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トップページ>>パオまるの小説>>魔剣伝承>>第一羽 慟哭

第一羽 慟哭


「つまりだ、次の実験は死体に生物の魂をぶち込んでみようと思う」
 中世を思わせる城砦。
 そこの天高くそびえる一室に、灰色のローブを身に纏う男はいた。
 快適な室内に見せかけるために壁紙を張り巡らし、地面は木目も綺麗なフローリング。
 フローリングの上にはこじゃれたテーブルに落ち着いた感じのイスが置かれている。
 ベッドルームやキッチンには一メートルを超える大きさの窓。
 石造りで不快とされていた、中世の建築物とは思えないほどの快適さだ。
 例えるなら、超高級マンションの一室をそのまま城の部屋にぶちこんでしまったとでも言うべきだろうか。
「どうだ、櫻井。実に素晴らしい提案だろう?」
「そうでしょうか? 私はそうは思わないのですけど」
 困ったように答える女性。
 語りかける男の話相手になっていたのは、テーブルの前のイスに腰を降ろした女性だった。
 魔術師を思わせる紺色のローブ、フードを下ろしたその若々しい顔には肩よりも長く伸ばした金髪が流れている。
 整った顔立ち、だが目の前に話し相手がいると言うのに、櫻井と呼ばれた彼女は目を閉じたままだった。
「いやいや、これは重大な事だ。お前もそう思うだろ?」
 次に男はその赤き瞳をベッドの上に向ける。
 ベッドの上には一匹の猫。
 両目を閉じて気持ちよさそうにしていた黒毛の猫は、鬱陶しそうに左瞼を持ち上げる。
「思う、実にいい提案だと思う。だから少し寝かせてもらいたいんだが」
「そうだろう、私もそう思っていたところだ。ならばしっかりと眠ってしまうといい」
「お言葉に甘える」
 そういうと猫は眠りについてしまった。
 それを横目で確かめると、男は再び櫻井に視線を戻す。
「ほら、燕雀だってそう言ってるじゃないか」
「今のは眠りたいから適当に答えたって感じでしたけど」
「ん〜、そうか? そうは思わなかったがな」
 わざわざすっとぼけてみせる男。
 櫻井はその返事を聞くと、小さくため息をつき思った。
 この調子のいいことを口にする男、この男を誰が世界において並ぶもののいない術士、赤の魔術師であると誰が気付くだろうか。
 目の前にいる男、ジェ・ルージュ。
 昔はもっと暗く、捻じ曲がっていた精神構造をしていたが、ここ最近では急に丸くなってしまった。
 特に、科学という力が支配する世界を訪れるようになってからはその世界にあるゲームと呼ばれるオモチャが大層お気に入りなのだそうだ。
 櫻井は盲目であったため、遊び相手はいつもベッドに眠っている猫、燕雀だ。
 近頃のジェ・ルージュは遊んでばかりいたが、燕雀がある提案をしてからというもの、変な実験を繰り返してばかりいた。
 死体をいろんなところから拾ってきてもてあそぶ様は、まるで死霊術師のようであった。
「ところでデュラム様は一体、何が目的で死体ばかりいじっているんですか?」
「その名前で私を呼ぶな、イシュトヴァーン・ジェ・ルージュと言う名前で最近は動き回っているわけだからな」
「確かに向こうの世界ではそうでしょうけど、こちらの世界のあなたは違う名前でしょう?」
「まぁ、そうだが」
 納得したように頷いてみせるジェ・ルージュ。
「ところで櫻井、私は少し出かけてくる用事がある」
「また、あの科学の世界ですか?」
「そう、燕雀がうるさくてな。ちょいと会っておかないといけないガキがいるんだ」
「どのような子ですか?」
「目つきの悪いガキさ。あんなガキになぜ会う必要があるかわからんが燕雀の頼みだから聞かないわけにもいくまい」
「燕雀が、ですか?」
 目は見えないが、櫻井は燕雀と呼ばれる猫が寝ているベッドに顔を向けてみせる。
 燕雀はよくわからない予言をすることが多かった。
 未来を見ることのできる猫、それが燕雀自身の触れ込みであった。
 事実、燕雀は四千年という時を生き、赤の魔術師の使い魔としてその生涯をともにすごしていた。
 そんな燕雀が、また赤の魔術師に予言をしていた。
 異世界の少年に会って、その少年に一振りのナイフを譲り渡せ。
 そうしなければ未来が狂う。
 燕雀の予言は今に始まったことではない。
 赤の魔術師は自身の使い魔の言うとおりに異世界の少年に自分のナイフを渡した。
 そして、燕雀はさらにもう一つの予言をする。
 九ヶ月の時がたち、燕雀はこう口にした。
 再び少年に会いに行け。
 それが何を意味するか、燕雀は説明しようとしなかった。
 いつもそうだった。
 内容を知ってしまうと未来が変わるからだそうだ。
「まぁ仕方がない。燕雀の予言はいつものことだ。とりあえず今日が予定の日だからそろそろ行ってくる」
 そう言って、赤の魔術師は指を高らかにならしてみせる。
 それと同時に、彼の側に赤き龍が姿を現した。
 いや、それは龍人とでも言うべきだろうか。
 真紅の鱗を身に纏った人型の龍、上半身は裸で下半身にはアラビアンナイトに出てきそうな船乗りの穿くズボンを身につけている。
 ズボンを紫色の帯で絞まり、真紅の目で自分を召還した赤の魔術師を睨みつける。
「オレに何のようだ、団長殿」
「今から次元を渡るぞ」
「また次元渡りか? あの世界が大層気に入ったらしいな」
「それもあるが燕雀の予言だ。お前を連れてあの世界に行けとの予言さ」
「オレもか? 何でオレが必要なんだ?」
「私に聞くな」
 言って、ジェ・ルージュはベッドの上ですやすやと眠る燕雀を顎で示す。
「こいつもいちいち面倒なやつだ」
 真紅の龍人もさんざん燕雀の予言に振り回された経験があったため、理不尽な注文には慣れっこであったが、言うがままにされるのは気持ちのいいものではない。
 真紅の龍人はベッドまで近づくと、腹立ち紛れにベッドを蹴り飛ばした。
 スプリングのベッドが振動し、燕雀は驚いたように飛び起きて慌てふためく。
 櫻井が眉をひそめてリー・ホウのいる方向に顔を向けた。
「リー・ホウ、いたずらが過ぎますよ」
「はっ、いいじゃねぇかこのくらい。どうせオレもこいつも面倒な仕事して来るんだからよ」
 リー・ホウと呼ばれた真紅の龍人は、嫌味たっぷりな口調で櫻井にそう答える。
 そんなリー・ホウの頭を、ジェ・ルージュが景気のいい音と共にぶん殴った。
「バカをやっているな、行くぞ」
「へいへい」
 頭を抱えながらジェ・ルージュに向き直るリー・ホウ。
 そんなリー・ホウを尻目に、ジェ・ルージュは科学の存在する世界へと移動する準備を始めるのであった。
 こうして、数ヶ月ぶりに赤の魔術師が異能者たちの集う美坂町に訪れる。
 これが、後に『魔術師クロウ・カードの乱』と呼ばれる一大事件の始まりであろうとは、誰も予想さえしていなかったのであった。






「赤の魔術師がここに来る?」
 驚きの声が事務所の中で響き渡った。
 ビルの四階にテナント契約している綱野探偵事務所のソファに座る男。
 柴崎は呆れたような目で眼前に腰を降ろす麻夜を見る。
「いったいどういった用件です? あの男は多忙だという噂ですが」
「そうでもないとも聞き及んでいますが、彼はあくまで異世界の人間です。こちらの情勢が多少緊迫しても大した意味を持たないのでしょう」
 この世界には、一般の人間が知らない異世界というものが存在している。
 世界最強と恐れられる赤の魔術師はこの異世界出身の魔術師だ。
 赤の魔術師の指針はこちらの世界と向こうの世界の平穏、基本的にこちらの世界情勢に手を出さない事を約束している。
 と、言ってもこちらの治安維持は向こうの平穏を守るのに役立つために、魔術結社や宗教結社は赤の魔術師たちと協力関係にあり、多少の援軍を求めることは可能だ。
 とくに魔術結社『守護騎士団』は赤の魔術師と関係が深い。
 そもそも赤の魔術師は自身の魔術組織を持ち、その勢力を背景に向こう側の世界に絶大な影響力を持つ。
 その魔術組織こそ、赤の魔術師直属の私兵集団『多次元宇宙守護騎士団(ウィザーズレッドメンバーズ)』だ。
 多次元宇宙にそれぞれ自分達の勢力を配置、自分の世界の治安維持を目的に、他の世界の治安を守ることを目的としている。
 『多次元宇宙守護騎士団(ウィザーズレッドメンバーズ)』によって組織された魔術結社は『守護騎士団』と呼ばれ、治安維持に協力している。
 勘違いしてもらっては困るが、『守護騎士団』は『多次元宇宙守護騎士団(ウィザーズレッドメンバーズ)』によって作り出されたが、『多次元宇宙守護騎士団(ウィザーズレッドメンバーズ)』のために必ずしも行動を起こすと言う事ではない。
 組織構築には『多次元宇宙守護騎士団(ウィザーズレッドメンバーズ)』が協力しているものの、『守護騎士団』構成員は九割九分九厘が現地人だ。
 赤の魔術師の目的は、あくまで自分達に協力的で治安維持に役立ち、自分の世界に侵攻するような危険分子さえ排除してもらえればそれで構わないのだ。
 赤の魔術師は『守護騎士団』に対して絶大な影響力を持つが、決定権はこちらの世界の人間にある。
 いざと言う時は赤の魔術師の敵に回る可能性もあるということだ。
 赤の魔術師は当初、自分の私兵をこの世界に配置しようと考えたが、それは人の国に自国の軍隊を配置するというありえない状態を作り出すことになる。
 他国の軍隊を自国に駐屯させるのは、その国が属国か衛星国であることを示している。
 そして、この世界の人間は赤の魔術師にそのような横暴を認めなかった。
 他の異世界においても同様のことが起こり、さらに全ての世界に自分の私兵を置くには数が足りなすぎるということから、赤の魔術師は妥協策として自分達に歩み寄りを見せる勢力を自身の同盟者として『守護騎士団』の名を冠し、魔剣、魔術などの技術提供を行うかわりに自分達に利するように行動する盟約を取り付けた。
 一般に赤の魔術師は多忙な男という風評が流れているが、実際には自身の腹心にして世界でも五本の指に入る魔法使い『盲目の守護者(ブラインドガーディアン)』が全指揮権を掌握しており、赤の魔術師は飾り者のリーダーと化し、毎日自堕落な生活をしていると聞き及ぶ。
 そんな事を考えながら、麻夜は九ヶ月前に会った男の顔を思い出していた。
「それに、彼が動かなければならないほどの大事が起こっているわけではありませんし。赤の魔術師が動くのは、この世界に重大な事件が起こった場合のみのはずです」
「では何だ? もしや遊覧目的でこちらを訪れるということなのでしょうか?」
「ありえますが、普通に考えるならば……」
「ここで大動乱が巻き起こる」
 麻夜がそう口にすると、柴崎は真剣な顔で頷いてみせる。
「杞憂であればありがたいのですが、心当たりがありすぎます。フランスでの活発な活動とは反対に、もう一年近く関東一帯で闇の救世主が動かないのも気になりますし、何より」
「ヴラド・メイザースですね?」
 尋ねる麻夜に、柴崎が顔を曇らせる。
 言うまでもない、肯定を意味していた。
「そう、闇の救世主の動きがないのに相対してヴラドの動きが怪しすぎる。いつまでこの街に潜伏しているつもりなのでしょうか」
 口にする柴崎に、麻夜はいい返事を思いつかなかった。
 十一月、戟耶を失った戦い以後、メイザース一派は全く動きを見せなくなった。
 今は十二月、もう一月近くメイザース一派が動いていない。
 もちろん目的があるのだろう。
 たしか三月の戦いでは退魔皇剣がどうのと言っていた。
 存在しているとは考えにくいが、万が一と言うこともある。
 だが、柴崎はそれほど心配しているというわけでもなかった。
 戟耶が戦死した直後、アルカナムが増援を連れて探偵事務所に現れたのだ。
 追加補充は五人、さらに加えてアルカナム自身も戦闘に参加するという。
 が、収容人数の関係からアルカナムと事務所に残らない人間は近くのホテルに滞在することになった。
 事務所に残ったのは三人。
 四の亡霊、剣崎宗司。
 七の亡霊、座間政人。
 そして、
「ん〜、何話しているんだい? お二人さん」
 この男、八の亡霊、相沢洋介だった。
「何の用だ、相沢?」
「何の用だはないだろう、ひどいやつだ」
 身長百九十、年齢は二十三と言うが、どうみても三十にしか見えないフケ顔。
 もっさりとしたひげを蓄え、頭髪は天然パーマで黒一色。
 焼けた肌に筋肉質な厚い胸板。
 それが柴崎から相沢と呼ばれた男だった。
 相沢は麻夜の隣に腰を降ろすと、豪快に話しに参加してきた。
「で、何の話をしていたんだ?」
「情勢の話だ、闇の救世主やヴラドたちが最近動いていないからどうすべきかを考えていたのだ」
「そんなもん、相手が動くまで考えても無駄だろうに。つまらんことで悩む男だな、お前は。綱野さんもそう思いますよね」
「そ、そうですね……」
 少々困ったように答える麻夜。
 理由は簡単だ。
 相沢が麻夜を見つめる瞳。
 それははちきれんばかりの麻夜の魅力に取り付かれた男の目だった。
 これは決して相沢が悪いわけではない。
 なにしろ麻夜はすさまじいまでの美人で、麻夜を美人と呼ばないとしたら、この世界に存在する九割以上の美人を平凡と呼ばざるを得なくなってしまう。
 それほどの美人であることに加えてすらりとした長身、しゃぶりつきたくなるほど引き締まった胴体に、見せ付けるように突き出た胸、形のいい腰。
 これで魅了されない男は少し変だろう。
 しかもこれほどの美女と一つ屋根の下で暮らしているのだ。
 彼女の魅力に夢中にならないほうがおかしい。
 それでも麻夜が今まで男と同棲をしていても問題なかったのにはわけがあった。
 これまで麻夜と暮らしていた男は、麻夜を女性というよりは家族として見ていた数騎、禁欲的な柴崎、そして女に興味なしの桂原という男の立場から言わせてもらえば随分ともったいねー連中だったのだ。
 むしろ相沢の行動は非常に正しい。
「ところで綱野さん、今日の夜とかおヒマですか?」
 真っ直ぐ、麻夜の蒼い瞳を見つめる相沢。
 そんな相沢に、麻夜は残念そうな顔を作ってみせる。
「申し訳ありません、相沢さん。今日は少し用事がありまして」
「そ、そうですか。仕方ないですね」
 素直に引き下がる相沢。
 強引でないから助かるものの、幾度となく口説かれ続ける麻夜としては、少々困ったものだった。
 他の二人も麻夜の魅力にやられている連中だが、麻夜の迷惑になるような行動は慎んでいる。
 実にまともな連中だが、相沢から言わせると女に声もかけられない腰抜けということらしい。
 腰抜けでない相沢は麻夜を口説こうと頑張り続けているが、麻夜はそのたびに仕事を理由にして断り続けた。
 一度だけ麻夜は相沢の食事の誘いを仕方無しに承諾したこともあったが、帰ってきたとき麻夜の顔にはとんでもないほどの疲労が浮かんでいた。
 正直言って麻夜には相沢に興味がない。
 麻夜も遠まわしにそう伝えてはいるのだが、そんな言葉は相沢の耳に届かない。
 隙あらば相沢が麻夜を口説くのは、すぐ左でテレビを見つめ続けている薙風の姿と同じでこの事務所の風物詩になりそうだ。
 薙風は契約期間を終え、戦いから開放された後でもこの事務所にとどまっている。
 来年の正月にでも実家に帰るという話だ。
「あ〜、残念だな〜。折角のクリスマス・イブだってのに」
「ん、もうそんな季節か?」
 愚痴る相沢の言葉に柴崎が反応した。
「時が経つのは早いものだな、もう一年か」
「ん〜、どういうこった?」
 面倒臭そうに相沢は柴崎に尋ねる。
「誕生日、柴崎の」
 答えたのは薙風だった。
「柴崎さん、今日が誕生日なんですか?」
 何とか相沢の気をそらそうと、麻夜がその話題に喰らい突いてきた。
「い、いえ。誕生日は明日です。それにこの年では誕生日と言われても嬉しくはありませんよ」
「まぁ、プレゼントもねぇしな」
 にやにや笑いながら相沢が続く。
「それなら、誕生日会でもいたしましょうか?」
 声は後ろから聞こえてきた。
 振り返るまでもなくわかる、声は里村のものだ。
 あいも変わらずメイド装束を身に纏っている。
「おお、今日もかわいいね」
「ありがとうございます、相沢さん」
 顔をにやつかせて里村に話しかける相沢。
 相沢が興味を持つ女性は、決して麻夜だけというわけではない。
「それで、どうですか柴崎さん。誕生日会をするというのは?」
「いや、ありがたいことだが、さすがにこの年で誕生日を祝われても」
「そうですか、せっかくおいしいケーキを作ろうと思ったんですけど」
「ケーキ……」
 三文字の言葉に反応したのは薙風だった。
 薙風はテレビに向けていた目をすぐ側にいる里村に向ける。
「ケーキ……」
「ケーキ食べたいですか?」
「うん」
「誕生日会したいですか?」
「うん」
「じゃあ決まりですね」
 薙風の意見を仰ぐと、里村は満面の笑顔で柴崎を見つめる。
「いや、まだやると決まったわけでは……」
「酒も出るのか?」
 柴崎の言葉をさえぎり相沢が尋ねる。
 そんな相沢に、里村は天使のように微笑んで見せた。
「ありますよ」
「よーっし、じゃあ明日は誕生日会だ、文句はねぇよな柴崎!」
「いや、だから私は……」
「ねぇよな?」
 ドスの聞いた声で脅してくる相沢。
 そんな相沢に柴崎は深くため息をついてみせる。
「お言葉はありがたいが、明日は赤の魔術師がここに来るのだぞ。誕生日会など出来るわけがない」
「でも、来るのは昼ですよね。夜ならできますよ」
 いらぬ助け舟を里村が出す。
「じゃあいいじゃねぇか、決まりだな」
 相沢の勢いのいい言葉で全てが決まってしまった。
 柴崎は、世の中では正しい事を口にする人間よりも声のでかい人間の言葉のほうがまかり通るものだなとつくづく思い知らされる。
 もはや反論する気にもなかなかった。
「どう思います、麻夜さん?」
「少なくとも、相沢さんはお酒が飲みたいだけでしょうね」
「そうではなく」
 麻夜を見つめながら言ってくる柴崎。
 そんな柴崎に、麻夜は息をつき、優しい声で答えた。
「生まれた日を祝うことは悪い事ではありません、祝福してくれる人間がいるというのは嬉しい事ですよ」
 言って、麻夜は遠くを見つめるような目をした。
「私には、祝ってくれる人間もいませんから」
「………………」
 寂しそうな目をする麻夜。
 他の三人は明日の誕生日会について話を進めており、麻夜の様子に気付きもしなかった。
 そんな麻夜に、柴崎は何か気の利いた言葉をかけようと考えたが、特に何も思いつくことができなかった。
 それに、柴崎にとって誕生日とはありがたいものではなかった。
 十二月二十五日、それは剣崎戟耶と言う名で呼ばれた、すでに存在しない人間の誕生日。
 それは柴崎司の誕生日ではなかった。
 ふと外を見る。
 窓の外には雪。
 今年の冬は寒く、早くも雪が降り出している。
 そんな窓の外を見つめながら、柴崎はこれから何も事件が起こらないことを祈り続けていた。






「もうそろそろだな」
 高級ホテルの一室。
 高そうなイスに腰掛けた男が、時計を見上げながらそう口にした。
 魔術師のローブを身にまとう老人、ヴラド・メイザース。
 夜の近づくホテルの中には、ヴラド以外に三人の人間が存在していた。
 一人はブラバッキー、長い金髪の女性でベッドに腰を降ろしている。
 一人はドラコ、黒き肌に刺青を施した短い金髪を持つ巨漢、ヴラドの真横に腕を組んで立ち続けている。
 最後の一人はカラスアゲハ、忍者のような服装をした黒髪の女性で、小さなイスを移動させて窓から外を眺めている。
「もうすぐ待ちに待った増援がやってくるぞ、これで戦力の補充も万全だ」
「補充って、誰がくるんだ?」
 質問をしたのはドラコだった。
 そんなドラコに、ヴラドは口髭をいじりながら答える。
「ターニャをはじめとする増援部隊だ。どうも私達の勢力は弱小でね、五人呼び寄せるのが精一杯なのだよ」
「まぁ、魔術結社の裏切り者集団なんてそんなもんよ」
 ヴラドの言葉にブラバッキーが続く。
 その言葉に、ヴラドは苦笑してしまった。
「確かに確かに、その通りだ。だが、もうすぐそれに変化が起きるぞ」
「退魔皇剣、ですか?」
「そうだ、退魔皇剣『界裂』これさえ手に入れれば世界の勢力図ががらりと変わるぞ」
 そう言うと、ヴラドは満足そうな笑みを浮かべてみせる。
 裏の世界の頂点に君臨する者たちが所持する最強の魔剣たる魔皇剣。
 それを退けるだけの力を持つ退魔皇剣は、文字通り裏世界の軍事力バランスに壊滅的な変化をもたらす。
 そうでなければ魔術結社を裏切るような真似など誰がするものか。
 裏切り者の弱小勢力であるヴラド一派は百人にも満たない少数勢力だ。
 魔術結社と正面きっての交戦はあまりにも無謀であり、マンパワーの差はいかんともし難い。
 だが、それでも十一月に魔術結社の人間と戦いを繰り広げたのにはわけがあった。
 ヴラドは知っていたのだ。
 この美坂町には三つ目の勢力が存在している事を。
 一つは魔術結社、綱野探偵事務所を拠点とするこの街における魔術結社の支部。
 一つは自分達、ヴラド一派と呼ばれる反逆者の吹き溜まり。
 そして最後の一つ、リーダー以外の正体しか知らないヴラド一派並の戦力しか有さない武装集団だ。
 ヴラドは界裂の入手をもくろみ、魔術結社に所属をしていた男であった。
 そして闇の救世主を率いるアルス・マグナと共同して剣崎の家を襲い、界裂に関する伝承を綴られた書物を盗み出した。
 その際に、お互いがお互いに収穫を独り占めしようとしたために獲物はお互いに半分ずつしか入手できなくなってしまった。
 ヴラドが入手したのは界裂を強制的に発動できるという与太話に近い怪しげな書物だった。
 去年の九月にようやく伝承の解読と魔剣起動の術式を用意したヴラドは今年の三月に界裂の開放を試みたが成功はしなかった。
 柴崎司に解除のために用意した『Mの書』を破壊されてしまったヴラドに二の手は存在しなかった。
 だが、この計画は失敗を前提に構築されたものだった。
 おそらくMの書を柴崎が使用したとしても、界裂は起動しなかっただろう。
 伝承によれば全ての退魔皇剣はこの世界から消失されていると聞く。
 それなのに封印場所やら鍵などがあるという話からして怪しいのだ。
 しかし、ヴラドは知っていた。
 界裂は入手できる、そしてそれは協力者であるアルス・マグナの人間が奪い取った古書に記されていた。
 十年がかりの準備の必要な大儀式ではあるが、それによって魔剣の起動が可能というものである。
 入手できるものが界裂とは限らないが、少なくとも強大な威力を持つ魔剣には違いない。
 後ろ盾を失い、独立勢力と化したヴラド一派にとっては喉から手が出るほど欲しいものであった。
 そして、それの起動が十二月の下旬にこの街で行われることをヴラドは知っていた。
 だからこの街に潜伏し、危険を冒してまで儀式直前に魔術結社の勢力の減少を狙ったのだ。
 結果は失敗した。
 が、増援は得られた。
 ならばあとは力ずくだ。
 アルス・マグナに界裂を起動させ、それを盗賊のように掠め取る。
 これこそがヴラドの真の計画だった。
 問題は、アルス・マグナの勢力の所在地がわからないことくらいだ。
 アルス・マグナは全魔術結社、宗教結社から狙われている勢力であるため表立った支部を持ち合わせていない。
 魔術結社の動きはだいたい把握できるが、アルス・マグナ察知が難しいのがヴラドにとって最大の悩みだった。
 と、ヴラドが窓の側のカラスアゲハに視線を向ける。
「カラス、どうした? お前も意見を出したらどうなんだ?」
「いえ、私は特に」
 答えるカラスアゲハの声には力だなかった。
 気後れしているのだ。
 十一月の戦いにおいて、カラスアゲハは重大な局面であありながら戦線から勝手に離脱し、須藤数騎を助けに向かった。
 処刑を覚悟でヴラドの元に戻ったカラスアゲハだったが、意外なことにヴラドはそれを笑って許した。
 確かに三の亡霊を殺害できたのは快挙であったが、ヴラドが作戦無視を許すと言うのは信じられなかった。
 その時にヴラドの言った言葉が妙に気にかかっている。
 彼は、
「なぁに、三の亡霊を取れたのなら文句はない。それにあちらには写本の使い手がいた。お前がいても戦果をあげるのは難しかっただろう」
 と、笑いながらカラスアゲハに言ったのだ。
 写本の使い手というのは一の亡霊のことだろう。
 それが、自分がいなかったことと何の関係があるのか。
 それはカラスアゲハにはわからなかった。
 と、そんなことを思い出すカラスアゲハに、ヴラドは面倒くさそうな顔をしてみせる。
「カラスよ、いつまであの時のことを気にしているつもりなのだ? お前にはこれからしっかりと働いてもらうのだ、昔の事でとやかく言うつもりはない。今の我々は寡兵なのだ、戦力は一人でも惜しい。といっても、これ以上の命令違反を許すつもりは毛頭ないがな」
「承知しております」
 丁寧に答えるカラスアゲハ。
 そんなカラスアゲハにヴラドは愉快に笑って見せた。
「なになに、もうすぐ増援も現れる。アルス・マグナが動くのは恐らく明日だ。その時には奮闘を期待しているぞ」
「御意に」
 と、カラスアゲハが口にした時だった。
 扉を叩く音が響いた。
 全員の目が扉に注がれる。
 そんな中、ヴラドが口を開いた。
「ターニャか?」
「はい、ただいま到着致しました」
「入れ」
 答えるヴラド。
 その言葉を受けて、ターニャと呼ばれた女性が扉を開けて部屋の中に入ってきた。
 茶色の髪を揺らしながら入ってきたのは三十代半ばと思われる女性だった。
 高い鼻からもわかるとおりの外国人で、緑に近い瞳をしている。
 セーターにロングスカートとなかなか温かそうな恰好をしていた。
「ターニャ、他の者たちは?」
「ここに」
 ターニャは入ってきたばかりの扉を見るようにヴラドに進めた。
 ぞろぞろと男達が部屋の中に足を踏み入れ始めた。
 その数は四人。
 ターニャをあわせたこの五人が、ヴラドの求めていた増援と呼ばれる者たちであった。
 静かに笑みを浮かべるヴラド。
 駒は揃った、後は実行の日を待つだけ。
 高鳴る期待を抑え、ヴラドは堪えきれない笑いに体を揺らすのであった。






「何人いる?」
 低く、力強い声が工場の中に響き渡った。
 町外れにある、最近潰れた会社の廃工場。
 まだ金属加工に使用するための機械が並んでいるその工場に、がっちりとした体つきをした男が入ってきた。
 それに答えるかのように、機械の陰から数人の男達が姿を見せる。
「クロウ・カード、首尾は万全かね?」
 くぐもった声が工場に訪れた男に向けられた。
 白髪交じりで腰の曲がった百六十センチしか身長のない白衣の男が、工場に訪れた男に話しかけた。
 クロウ・カードと呼ばれた男は少し嫌そうな顔をして答えた。
「私の名前はアルカナムだ、そう呼べと何度も言ったはずだが」
「いいじゃないですか、今のあなたはアルカナムと名乗るよりもクロウ・カードと名乗るべきです」
 続いてアルカナムに声をかけたのは茶色の髪をたたえた身長百八十はあろうかという美丈夫だった。
 引き締まった体つきに古代ローマ人が纏っているような白き布を体に巻いている。
「いい加減にあなたはクロウ・カードと名乗るべきだ。いつまでアルカナムなどという名にこだわっているつもりですか?」
「だが、そうは言っても私はアルカナムなのだ」
「それは今のあなた、転生前のあなたはクロウ・カードでしょう」
 そうアルカナムは、いやクロウ・カードは転生復活者であった。
 転生復活者は現在に生きながら前世の記憶や力を覚醒させた人間のことを言う。
 アルカナム、それはこの世界に生きていた男の名前。
 そして、美丈夫が口にしたように、彼の前世はクロウ・カードと呼ばれる人間であった。
「クロウ・カード、今回の蜂起が何のために行われるのかを思い出すべきです。さればこそあなたはクロウ・カードの名を忌避してはいけない。違いますか?」
「いや、そうだな。お前の言うとおりだ、英雄よ」
 クロウ・カードはそう言って両目を閉じた。
 しばらくして目を開けた時、彼の瞳には迷いと呼ばれる感情が一切残っていなかった。
「そうだ、私はクロウ・カードだ。今も昔も変わりはしないのだろう」
「お、やっと納得したみたいだな」
 声は真横から聞こえた。
 クロウ・カードがそちらを向くと、そこにはライフル銃を肩に担いだ中肉中背の東洋人の姿があった。
「我らのリーダーが腰抜けてちゃ部下のオレらが困るんでね、しっかりしていただけれ何よりだ」
「迷惑をかけたな」
「いやぁ、そうでもねぇよ」
 ライフル銃の男は口にくわえていたタバコから煙を勢い良く吐き出し、クロウ・カードの入ってきた工場の入り口に目をやった。
「で、大将。お仲間さんは来てるのかい?」
「あぁ、入って来い」
 クロウ・カードがそう言うと、工場に三人の人間が入ってきた。
「こいつらがあんたと同じ魔術結社の裏切りものかい?」
「そうだ、私の考えに同調し、魔術結社を裏切ってくれた人間たちだ」
 その三人を見回し、美丈夫が口を開いた。
「彼らが我がアルス・マグナに所属してもらえるとすれば、戦力はかなり増強されたと考えて問題ないでしょう」
「新しい闇の救世主に乾杯ってところだな」
 楽しそうにライフル銃の男は新しい仲間を見回した。
「これで戦力は全部で七人かい?」
 煙を吸い込みながら、ライフル銃の男はクロウ・カードに尋ねる。
 クロウ・カードは頭上を見上げ、
「いや、あと二人いる」
 と、どこか遠くを見ながら答えた。
「二人、じゃあ合計で九人か」
「いや、さらに二人増える可能性も否定できない」
「曖昧な言い方だな」
「確定した戦力以外に期待をするなということだ」
「ごもっともで」
 納得したのかあっさりと引き下がるライフル銃の男。
 と、今度はクロウ・カードに白衣の老人が近づいてきた。
「ところでクロウ・カードよ」
「何だ?」
「この街に赤の魔術師が来ると言う話は聞いているか?」
「知っている」
 この二人のやり取りに、話を聞いていた一同に衝撃が走った。
 高名なる赤の魔術師を知らない人間はモグリ。
 それほどまでに、赤の魔術師の名は有名であり、そして脅威だった。
「赤の魔術師、私達の戦力で取れるとは思いますか?」
「……難しいだろうな」
 はっきりと、そして確証のある声でクロウ・カードは白衣の老人に答えてみせる。
「じゃあどうする気だい?」
「戦力を増強するしかないだろう」
「これ以上の戦力はかき集められませんよ」
 意見を口にしたのは美丈夫だった。
「これだけの人数を集めるのでも苦労したのです。アルス・マグナが戦場に選んでいる場所はこの極東の島国だけではないのです」
「それは理解している、大丈夫だ」
 美丈夫に対して、クロウ・カードは手で押しとどめるように意見を封殺する。
 変わりに意見したのはライフル銃の男だった。
「手があるのかい?」
「ある」
「さっさと結界張っちまえばすぐだと思うけど」
「そうもいかん」
「なぜ?」
「魔術結社の人間に察知される」
「なるほどね、下手に動いたら界裂開放の邪魔が増えるってことか」
 そう言ったライフル銃の男に、クロウ・カードは頷いて見せた。
 クロウ・カード、彼はヴラドが動きを見計らっているこの街に存在する第三の勢力の頂点に位置する男だった。
 アルカナムと言う名で魔術結社に所属している男、クロウ・カードは魔術結社に所属しながらアルス・マグナに所属している裏切り者であった。
 彼は十年かけて用意した界裂開放の儀式を起動するために、この街に訪れていたのだ。
 アルス・マグナの本部から兵力を募り、来るべき儀式に向けての準備を行っていた。
 界裂の開放にはいくつかのステップが必要とされる。
 第一に十年という儀式の準備期間、これはあと一日で終了される。
 第二に外部からの侵入者を拒絶するための結界の起動。
 そして第三に儀式完了まで結界を六時間維持し続ける事。
 これで失われた界裂を手にする事ができる。
 問題は結界を展開した後の六時間をどうするかだった。
 結界を起動すれば敵は完全に異常事態を察知する。
 外部から増援が来ない状況を作れるといっても、この街には魔術結社でも精鋭と呼ばれている人間が幾人も居住している。
 その内の数人はクロウ・カードの目的に賛同し、魔術結社を裏切ってクロウ・カードの側についている。
 と、ライフル銃の男が今吸っているタバコを灰皿に押し付けると、新しいタバコに火をつけ始めた。
「なるほど、あんたのやり方が読めたぞ。結界起動時に赤の魔術師にこの街にいてもらいたくない。だが、早々と結界を起動して有利な状況を作って赤の魔術師を倒そうとすると魔術結社の支部にいる人間に気付かれる」
「そうだ、魔術結社の人間に気付かれないうちに赤の魔術師を殺害し、ギリギリまでこちらの動きを隠蔽して魔術結社の尖兵を皆殺しにする」
「いいのかい? 思想が違うっていっても、元はあんたの仲間だったんだろ? それに血が繋がってないとは言えあんたの子供だってその一人なんじゃないのか?」
「……大義のための犠牲はしかたない」
「はいはい、あんたはいつだって偉いお人ですよ」
 皮肉るようにいうライフル銃の男はクロウ・カードにそう言った。
 と、そこに白衣の老人が割り込んできた。
「それにしても、奇妙な偶然もあったもんだねぇ」
「何がだよ、オッサン」
 白衣の男にライフル銃の男が尋ねる。
「いやなに、おもしろいことに。この街に存在する三つの勢力の人数が同じだと思ってな」
 言われてライフル男は初めて気がついた。
 魔術結社の支部に所属する人間は九人。
 ヴラド・メイザースがそろえた人間が九人。
 そして、自分達アルス・マグナの人間が九人。
「なるほど、奇妙な偶然だな。って言ってもオレはここにいない二人が何者かってことは知らないんだけどな」
「一人は桐里歌留多だ、会わせたことはなかったか?」
「ん? そうだっけ? 覚えてない」
「君はその時酔いつぶれていたからな」
 ライフル銃の男に、苦い顔をした美丈夫が答えた。
「おお、そうそう。そうだったかも知れない。後一人も会ったことあったっけ?」
「いや、彼にはまだ会わせてはいない」
 クロウ・カードはライフル銃の男にそう口にした。
「なるほどね、了解。で、その桐里歌留多ってのはどこにいるんだい? 最終日前の大事な打ち合わせの時間だから集合って話じゃなかったのか?」
「彼女は九人目の仲間に会いに行っている」
 と、そこまで口にして、クロウ・カードは訝しんだ顔をしてみせる。
「彼女が言うには、その男がこの戦いの鍵を握っているらしい」
「へぇ、そりゃご大層に」
 そう言うと愉快そうにライフル銃の男は笑って見せた。
 それを横目に、クロウ・カードは美丈夫に顔を向ける。
「英雄、一ついいか?」
「何なりと」
「ヴラド一派と連絡を取ってもらいたい」
「なぜ? やつらに私達の動きが知られてしまいますよ」
「構わん」
 言い切るクロウ・カード。
 そこまできて、ようやく美丈夫にはクロウ・カードの考えがわかった。
「まさか、あなたは……」
「おそらくお前の考えている通りだ」
「なるほど、それほどの相手というわけですね」
「そうだ、心してかかるがいい」
 告げるクロウ・カードの声は緊張を孕んでいた。
 美丈夫は思わず窓に目をやった。
 時刻は午後七時を告げており、十二月ともなるともう月明かりの指す時間となっていた。
 そんな夜空を見つめながら、美丈夫は明日の戦いを思い、思わず武者震いを始めていた。






「ああああああああああ、薬! 薬がぁ!」
 それはクリスマスからちょうど一週間も前の出来事だった。
 泣き叫び、数騎はアパートの畳の部屋を転がっていた。
 今、数騎は間違いなく絶望の淵にいた。
 数騎はいままで自分を苦しめ続けた薬を経つべく、桂原を頼った。
 桂原は数騎の願いを聞くと、数騎に対してある種の呪いをかけた。
 それは魔術的な暗示、つまるところ超高度な催眠術とでも言ったところだろうか。
 これによって、数騎は桂原から麻薬を経つための催眠術をかけてもらった。
 それは絶対に、いかなる方法を用いても薬の手に入れ方がわからなくなり、さらに目の前に薬があってもそれを薬として認識できなくなる暗示であった。
 インチキ催眠術師のそれと違い、桂原の催眠術はまさに一級であった。
 そのため、数騎はいくら薬が欲しくなっても薬を入手する事ができず、部屋にある薬を視認することさえできない。
 だが、麻薬を欲しがる衝動は全く衰えず、数騎は部屋のものを手当たり次第に破壊し続けていた。
 暴れまわり、疲れると数騎は畳の上に転がってうめき続けた。
 正直言って耐え切れるものではなかった。
 薬にたいする欲求は消えず、助けてくれる人間もいない。
 たまにカラスアゲハがきてくれるが、二日に一度来るか来ないか程度。
 しかも、最近は薬欲しさに暴れ回るせいであんまり来たがらない始末だ。
 とにかく数騎は孤独だった。
 せめて、誰かが近くにいればまだ違っただろう。
 そんな事を考えながら、数騎は自分の右目に手をあたる。
 硬いルビーの感触。
 それは数騎を愛してくれた小さな女の子のなれの果て。
 その固い感触だけが、数騎を支えていた。
 だが、それもそろそろ限界に達していた。
 数騎は一人で生きる事が出来ない人間だった。
 誰かにいて欲しかった。
 誰かに助けて欲しかった。
 自分以外の誰か、それでいてカラスアゲハや桂原のように自分の体を目当てに寄ってこない、自分の心を求めて近づいてくる人間。
 死んだクリスのような人間をこそ、数騎は求め続けていた。
 苦しみのあまり、数騎は思わず泣き出した。
 禁断症状から情緒不安定になっていた数騎は、大泣きしながら自分の不幸を呪った。
 なぜ世界はこんなにも苦しく。
 なぜ世界はこんなにもつらい場所なのか。
 嘆きは止まず、悲しみは終わらない。
 どれくらい泣いたのか、数騎は泣く事にさえ疲れ果て、睡魔に誘われ始めていた。
 瞼が下がり、目はとじられようとする。
 その時だった。
 アパートの扉をノックする音が響いた。
 驚きに目を見開く。
 だってそうだ。
 誰がこのアパートを訪ねるというのだろうか。
 勧誘はあらかた断っているし、その上貧乏そうなアパートにわざわざ来る人間を数騎は知らなかった。
 涙を拭き、勧誘なら断ろうと考えながら数騎は疲れた体を起こし、扉へと向かった。
 なかなか数騎が扉を開かないので、来客者はノックをし続けていた。
「今出ますよ」
 ノックに対してそう言うと、数騎は鍵を開けてドアを開いた。
 ドアの前には一人の女性が立っていた。
 身長は百六十後半、すらりとした体に発育のいい体。
 腰まで届く長髪に赤い着物。
 誰が忘れるものか。
 誰が見紛うものか。
 扉の前にいる女性。
 それは、もう二度と会えないと思っていた女性。
「神楽……さん?」
 半信半疑で尋ねる。
 返事が来るまでの数秒。
 それは、数騎が感じたことのある時間の中で、一番長いものであった。
 唾をできるだけ飲み込まないようにする。
 その返事が聞こえないことがないように。
 一字一句、聞き逃す事のないように。
 そして、目の前の女性は、天使のような笑みを浮かべながらゆっくりと頷いた。
「はい、私ですよ数騎さん。本当に……お久しぶりです」
 その言葉を聞くと、数騎の頬を涙が伝った。
 その直後、数騎はまたしても泣きはじめ、子供のように泣き声をあげ始めた。
 そんな数騎を、神楽は優しく包み込むように抱きしめた。
「泣かないで、数騎さん。泣かないで……」
 子供にするかのように、優しく頭を撫でる神楽。
 そんな神楽に、数騎は母親に甘えるようにいつまでも泣き続けた。
「泣かないで……」
 あやす神楽、だが数騎の涙は止まらない。
 今までにないくらい数騎は泣き続けたが、その涙に悲しみはなかった。
 一体どれくらい久しぶりなのであろう。
 数騎の涙は悲しみによるものなどではなく、嬉し泣きだった。







魔術結社    残り九人
ヴラド一派   残り九人
アルス・マグナ 残り九人
































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