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パオまるの小説
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魔剣伝承
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第九羽 再びの別れ
「ったく、どうしたものか」
桂原はそう呟きながらタバコを吸っていた。
場所は外。
砕け散った教会を前に、桂原は紫煙を口から吐き出す。
月光が照らす鏡の中の世界。
桂原は一人タバコを味わい続けていた。
ところで、桂原延年(けいはらのぶとし)というのはどういう男か。
裏の世界に好き好んでいる人間は、大抵ろくでもない過去を背負っている。
そして、桂原もそれは例外ではなかった。
そもそも桂原は男好きでもなんでもない普通の趣味をした人間だった。
東南アジアの某国、桂原はそこで働く外国人犯罪者だった。
彼の家は普通の家庭だったが、彼の祖父は魔術師だった。
彼は幼い頃から死んだ祖父の残した魔道書を手に魔術の修行を独学でしていた。
中学を卒業後、高校にも行かず就職もしなかった桂原は、あろうことかホストとして働きはじめた。
自他共に認める美形だった桂原は、話術の巧みさから早くも店のナンバー1になった。
知らぬ間に彼は金持ちになっていた。
ブサイクなババァどもと笑顔で酒を飲み、札束を受け取ってベッドで寝る。
若さしか価値のない若い女は風俗嬢に身を落としてまで自分に金を運びに来る。
実にいい仕事だ。
ただ活動時間が不健康で、酒まみれで心がすさむぐらいは何てことなかった。
金のない女に興味はなかった。
金のなくなった女は捨てて新しい女に貢がせる。
そんな日々が続いた。
ある日、顔も見たこともない男に路地裏で腹を刺された。
そして、その日初めて桂原は魔術を使って人を殺した。
殺した男が、自分に金を貢ぎすぎて借金まみれになり自殺した女の夫だということを知ったのは相当後になってからだった。
殺人を犯した桂原は自身の行為に恐れおののいた。
逃げよう。
そう思った桂原は風俗街で知り合ったヤクザに船を用意してもらい、東南アジアの某国へと逃げた。
顔がいい事と魔術しか取柄のない桂原はその国の言葉を喋れない。
だが、日本語が喋れるのはその国では大きな武器となった。
その国には日本人の旅行者がよく足を運ぶ国だ、特に男が。
日本人だけではない、他の裕福な国の人間もよく来る。
理由は簡単だ。
この国は貧しい。
自分の子供の体を売りたがる親などいくらでもいる。
中でも日本人は金払いがいい。
日本人がこの国に来る理由は簡単だ。
日本では十八に満たない女を金で買う事は罪になる。
だが、この国には法の抜け穴が多すぎる。
だから日本人はこの国で、日本では抱けない幼い少女たちを買う。
もちろん少女たちが望んで体を売るのではない。
売らされるのだ、金に目のくらんだ親に。
だが、それも罪とは言い切れないかもしれない。
そうしなければ家族全員が飢える。
悪いのは貧しい事。
考えてみれば悪いのはご先祖様。
今の世界は、ご先祖様が戦争で勝ってくれた国だけが裕福な国。
だから悪いのは戦争で負けたご先祖様で、この国で生きている人間だけが悪い人間。
そんな事を考えながら、桂原は旅行に来る日本人と子供を売る親たちの仲介人となって少女達を旅行者の慰みものにし続けた。
もちろん、それだけじゃない。
桂原の真の武器は日本語を話せることではなく、みなが見ほれるほどよく鍛えた体に誰もが羨ましく思う美しく整った顔だ。
獲物はもちろん旅行者の女。
やはり金を持ってる日本人旅行者はたくさん金を落としてくれる。
そんな腐った生活をしていた桂原は、酒まみれになりながら自堕落に過ごしていた。
と言っても、治安の悪い国で生きていくために魔術の鍛錬だけは怠らなかったが。
その国の言葉をカタコトでも喋れるようになったある日の事だった。
赤毛に白い肌をした白人の幼女、恐らく十二、十三くらいの幼女が自分の家に連れてこられた。
連れてきたのは中東からやってきた浅黒い肌の犯罪者、その男が言うにはその少女はとある有力者で自分達に敵対する人間の娘なのだそうだ。
そいつに思い知らせるために、この少女を幼女趣味の変態旅行者相手の娼婦として働かせろ。
それが男の要求だった。
実際、自分とそいつとは持ちつ持たれつの関係だった。
だから今度は自分が持つ番。
桂原は快くその男の要求を受け入れた。
と、そこでようやく気付いたのだが、この街には娼館と呼ばれるような店はない。
みんな自分の家に旅行者を招くシステムになっている。
だから桂原は自分の家に赤毛の女の子を住ませることになった。
知らない男にこの女の子を自分の家のベッドでヤらせるのか。
ベッドが汚れる。
それが桂原が少女を受け取り、男が家から出て行く姿を見ていた時に考えたことだった。
だが、それからしばらく旅行者の姿が街から消えた。
理由は簡単だ、この国の首都でテロリスト達が頑張り始めたからだ。
日本からの旅行者は途絶え、代わりに自衛隊が派遣された。
そんな中、わざわざ幼女を買いに来るバカはいない。
幼女趣味の変態どもは、この国の近くにある他の貧しい国へとこぞって集まった。
全く、商売あがったりだ。
おかげで桂原は全面的に損をすることになった。
この国では預かった少女にかかる衣服や食事代は全て預かる人間の負担になる。
代わりに少女が体を売ったときに受け取る金の半額を自分が納めるというシステムだ。
だから客が取れない桂原は少女の食費だけが無駄にかさんでいく。
預かった少女は奴隷と同じだ。
幼女趣味のバカどもと同じように少女を慰みものにしてもいいし、家政婦のようにあつかってもいい。
別に幼女趣味のなかった桂原は赤毛の少女に家政婦をさせた。
料理、掃除、洗濯。
時折寂しそうな顔を見せながらも少女は一生懸命働いた。
だが、料理は下手だった。
ホストをやっているとき、客が喜ぶからという理由でよく手作り料理を作っていた桂原は仕方なく自分で料理をした。
桂原は料理を少女に仕込もうとしたが、少女とは会話が成立しなかった。
少女はフランス語しか話せなかったのだ。
そこで桂原は少女に日本語を教えることにした。
そうして会話をするようになり、桂原は少女の名前をようやく耳にする。
アリス、それが少女の名前だった。
飲み込みの早いアリスは、スポンジが水を吸い込むように日本語を覚えていった。
恐らく一日中暇していた桂原が、暇つぶしとばかりにアリスに日本語を教えていた結果だろう。
教えた事を覚えるのを見るのは楽しかったし、わからなくて泣きそうになるアリスをいじめるのも実に楽しかった。
そうこうするうちにテロリストがいなくなった。
半年振りに仕事が出来る。
そう考えて、桂原は早速アリスに客を取らせようとした。
客を家の中まで連れて行き、桂原は金を受け取るとアリスを襲わせた。
アリスは泣き叫んだ。
何度も自分の名を呼んだ。
聞いていられなくなった桂原は、あと一歩で行為に及ぼうとしていた肥満中年男の横腹を蹴り飛ばし、もらった金を叩き返して家から追い出した。
売り物に情を移したのは失敗だったか。
悔やみながらため息をつく桂原に、服を破かれて半裸になっていたアリスは嬉しそうに抱きついた。
『オレはお前を売ろうとしたんだぞ』
そう言った桂原にアリスは、
『でも、ノブトシはワタシのことタスけてくれた』
そう言ってアリスは、心の底から安堵したような顔をした。
後でその事をアリスを連れてきた男に文句を言われたが、オレが毎日楽しんでやってるよ、と言って追い返してやった。
とりえあずその父親とやらが嫌がることができれば満足らしかったのでその男は大人しく引き下がった。
もちろん手は出してない、こんな幼女に手を出したとあっては自分の沽券に関わるからだ。
桂原はそれから三年間アリスと共に暮らした。
アリスの白い肌はいい感じに日焼けしており、桂原も同じく肌が黒くなっていた。
アリスが家に訪れたのは、桂原にとって実に幸運なことであったと言えた。
桂原はアリスを旅行客に売りそこなったことを契機に、少女を売る仲介の仕事をやめてしまった。
桂原はテロリストのいなくなったその国の首都に引越しすると、そこの高校にアリスを入学させた。
三年間の間に、アリスは桂原の用意した家庭教師に徹底的に勉強を教えられていたため、学校に入ることが出来た。
その国の言葉はあまり上手くは話せなかった。
教えた桂原自身も下手だったからだ。
勉強するアリスはいつも大変そうだった。
勉強の前に、教師の言葉の意味を理解するだけでも大変だったからだ。
そんな時だった。
桂原が一人アリスを待ってアパートでゆったりしている時刻。
突然扉が蹴り開けられた。
憎悪で顔をゆがませている壮年の男がそこにいた。
右手には生首。
それはアリスを自分の元に連れてきた男のもの。
桂原は恐怖した。
一瞬で理解できた。
目の前の男はアリスの父親だ。
そうでなくては、暗黒街から離れた元犯罪者に用のある人間など思いつかなかったからだ。
壮年の男は迸る魔力をもって桂原を殺そうとした。
正規の教育を受けていない桂原はその一撃で死なないように防御するのが精一杯だった。
もう少しで殺されるかと思った時、アリスが帰ってきた。
おかげで命拾いした。
壮年の男は自分に娘を保護していてくれた事に礼をいい、殺そうとしたことを詫びた。
彼は自分のことをクロウ・アレイスターと名乗った。
それが自分の本名、転生前の名だと男は言った。
その後、今の名前はクロウ・カードであると、わざわざ名前を二つ教えてくれた男はアリスを連れて帰ろうとした。
桂原は止めた。
今の自分にとってはアリスだけが自分の側にいてくれる人間だったからだ。
誰も愛せない裏の世界に生きた桂原は、いつのまにかアリスなしでは生きていけなくなっていた。
アリスも桂原と共にあることを望んだ。
クロウ・カードはしぶしぶではあったが、桂原の同行を認めた。
さらに桂原が魔術師としてのスキルを持っていたため、魔術結社に就職できるように計らった。
イギリス人のくせになぜかフランスに家を持つクロウ・カードの家の近くに、桂原は家を借りて済む事になった。
ヨーロッパの水は不味い。
そんなことを考えながら、桂原は日々を生きていた。
家にはよくアリスが遊びに来た。
桂原が愛するにたると考える年齢になったアリスは、ある日クロウ・カードが家に帰らない日を狙って初めて交わった。
刹那とも永遠とも思えるその行為。
二人は幾度もの夜を共に過ごし、そしてアリスの中で新たな生命が芽吹いた。
二人はそれを知り、狂喜した。
クロウ・カードも、初孫の誕生が確定したと聞かされて、桂原を睨みつけながらも悪い気はしていなようだった。
お腹の子供が大きくなっていくのを見ていて、桂原の心は幸せでいっぱいだった。
仕事もバッチリこなしていた彼は魔術結社の精鋭部隊にも所属が許され、家庭に仕事に完全な成功を収めていた。
たまに会う、クロウ・カードが引き取った柴崎とかいうガキの面倒を見るのは面倒臭いことも多かったが、いやな事ではなかった。
そうこうしている内に十ヶ月が経ち、子供の生まれる日が来た。
子供が男の子だと知らされたのはどれくらい前のことだっただろう。
桂原の心は喜びに満ち溢れていた。
その出産の日のことだ。
手術室にアリスを連れて行った医者が、焦燥した顔で出てきた。
『大変危険な状態です、お子さんと母親どちらの命を優先しますか?』
まさかそんな事を言われるとは全く思ってなかった。
後ろで待っていた柴崎のガキとクロウ・カードは緊張を孕んだ顔で桂原を見つめる。
決断は桂原に託された。
出産間際に桂原はアリスから言われた。
『いざと言う時は、私より子供を助けて欲しい』
しかし、桂原はアリスの言葉にそむいた。
アリスを助けて欲しいと。
そう願い、医師もそれを承諾して手術室に戻った。
そして、再び桂原たちの前に顔を出した時に桂原が聞いた言葉。
それは、『残念ですが』から始まる言葉だった。
助からなかった。
子供どころか、アリスまでもが助からなかったのだ。
アリスは知っていたのだろうか。
出産で自分が助からないことを。
だからせめて子供だけは助けて欲しかったと。
だが、桂原は裏切っていた。
アリスを裏切りアリスを助けようとした。
だから、助かるかも知れなかった子供でさえも死んだ。
それからの桂原は壊れたように生きた。
異常なまでに仕事でやる気を見せ、魔術の勉強にのめりこみ、魔術師としては上級クラスに認められるまでになった。
クロウ・カードは逆に仕事への意欲を失った。
仕事もせず、家にこもり続ける。
が、ある時を契機に二人は立ち直りを見せた。
クロウ・カードはひそかにアルス・マグナに所属して、自らの行動の指針を見出して。
そして、桂原は新たなる愛するものを見つけて。
桂原はアリスを失った後、女性を抱く事を恐れるようになった。
妊娠させ、出産が訪れた時女性は死んでしまう。
そんな脅迫観念だった。
それにアリス以外の女を抱く事を桂原は心で拒絶していた。
だから桂原は男に走った。
どれだけ楽しんでも、妊娠することのない男に。
アリスを失って桂原もクロウ・カードも歪んでしまった。
歪まなかったのは柴崎だけだったが、あいつは会う前から別の女に人生を歪まされていた。
「女に歪まされた男ばっかりだ」
煙を吐き出しながら、桂原はそう呟いた。
忘れられない過去。
思い出したくもない過去。
だが、楽しかった過去。
そんな思い出に浸りながら、桂原はタバコを吸い続ける。
「桂原さん、よろしいでしょうか?」
そんな時だった、後ろから声をかけられたのは。
「何だ、草津か?」
「はいはい、そろそろお仕事の時間ですよ」
突然背後にあわられた中年男、草津は歪んだ笑みを桂原に見せ付ける。
さすがにこんな中年に食指は伸びない桂原は、その男の顔を苦虫を潰したような顔で見つめる。
「そうか、じゃあ行こう。ちょっと待ってくれ」
懐から携帯灰皿を取り出す。
桂原はタバコを銀色の、子供が持つ安い財布のような携帯灰皿の中に吸殻をしまいこんだ。
「鏡内界では吸殻は残りませんよ。捨ててしまっても構わないのですが」
「気にするな、いつものクセだ」
言って桂原は携帯灰皿を懐にしまいこむ。
その携帯灰皿。
その片隅に張られた透明のシール。
桂原延年、そう文字の入った名前シール。
それは、生きていた時にアリスが買ってきたシール製造機で作ったシール。
『タバコのポイ捨てはダメだよ』
そう言って、携帯灰皿を買ってくれた上に、名前シールまで張ってくれたアリス。
その携帯灰皿は、アリスという可愛らしい赤毛の女の子の形見だった。
「行くぞ」
鋭い他者を射抜くような目つき、桂原は戦場の男に戻った。
それを見て満足すると、草津は桂原の肩に手を置き、空間転移を開始する。
二人の姿が消え去った。
あとに残るのはタバコの灰のみ。
月光さす砕け散った教会、誰も残っていないその山頂。
地下での戦いは終わらない。
加速する戦いは、未だに終わりをみせない。
そして、桂原にとっての戦いも、やはり終わってはいなかった。
「いいところで会ったわね」
声をかけられ、ペルセウスは足を止めた。
地下五階の大広間。
白い布袋を片手に歩くペルセウスの前に金髪の女性が現れた。
鍛え抜かれたいい体をしている女性。
右手には短剣を握り締め、迸る殺気は留めようもない。
「クロウ・カードはどこ? 教えてくれたら見逃してあげてもいいわよ」
ギラギラした瞳で睨みつけるのはブラバッキーだった。
心の弱いものならば容易く腰を抜かしてしまいそうなその視線。
だが、ペルセウスは一歩も退くことなくその視線を受けた。
「君にそれを教える気はない。クロウ・カードを探すならやめておいた方がいい。君に待つ運命はいいものではないから」
「何言ってんのかしらね!」
言い放つブラバッキー。
それと同時にブラバッキーの体から輝光が迸った。
見る見る膨れ上がる肉体。
蒸気を上げながら巨大化する肢体。
激増する体重により床がわずかに陥没する。
そして獣憑きが覚醒した。
身長は二メートル強。
人間では太刀打ちできないほどの筋肉を携えた巨大な熊。
それだけでも脅威。
しかし、ブラバッキーの力はそれだけでは終わらない。
右手に握り締める魔剣『爪刃』。
獣憑きの身体能力だけでなく魔剣まで操る事ができる。
それがブラバッキーにとって最大の強みだった。
獣に変ずる力を持つ人間は、大別して先天性と後天性にわけられる。
獣をトーテムとし、自分自身の魂と共にその獣の魂と共存する一族はその生まれつき共存している魂の情報を自分の肉体と共鳴させ、獣の姿へと変ずる。
この先天的に獣に変ずる異能者を人々は獣憑きと呼ぶ。
それとは正反対に獣人という言葉も存在する。
魔術結社の開発した獣魂の錠薬というカプセルを用いて獣憑きと同等の能力を得た者だ。
錠薬にはそれぞれ獣の魂が封じられており、それを飲み込むことで獣の魂を体内に取り込むことが出来る。
ただし、あまりに強力な獣を取り込むことは、自分の魂が打ち負かされ、その獣の魂に肉体を乗っ取られる危険性が高くなる。
故に、獣人となるものは自信の力量に見合う獣の錠薬を飲む。
そして、彼らが獣の魂を従えることに成功したとき、彼らは獣人として覚醒するのだ。
ブラバッキーは絶対数の少ない獣憑きだった。
獣憑きは獣人と違い魂を内部に取り込むのではなく外部から引き寄せる。
そして、その引き剥がしはいつでも可能だ。
獣の魂が乗り移っている間、獣憑きや獣人は人間という範疇から外れるため人間でなければ使えない魔剣を操る事が出来ない。
だが、一度獣の魂を引き剥がしてしまえば使用は可能。
ブラバッキーはその盲点を突いた。
魔剣の起動時のみ、一時的に獣の魂を体から追い出す。
そうすれば獣から人間に戻る一瞬の時間を利用して獣の姿のままでも魔剣が扱える。
そして、魔剣起動の直後に再び獣の魂を体に戻せば獣化は解けない。
獣憑きでありながら魔剣士という反則技、それこそがブラバッキーにとって最大の武器であった。
人間を超える筋力でもって、ブラバッキーは爆発的な加速でペルセウスに踊りかかった。
魔剣の起動を始める。
勝負は一撃必殺。
反撃さえ許さず一撃の元で葬りさるのがベストだ。
互いの距離は実に三メートル。
あと二メートルまで近づいたら爪刃を起動させる。
それで決着。
勝負はお互いの距離が二メートルになった瞬間。
ブラバッキーの予想は当たっていた。
確かにその距離で勝負がついた。
結果は、
「キビシス」
ブラバッキーの敗北。
「なっ!」
驚愕するブラバッキー。
信じられなかった。
ペルセウスの手にあった布の袋の形をした魔剣。
そこから女性の生首が現れた。
袋の中に入った魔術を封印し、それを自在にコントロールできるようにすると言う、それ自体が強力ではない魔剣『キビシス』。
しかし、ひとたび強力な力をもつ魔術装置を手に入れたとあれば、キビシスは最強最悪の実力を発揮する。
青ざめた生首、麻夜の顔がブラバッキーの眼前にかざされた。
見開かれる瞳、紫に輝く瞳孔。
魔眼の力が解放された。
他者を操る『偽信の魔眼』。
それは、迫り来るブラバッキーの肉体を構成する細胞に暗示をかけた。
細胞の一つ一つが生物のパーツであるという存在目的を忘れ、無機質たる石であると信じ込まされる。
抗う事はできなかった。
細胞の一つ一つが石に変わり、ブラバッキーの肉体全てが石へと変じる。
地面に短剣が落ちた。
幾多の異能者を狩り続けてきた魔剣『爪刃』は、最後の敵に一矢報いることなく戦いを終えた。
ペルセウスはブラバッキーに背中を向けると、そのまま大広間から立ち去っていった。
後に残ったのは熊の石造。
恐ろしく巧妙に作られたその製造は、毛の一本一本までも丁寧に掘り込まれた素晴らしい出来のものであった。
向かい合う地下牢。
地下七階のそこで、柴崎と神楽は向かい合って床に座り込んでいた。
先ほどまで泣いていた神楽は泣き止み、鼻を赤くして時たましゃくりあげていた。
そんな様子を困った顔で見ていた柴崎は、これ幸いにと話しかけた。
「落ち着きましたか?」
「えぇ、もう大丈夫です」
恥ずかしそうに答える神楽。
「それにしてもどうしたんですか泣き出すなんて、どこか痛いところでも?」
「いえ、本当に何でもないんです」
元気そうに言う神楽。
そんな声を出されては、これ以上聞く気にはなれないと、柴崎は苦笑を漏らす。
と、疑問に思ったことがあった。
何もすることがないことを幸いに、柴崎はそれを聞いてみることにした。
「桐里さん、よろしいですか?」
「は、はい」
姿勢を正す神楽。
そんな神楽に、柴崎はゆっくりした口調で語りかけた。
「短刀使い……須藤数騎について聞きたいのですが」
「はぁ」
「あの、あの男は正直言ってどう言った男なのですか?」
「と、言いますと?」
「いや、あいつとはいろいろと因縁がありまして。でも、お互いにお互いをよく知らないと言うか。もしよかったらあいつの話を聞きたいんです。ダメでしょうか?
「ダメなんかじゃありませんよ。あまり上手くはお話できませんけど、それでよろしければ」
「是非」
そう答える柴崎に、神楽は一呼吸置いてから話し始めた。
「数騎さんは、寂しがりやさんなんです」
「それが第一印象ですか?」
「はい、数騎さんは一人になることをいつだって恐れています、少なくとも私にはそう見える。だから回りの人に依存して、信じられないほどなついてすがってしまうんです」
「なつく……」
神楽の言葉を反芻する柴崎。
言われて思い出す。
柴崎は数騎をリンチして痛めつけた記憶がある。
だと言うのに、再会の後に数騎は柴崎と将棋でもやらないかと誘ってきたことがあった。
普通、自分をリンチした人間と遊ぼうと言うだろうか。
その時は特に気にならなかったが、言われてみればなつきやすい男だと思った。
「でも、すごい人見知りで相手から話しかけてくれないとなかなか仲良くなれない人ですね。でも、気があう人ならいくらでも話していられるような。人間が好きなんですね、数騎さんは。いえ、自分の側にいてくれる人が好きなんでしょうね」
「側に、いてくれる人か」
「はい、数騎さんは自分の側にいてくれる人にものすごく依存します。親切にしてくれる人、気をかけてくれる人にはすぐ好意をもっちゃいますし。根がいい人なんでしょうか? ちょっと暗いところもあるんですけどね」
「確かに、暗くて感情的かもしれないな」
数騎の数々の行動を思い出しながら柴崎は答える。
「そうですね。それと、内向的で臆病だけど、数騎さんはすごく勇気のある人なんです」
「勇気?」
「えっと、ちょっと違うかな。勇気じゃなくて、自分の命を軽く見る癖があるのかな? 和騎さんは大切な人を守るためなら自分の命を顧みないんです。病的なほどに。怖くてしょうがないのに、それでも恐怖を押し殺しながら戦うんです。私はそれを、未来を見るこの目で何度か見ました。どんなに苦しくて傷ついても、数騎さんは躊躇わず向かっていくんです。すごいですよね、私にはとてもできない」
「それはおそらく……」
そこまで口にして柴崎は先を続けられなかった。
須藤数騎は恐らく、常に心に天秤を置いている男だ。
あの男は必ず行動を起こすたびに天秤に物を載せる。
そして、天秤の落ちた方以外をあっさりと捨てて自分にとって重い、より価値のあるもの以外はどうでもいいと考えているように思える。
だからこそ大切なものでも切り捨てる。
だからこそ、あれほどなついていた玉西を見殺しにして桐里神楽を救った。
危うい。
柴崎はそう思った。
自分の命よりも自分の周りの人間が大切で。
でも、どうでもいい人間の命なんか紙くず同然で。
それでいてより大切な人のためなら大切な人でも見捨てられる心理。
そしてそれを利用され、おそらく須藤数騎は写真の人間を殺そうとしている。
あの男ならやる、神楽という女性のためなら殺し程度はためらわない。
柴崎はそう確信していた。
だが、そんなことを神楽に聞かせるわけにはいかない。
柴崎は考えていたことを飲み込み、代わりにこう口にする。
「いえ、なんでもありません。私も彼の行動力には何度も感服させられています」
「そうですか」
そう口にする神楽はやけに嬉しそうだった。
なるほど、恋人を褒められて嬉しいのか。
それにしてもかわいい笑顔をするな。
そんな事を柴崎は考えた。
と、唐突に思いついた疑問があった。
それは須藤数騎とはあまり関係のない疑問。
だが、それを聞かずにはいられなかった。
「話は変わりますが桐里さん」
「はい?」
「聞きたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「例えば、この世界には生まれつき病気もなくて健康に優れた人、不健康で遺伝的に病気を持っている人。いろいろいますよね」
「はい、います」
「それで、ある男が言うんです。不健康な人間のなる病気は人類にとって致命的な病気で、それを何とかしないといつか人類は滅びる。健康な人は大丈夫だけど、遺伝子に欠陥がある人はいずれこの病気で死んでしまう。この人が子孫を残し、その子孫になった人は全て遺伝子の欠陥で死んでしまい。いつか全ての人間が遺伝子に欠陥のある人間のせいで病気になって死んでしまう。だから本当に健康な遺伝子を持つ人間だけを残して他の人間を全て殺してしまおう。
欠陥品は多いから、六十億いる人間の内の九割以上の欠陥品を殺しつくして、健康で病気にもならない人間だけの世界にしよう。そうすれば人類は永遠に生きていけるから。これをどう思いますか?」
「それは、ひどい話ですね」
「やはりですか?」
「はい、ひどいです。いくら欠陥があるからって、みんな頑張って生きているんです。ちょっと体が弱かったり、病気になりやすいくらいで殺されるなんて可哀そうすぎます」
「でも、その人たちがいなくなれば人類は永遠に生きていけるんですよ。五十九億人がそこで殺されても、人類が滅亡しなければ結果無限に近い数の人間が命を救われるわけです。五十九億とそれを十億倍しても足りない数の人間を天秤に乗せてください。どちらが重いと桐里さんは思いますか?」
「私は……」
考え込むように口にし、そして意を決して言った。
「私は、それでも間違っていると思います」
「なぜ? 死ぬ人よりも多くの人を助けられるんですよ?」
「確かにそうかも知れません、でもよく考えてみてください。あなたは五十九億人しか死なないといいましたけど、そんなことありません。もっと多くの人が死ぬんです」
「と、言うと?」
「その五十九億人の人は、一体どれだけの子供を殺されなければ残したでしょうか? その子供は? その子供の子供は?
人類がその病気でいつ死ぬのかはわかりませんが、それはきっと遠い未来のはず。その間に生まれるはずであった五十九億人の子孫たちがみんな生まれなかったことになってしまう。つまり死ぬんですよ。
五十九億人と無限じゃありません。天文学的数字と無限だと思います。もちろん、無限の方が数は多いでしょう。五十九億人を殺さないで人類が滅亡した場合、滅亡しなかった時に生まれることが出来た人は死んでしまうかもしれません。
ですけど、その人たちのために今の人間に死ねと言うのは正しいことなのでしょうか?」
「それは……」
「私はそうは思えないんです。私達は人間ですが、この世界に生きている以上、弱肉強食というものは避けられないと思っています。ですから、生き残れずに死んでしまう人間がいるのは宿命でしょう。そのような人間のことまで目をかけろとは言いません。ですけど、まだ生きていけて、子孫を残していける人間の命を刈り取るようなことが正しいとはどうしても思えないんです。
そうしないと滅びてしまうのなら、それはきっと人類の運命です。そうでなくとも、私は人類はいつかは滅びると考えていますから。もちろん、滅んで欲しいとは考えていません。ですが、この世にあるものはいつか必ず滅びます、この世界さえもいつかは。ですから、滅びは迎え入れるものではありませんが、拒絶しなければならないものでもありません。
欠陥のある遺伝子で人類が滅びるのも人類の運命、もしそれを打ち破って生きる事ができるのならそれもまた運命ではないでしょうか。全ては流れるままに、そして滅びるなら滅びてしまえばいい。私は悪い芽を摘み取らなくても生きていける可能性を信じてみてもいいと思います。たとえそれで滅びてしまったとしても、そう選択して生きることに間違いはないと思うんです」
「そうですか?」
「そうですよ、それに自分が死んだ後のことなんて責任なんて持てないじゃないですか。だからその男の人は間違いです。私達にそれを実行する権利はありません。滅亡する直前になって欠陥のある遺伝子の人間を殺して生き残ろうとするのはありだと思います。
でも、今はそんなに切迫した状態じゃありませんよ。日本の法律だって自分の命に危険がある場合は他人を殺して生き延びても罪にならないけど、こいつは生かしておくとマズイってだけで殺したんじゃ犯罪じゃないですか。まぁ、少し長くなりましたが、私はその質問にはこう答えさせていただきます。よろしいですか?」
「あ……あぁ……返答感謝する」
何とか柴崎はそう答えた。
考えもしなかった。
疑いもしなかった。
五十九億と無限の交換だと。
だが彼女は言った。
それは違うと。
失われるのはもっと多くの人だと。
さらにこうも言った。
滅亡を目の前に突きつけられた人間なら何をやっても構わないが、まだ余裕のある人間にそんなことは許されないと。
詭弁とも思える。
戯言とも思える。
だが、それは確かに一つの真理だった。
真理は一つではなくいくつもある。
クロウ・カードが口にしたことがその一つであれば、桐里神楽の言うそれも一つである。
きっと須藤数騎は自分の大切な人以外に興味はないとでも言うのだろう。
人類の永遠はおろか、自分の死んだ後のことにすら興味もなさそうな男だ。
柴崎は笑った。
小さく、だが確実に笑っていた。
「おかしいですか?」
「あぁ、おかしい。と言ってもあなたがではありませんよ」
そう、おかしいのは自分自身だ。
柴崎は思った。
何を迷っていたのだろう。
簡単な話ではないか。
多くの人を助けるために少しの人間を犠牲にし続けた。
クロウ・カードはそれを拡大するだけと言ったが、そうではない。
自分達はその時代に生きる当事者なのだ。
なら自分の行動に間違いはない。
桐里神楽の言葉を借りるなら、悪はクロウ・カードだ。
決断は先送りに、当事者たちに決めてもらえばいいのだ。
それで存続するか滅びるかはその者たちに一存すればいい。
ただ、それが出来る土壌を、生きていく世界を残してやればそれでいいのだ。
「おかしいです、自分のバカさ加減が。なんて無様な男だろう、そう思いましてね」
「はぁ?」
首を傾げる神楽。
そんな神楽に見つめられながら、柴崎は楽しそうに笑っていた。
「実に好ましい。桐里さん、もしあなたが短刀使いの恋人でなければ、私が恋人に立候補したいぐらいですよ」
「えっ、えっ、そ、そんなこと言われましても……」
慌てふためきながら顔を赤くする神楽。
そんなしぐさも、実に好ましかった。
顔も可愛いし考え方も実に素晴らしい。
最も、恋人に立候補というのは恋人がいる人間にしか、柴崎は言わなかっただろう。
言わばリップサービスだ。
もちろん、全てがそうと言うわけでもなく神楽と共にあれれば自分は幸せになれるだろうという考えは柴崎にもある。
だが、柴崎は憧れていた女性の跡を継ぎ、修羅の道を選んだ。
だからこれは戯れ。
決して自分になびかないであろう女性にのみ口に出来る囁き。
もし他に恋人がいてくれたなら、玉西にも言ってあげられたであろう言葉であった。
「困ります、困りますよぉ。だって、私には数騎さんという恋人がいるんです……」
「あ、いえ。冗談です冗談。本気にしないでください」
困った神楽が可哀そうだったのでフォローを入れる柴崎。
が、それを聞くと神楽は頬を膨らませた。
「ひ、ひどいです。私、今ものすごく考えちゃったんですよ。私には数騎さんがいるのにそんなに優しく口説かれちゃったから」
「申し訳ありません、つまらない冗談を。ですが、あなたが素晴らしい女性であるという事は嘘ではありませんよ。表面的にも美しい女性ですが、中身はもっと素晴らしい」
「そ、そんな事は……」
恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむく神楽。
そんな様子を見て、柴崎は可愛らしい人だな、と改めて思わされた。
その時だった。
突如として空間の歪みを、輝光の奔流を感じた。
それと同時に牢屋の外に二人の男が姿を現した。
草津と桂原だった。
「大人しくしているようだな」
落ち着き払った声で桂原が柴崎に声をかけた。
柴崎は噛み付くような顔をして桂原を睨みつける。
「桂原、何故裏切った!」
「裏切ってなどはいないさ、オレは裏切り者なんかじゃない」
「そうそう、元々こっち側でしたからね」
愛想よく相槌をうつ草津。
それだけで柴崎との話が終わったと考えたのか、今度は神楽の方に視線をやる。
「さて、桐里神楽さん、でしたよね? 少々お連れしますがよろしいでしょうか?」
「どこに……連れて行くんですか?」
心配そうに問う神楽。
そんな神楽に、やけに明るい声で草津は答える。
「さぁ、どこでしょうね? とりあえずあなたの妹さんのいる場所だとは思いますよ。もっともここにもいますが」
「戯言はよせ、草津。つまらん発言は未来を変えるぞ」
叱咤したのは桂原だった。
文句を言われた草津はつまらなそうな顔をする。
「わかりましたよ、もう言いませんってば。じゃあ、いきましょうか」
言って草津は指を鳴らした。
それと同時に空間転移が始まる。
柴崎は何とかそれを止めようと考えたが、武器もなく拘束された身では草津の術式を止める術はなかった。
そして、柴崎は歯を食いしばって見つめる中、草津と桂原、そして神楽の姿が牢屋から消えうせた。
「くそう!」
悔やむ柴崎。
何もできなかった。
あの神楽という女性が連れて行かれるのを止める事ができなかった。
あまりにも無力。
どうしようもなく情けなかった。
「だが」
答えは得た。
あの女性が教えてくれた。
クロウ・カードは間違っていると。
漠然とした思いを、女性が言葉として整理してくれたからようやく言える。
クロウ・カードは、養父さんは間違っている。
止めなくてはならない。
自分は養父さんの部下には、アルス・マグナの一員にはならない。
魔術結社の尖兵として、養父さんの暴挙を止めてみせる。
そう決意した。
だからこそ待つ。
クロウ・カードを止められる好機が来るのを。
柴崎は緊張を解き、床に転がった。
今は眠ろう。
体力を回復し、時を待つ。
それが動けない自分にとって最高の選択肢。
そう考え、柴崎はゆっくりと目を閉じる。
だが意識はすぐに眠らない。
桐里神楽が教えてくれた想いを、自分の想いと重ね合わせながら、柴崎はゆっくりと意識が沈んでいくのに任せていった。
「上の階に私の部下の彫刻があったのだが、あれをやったのはもしや君かな、ペルセウス君」
ふてぶてしい言い草。
地下六階の細長い廊下に響く声。
白い布の袋を手にするペルセウスに、灰色のローブをなびかせるヴラドが、愉快そうに話しかけた。
「いやいや、いつの間にメドューサを屠っていたとは。彼女には私の方が早く目をつけていたのだよ。現に九ヶ月前にも勧誘をしたのだ、断られたがね」
「こちらは四千年前からだ」
答えるペルセウス。
睨み付けてくるペルセウスに、ヴラドはなおも愉快そうな表情を崩さない。
「時に相談なのだが、ブラバッキーを元に戻してはもらえないだろうか? 砕かれていなければ再生できるそうじゃないか。それと、ペルセウス君。もしよかったら私達の仲間にならないかい? 君ならば私たちのナンバー2に遇してあげてもいい。今の君になら十分にその資格がある」
「お断りしよう」
一瞬も考えず、即答するペルセウス。
この反応に、ヴラドは困った顔をした。
「それはまずい、君ほどの逸材を私の手で殺したくはないのだよ。ギリシャ神話の中でも不死のヒュドラに匹敵する魔獣を打ち倒した英雄たる君を失いたくはないのだ。せめて私が殺さなくて済む様にこの戦いから手をひいてはいただけないだろうか?」
「それはこちらのセリフです。立ち去るなら見逃しましょう。ですが、退かないというのであれば……」
そこまで口にして、ペルセウスは白き布の魔剣『キビシス』の中に右手を突っ込む。
「あなたが生きてこの教会から出ることはありません」
「ほぉ、なぜそうなるのかね?」
口にし、ヴラドは歩みを開始した。
近づいてく二人の距離。
それが決裂であるということを理解したペルセウスは、
「残念です」
ヴラドの質問には答えず、その魔剣を開放した。
「キビシス」
袋から生首が引き抜かれた。
青ざめた美しい女性、綱野麻夜の生首。
麻夜が目を見開いた。
紫に輝く瞳。
それを直視し、ヴラドの肉体が石へと変じ始める。
「退いてくだされば、こうはならなかったのに」
石化していくヴラドを前に、ペルセウスはそうこぼした。
数秒経ち、ヴラドの肉体が完全に石へと変じた。
黙祷しヴラドの冥福を祈ると、ペルセウスはヴラドに背中を向けて歩き出す。
数十歩ほど歩いた時だった。
「こらこら、老人をおいてどこに行こうと言うのだ?」
ペルセウスは驚いて後ろを振り向く。
そこにはヴラドの姿。
しかしそれは色彩を帯びた、石化していない老人の姿。
「バカな、なぜ石化していない!」
「何、タネか仕掛けがあるのだろう。そうでなくては説明がつかんな」
小バカにするように言うヴラド。
だが、油断しすぎている。
だからこそペルセウスは素早く動いた。
「キビシス!」
再び袋の魔剣を開放する。
麻夜の首を再び空気にさらすと、その魔眼の力を持ってヴラドを睨ませる。
石化を始めるヴラド。
「また石化か? それでは私を倒せぬぞ」
「さらにその先だ!」
ペルセウスは麻夜の生首に輝光を集中させた。
麻夜の瞳の輝きが増し、紫の光がヴラドの肉体を覆いつくす。
「石破!」
簡易詠唱が口にされた。
それは不可避の一撃。
石化する対象にかけることの可能な、一撃必殺の麻夜の奥の手。
石化させた相手を石化後に砕く術式だ。
正統な使い手である麻夜は詠唱無しでこれを行いヴィットーリオを砕いたが、ペルセウスは麻夜の力を借りているだけなので起動に術式を必要とする。
今度もヴラドの石化が終わった。
直後、ヴラドの体が砕け散る。
粉みじんになって地面に転がるヴラド。
ペルセウスはヴラドが完全に死滅したのを確認すると、背中を向けて歩き出そうとして止めた。
いやな予感がした。
じっと粉みじんになったヴラドの残骸を見つめる。
そして起こった。
粉がひとりでに動き出したのだ。
一箇所に集まって山を作ると、それが見る見るうちに人の形になっていく。
粉々に砕けていたのが綺麗な石像に戻り、それが再び生ける生身のヴラドに戻った。
「いやいや、今のは死ぬかと思ったぞ」
「………………」
冗談めかして言うヴラドを、ペルセウスは睨みつける。
底が知れなかった。
いかなる魔術か、ヴラドの再生能力は粉々に砕かれても発動すると言うのだろうか。
だが問題はない。
そのようなバケモノに対するための魔剣を、ペルセウスは所持していた。
背中に背負っていた大鎌を手に取り、ペルセウスはその魔剣を起動した。
「ハルペー」
それは不死殺しの魔剣。
人間を超える魔獣はすさまじき再生能力を持つこともあり、首を切り飛ばしても死なない者もいた。
それを屠るための大鎌ハルペーは再生能力を封殺する事のできる魔剣だ。
これで傷つけられた者の傷は治らず、再生も出来ない。
それがこの魔剣に付く不死殺しの異名。
その大鎌を構え、ペルセウスはヴラドに突っ込んでいった。
「ふむ、それを使われては私も少し困るかもしれんな」
そう口にすると、ヴラドは杖を構えた。
詠唱が唱えられる。
それと同時に杖の先に輝光で織り成された剣の形をした発光体が出現する。
振りかざされるハルペー。
それをヴラドは、一歩も退がることなく受け止めた。
打ち合わされるは輝光の剣たる杖とハルペー。
互いの技量は全くの互角。
魔術師だと言うのに、ヴラドの近接戦闘能力は恐ろしいまでに抜きんでていた。
「若い頃に剣を習っておってよかったわい」
「ふざけるな!」
叫びながらペルセウスは幾度となく斬撃を繰り出す。
しかし、ヴラドはその一撃を苦労しながらではあるが巧みにさばいていく。
戦いは一進一退。
疲労が積もってゆくペルセウスに対し、ヴラドはいつまでも涼しい顔で戦い続けている。
このままでは敗れる。
ペルセウスはとっさに悟った。
持久戦に訴えるのは不利。
ならば、
「天翼(てんよく)の翔靴(しょうか)」
魔剣を起動する。
輝光の消耗は激しいが選り好みする時間はなかった。
急激に増幅する身体能力。
そして均衡が崩れた。
すさまじい斬撃を繰り出すペルセウスに、ヴラドは防戦一方になる。
じりじりと後ろのさがっていくヴラド。
そして、
「もらったぁ!」
咆哮一閃。
ペルセウスの大鎌が、ヴラドの首を跳ね飛ばした。
地面に転がるヴラドの首。
その顔は、驚きに目が見開かれていた。
「相手が、悪かったな」
そう、相手が悪かった。
青年の持つ鎌は不死殺し。
不死なる者を殺す力を持つ数少ない魔剣。
「ハルペーに殺せぬ者はいない、私がこの魔剣の所有者であったことが貴様の運の尽きだ」
背中を向けるペルセウス。
ヴラドの首を失った肉体が横倒しに倒れた。
緊張を孕みながら一度だけ振り返る。
それは事切れた肉体。
首と泣き別れした肉体は、痙攣しながら地面に倒れ、真っ赤な血液を流して血の海を作り出している。
再生するような事は……ない。
ペルセウスは再び歩き出した。
廊下の奥。
次なる敵の待つ空間へと。
「で、どこに行く気だい?」
だが、
「老人を無視するとは性格がなっていなのではないか、英雄よ」
首を跳ね飛ばされたその老人は、
「もう少しこの老いぼれと楽しく踊ろうではないか」
何の変哲もない姿でペルセウスの背中から声をかけてきた。
とっさに振り返るペルセウス。
ありえなかった。
不死殺しの魔剣で、再生封じの魔剣で切り裂いたのだ。
魔剣が偽者でないことは綱野麻夜が再生能力を行使できなかった事実で立証されている。
だとするなら、
「再生ではない?」
考え難くはあったが、それでしか説明がつかない。
再生ではない方法で再生している。
そう考えるしかなかった。
「天翼(てんよく)の翔靴(しょうか)」
魔剣を起動する。
それは攻めるためではなく逃げるため。
魔飢憑緋にも匹敵するであろう機動力を持って、ペルセウスはヴラドの眼前から逃亡を決め込む。
が、ヴラドはそれを追うような真似はしなかった。
小さくなっていくその背中を、嘲るような視線で見つめ続ける。
「私では……勝てない……」
悔しそうに漏らすペルセウス。
あの男を何とか出来そうな人間はこの教会には一人しかいない。
だからこそ、その人間の待つ場所へとペルセウスは全力で飛翔する。
戦いは一時休戦。
しかし、次ヴラドの眼前にあの男が立ちはだかった時こそ、ヴラドに最後の時が訪れるに違いない。
ペルセウスは予想できる未来を頭に描きながら、炎で照らされる廊下を高機動力の魔剣で飛翔し続けていた。
「母さん……」
小さな部屋の中で、数騎はいまだに母親の膝の上に頭を乗せて寝転がっていた。
優しく頭を撫でる母親。
と、母親が口を開いた。
「数騎、ちょっといいかしら?」
「何、母さん?」
体を起こしながら尋ねる数騎。
ベッドの上に座る二人は、互いの顔をしっかりと見詰め合っていた。
「数騎、あなたに頼みたい事があるの」
「どんなことを?」
「……実は、ものすごく言いにくいことなんだけど……」
もったいぶるように口にする。
しばらく言うか言うまいか考え込んだ後、母親は続けた。
「あなた、魔術結社って言葉、聞いた事ある?」
「ある、僕はそこで働いてたから」
「そうなの? あなたいつの間にこの世界に入ってたの?」
「えっと、今年の三月くらいにね」
「そう、なら話は早いわね」
コホン、と咳払いをして母親は続けた。
「数騎、あなたも知っている通り、私は死んだ人間よ」
「えっ? でも現にここにいるじゃないか?」
「ええ、それはホムンクルスっていう形で生き返らせてもらったからなのよ。魔術結社のある魔術師のおかげで私はこの世界に蘇ったの」
「そんな魔術があるのか、知らなかった」
「よほどの高位魔術師じゃないとできない奥義らしいの、だからかしらね」
仕方なさそうに笑う母親。
「それで、私はこの世界に蘇ったわ。でも、何のリスクがないわけじゃないわ」
「どういうこと?」
「それはね、私の体の維持には強力な魔剣が必要なの」
「強力な……魔剣……?」
「そうよ、強力な魔剣。死人だった私を蘇らせるのには大きな代償が必要なの。それは魔剣の力。生きるためにこれを消耗し続け、なくなると死んでしまう。でも、強力な魔剣があればそれだけ私は長く生きていられるの」
「そうなの?」
「そうよ、でもAクラスの魔剣でも私の延命は半年が限界。そろそろ魔剣も尽きてきたわ」
「じゃ、じゃあ!」
「大丈夫よ、そのために私はここに来たんだから」
そう口にする母親。
と、そこで数騎は思い出したように尋ねた。
「そうだ、母さん! 何で母さんはここにいるんだ? ここは今、魔術結社とヴラド一派とアルス・マグナの激戦地になってるんだよ」
「何で、激戦地になってるのか、あなた知ってる?」
「し、知らない」
答える数騎。
そんな数騎に、母親はゆっくりとした口調で答えた。
「この教会の地下の一番下に大空洞があるわ。そこでクロウ・カードは退魔皇剣再生の儀式を行おうとしている。退魔皇剣は一振りあれば世界を制するとまで言われる魔剣よ。それを狙って魔術結社とヴラド一派は動いているわ。このゲームのルールは簡単よ。界裂再生までにヴラド一派がクロウ・カードの元に敵の人間を近づけないことがアルス・マグナの勝利条件。そしてアルス・マグナの妨害を突破し、クロウ・カードの行う儀式を止める、もしくはその成果を横から掠め取るれば魔術結社やヴラド一派の勝ち。わかった?」
「それが、母さんがここにいる理由とどんな関係が?」
「わからない? 私は界裂を横から掠め取ろうとしているの」
「何で? 世界征服でもするの?」
「ヴラドならしそうだけど、私にその気はないわ。私はね、死にたくないから界裂が欲しいの」
「死にたくない?」
「そうよ、私が生きるには魔剣の力が必要。でも、量産魔剣程度では延命が出来ず、Aクラスの魔剣も限りがある上延命できる時間が少ないわ。でも、もし退魔皇剣が手に入れば」
そう、退魔皇剣のランクは現存するどの魔剣よりも、いやどの魔皇剣すらも超えるだろう。
それだけの魔剣なら、一体どれだけの延命が期待できるだろう。
数騎にもようやくそれがわかった。
「じゃあ、母さん! 界裂が手に入れば!」
「えぇ、これからもずっと一緒にいられるわ。数騎と私、二人でずっと一緒に。でも」
「でも?」
「私じゃダメなの。私はホムンクルスと呼ばれる魔法生物、存在しているだけで敵に居場所を気付かれるわ。でも、数騎。あなたなら」
「そうか、僕は無能力者だ。僕なら気付かれず敵に近づける」
「そうよ、だからこそ数騎にしか頼めないの。お願い、私の代わりにクロウ・カードから界裂を奪い取って来て欲しいの。私と数騎が、これからもずっと一緒にいられるように」
「わかったよ母さん」
ベッドから立ち上がる数騎。
「僕が界裂を取ってくる」
「そう、母さんすごく嬉しいわ。じゃあ、この部屋で数騎が帰ってくるのを待ってていいかしら」
「うん、僕が絶対母さんを助けてあげるよ」
そう言って、数騎は武器の確認をするべく、武器を置いた部屋のテーブルへと足を運ぶ。
数騎の武器はテーブルの上に三つ存在した。
一つはドゥンケル・リッター、折りたたみ式ナイフ。
一つは分銅、射的距離もあり安全に使える打撃兵器。
そして、最後の一つはハイリシュ・リッター。
音が漏れる危険が多いからとカラスアゲハに言われはしたが、単独戦闘での危険には代えられないので今回の戦いに数騎は再び鎖ナイフ、ハイリシュ・リッターを持ってきていた。
銀色に輝く折りたたみ式の短刀。
小型軽量で重さを感じさせないドゥンケル・リッターと違い、ハイリシュ・リッターは一回り大きく重い。
さらに鎖もついているために重量は相当なものだ。
数騎はハイリシュ・リッターを宙に掲げ、柄から刃を出すとその刃を覗き込むようにして見る。
「なっ!」
思わず目を見開いた。
その刃に移る人影。
ベッドに腰を降ろしてこちらを見つめている女性。
それは、母親ではなく同世代というだけで全く別の女だったからだ。
髪の色は黒ではなく茶髪、瞳の色も黒ではなく緑。
数騎は慌てて後ろを振り返る。
「あら? どうしたの?」
優しく微笑みかけてくる母親。
大丈夫、後ろにいたのは母親だ。
今のはきっと錯覚だろう。
(本当か?)
疑問に思った。
もう一度ナイフの刃を見る不利をして母親の姿を刃に写してみる。
そこには、やはり茶髪に緑の目をした女性が移っていた。
「どうなって……」
そこまで口にして、数騎は思い出した。
それはどれほど昔だったか。
綱野麻夜は、自分に教えてくれた事。
「ワトソン、あなたは戦う事もないでしょうけど、世の中には幻術を用いる異能者もいるわ」
「幻術? 幻でも見せるんですか?」
それは春。
探偵事務所に移り住んだばかりの頃の話。
煎餅をつまみながら、ソファに腰掛けて二人で話していたこと。
「そうよ、幻を見せる術よ。その場にいると見せかけていないとか、いないと見せかけているとか。まぁ、敵にまわしたくはない相手ね。もし、この術が自分にかかったら確実に殺されると考えた方がいいわ」
「どうしてですか?」
「簡単よ、敵がいるのにいないと思わされたら簡単に首を切り裂かれてお陀仏よ。それくらいわかるでしょ」
確かにそうだ。
ゲームとかだと混乱して味方に殴りかかる程度の被害だが、現実ではそんなに甘い事態ではない。
「いないのにいるとか思わせてくるやつ、いるのにいないと思わせてくるやつ。さらには変化能力を持つヤツ。幻術の使い手は本当にやっかいよ」
「どうすれば倒せるんですか?」
「そうね、使わせる前に倒すとか、幻術をかけられた後でも敵の場所がわかるように敵にマーキングする。でも、一番簡単な方法があるわ」
「どうするんですか?」
「あれを使うのよ」
言って、麻夜は事務所の壁に立てかけてある成人男性の身長並みの大きさのある鏡を指差した。
「鏡は真実を映すわ。もっとも、鏡に限らす反射するものならなんでも。だから、もし敵が幻術使いとわかったら鏡を使いなさい。そこに映ってれば敵がいるし、映ってなければいないわ」
「なるほど。それで、変化能力っていうのは?」
「幻術の一種で他人に成りすます術よ。実際に変身しているわけじゃなくて、変身しているように見せてるだけなんだけどね。そういうのも鏡で対処できるわ。鏡に映った姿が本ものよ。でも、この術は厄介な使い手もいるわ」
「やっかい?」
「そう、この手の術の使い手は相手の望む姿に変身するわ。死んだ肉親とか、離れ離れになった恋人とか。これは非常にやっかいよ。まず、疑う事はほぼありえないし、鏡で実際に正体がわかっても現実を見たくなくて見なかったことにする人も出てきてしまうことがあるの。人間は見たい現実しか見ようとしない弱い生き物だからね」
「なるほど、でも僕ならきっと大丈夫ですよ、麻夜さん」
自身を持って、数騎は続けた。
「僕には会いたいと思うほど大切な人とは別れてませんから。だから相手の正体がわかったらいくらだって対処できますよ」
「そう……ならいいんだけど……」
信じられなそうな顔をする麻夜。
そんな麻夜に、数騎は少しだけ不機嫌そうな顔をしてみせた。
そうだ、幻術。
これは幻術だ。
数騎は母親に、いや、母親に化けている人間に気付かれないように注意しながら思考を続けた。
麻夜さんの言葉。
この手の術の使い手は相手の望む姿に変身する。
だと、するならば。
僕が会いたいと望んでいた人は僕の母親。
なるほど、そう言うことか。
僕は笑い出したくなった。
なぜ、僕が年上好きだったのか。
なぜ、僕は自分に優しい人にあれほどののめり込んでしまったのか。
なぜ、僕は神楽さんが好きなのか。
なるほど、僕は今まで自分が好きになった人の後ろに、母親の姿を見ていたのだ。
ひどい話だ。
なんて思い知らされ方だ。
僕はマザコンだったというわけだ、情けない。
それにしても、数騎は思った。
さっき刃に移った女性の顔。
あれは、歌留多が僕に殺せと言った女。
殺さなくてはならない。
あの女を殺さなくては、僕は神楽さんを失ってしまう。
数騎は忍者装束の袖にドゥンケル・リッターを隠し持ち母親の、いや、幻術使いに向かって歩き出した。
「どうしたの、数騎?」
何があったのか、と少しだけ驚いて聞いてくる幻術使い。
「ちょっと、最後に一つお願いがあって」
そんな幻術使いに、数騎は悲しそうな顔をして言った。
真正面から見た女性は間違いなく自分の母親だった。
麻夜の言う言葉の意味がようやく理解できた。
目の前に母親が現れて嬉しかった。
例え偽者であろうと、このまま母親でい続けて欲しかった。
気付かなければ、どれだけ幸せだったろうか。
数騎は思わず泣きそうになった。
母親が生きていると信じられて嬉しかった。
甘えさせてくれて、膝枕をしてもらっている時は、まるで失った時が戻ってきたようだった。
殺したくなかった。
もっと夢を見続けて、永遠にさめないで欲しいと願った。
でも、それはできない。
もう偽者であると気付いてしまったから。
そして何より、神楽さんを助けなくてはいけなかった。
幻術使いの前まで来ると、数騎は口を開いた。
「もしかしたら、僕は戻ってこれないかもしれないから、最後に……」
それは、数騎の最後の願い。
「最後に、もう一度だけ抱きしめて欲しいんだ」
「なんだ、そんなこと……」
何を言われるのかと思ったか、母親は拍子ぬけた顔をした。
ベッドから立ち上がり、母親は数騎を抱きしめる。
柔らかい体に抱きしめられる数騎。
温かい温もりが体を包み、優しい腕が背中に回される。
線香の匂いがした。
いつも母親が仏壇で灰の中にさしていた線香の匂い。
懐かしい母親の匂い。
この温もりにいつまでも包まれていられたとしたら、どれだけ幸せだろう。
数騎は強く母親の体を抱きしめた。
これが最後だったから。
これで、二度と母親を抱きしめることがないから。
だから数騎は、涙を流しながら母親に抱きついていた。
「あらあら、この子ったら」
数騎が泣いていることに気付くと、母親は数騎の頭を撫で始めた。
「よしよし……」
丁寧に頭を撫でる母親。
それはくすぐったくて、気持ちよくて。
数騎は、やるせない気持ちになった。
抱擁が終わる。
そして、彼女の生の終わりの時だった。
「えっ?」
信じられなかった。
信じられず、数騎を欺いていた幻術使い、ターニャは目を見開いてそれを見た。
自分の首。
喉元に生える異物。
それは短刀。
幾多の命を奪ってきた黒き短刀ドゥンケル・リッター。
体を支える力を失う。
致命的なその一撃に、ターニャは立っていることができなくなった。
地面に崩れ落ちるターニャ。
だが、その姿はいまだに母親のままだった。
「さよなら、母さん」
泣きながら口にする。
「オレには、神楽さんがいるから」
涙は止まらず。
「母さんは、安心して眠ってくれていていいから」
心は叫びをあげ。
「だから……さよなら、母さん……」
それで終わりだった。
痙攣して転がる死体。
ナイフの脇から血が噴出して止まらず、その体に魂はもはやない。
幻術の力は失われていた。
それはすでに母親の姿ではなく、赤の他人の死体。
茶色の髪をした、緑の目を見開いて動かなくなった死体。
それが、数騎の目に映る女性の姿だった。
「ありがとう、名も知らない人」
ターニャの死体に、数騎は話しかける。
「あなたは……オレに二度と会えない人に会わせてくれました」
答えない死体に、数騎は最後に一声かけた。
「本当に……ありがとう……」
それで終わりだった。
二人の女性に別れを告げた数騎。
それは、母親の手から離れ、数騎がようやく一人で歩き始めた瞬間であった。
魔術結社 残り二人
ヴラド一派 残り三人(ブラバッキー石化、ターニャ数騎により殺害)
アルス・マグナ 残り七人
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