
 お互いに威力を奪い合う輝光たち。
 だが、このまま放置してはいけない。
 威力で言うなら刻銃聖歌二発でも戟耶の術には敵わない。
 柴崎は魔飢憑緋を握り締める。
 身体強化をしっかりと確認すると、柴崎は戟耶に向かっていった。
 もはや戟耶の術は魔飢憑緋の一薙ぎに抗し得るだけの威力を持ってはいない。
 術を消された直後の戟耶は二の手を失う。
 接近戦なら十分に勝機がある。
 接近戦での勝利を望み、柴崎は戟耶に向かって突き進む。
 炎の向こう。
 消え去りそうなその炎の向こうで、戟耶の口が動いていた。
 今からでは最初から詠唱しても間に合わない。
 無駄なあがきかと思われた。
 が、それは無駄どころの騒ぎではなく。
「死ね!」
 どこをどう捉えようと致死的なものだった。
 そう、そもそも戟耶が術を三つまでしかストックできないという前提が間違っていたのだ。
 確かに刃羅飢鬼は呪文を三つストックできる。
 それに加え、本来術士なら誰でも可能な一つ分だけの詠唱ストックを戟耶は使用することができる。
 戟耶のストックは四、術式を撃ち尽くした状態の不利をしる戟耶は、一度の放出を三つに留めておき、残りの一発は保険として取っておく。
 だから誰も気がつかなかった。
 戟耶の本当のストックは四。
 そして、土壇場でそれを知った柴崎に、もはや回避も迎撃も許されなかった。
 そう、柴崎には許されていなかった。
 故に、
「我が放つは……」
 その危機を救うためには、
「断罪の銀!」
 第三者の力が必要不可欠。
「刻銃(カンタス)聖歌(グレゴリオ)!」
 三発目の刻銃聖歌が唱えられた。
 頭上から繰り出されたその一撃は、戟耶の放った第三の炎を、戟耶の手から繰り出された瞬間に相殺した。
 それは千載一遇のチャンスだった。
 柴崎はひるむことなく戟耶に突撃を続け、行きがけ駄賃に二発の刻銃聖歌により弱体化していた炎を魔飢憑緋で斬って捨てると、戟耶の真正面まで肉薄する。
「くそがぁぁぁぁぁ!」
 刃羅飢鬼を振りかざす戟耶。
 それを柴崎は魔飢憑緋を構えて応戦する。
 剣風が巻き起こった。
 もはや戟耶の呪文の詠唱をする暇など無かった。
 肉薄する柴崎の剣撃を、自らの技量を最大限に生かして受け流す。
 戦いは一進一退。
 月下に閃く紅と蒼が、赤き血液を望み舞踏を舞う。
 二十と刀を合わせるうちに、ようやく勝負が見えてきた。
 刃羅飢鬼は中距離射撃戦闘特化しており魔飢憑緋は近距離機動戦闘に優れている。
 接近戦という状況において、魔剣の特性が勝敗を分けた。
 自分の術式によってのみ身体強化を行っている戟耶に対し、魔飢憑緋の身体強化を自分の術式に重ねがけしている柴崎は、接近戦での勝利を我が物にする権利があった。
 鋭い一撃に、戟耶が刃羅飢鬼を弾き飛ばされた。
 不利を悟り、戟耶が後ろに後退する。
 もちろん素手で戦い続ける気は無い。
 取り出したのはサバイバルナイフ、呪牙塵と呼ばれる呪われし魔剣。
「死ね、柴崎!」
 叫びながら戟耶は呪牙塵を柴崎の肉体に突きたてようとした。
 だが、そんなことを許す柴崎ではない。
 柴崎は鋭く横薙ぎの斬撃を叩き込む。
 戟耶は危ういところでその一撃を回避した。
「なっ……」
 そして、
「なんだと!」
 その一撃が炸裂した。
 回避行動を取った戟耶。
 その行動のために一瞬両足が離れた瞬間を突き、不可避の一撃を叩き込む技巧。
 繰り出された斜めの斬撃は戟耶の頚動脈ごと、首を半分以上叩き斬った。
 吹き上がる血液。
 飛び散る生命の奔流。
 戟耶は知らなかった。
 柴崎が被っている仮面が須藤数騎の能力をコピーした仮面である事。
 そして、数騎が燕返しという技巧を操ると言う事を。
 知らない相手にとって、燕返しはあまりにも致命的な技だ。
 そして知らなかった故に対処できず、戟耶は柴崎の追撃を回避できなかった。
 地面に倒れ、首から血液を迸らせる戟耶を見下ろし、柴崎は大きく息をついて仮面をはずした。
 顔中に汗、よほど戟耶と相対したのに疲労したのだろう。
 柴崎は肩で息をしていた。
「それにしても……」
 呼吸を整えながら、柴崎は横で戦いを見守っていた人物に声をかける。
「お前に助けられとはな」
「私もあなたを助ける事になるとは思わなかったわ」
 そう、柴崎の側にいたのはカラスアゲハだった。
 四つめの火術、それを迎撃するために二人の頭上から刻銃聖歌を放ったのはカラスアゲハだった。
 ギリギリまで詠唱を唱えて潜み、機を狙って二人の頭上に跳躍すると、真上から術式を開放したのだ。
 もちろん、カラスアゲハに協力を依頼したのは数騎だ。
 デパートの屋上遊園地で、桂原からの報告に敵は同数というものがあった。
 つまりは三人、だがヴラド一派の人数は四人だ。
 そして、それが数騎にカラスアゲハが戦闘に参加していないことを悟らせた。
 戟耶との戦闘中、カラスアゲハが援護のために自分に接触する可能性がある。
 そう考えた数騎は柴崎から刻銃の弾丸、そして銃身なしの詠唱を教わった。
 カラスアゲハに弾丸を譲渡し、いざと言う時に援護を願うためだ。
 そして、それが柴崎の命を救った。
 カラスアゲハとしては柴崎を見捨てて戟耶を狙い撃ちするつもりだったが、初めて使う上に銃身がないため狙いがそれて柴崎を守る結果となった。
 もし戟耶を狙えていれば今頃柴崎も焼死、一夜に二人も撃破する大戦果となっていたはずなのだ。
「命拾いしたわね、仮面使いさん」
「そのようだな、礼は言っておくぞ」
「どういたしまして」
 と、そのようにカラスアゲハと柴崎が話しているところに、階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
 それは数騎の走る音だった。
 頚動脈を切り裂かれ、致命傷を負った戟耶が事切れたとのを上から見て確認したため、呪牙塵を回収するために降りてきたのだ。
「仮面使い、お疲れ様」
「お前もな、短刀使い」
 次に数騎はカラスアゲハに目を向ける。
「約束は果たしてもらった、感謝する」
「その約束のせいで私、メイザースのところに戻ったら殺されちゃうかもしれないのよ」
 ため息混じりにカラスアゲハは答えた。
 そう、カラスアゲハはヴラドの命令で数騎を助けに来たわけではない。
 約束を守るため、ヴラドの命令を無視して数騎を助けに来たのだった。
「まぁ、敵さんを一人殺したってことで許してもらえるかもね。まぁ、あんたが心配する事じゃないわ」
「ありがとな、カラス」
 カラスアゲハにそう微笑んで見せると、数騎は戟耶の側まで近づいていった。
 右手に握られたサバイバルナイフ。
 間違いない、呪牙塵だ。
 ちゃんと柄に解呪の宝玉も取り付けられている。
 数騎はようやくクリスを助けられる事に喜び、しゃがみこんで戟耶の右手に手を伸ばす。
「えっ?」
 右手に痛みが走った。
 手の甲。
 そこに刃が突き立っていた。
 顔を見る。
 戟耶の顔。
 生気を失った瞳。
 戟耶は生きていた。
 致命傷を負いながらも死んでいなかった。
 事切れたフリをして、獲物が近づくのを待っていたのだ。
 三流は獲物を追い込むが、一流は獲物を誘い込む。
 戟耶は、間違いなく一流だった。
 戟耶は体中を血まみれにしながら上半身を起こすと、数騎の手の甲から呪牙塵を引き抜く。
 最期の力を振り絞った。
 横なぎの一撃は数騎の右太ももを浅く切り裂く。
 数騎の回避運動は、わずかに間に合わなかった。
 それと同時に戟耶の肉体が十二の肉塊に分解された。
 それは鋼糸と呼ばれる糸。
 戟耶の生存を確認した刹那、カラスアゲハは戟耶の肉体をズタズタに切り刻んだ。
「やって……やったぜ……」
 喉から空気を漏らしながらも、戟耶は四肢を失った状態で嗤っていた。
「ざまぁみろ、これでどちらかしか助からねぇ。先に地獄で待ってるぜ」
「行くのはオレだ、すぐ会いに行ってやる」
 答えたのは数騎だった。
 戟耶はそんな数騎に一瞬目を合わせると、
「楽しみだ」
 そう言って瞳を閉じた。
 意識を失い、命までも失う数刻前。
 戟耶はかすれた声で、この世界で口にする最期の言葉を無意識の内に紡いでいた。
「母さん……」
 そして心臓が停止した。
 最期にその言葉だけを残して、戟耶と呼ばれた魔剣士は死んだ。
 その傍らに立っていた数騎だったが、自分で体を支えられなくなって地面に倒れ付す。
 その肉体には全身に呪牙塵の呪いの刺青が施されていた。
「あと十五分で死ぬんだっけ?」
 数騎が柴崎に尋ねる。
 戟耶の声が大きかったせいで離れていた数騎たちにもクリスと戟耶の会話の内容は聞き取れていた。
 人がほとんど存在しない鏡内界ゆえの現象だった。
「あぁ、お前の命はあと十五分だろう」
「そうか、残念だ」
 嬉しそうに残念がる数騎。
 その手にはいつの間にか呪牙塵が握り締められていた。
「この宝玉、飲めば助かるんだよな」
「あぁ、飲めば助かる。飲め」
「飲まねぇよ。死者との約束を違えるわけにはいかないだろ」
 そう言って数騎は柴崎に笑ってみせる。
 普段の数騎の態度からは想像もできないほど純真で、子供っぽい笑顔だった。
「クリスのところまで連れてってくれ。あいつはオレを待ってるはずだ」
「本当に飲まない気か? 呪牙塵で二度切り裂かれたら一週間持たない。本当にあと十五分なんだぞ」
「クリスにはもう五分くらいしか残ってない、連れてってくれ」
 柴崎の問いかけに答えず数騎は言いたい事だけを言う。
 柴崎は数騎の説得をあきらめると、立ち上がる力さえ失った数騎の体を背負った。
 数騎はその状態で顔をあげ、カラスアゲハに笑ってみせる。
「カラス、お別れだ」
「もう会えないってこと?」
「そういうこと、助けに来てくれてありがとう。おかげでオレは愛する人を助けられそうだ」
「それってあなたの想い人?」
「家族さ」
 それを聞き、カラスアゲハは眉をひそめて見せた。
「家族が命よりも大切なの?」
「命よりも大切だから家族だろ」
 そう言われカラスアゲハはきょとんとした顔を数騎に見せる。
 数騎にとって、カラスアゲハのそのように気の抜けた顔を見るのは、これが最初で最後だった。
「そうかもしれないわね、命よりも価値の無い家族は家族じゃない。私にはそんな人はいないけど、あなたの気持ちわかるわ」
 答えるカラスアゲハに数騎は不思議そうな顔をしてみせる。
 そして、意地悪そうに笑みを浮かべた後、柴崎に言った。
「じゃあ行ってくれ、仮面使い。早くクリスのとこまで行かないと。じゃあな、カラス。これからも元気で」
 数騎がそう言い終わるのを確認すると、柴崎は数騎を背負ったまま夜の闇へと消えていった。
 カラスアゲハはその背中は見えなくなるまで見つめ続けると、自分達の隠れ家に帰るために足を動かし始める。
 歩きながら、カラスアゲハは最後の数騎の反応について考えていた。
 不思議そうな顔、そして意地悪な笑顔。
 それが何を意味していたのか。
「あ、そうか……」
 カラスアゲハに家族の概念は理解できなかったが、似たような概念は理解できた。
 そもそもなぜ自分がここにいるか、それが答えだった。
 命令に違反したのだ、下手をすれば処刑されるかもしれない。
 それでも数騎を助けに来た。
 それが意味するところは、
「なんだ、私も自分の命を顧みてなかったのね」
 バカみたい。
 カラスアゲハは心の中で続ける。
 カラスアゲハは呪牙塵の能力を知っていた。
 そして、それで数騎はクリスという少女を助けるであろうことも予測できていた。
 止める気はないし止めようとも思わない。
 数騎はそれを選んだのだ、それに干渉する権利は無い。
 だから止めない。
 足は隠れ家のホテルへ、意識は死に逝く少年へ。
 歩き続けるカラスアゲハの表情は、悲しみに満ちていた。






「間に合った!」
 戟耶に背負われた数騎がクリスの元にたどり着いた。
 アスファルトに横たわるクリスは、完全に力を失いぐったりとしていた。
 口の周りには血。
 胃の内容物を履きつくし、胃液を吐き、それでも吐きたりず、血まで吐いていたのだ。
「あぶなかったな、最終段階だ。あと少しで灰になるところだった」
 柴崎が数騎に説明する。
 柴崎は呪牙塵によって死ぬ人間の末路を一度見ていた。
 だからわかる。
 吐くものを全て吐き終わった後に待っているのは灰となって死ぬ運命だけだ。
 柴崎は数騎を背中から降ろすと、自分でろくに動く事もできない数騎の体をクリスの顔の側まで運んでやった。
「さぁ、助けるならお前の手で助けてやれ。私がそれをやるのは役不足というものだ」
「仮面使い、日本語間違ってるぜ。役不足ってのは自分の技量では足りない役のことじゃなくて、トップスターがエキストラをやるような時に使うんだ」
「なるほど、御教授感謝する」
 まるで世間話でも話すような応答。
 その応答には微塵の恐怖も感じられない。
 ここまで自分の死に冷淡な男に、柴崎は少々驚かされてしまった。
 そんな柴崎を尻目に、数騎は呪牙塵の柄から宝玉をはずした。
 それをクリスの口元に運ぶ。
「クリス、聞こえるか」
 その言葉に、クリスは涙の浮かぶ瞳をゆっくりと持ち上げる。
「呪牙塵を回収したぞ、この宝玉を飲めば助かる。口を開いてくれ」
 力なく口を開くクリス。
 そして、数騎の手にある宝玉はクリスの口の中に吸い込まれる。
 だが、クリスの体に変化は起きない。
 神楽を助けた時は一瞬で消えた呪いの刺青が、まったく消える気配を見せないのだ。
「どうなってんだ?」
「恐らく二度切り裂かれたために呪いの力が強いのだろう。大丈夫だ、決して癒せないことはないだろう。時間がかかるがその内ちゃんと解呪されるはずだ」
 数騎の疑問に、柴崎は数騎が安心できる内容でもって答えた。
 それを聞いた数騎は嬉しそうに微笑むと、限界まで張り詰めていた肉体を地面に倒れさせた。
「あ〜、疲れた。オレももう齢だね」
「何を言うか、私よりも十分若いではないか」
「ならお前は、もうろくしたじじぃだろうよ」
「否定はしないでおいてやる」
 楽しそうに会話を交わす二人。
 正直、こんな日が訪れるとは思わなかった。
 一人の女性を助けようとした二人は、その女性を助けられなかった。
 だが、同じ状況が差し迫った時、二人は今度こそ一人の女性を助ける事ができた。
 それが、二人の心を軽くしていたのだった。
 仰向けに倒れる数騎は、柴崎の顔を見上げる。
「頼みがある」
「聞こう」
「クリスをさ、オレの体の上に乗っけてくれないか」
 それを聞いて、柴崎はクリスの体を優しく持ち上げると、くの字に体を丸めた状態でクリスを数騎の上に乗せた。
 下半身はアスファルトの地面に、上半身は数騎の胸の上、そして顔は数騎の真正面に。
 自分の上に乗るクリスを、数騎は愛おしそうに抱きしめた。
「クリス、約束は守ったぞ。オレは帰ってきたし、お前も助けられた。本当に満足だ」
 感慨深げにそう言うと、数騎はクリスを抱きしめる力を強くした。
 苦しそうな呼吸、熱っぽい体。
 だが、体に触れるクリスは本当に柔らかく、そして温かい。
 せめて自分がこの世から消え去るまで、この温もりが存在してくれれば。
 それだけで数騎は満足だった。
 少女は言った。
 一人で死にたくないと。
 全く同感だった。
 自分も一人では死にたくない。
 そして、それは叶った。
 抱きしめられる小さな少女。
 彼女の温もりだけが、須藤数騎の人生にとっては間違いなく真実だったのだろう。
 そんな事を考えていると、クリスがゆっくりと目を覚ました。
「起きたか、おはようクリス」
 急激に悪化し、吐き気すら催す体調でありながら、数騎はクリスを心配させないように満面の笑みを浮かべて見せた。
 クリスは弱々しく、だけど本当に優しい笑顔を数騎に向かって浮かべた。
 顔が近づく。
 ゆっくりと、でも確実に。
 濡れた唇が数騎の顔まで迫ると、クリスは数騎の唇に自分の唇を重ねた。
 それは唇が接するというよりは、まさに重ねている状態だ。
 自分の舌を相手の口の中で這わせるディープキス。
 口の中にクリスの唾液が流れ込んできた。
 数騎は迫るクリスに驚き、その唾を飲み込んだ。
 そして、悪化する体調が一瞬にして収まった。
「なっ!」
 驚いてクリスを見る。
 苦しそうな顔、呼吸はつらそうで、長い髪は汗で顔に張り付いている。
 そして、未だに体中を蹂躙している刺青。
 慌てふためき、数騎は自分の体を見た。
 消えていた。
 体中を蝕んでいた、呪牙塵の呪いが消えていた。
 再びクリスに視線を戻す。
 未だに存在する刺青。
 それが意味することは。
「クリス、何をやった?」
 わかっている。
 飲み込んだのは唾液だけではない。
 それと一緒に、小さな固形物が喉に入っていくのを感じた。
「何をやったんだよ、お前は!」
 悲痛な叫び。
 だが、依然としてクリスは笑顔だった。
 そう、簡単な話だ。
 どちらか片方しか生き残れない。
 そして、クリスは選んだ。
 クリスは、数騎を助ける事を選んだのだ。
「どうしてだよ……どうしてこんなことするんだよ!」
 数騎の悲鳴にもとれる叫び。
 顔はゆがみ、どうしようもないほど涙があふれる。
 数騎はすでに体を起こしていた。
 アスファルトの地面に座り込み、力なく倒れているクリスの体を抱きしめる。
 数騎の頬を伝う涙がクリスの顔を濡らした。
 クリスは苦しそうにしながらも、笑顔を浮かべながら数騎の頭を、まるで赤ん坊をあやすように撫でてあげた。
「数騎が生きていてくれることが……私の幸せだから……」
 弱々しく答えるクリス。
 そんなクリスを、数騎は涙も止めようとせずに抱きしめ続ける。
「頼んでないだろ? そんなことオレは頼んでないだろ!」
 まさに悲鳴だった。
 あまりにも悲しすぎるその泣き声。
 数騎は救いを求めようと柴崎の顔を見上げる。
 柴崎は、悲痛な面持ちで首を横に振った。
「なんで……どうしてこんなことになるんだよ……」
 絶望が心を支配し、数騎はクリスを失うまいと抱きしめる力を強めた。
 この温もりが失われるなど、クリスがこの世から消え去ってしまうなど許せるものか。
 それだけが、数騎の心を支配していた。
「あのね、数騎。今までありがとね」
「やめろよ、まるでお別れみたいじゃないか」
 涙が止まらない。
 それでも、クリスの声が良く聞き取れた。
「私はいなくなっちゃうけど、私はずっと数騎と一緒だよ」
「嘘だよ、死んじまったらそれまでじゃないか」
「うん、そうかもしれない。でもね、それだけじゃないんだよ。数騎が思い出してくれたら、私は数騎の中に生きてるの。私が本当に死ぬ時は、誰も私を思い出せなくなった時なの。お姉ちゃんがそう言ってたんだ。だから数騎は、私のこと忘れないでね」
「忘れない……忘れないから……だから……だから逝かないでくれよ……」
 恥も外聞も捨て、泣き続ける数騎。
 そんな数騎を、クリスは優しく抱き返す。
「私に会いたくなったら目を閉じて、きっと瞼の裏には私がいるから。たとえ離れ離れになっても、あなたの瞼が……」
 そこまで言うと、クリスは数騎を抱きしめる力を失った。
 体のいたる部分が灰と化していく。
 クリスがこの世界にいられる時間は、もはや数十秒しか残されていなかった。
 灰と化していく最中。
 涙まみれにクリスを見つめている数騎。
 そんな数騎に、クリスは死に逝くものが浮かべるとは思えない慈愛の笑みを浮かべて見せた。
「数騎……最後に一つだけ言い忘れたことがあるの……」
 体は下半身から消失をはじめていた。
 体重が、自分の体に感じていたクリスの重さが失われていく。
 灰になっていくクリス。
 だがその顔は、未だに原型をとどめている。
 これが最後の言葉。
 それを口にしたら、もう喋る事は何もないだろう。
 クリスにとって、数騎は本当に大切な人だった。
 実験体として扱われ、博士の娘以外に自分のことを気遣う人間のいない環境で生きてきた。
 愛も知らず、温もりも知らず、ただ利用される者としてクリスは生きてきた。
 そこから逃げ出した先は地獄だった。
 どんなに眠りたくても眠る事さえできず、血にまみれながら他人の手首を切断する以外に生きていく道を見出せなかった。
 逃げたことで賞金稼ぎに狙われた。
 お腹を大きく切り裂かれた。
 痛かった、死んじゃうと思った。
 そんな時に、数騎は私を助けてくれた。
 外の世界に出た後で、手首を切り裂かずに一緒に寝てくれたのは数騎が初めてだった。
 確かに数騎はひどいことをする人間だった。
 それでも私は数騎が好きだった。
 他のどんな人間も私を助けてくれない中で、数騎だけが私を人間として扱ってくれた。
 それがどんなに嬉しかったか、言葉では言い表せそうにない。
 同じ布団で眠った時、今までにないくらいに暖かさを感じながら眠ることができた。
 二人で一緒に食べる食事は、研究所で一人きりで食べたどんな食事よりもおいしかった。
 お風呂にも一緒に入った、数騎に頭を洗ってもらうのが気持ちよくて本当に好きだった。
 でも掃除は大変だった、数騎は散らかすけど片付けない男の人だったから。
 レストランでの食事は楽しかった。
 もう一度食べに行く約束もしたけど、それが果たせないのが少しだけ残念だった。
 短い時間だったけど、思い出したらきりのないことばかりだ。
 本当に楽しくて。
 本当に嬉しくて。
 だからこのまま死んでしまっても惜しくなかった。
 だって数騎が生きてるから。
 数騎が死んでしまうようなことがなかったから。
 それだけで私は満足だ。
 でも最後に一言だけ。
 この言葉だけは言っておきたかった。
 本当に、数騎が好きだったから。
 本当に、いままで一緒にいれたことが嬉しかったから。
 だから、ありのままの言葉をクリスは数騎を見つめながら言った。
「大好きだよ……」
 それで終わりだった。
 次の瞬間、クリスの肉体は全て灰へと変じてしまった。
 風が吹く。
 クリスだった灰が夜風にさらわれ、跡形もなく消え去ってしまった。
「なんでだよ……」
 空虚な声。
 いまにも自殺してしまいそうな人間の声で、数騎は続けた。
「なんで、クリスが死ななきゃならなかったんだよ!」
 夜を裂く叫び。
 答える者はいなかった。
「なんで……なんでだよ……」
 あふれだす涙。
 止める術を持たないその涙は数騎の目からあふれ続ける。
 下を向く。
 体を丸めるようにして涙を流す。
 と、その赤いものが目に入った。
 涙でゆれる視界で数騎はその赤いものを拾い上げる。
 それは宝石。
 直径二センチほどの宝石だった。
「なるほど、それが彼女の正体……」
 声は柴崎のものだった。
 数騎の手の中にある宝石を見ながら、柴崎は続けた。
「彼女は宝石の精霊だったか」
「宝石の?」
「あぁ、宝石には精霊が宿る。その精霊を基盤にして博士は実験体を製作したのだろう。彼女はルビーだな。ルビーの精霊だったのだろう」
「ルビー……」
 クリスだったルビーを見つめながら数騎は柴崎の顔を見上げた。
「頼みがある」
「何をだ?」
「大切なことなんだ」
 そうして、数騎は柴崎に願いを打ち明ける。
 柴崎はそれを神妙そうに聞くと、静かに頷いてみせる。
 風が吹いた。
 鏡の世界に吹く風。
 それは今夜の死闘の幕切れを示す拍手のようでもあった。










































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