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第一羽 八人の契約者


 夜の町を少女が走っていた。
 冬だというのに柔らかそうな太ももをあらわにした少女は、追いすがる存在から逃れるために走っていた。
 薄い紫のボディコンスーツに白のダウンコート、足にはロングブーツを履いている。
 ブーツのヒールが十五センチ以上もあるので、走って逃げるのが大変そうだった。
 それを追う人間は三人。
 髪の色はそれぞれ茶色、金、紫と実にカラフル。
 着ている服の派手さと彼らの若さから、一見して彼らが不良と呼ばれる人間だということがわかる。
 ほのかに顔が赤いのは、寒いからではなく酒を飲んでいるからだろう。
 追いかける不良たちを振り返りながら走っていた少女は、長いヒールのせいで転倒してしまった。
 痛そうに起き上がろうとする少女だったが、それを三人の不良が取り囲んだ。
 浅黒い肌をした少女はあたりを見回す。
 繁華街には大勢の通行人がいた。
 しかし、誰も彼女を助けようとはしない。
 誰もが無関係を決め込んでいる。
 巻き込まれるのが怖いのだ。
 交番もはるか遠くにあり、助けがくるとも思えない。
 そんな好条件の中、不良の一人が口を開いた。
「お姉ちゃん、ダメだよ逃げちゃ」
 そう言いながら、茶髪の不良は金髪の不良の胸を指差す。
「ほら、見ろよこいつの服。二万もした服なのにケチャップがついてるぜ。どうしてくれんだよ?」
 言われて恐る恐る金髪の不良の胸元を見る。
 その白い服には、真っ赤なケチャップのあとがついていた。
 実はこの三人、酒を飲んだ帰りにアメリカンドッグを手にコンビニで買った缶ビールを飲みながら繁華街を歩いていた。
 少女はそうとも知らず自分の働いているキャバクラに客を呼び込もうと会社帰りのサラリーマンを探して繁華街をうろついていた。
 確かに少女の不注意だった。
 今日はあまり客入りがよくなかったため、少女は必死になって客を探していた。
 だから周りに目がいかず、不良たちとぶつかってしまったのだ。
 少女は必死になって謝ったが、ぶつかられた金髪の少年は手にもっていたアメリカンドッグを胸に落とし、服を汚してしまった。
 不良たちは許そうとせず、彼女に謝る気があるなら一緒に来いと脅した。
 いやがる少女を無理矢理連れて行こうとした不良だったが、それを勇敢な中年のサラリーマンが止めた。
 そして、次の瞬間その中年のサラリーマンは三人の不良に袋叩きにされる。
 鼻から血を流し、骨をへし折られ、折れた前歯がアスファルトの地面に転がった。
 それを目にした少女がサラリーマンを見捨てて逃げたとしても誰が攻められようか。
 しかし、少女は百メートルと走らないうちに転んでしまった。
 そして、助けに入ったサラリーマンがどうなったか、その場にいた人間は全員見ていた。
 誰も助けようとなどするはずがないのだ。
 容赦なく暴力を振るう不良たちに、誰も抗おうとはしない。
 金髪の不良が地面に腰をつく少女の腕を掴んだ。
「ほら、立てよ。オレの服を汚した責任はしっかりと取ってもらうぜ」
「ヤ、ヤメテクダサイ!」
 発音のずれた日本語。
 そう、少女は日本人ではなかった。
 一見すると日本人に見えるその少女は、実は外国人だった。
 恐らく東南アジアあたりの国からの出稼ぎだろう。
 それに気付くと、紫髪の不良が口笛を吹いた。
「おー、外人か。オレ外人とやったことなかったんだよなー」
「じゃあ、今日が初体験ってか?」
 下劣な笑みを浮かべる茶髪の男。
「おいおい、初体験なんて言ったら童貞みたいでダサいじゃなぇか。童貞が許されるのは小学生までだぜ」
「待てよ、オレ初めては中学だぜ。それ早すぎだろ」
「かもな〜」
 金髪の男がそう口にすると、三人は一斉に笑い出した。
「ほら、早く立てよ。しっかりサービスしてもらうぜ」
「イヤ、イヤッ!」
「立てよ!」
 金髪の男は無理矢理少女を立ち上がらせた。
 そして逃げようとする少女を羽交い絞めにする。
「おい、ホテルどっちよ?」
「こっちだ、行こうぜ」
 茶髪の男がホテル街を指差した。
 引きずるようにして少女を引っ張る男達。
 そんな時だった。
「村上、お前は相変わらずバカだよな〜」
 その声が聞こえてきたのは。
 少年達が驚いて後ろを振り返る。
 そこには二人の青年の姿があった。
 一人は百八十センチくらいはありそうな長身の男。
 温かそうな茶色のファーコートを前開きにして、下からは黒い服が覗ける。
 下は濃い色のジーンズ、靴は黒の革ブーツ。
 その隣にいるのはロングコートに身を包む、百七十代中盤の男だった。
 茶色の髪をしたロングコートの青年は困った顔をしながら自分の友人と、そして不良たちを見比べていた。
 二人ともそれなりに顔が赤い、酒を飲んでいたのだろう。
 ご機嫌な感じで話をしていたようだが、そこまで酔っていないロングコートの少年は、自分達の目の前で何が起こっているかに気付いていた。
 酔いが回っているファーコートの男は気付いていない。
「おい、やばいって」
 ロングコートの青年がファーコートの青年にまくし立てるように口にした。
「あいつらに睨まれてる、逃げようぜ」
「はぁ? 逃げるって何がだよ」
 足を止めて話しかけるロングコートの青年を、振り返りながら歩き続けるファーコートの青年。
 どれだけ歩いただろうか、正面に向きなおった青年は三人の不良たちをようやくまともに視認した。
 距離にして三メートル。
 これだけ近い距離になると、不良達もファーコートの青年が何かの目的をもって近づいてきたようにしか思えなかった。
「テメェ、なんのつもりだ?」
 茶髪の不良がドスの聞いた声でファーコートの青年に向かって言った。
「ん? オレに何かようか?」
 尋ね返す青年。
 そんな青年を取り囲むように、不良たちが展開した。
 正面に茶髪の不良、右には紫髪、左には金髪だ。
「お前、邪魔するなら容赦しねぇぞ」
「邪魔? 何のことだよ?」
 酔いが回っているのか焦点すらあっていない表情だ。
 だが、楽しみを邪魔された不良たちにとってそんなことは関係なかった。
 先ほどサラリーマンに対して振るった暴力の余韻がまだ残っている。
 他者を暴力で屈させる、心の底から歓喜に震える暴力の誘惑。
 そんな暴力を振るえる相手が目の前に現れた。
 それを知る三人は、青年に対する囲みを狭くすると、突然襲い掛かった。
 茶色の青年が拳を振り上げる。
 それと同時にファーコートの青年も動いていた。
 着ていたファーコートを脱ぎ、茶髪の青年に投げつける。
 流れるような動作で投げられたコート。
 それにより茶髪の不良の視界が遮られた。
 同時に顔面に走る衝撃。
 コートの後ろから叩きつけられたのは青年のブーツ、つまり蹴りだった。
 鼻の骨をへし折られ、地面に転がる茶髪の不良。
「テメェ!」
 紫髪の不良が青年に殴りかかろうとした。
 青年は突き出された右拳を交わしながら手首を掴むと、そのまま捻りあげて不良の後ろに回りこみ。
「ギャアァァァァ!」
 不良の腕の骨を容赦なく叩き折る。
 そのまま不良を地面に転がし、青年は一人残った金髪の不良に向き直った。
「正直、暴力沙汰はキライなんだ、引いてくれないか?」
「ふざけるな!」
 金髪の不良がポケットに手を突っ込んだかと思うと、その手がすぐさま引き抜かれた。
 その手に握り締められていたのはナイフだった。
 周囲から悲鳴があがる。
 繁華街を照らす街灯の光を反射し、不良のナイフが光り輝いた。
「ぶっ殺してやる、ダチの仇だ」
「やれやれ、そんなナイフでオレに勝てるとでも思ってんのか?」
 面倒くさそうに両手をポケットに突っ込む青年。
 舐められている。
 そう感じた金髪の不良は、ナイフを握り締めながら青年に向かって突き進んだ。
 真っ直ぐに突き出されるナイフ。
 青年はそれを左に跳んで回避する。
 不良はナイフを右手だけで持つと、振り下ろす斬撃でもって青年に踊りかかった。
 響く金属音。
 いつの間に手にしていたのか。
 驚く不良の前に立つ青年の左手には、黒い折りたたみナイフが握られている。
 不良のナイフは黒いナイフで受け止められていた。
「短刀繰りでオレに勝てるわけねぇだろ」
「なっ!」
 叫び、不良は再びナイフで青年に襲い掛かろうとする。
 が、
「遅い!」
 青年の右腕がそれをはるか先にいった。
 右手から繰り出されたのは鎖。
 再び攻撃のために一歩後ろに下がった不良に弧を描く鎖が、いや、その鎖の先についた金属が襲い掛かった。
 それは不良の側頭部を殴打する。
 鈍い打撃音と供に不良が地面に倒れた。
 青年はため息をつきながら鎖を手に手繰り寄せた。
 不良を殴打した鎖の先についている物体。
 それは、左手に持つナイフよりも一回り大きい銀色の折りたたみナイフだった。
「分銅じゃないから死んじゃいないだろ。これに懲りたら悪さすんじゃねぇぞ」
 そう言うと、青年はいつの間に腰を抜かして地面に座り込んでいた少女に近づいていった。
「大丈夫かい?」
 少女に青年が手を伸ばした。
 少女はしばらく呆然としていたが、自分を助け起そうとしているということに気付き、青年の手を取る。
 少女はヒールの長いブーツのせいで転ばないように気をつけながら、慎重に起き上がった。
「ア、 アリガトゴザマス」
「あ、外人さん。日本語上手だね」
「ド、ドウモデス」
 顔を赤くして照れる少女。
 そんな少女に青年は続けた。
「大丈夫だったかな? まぁ、見たところ怪我はなさそうだけど」
「ハ、ハイ」
「ならよかった」
 優しく微笑む青年。
 そんな青年の後ろにロングコートの青年は近づいてきた。
「おいおいおい、勘弁してくれよな。お前、三対一だぞ。普通挑むか?」
「だって、女の子が襲われてたんだぜ」
 答える青年に、ロングコートの青年はさらに続けた。
「だからって三対一はないだろ? 負けらたらどうするつもりだったんだよ?」
「その時は村上がオレのことを助けてくれたはずだ、違うか?」
「誰が助けるかっての」
 顔をしかめるロングコートの青年、いや村上。
 青年は苦笑しながら村上の顔を覗き込んだ。
「まぁ、悪かったよ。どこかで飲みなおそうぜ。オレがおごるからさ」
「いいよ、ワリカンで。お前の戦勝を称えてやる」
 そう言うと、二人の青年は少女に背中を向けて歩き出した。
「マ、待ッテ!」
 少女が声をあげた。
 村上とファーコートの青年は何事かと後ろを振り向いた。
「名前、教エテクダサイ。何カオ礼シタイ」
「ん〜、お礼はいいけど名前だけは教えとくよ」
 そう言って一呼吸すると、青年は透き通った声で言った。
「オレの名前は須藤数騎、まぁ機会があってまた会うときはヨロシクな」
 そう言うと、須藤と名乗った青年と村上と呼ばれた青年はそのまま少女に背を向けて歩きだした。
 二人の背中を見つめる少女の耳に、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
 それに気付くと、二人の青年は慌ててその場から逃げ出した。
 人ごみを掻き分け逃走を試みる二人。
 少女の視界から、二人の青年の姿はすぐさま消え去ってしまったのであった。






 六畳の広さの寝室はとてつもなく散らかっていた。
 一人暮らしの大学生の住む部屋と言われれば、誰もが納得するだろう。
 読み散らかした雑誌、出し忘れたゴミ袋の山、放り出されたカップラーメンの空き箱、などなど。
 凄惨という言葉がふさわしいくらいに、その部屋は散らかっていた。
「起っきなさ〜い!」
 そんな部屋で、可愛らしいその声が聞こえると同時にとてつもない寒さを感じた。
「うわっ!」
 一瞬で目が覚める。
 数騎は体を震わせながら、目の前の女性を見た。
 温かそうなセーターにロングスカート、エプロンをつけた女性がそこにはいた。
 髪の色は茶、瞳は緑。
 日本人よりも白いその肌は、まるで空から降ってくる雪のようにも思えた。
「ほら、起きなさいよ。ご飯できてるわよ」
「あと五分〜」
「五分じゃない!」
 言って数騎の頭を軽く小突くアーデルハイト。
 そんな彼女は、数騎の被っていた布団を手にしていた。
 数騎はと言えば布団を失い、ベッドの上で体を丸くしている。
 寒さに耐え切れず、数騎は寒そうに体を抱きしめながらベッドから起き上がった。
「おはようございます、アーさん」
「起きればよろしい、ご飯できてるから着替えたらきなさいよ」
 そう言うと、アーデルハイトは数騎の布団をベッドに放り投げると、数騎に背を向けて部屋から出て行ってしまった。
 数騎はアーデルハイトが部屋から出て行くのを確認すると、大きなあくびをした。
 背伸びをし、体を伸ばすととりあえず着替えを持って洗面所に顔を洗いに行く。
 ラグランのTシャツにデニムパンツ、ちょっと寒いのでその上にパーカーを着込む。
 いや、さすがに十二月中旬ともなるとかなり寒い。
 そんなことを考えながら着替えを終えると、さっそくワックスで髪の毛を整える。
 手入れは五分で終わり、鏡の向こうにはイカした姿の自分。
「うん、今日も数騎くんのカッコよさは及第点だね」
 ポーズをとりながら鏡の向こうに移る自分を見つめる。
 と、腹が鳴った。
 そういえばまだ朝食をとってない。
 アーデルハイトが作っているはずなので、数騎はあと一回だけ鏡で自分の姿を確認すると、急いで玄関に向かい外に出た。






 彼、須藤数騎は学寮から学校に通う大学一年生だった。
 わけあって高校に入ることはしなかったが、いろいろと勉強してそれと同等の資格を手に入れ、今年の春に大学に合格した。
 金の無かった数騎はその大学の近くにあった学寮に入ることになった。
 と、言っても決して立派な建物ではない。
 正直言ってただの二階建てのアパートだ。
 入り口には美坂大学学寮とか立派な札が立ててある。
 実はこの学寮、その頭の上に旧がつく。
 このアパートは元々学寮の無かった美坂大学のためにある子供のいない教師が学校に土地ごと遺贈したアパートだった。
 美坂大学はこれを自らの学寮と名付け、遠方から通う生徒や金の無い学生に割安で住まわせることにした。
 しかし、あまりにも学寮に済みたいという希望者が殺到し、毎年二十倍以上の倍率だったという。
 学寮がないので美坂大学を諦める優秀な地方出身者が多いことが、腰の重い美坂大学を立ち上がらせた。
 美坂大学は、学寮が必要なさそうな生徒さえ住みたいと思うほどの豪華な四階建ての学寮を、数十坪の広さでもって学校から約二キロの地点に建設した。
 その途端、三キロ先にあるこの旧美坂大学学寮の価値は瞬く間に下落。
 取り壊すかという話も出たらしいが、新しい学寮よりも格安なこの学寮に入りたいという希望者もいたため、未だに残っているというわけだ。
 数騎はこのアパートの二階の一番奥に住んでいる。
 一階は塀があるからまだマシだが、二階だと遮るものがないため冬の風が体に冷たい。
 コートでも羽織れば暖かいのかもしれないが、短い距離の移動なのでべつに構わないだろう。
 数騎は早足で階段を駆け下り、一階にあるこのアパートで一番大きな部屋に足を踏み入れた。
 そこは天国だった。
 油をたっぷりと注がれたヒーターで部屋は暖められていた。
 玄関から短い廊下を歩くと、廊下とキッチンルームを遮る扉の向こうにあるテーブルの上には香ばしい匂いを放つ料理が待ち受けていた。
 今日の朝食はベーコンつきの目玉焼きにサラダ、それとトーストが二枚だった。
 テーブルの中央にはマーガリンとイチゴジャムとピーナッツクリーム。
 好きなものを塗って食べろと言いたいのだろう。
「あら、遅かったじゃない、ちょっと待ってて」
 そう言うと、部屋の主アーデルハイトは冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、それをテーブルの真ん中に置くと、自分の席と数騎の席の前にグラスをひとつずつ用意する。
「はい、準備完了よ。召し上がれ」
「いただきます!」
 数騎は唾を飲み込みながらイスに腰を降ろす。
 さっそくイチゴジャムをトーストに塗りたくり豪快にかじりついた。
 柔らかくて温かいトーストの感触が口に広がり、目覚めたての頭にジャムの糖分が駆け巡る。
 数騎は牛乳で流し込むようにトーストをたいらげると、次は目玉焼きに手をつけた。
 ソースをかけるのが好きなので目玉焼きの上にソースをかける。
 そんな数騎に、まだマーガリンをトーストに塗っている途中だったアーデルハイトが話しかけてきた。
「数騎くん、あなた何で目玉焼きにソースをかけるの?」
「ん? 目玉焼きにはソースだろ?」
「普通はしょうゆだと思うんだけど」
「それは違うって、普通はソースさ」
「そうかしら?」
 首を傾げるアーデルハイト。
 そんな彼女を尻目に、数騎は目玉焼きを一気に口の中にほうばる。
 一心不乱に食事を続ける数騎を見て、アーデルハイトは小さく苦笑した。
 実は彼女、この学寮に住む学生の面倒を見る寮母だった。
 本当は彼女の祖母が学生の面倒を見ていたらしいが、今年になってとうとう他人どころか自分の面倒まで見れなくなり老人ホームに入ってしまったのだという。
 そんな時に孫のアーデルハイトが祖母の仕事を継ぐことを決めたのだそうだ。
 ちなみに、アーデルハイトは見た目通りに外国人である。
 彼女の祖母が中欧のどっかの国(聞いたが覚えてない)の人間と日本人のハーフであり、祖母の娘、つまりアーデルハイトの母のことだが、彼女はドイツ(だったと思う)の人間と結婚したらしい。
 つまりアーデルハイトはクォーターななのだ。
 一応、日本人の血が四分の一流れているらしいのだが、とてもそうとは思えないほど日本人離れした顔だった。
 この学寮は、祖母の時代は寮母の部屋に学生を集めて朝晩で食事を出していたらしいが、アーデルハイトの祖母が引退したと同時にその伝統は廃れたはずだった。
 が、数騎は未だにその伝統にしたがって朝晩をアーデルハイトと供に過ごしている。
 これには理由があった。
 祖母が引退して食事抜きになっていることに気付かなかった数騎が一年分の家賃と食費を一緒に銀行振り込みしてしまっていたのだ。
 金を返却することもできたアーデルハイトだったが、まぁついでだからという理由で数騎の食事も作ってくれることになった。
 そのため、アーデルハイトの部屋で食事をとる人間はこの寮の中では数騎だけである。
「いやぁ、アーさんの料理はいつものことながらおいしいなぁ」
 目玉焼きを食べ終え、サラダに手をつけながら数騎は言った。
「ならもう少し早起きしてゆっくり楽しんでくれると嬉しいんだけど」
 ちょっと不満そうに言うアーデルハイト。
 そう、アーデルハイトが数騎を部屋まで起しにいったのは理由があった。
 数騎は朝に弱い。
 だから起きるのはいつもギリギリだ。
 しかし、ある程度余裕をもって起きないと食事の時間がなくなる。
 朝食抜きで大学に行かれては、せっかく作った朝食が無駄になってしまう。
 だからマスターキーの力を使ってアーデルハイトは毎朝数騎を起しにくるのだ。
 そんなアーデルハイトに、数騎は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんごめん、明日から早く起きるから」
 その言葉に、アーデルハイトは深くため息をつく。
 明日から。
 それはすでに五十回以上聞かされた言葉だった。
 そんなアーデルハイトを気にも留めず、数騎は目の前に用意された食料を全て胃袋に詰め込むと、グラスに残っている牛乳を一気飲みにした。
「うん、ごちそうさま!」
「おいしかった?」
「あぁ、アーさんの料理はいつだって最高さ」
 笑顔で答える。
 そんな数騎に、アーデルハイトはハンカチで包んだお弁当を手渡した。
「はい、お弁当。今日は何時くらいに帰るの?」
「えっと、今日は真っ直ぐ帰るから五時か六時には戻ると思う」
「そう、じゃあ早めにご飯作って待ってるから、早く帰ってくるのよ。昨日みたいに深夜に帰ってきたら寮に入れてあげないからね」
 その言葉に、数騎は少々苦笑いを浮かべる。
 そう、数騎は昨日悪友と一緒に夜遅くまで飲み歩いていたのだ。
 酒でべろんべろんに酔って帰ってきた待っていたアーデルハイトにさんざん迷惑をかけた。
 飲むと記憶を失うタイプの数騎だったが、さすがに嫌そうな顔をした彼女の顔だけは覚えていた。
「ぜ、善処するよ」
 それだけ言うとアーデルハイトに背を向けて部屋から出て行く。
 その後ろ姿を見つめながら、アーデルハイトは小さなため息をつきながら数騎が食べ散らかした食器を片付けるのであった。







「おはよ〜」
 後ろから声が聞こえてきた。
 学校へ向かう途中で、交差点で青信号を待っていた数騎は後を振り返る。
「元気か、須藤?」
 左手にリュック、右手で敬礼じみたポーズを取って話しかけてきたのは村上だった。
 身長は百七十程度、茶色い髪にメガネ、黒ブルゾンに茶色のマフラーをしたその青年は村上だった。
「昨日はどうだったよ、お前結構酔ってたよな」
「さんざんだったよ、オレ酒強くないんだからあんまり飲ませるな」
「わりぃわりぃ」
 悪ぶれた様子もなく村上は数騎の隣にやって来た。
「で、アーデルハイトさんは何て言ってた?」
「説教されたよ、まったく。お前が悪乗りするからだぜ」
 数騎はため息をつきながら村上の顔を見た。
 そんな村上は、見つめてくる数騎に元気に微笑み返していた。
「でもアーデルハイトさんって美人だよな〜。いつも思うけど?」
「そうか? 言われてみれば確かに美人かもしれないけど」
「しれないじゃないだろ? 全くお前がうらやましいぜ。オレも旧寮にしとけばよかったな〜」
 実家が金持ちな村上はボロアパートなんかご勘弁だぜ、とか言って新寮に応募、見事入寮したらしい。
 村上と数騎が知り合ったのは今年の五月。
 同じ教科を取っているため名前は知っていたが、初めてまともに話したのは五月上旬の事だった。
 食堂でカレーうどんを食べていた村上は勢いよくうどんを吸い込み、うどんについたカレーの汁を筋肉質のラグビーサークルに入っている三年生の男に飛ばしてしまった。
 白い服に黄色のしみをつけられたその男は校舎裏に村上を連れて行くと、そこで暴力を振るったのだ。
 体を丸くして身を守る村上。
 と、そこに現れたのが数騎だった。
 アーデルハイトお手製の弁当をいつも校舎の外で食べる数騎はちょうど校舎裏の茂みの中で背中を木に預けて昼食をとっていたのだ。
 二人の間に割って入った数騎は、あっという間に筋肉質の三年生をボコボコにしてしまった。
 ひるんだ筋肉質の三年生に一言脅しを入れ、数騎は男を追い払った。
 村上は立ち上がると、礼を言うより先に聞いた。
「この学校で暴力なんか振るったら退学になるぜ、大丈夫なのかい?」
 それに対して数騎は答えた。
「大丈夫だよ、ばれないように服で隠れる所しか殴ってない。それに下級生にやられたなんてあの男が言いふらすわけないだろ?」
 そう、あの三年生は腕力にモノを言わせて下級生をいびり続けていたイヤな野郎だった。
 だから、もし下級生に負けたなどと知れたら地盤が揺らぐ。
「もちろん、こっちもバラすつもりはないからおあいこさ。多分、なんのお咎めも無しだろ思うぜ。武器も使ってないし」
「武器?」
 尋ね返す。
 そんな村上に、数騎は続けた。
「オレな、ナイフ使うの得意なんだよ。ナイフ使って負けたことなんて一度もないのさ。いつかチャンスがあったら見せてやるよ」
 そう言って数騎はその場から立ち去ろうとした。
 小さくなる数騎の姿。
 数騎の後ろ姿に、村上は大声で感謝の言葉を告げたのであった。
 その次の日からだ。
 村上は数騎に話しかけるようになり、村上と数騎はいつの間にか親友と言っても差し支えないほどの間柄になっていた。
「それにしてもやっぱお前ナイフの使い方うまいよな」
 青を示した信号を確認し、村上は交差点を歩きながら続けた。
「あの不良がナイフ出した時はどうしようかと思ったぜ」
「オレのナイフさばきは知ってるだろ?」
 自身たっぷりに言う数騎。
 そんな数騎に、村上は首を横に振った。
「知っちゃいたがお前がオレに見せてくれたのは投げナイフだけじゃねぇか。ナイフで格闘して見せてくれたのは今回がはじめてだぜ」
「そうか? 言われてみればそうだったかも」
「で、聞きたいんだけどさ。あの鎖つきのナイフは何て名前なんだ? いつもいじってる黒いやつはダンケルとか言ったっけ?」
「ドゥンケルだよ、ドゥンケル・リッター」
「暗黒騎士って意味だっけ? でもドイツ語じゃ暗いって単語はドゥンケルよりはダンケルの方が発音近かったような」
「どっちだっていいだろ、バーサーカーだってベルセルクとかいうじゃねぇか」
「それはそれで違う気がするけどな」
「別にどっちだって構わないさ、オレにとってはドゥンケルが正しいのさ」
 そう言って一呼吸置き、数騎は続ける。
「鎖つきのナイフの方はハイリシュ・リッターっていうんだ」
「意味は?」
「聖堂騎士」
「パラディンか、ファンタジー好きめ。暗黒騎士と聖堂騎士、イカした名前だな」
「褒め言葉だろ?」
「当然」
 村上の言葉に、数騎は嬉しそうに笑みを浮かべた。
 村上は交差点を渡り終えるとさらに質問した。
「それにしてもお前、何で武器に名前つけるんだ?」
「えっと、覚えてないけど誰かが愛用する道具には名前をつけろとか言ってた気がするんだ」
「あぁ、そうだったな。すまない、思い出せないんだったな」
 表情を曇らせて村上は謝罪する。
「おいおい、そんな暗くなるなって。気にしちゃいねぇよ」
「そうか? ならいいんだが」
 気分を変えようと、村上は小さく咳払いする。
「で、昨日の店どうだったよ。安くて量も多くて味もいい。今度からあそこで飲みに行かないか?」
「そうだな、確かにあそこはいい店だった。でもな」
 数騎はジーンズの尻の辺りを軽く叩いた。
 そこには数騎の黒い革財布が入っている。
「やはり飲みは金かかるわ。当分行けない」
「まぁ、苦学生は金がないのがお決まりだからな。オレもそろそろ今月分やばいんだよなぁ」
 数騎は貧乏なのでバイトをして生活費を稼いでいる。
 それなりに貯金はあるのだが、そのほとんどを学費に当てているので、生活費はバイトして稼ぐしかない。
 それでも格安の学寮とアーデルハイトが三食を非常に安い値段で作ってくれるおかげでかなり助かってはいる。
 が、遊ぶ金となると別だ。
 昨日の夜にかかった金は五千円ほどだが、数騎が学校の後に五時間アルバイトしても取り返せない金だ。
 村上は親が勉強をしろとうるさいのでアルバイトはしておらず、代わりに仕送りだがあまり多くの金をもらっているわけではないらしい。
 一ヶ月二万じゃ今時の男の子は生きていけねぇよ、と一度ぼやいていたのを聞いた気がする。
「そういえば須藤、単位とかどうよ?」
「あ〜、オレの方は何とか。お前は?」
「ヤバイ、ちょっと勉強しなさすぎたかも。やっぱネトゲは罪だわ」
「ネトゲ? 確かレヴァンテイン・オンラインとか言ったか?」
 レヴァンテイン・オンライン。
 伝説の剣の名を冠したこのオンラインRPGは全国のプレイヤーが同時にネット回線に繋がることによって多数のプレイヤーが一緒に遊ぶ事のできるオンラインゲームのことだ。
 ゲーム自体も非常におもしろいのだが、真のおもしろさはそこではない。
 仲間と一緒にゲームを楽しむ。
 やはりオンラインゲームの醍醐味はここに尽きる。
 何せ何百時間やっても飽きないのだ。
 いや、正確には飽きている。
 当然だ、遊べばプレイも単調になり、目的があっても達成する意欲はそがれる。
 が、オンラインゲームはゲームであってゲームではない。
 彼らはいつの間にか一緒にゲームをするのではなく、電脳世界で語り合うことが目的となるのだ。
 つまり一緒にゲームをやりながら会話をするのではなく、会話をしながらゲームをするようになるのだ。
 知人、友人のつながりが、飽きたゲームを楽しく感じさせる要因となる。
 もっとも、飽きもせずにゲームを楽しみ続けるものもいる。
 中でも一度レベルをマックスにしたキャラクターを再度レベル一に戻し、再びレベルマックスにして最強状態にすることを何度もやるようなプレイヤーはネット廃人(あまりにプレイ時間を要するため普通の社会生活を営む者には不可能であろうと思われているためについた呼び名)と呼ばれる。
 そんな危ないゲームに村上はハマっているのだ。
 最近は、あくびはおろか、講義中に居眠りをしている光景が妙に目に付く。
 数騎は村上が留年するのではないかといつも心配していた。
「お前、あのゲームもうやめたらどうだ?」
「でもよー、ダチ公に呼ばれたら一緒に冒険するしかないだろ?」
「断れよ」
「悪いじゃん」
「そんなこと言ってたら一生やめられないぞ」
「わかってるんだけどなぁ」
 困り果てた顔をする村上。
 人間関係のしがらみのせいでゲームを止められなくなってしまっている。
 そんな村上の顔を見て、数騎は思い悩むような顔をするのであった。







「あ〜、終わった〜」
 数騎は天井に腕を突き上げ、体を伸ばした。
 場所は教室。
 授業を終えた数騎は教科書をかばんにしまって立ち上がった。
 今日はちょっと疲れたので早く帰ろうと思いながら、教室の出口に向かう。
 と、そこで後ろから声がかかってきた。
「須藤、帰るのか?」
「あぁ、ちょっと疲れた」
 振り返りながら答える。
 そこにいたのは北村幸一という二十二歳の男だった。
 親切そうだが、間の抜けた顔をしている。
 頭も大してよくない。
 そこまで優秀でなくても入れるこの美坂大学に二浪したという筋金入りのバカだ。
 正直、偏差値四十からでも入れる大学ってどうかと思う。
 まぁ、この美坂大学は最低でも偏差値五十五から、学費の安さから七十代もちらほら見られる。
 そんなつらい環境の中、北村が何年留年するか賭けているバカどももいる。
 村上もその一人だった。
 彼は倍率十倍で大穴の二年留年してから卒業に一万円賭けていた。
 ちなみに一番人気は中退だった、倍率は二倍だそうだ。
 まぁ、つまりそれくらいのバカなのだ。
 そんな北村は、ひとのよさそうな顔を近づけてきた。
「疲れてるのは、ちょっとだけか?」
「何がいいたいんだ?」
 訝しみ、数騎は尋ねる。
 そんな数騎に、北村はニタニタと笑みを浮かべながら言った。
「遊びに行かねぇか?」
「どこにだよ」
「カラオケ」
「オレたち三人でか?」
 尋ねる数騎。
 この三人の意味は、数騎、村上、北村の三人がよくつるんで行動していることに所以している。
 数騎を誘うということは村上も誘うという事だ。
 もちろん誘われたのが北村でも三人セットになることが多い。
「違う、六人だ」
「誰が入る? 女か?」
「合コンなんて楽しいもんじゃねぇよ。井上さん、平野さん、宮下さんだ」
「中年組か」
 数騎はその言葉を口にした。
 中年組。
 それは二年生の三人グループの呼称だ。
 全員が三十を超えてから大学に入った男達で、仕事がないのか、なぜか平日学校に現れる。
 年齢が近いことから仲のいいグループを形成、学生達から中年組とあだ名されるに至る。
「で、その中年組が何でオレたちとカラオケに? オレたちと中年組って接点あったか? 学年も違うだろ?」
「向こうはお前に用があるんだと。ついでにオレたちも来いってさ。金は全部中年組が持ってくださるそうだぜ」
「行きたいのか、あの人たちと? 共通の話題もあるとは思えないが」
「もちろんオレだって中年男たちにゃ興味ねぇよ。でも、カラオケの後にいい場所に連れてってくれるそうだ、向こう持ちで」
「どこだ?」
「それは内緒さ。で、どうする。行くだろ?」
「行かん」
 短く返答し、教室から出ようとする数騎。
 そんな数騎の腕に北村がしがみついた。
「待て、いいじゃないか! 行こうぜ!」
「何でそんな必死になるんだ、そんなに行きたいのか?」
「行きたい! 行かないと後悔するぞ、タダで行けるんだぞ!」
「で、それはどこなんだ?」
 尋ねる数騎に、村上は目線をそらす。
「まぁ、いい所だよ」
「怪しいやつめ、薄気味悪くて行く気がしねぇよ」
「待てよ、オレたち友達だろ!」
 帰ろうとする数騎をなんとしても離そうとしない北村。
「オレを見捨てるのか! オレを裏切るのか! 絶対悪い場所じゃない! オレを信じろ! 後悔だけはさせない!」
「じゃあ、どこだよ。言ってみろ」
「言ったらドッキリにならないだろ!」
 必死に口説き落とそうとする北村。
 真剣な表情でせまる北村に、数騎は小さくため息をつく。
「わかった、ついていくよ」
「おぉ、心の友よ。信じてたぜ」
 数騎の腕を放しガッツポーズをとる北村。
 そんな北村に少々呆れてみせながら、数騎は口を開く。
「それじゃ村上の教室行ってくるよ。一緒に行くように誘う」
「いや、安心しろ。あいつはもう説得した。喜んで承諾してくれたよ」
 いやらしい笑みを浮かべる北村。
 そんな北村を見て、数騎はいやな予感を感じてわずかに冷や汗をかいていた。







「バカな……」
 数騎は茫然自失していた。
 数騎の眼前に出現したのはネオン煌くステキなお店だった。
「さぁ、ついたぞ」
 中年三人組の一人がニタニタした顔で口にする。
 カラオケが終わる頃には、夜が始まる時間となっていた。
 カラオケ店から出ると、数騎をはじめとする六人の男達はカラオケのすぐ近くにある繁華街にくりだした。
 食事と酒を中年三人組が奢ってくれるということだったからだ。
 そこで北村の話に合点がいった。
 村上がこれに承諾したのは酒が飲みたかったからだろう。
 北村と村上。
 この二人は高校の頃から仲が良かったらしく、村上が一年と北村が三年の時に同じ野球部に入っていたそうだ。
 しかし、まさかの二浪により同学年になってしまった二人。
 甲子園出場とまではいかなかったが、二人のバッテリーは地元ではそれなりに有名だったらしく、二人合わせて『美坂高の二村』とか呼ばれていたらしい。
 ちなみに北村がピッチャーで村上がキャッチャーだそうだ。
 北村が卒業した瞬間チームが弱くなったと聞くところ、北村のワンマンチームだったのだろう。
 とても今の惨状を見ていると信じられない。
 と、そんなことはどうでもよかった。
 数騎は目の前にそびえる店を前に、無駄な思考に逃げたことをなさけなく思いながら中年の一人に言った。
「あの、すいません。違うとは思いますけど、この店じゃありませんよね?」
「何を言っているんだい? この店に決まってるじゃないか」
 聞こえてくる返事に、数騎は目を丸くする。
 目の前にそびえる店。
 そこは間違いなく、キャバクラと呼ばれる飲み屋だった。
 店名は『クラブ・チャーミング・プリンセス』だろう、看板にそう書いてある。
 てっきり居酒屋あたりに行くかと思っていた数騎の予想は完膚なきまでにはずれた。
 とっさに北村と村上に視線を向ける。
 北村は目をそむけ、村上はへたくそな口笛を吹き始めた。
 露骨でどうしようもない奴らだった。
「北村、どういうことだ?」
「どういうことって、びっくりだよ」
「もう少しで心臓麻痺するところだったぞ」
 中年組に聞こえないように、ひそひそと話し始める北村と数騎。
「オレにこんなところに入れって言うのか?」
「純情ぶってんじゃねぇよ、お前だって興味くらいあったろ? 村上は一言で承諾したぞ」
 村上の方を見ると、村上は嬉しそうな笑みを浮かべていた。
 感情を隠さない男であった。
 数騎は北村に視線を戻す。
「オレは入らないぞ」
「六名様ご案内〜」
 声は店のなかから聞こえてきた。
 見ると扉の向こうで中年組が支払いをしている。
 ボッタクリバーに警戒し、キャバクラの客が減る事を恐れた店が実施した試み、それは料金前払いの追加料金なしという制度だ。
 看板にはポッキリ五千円と書いてある。
 店のカウンターの上には指名料二千円とも書いてある。
 北村が数騎の背中を押し始める。
「さぁ、もう後には引けないぜ」
 さらに村上の手が背中にあてられる。
「覚悟を決めろ、男を見せる時だ」
 もう、数騎に店に入らないという選択肢は失われていた。
 観念したように店に入る数騎。
 そこはまるで別世界だった。
 薄暗い店内。
 柔らかい幾色ものライトに甘い匂いが漂う。
 見渡せばいくつものソファとテーブル。
 肌を露出し、化粧をした女性達が会社帰りと思われるサラリーマンたちに酒を注ぎ、談笑し、相手をしている。
 そんな中を、数騎をはじめとする六人の男達が歩いていった。
「こちらです」
 案内する男性従業員が一番奥の大きな半円形のソファを手で示した。
 ぞろぞろとソファに座る数騎たち。
 と、村上が数騎に文句を言った。
「おい、隣に座るなよ」
 そう言うと、村上は数騎の体を押した。
 よく見ると他の人間たちは一人分の隙間を空けて座っている。
「キャバクラに来て何で隣に男を座らせなきゃいけねぇんだよ」
 もっともだと思った。
 睨んでくる村上に軽く謝り、数騎は村上と少し距離をとる。
「すぐにお呼びしますので、来るまでしばらくお待ちください」
 そう言って頭を下げると男性従業員は立ち去る。
 それから五分もしないうちにキャバクラ嬢たちが現れた。
 こちらの人数に合わせて六人だ。
 その内の一人に、数騎と村上には見覚えがあった。
 唖然とする二人を横目に、キャバクラ嬢たちがそれぞれの客を相手するためにソファに座る。
 そして、数騎と村上の間にその少女が座った。
「オ久シブリデス、スドーサン」
「き、君は」
 驚きながら数騎は自分の隣に座った少女を見つめた。
 薄い紫のボディコンスーツ、足にはロングブーツ。
 少し浅黒い肌に、日本人と見紛うような容姿。
 妙にほっそりとしたその少女は、つい先日、三人の不良から助けた少女だった。
「たいらんどカラ来タ、すわなん言イマス、ヨロシクオ願イシマス」
「あぁ、よろしく。キャバクラ嬢だったんだ?」
「ハイ、ソデス。イッパイ楽シンデクダサイ」
 にっこりと笑って酒瓶を手にする少女、スワナン。
 数騎は少々照れながら、グラスを持ってスワナンに酌をしてもらう。
 と、そんな時に他の女の子に酒を注いでもらっている中年の一人が口をひらいた。
「いやぁー、須藤くん。昨日もここに飲みに来たんだけどね。聞いたのよ、スワナンちゃんを助けてあげたんだってね。君、もうここのヒーローだよ」
 と、それに他のキャバクラ嬢たちが続いた。
「そうよ、須藤さん」
「あなたのおかげでスワナンが助かったんだもんね」
「あの不良たち、この町では誰もが嫌ってたのよ。あなたがボコボコにしてくれて良かったわ」
 数騎を褒め称えるキャバクラ嬢たち。
 きれいな女性達にもてはやされ、数騎は照れて顔を真っ赤にした。
 少しうつむき加減になる。
「昨日、スゴクカコヨカタデス。オ礼デキテ嬉シイデス」
 酒のビンを手に、極上の笑顔を浮かべるスワナン。
 よく見るととても可愛らしい少女だった。
 ちょっと体の線が細すぎる気もするが、出てるところはしっかり出てるので女性的魅力に事欠くわけでもない。
 いや、何を考えているんだ自分は。
 数騎は混乱した自分を落ち着かせるために酒を一口いただくことにした。
 甘くておいしい味がした。
「いやぁー。今日は須藤くんのおかげで助かっちゃったよ」
 すでにグラスの酒を飲み干していた中年が声をあげた。
 気付けば乾杯を忘れていた。
「昨日、店のボーイに言われたんだよ。スワナンを助けてくれた人を見つけてくれたら私達が次に来る時は一人五百円でいいって。おかげで今日は安く楽しめるわけだよ、指名ありで」
 なるほど、数騎はようやく中年組が自分達を誘った理由を理解した。
 この店は指名あり(一緒に飲む女性を店に選ばせるのではなく自分が選んだ娘にできる、もちろん追加料金がかかる)で七千円かかる。
 しかし、五百円で済むなら六人でも三千円。
 カラオケ代は出してもらったが、半額クーポンを使っていたため三千とかかっていない。
 中年組三人でワリカンしても一人千円を超えないだろう。
 なるほど、声をかけるはずだ。
 数騎は納得して酒をさらに口にした。
 視線を巡らす。
 北村は酒を注いでくれるキャバクラ嬢にデレデレで、しかもチョコスティックを口に運んでもらって食べていた。
 幸せそうな顔をしている。
 彼にはきっとここが天国にでも見えるのだろう。
 次に村上を見た。
 どうやら数騎と同じでキャバクラに来るのは初めてのようだ。
 ガチガチになって優しくしてくれるキャバクラ嬢と接している。
 あ、酒こぼしてやがる。
「スドーサン」
 隣から声がかかった。
 見るとスワナンが心配そうな顔をしている。
「すわなんダメデスカ? 他ノ娘ガイイデスカ?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ちょっと他の連中が気になっただけだよ」
「ソウ? ナラ良カタ」
 嬉しそうに笑うスワナン。
 数騎は冷や汗の出る思いだった。
 もう少しで泣きそうな顔をしていたからだ。
 とりあえず女性が隣に座っている時は他の女の子に視線を巡らせるのはやめよう。
 数騎は話を切り出すために、酒を一気飲みしてグラスをスワナンに向かって差し出した。
 するとスワナンは何も言わずとも分かっていると言わんばかりに数騎のグラスに酒を注ぎ始めた。
 それが終わるタイミングを狙って、数騎は質問してみる事にした。
「スワナンさん、ちょっといいかな」
「ドウゾ」
「あのさ、タイランドってどこの国? タイ? 東南アジアの?」
「エット、たいらんどハたいらんどデスヨ」
「何て言えばいいかな?」
「タイの事よ」
 別のキャバクラ嬢が答えてくれた。
 村上の相手をしている女性だった。
「タイの正式名称はタイ王国、だからタイランドなの」
「へぇ〜、タイって王国だったんだ」
 感心して頷く数騎。
 王国と言うことは未だに王制が続いている国なのだろう。
 イギリスや日本と同じ立憲君主制の国なのだろう、恐らく。
 立憲君主制とは王が国の政治を行うのではなく、王に権力を保障してもらって実際は選挙で選ばれた政治家が政治を行う国だ。
 王が政治を行わないからどんな失敗が生じても王に責任は無く、市民にとって王は邪魔にならない存在として存続が可能となる。
「たいらんど、昔、大変ナ状況二アリマシタ、デモらーま王様ガ近代化シテたいらんど、白人ノ植民地ナラナクテ済ミマシタ。ダカラ今デモたいらんどデス」
「なるほどねぇ」
 一つ勉強になったな、と数騎は思った。
「オ菓子、食ベマスカ?」
「あぁ、じゃあ」
 皿に置いてあるチョコスティックを取ろうとする数騎。
 が、それよりも早くスワナンは数騎の取ろうとしていたチョコスティックを取った。
「食ベサセテアゲマス」
「え、悪いよ」
「ソウイウオ店デス」
 そう言ってチョコスティックを口元に近づけるスワナン。
 数騎は困り果てた。
 恥ずかしすぎる。
 助けを求めて周囲を見回すも、誰もが自分の相手をしている女性に夢中で助け舟は無い。
 見られていないことが唯一の救いだと思った。
 意を決し、数騎はチョコスティックにかじりついた。
 思ったとおり、甘くておいしかった。
「オイシイデスカ?」
「うん、おいしい」
「良カッタデス」
 優しく微笑むスワナン。
 その笑顔が、数騎には本当に嬉しく思えた。
 ここまで心を許して自分に微笑みかけてくれる女性を他に知らなかったこともあったのだろう。
 いや、正確には知っていたのかもしれないが、それでもその笑顔は数騎が今まで見たことのない類のものだった。
 数騎は残っていたチョコスティックにかじりつくと、チョコの部分を全部食べつくした。
 残る棒の部分を食べようとしたが、スワナンが持っているため、食べられない。
 どうするのかとスワナンの手元を見ていたが、スワナンはそれを口に運び、食べた。
「本当ダ、美味シイデス」
 嬉しそうに笑う。
 スワナンはさらにチョコスティックを手にすると数騎の口元にもってきた。
 もうこうなったらヤケだ。
 数騎は思い切ってグラスの酒を手に取り、一飲みすると一気にチョコスティックをたいらげた。
 今度は、スワナンは自分で残った部分を食べず、チョコのついていない棒の部分を数騎の口の中に丁寧に入れた。
 そして数騎の唇についたチョコを指でふき取ると、それを自分の口に運んだ。
 指を舐めるスワナン。
「ちょこモ美味シイデスネ」
 またしても笑顔。
 数騎はそろそろ頭がぐらついてきた。
 もともと酒に強いほうではないが、どうもこの少女の前だとのぼせてしまうみたいだ。
 顔も真っ赤だし、ちょっと火照っている。
 周囲を見渡すと、みんな同じような感じだった。
 もう、体面を気にするのはバカらしくなってきた。
 数騎はしがらみを忘れ、この店を最大限に楽しむ事に決めた。
 自分が大切に思っていた世間体というものを捨て去ると、この空間がとても楽しいものに感じられるようになった。
 酒盛りは時間を追うごとに楽しくなった。
 突然歌いだした中年男を喝采し。
 それに便乗した村上にはブーイング。
 スワナンだけでなく他のキャバクラ嬢からも酌をしてもらったり。
 中年男の一人はチョコスティックゲームなる、二人がチョコの両端から手を使わず食べ始め、最終的にキスに至るというおいしいゲームをしはじめる始末。
 数騎の右腕を抱きしめるように自分の胸元に近づけるスワナンは、店が出す料理を逐一数騎に食べさせてくれる。
 それは本当に楽しい時間だった。
 二時間と設定された飲み時間はすぐに終わりを迎えた。
 数騎たちは満足して店を出る。
 帰路につこうとした数騎に、店の中からスワナンが突然近づいてきた。
 数騎の横に回りこむと、その左頬に優しくキスをする。
「マタ来テクダサイネ、スドーサン」
 それだけ言うと、顔を赤くしてスワナンは店の中に戻っていた。
「いやぁー、好かれたもんじゃねぇかスドーサン」
 酔って悪乗りしている村上が数騎の首に手を回して嫌味を言う。
「役得だな、羨ましいやつめ」
 笑い転げながら言う北村。
 数騎は困ったような顔をしながら二人を交互に見つめる。
 そんな三人に先に店を出た中年組が声をかけた。
「君たち、私達は次の店に行くけど、どうする?」
「おごりですか?」
「こっからはワリカンだよ」
 村上の言葉に中年組は苦笑しながら答える。
「オレは行こうかな」
「オレも」
 村上と北村がさっそく中年組についていく。
「お前はどうする?」
 北村が振り返って尋ねてきた。
「いいぜ、付き合うよ」
 そう言って数騎は五人について行きその後数時間、酒を飲んだ。
 そのため、数騎は酔いのせいでかなりの思考力を失った状態で寮に変えるハメになった。







 数騎たちが酒を飲んで楽しんでいたちょうどその頃。
 路地裏で静かに空を見上げる男の姿があった。
 黒いニット帽を被っている二十代後半ぐらいの男。
 ニット帽からはみ出す髪は金に染まっていた。
 中肉中背で、赤のダウンコートを着込み、温かそうな恰好をしている。
 男の名は斉藤正二。
 アスファルトの地面にすわり、青いポリバケツに隠れるようにコンクリートの壁に寄りかかっている。
 その黒い瞳は瞬きすることもなく、ただじっと夜空の星を見つめていた。
 が、
「星が見えねえ」
 呟く。
 星は見えない。
 そう、見えなかった。
 町の明かりが明るすぎて。
 地上の光が強すぎて。
 空に浮かぶ星は見えず、ただ月の明るさだけが視認できる。
「何で見えねぇんだよ」
 舌打ちの音。
 それと同時に斉藤はポリバケツを蹴り飛ばした。
 中から飛び出したのは生ゴミだ。
 一気に腐臭が路地裏に漂い始める。
「うわっ」
 声が聞こえた。
 見ると、ちょうど建物の影から少年が飛び出してくるところだった。
 飛び散った生ゴミが少年の履くスニーカーを汚す。
 少年の服装はいかにも金のかかった黒のブルゾンをはじめとする派手なものだった。
 髪の色は茶色、耳にはピアスをつけ、首にはシルバーアクセサリー。
 いかにもな不良だった。
 不良は睨むように地面に座った斉藤を見た。
 斉藤は目線があうと、右唇の端を持ち上げて笑ってみせた。
「テメェっ!」
 不良が早足で斉藤に迫った。
 すぐさま斉藤の襟に手をかけると、持ち上げるようにして斉藤を立ち上がらせる。
 少年とはいえ、身長は百八十の中ごろはあり、不良は斉藤を見下ろすようにしてすごんだ。
「オッサン、いい度胸してんじゃねぇか」
 声を荒げる少年に、斉藤はぼそりと呟いた。
「お前……」
「あぁ?」
 謝ろうともしない斉藤に、不良はさらに怒りを募らせる。
 目を吊り上げる不良。
 だが、斉藤はなおも続けた。
「お前、バイヤーか?」
「何言ってんだ、お前?」
「オレに用があるのか?」
「用があるのはこっちだよ!」
 不良は掴んだ襟をさらに持ち上げる。
 身長差も手伝い、もう少しでつま先立ちになりそうになる斉藤。
 が、それよりも早く斉藤は動いていた。
 襟を掴む右手を引き剥がし、その小指を一瞬の動作でへし折る。
「なぁっ!」
 叫び声をあげようとする不良。
 それよりも早く、斉藤は握りこぶしを不良の喉に叩き込んだ。
「ぐっ!」
 くぐもった声、鈍い音が響き不良の喉が潰される。
 斉藤はさらにアゴに右フックを繰り出した。
 アゴに直撃した拳は脳を揺らし、不良は立っていられなくなり地面に倒れる。
 うつぶせに倒れる不良を斉藤は足で仰向けにする。
 そして、そのみぞおちに拳を叩き込んだ。
 わずかにうめき、不良は気を失った。
 斉藤はそれを目で確認すると、空を見上げた。
「星が見えねぇ」
「代わりに月が見える」
 声は後ろから聞こえた。
 驚き、斉藤は背後を振り返った。
 そこには中年の男がいた。
 茶色のスーツを着込んだその男。
 百九十を超える長身に堀の深い顔。
 北欧の人間か?
 少なくともヨーロッパのあたりの人間に違いない。
 いつも思うのだが、あの辺の人間は顔がしつこい気がする。
「何の用だ、外人」
 睨み付けるようにして中年を見る斉藤。
 そんな斉藤に、中年は探るような目を向けた。
「何の用? もちろん用だとも。お前に耳寄りな情報をもってきた」
「クスリを半額で売ってくれでもするのか?」
「いや、それはできない。だが、それよりももっと素晴らしいものだ」
「すばらしい?」
 言って斉藤は唇を尖らせた。
 明らかに不信な目で中年を見つめている。
「おっと、自己紹介が遅れたな。私はスルトという。このたびは君と契約を交わしたいと思っているのだ」
「契約?」
「そうとも、我々はお前たち無くして真なる力を発揮できぬが故に、私を使いこなすに足る人間と契約を交わす。そして、私にはお前の呼び声が聞こえたのだ」
「オレの声が聞こえた?」
「そうとも、世界を欲するお前の心が私をここに呼び寄せた。お前とならいいパートナーになれそうだ」
「そうなのか?」
「そうだとも」
 自身ありげに答えるスルト。
 斉藤は面倒くさそうにため息をついた。
「どうでもいい、好きにしろ」
「なら早速契約といこう。何、お前は私にある誓いの言葉を一つくれるだけでいい。それだけで毎日が楽しくなる。お前の望みが全て叶うぞ。どこか静かな場所はあるか? できればそこで契約をしたいのだが」
「ならオレの家に来い」
 そう言うと斉藤は繁華街の光に向かって歩き出した。
 表通りに出る気なのだ。
「話が早くて助かる」
 嬉しそうに笑顔を作るスルト。
 と、斉藤が突然立ち止まった。
「どうした?」
 尋ねるスルト。
 斉藤は真上を見上げれながら言った。
「星が見えねぇ」
 言葉に釣られ、スルトも顔を上げる。
 もちろん、スルトにも星は見えず、月の明かりが見えるのみだ。
「私にも見えん」
「そうか、それは奇遇だ」
 振り返りながら、斉藤は病的な笑みを浮かべた。
 顔のパーツが全て笑顔を形どっていたが、その瞳だけが笑っていない。
 その闇に沈んだ瞳を見て、スルトは歓喜の笑みを浮かべた。
 表情をそのまま貼り付けているスルトを無視し、斉藤は再び歩き始めた。
 表通りまでの距離は遠くない。
 二人はすぐに路地裏から出ると、そのまま斉藤の家に向かって歩いていく。
 斉藤のいた路地裏には、気絶したまま動かない不良の姿が残るのみだった。







 その男は女性と愛を交し終わったあとの余韻に浸っていた。
 電気は無く、カーテンも閉めていないその部屋。
 暗い部屋の中央にはダブルベッドがその存在を誇示するように置かれていた。
 女性は行為のあとで疲れているのか、眠っているかのようにベッドの上から動かない。
 そのすぐ近くではベッドに腰をかけながら、トランクスをはいただけの男がタバコを吸おうとしていた。
 ベッドの側にあるテーブルの上にあったライターを手に取る。
 火がなかなかつかない。
 男は何度も親指でライターを操作し続けた。
 このホテルに寄る途中、ジッポライターのオイルが切れ、代わりに百円ライターを買ったのだが、やはり安物はダメだ。
 男、陣内秋彦は大きくため息をついた。
 それでも幾度となく試すうちにようやく火がついた。
 口にくわえたタバコに火をつける。
 深く吸い込み、そして吐いた。
 煙が天井に向かって昇っていく。
 やはり楽しんだ後のタバコは最高だ。
 極上の女と極上のタバコはこの世の何よりも美しい。
 今年で三十四歳になる陣内は心の底からそう思った。
 普通ならここに酒もきそうなところだが、あいにくと酒を持ち合わせていない。
 酒があればどれだけ最高の夜になるだろう。
 そんな事を考えながら陣内はタバコを味わっていた。
 二本ほど吸い終えると、激しい運動をしていたときに生じた熱は冷め、少々寒くなってくる。
 陣内は脱ぎ捨てていたシャツを再び着始めた。
 さらに紺のスーツをバッチリと着込み、ネクタイも締める。
 その時だった。
 部屋の隅で音が聞こえたのは。
「誰だ」
 尋ねる。
 しかし誰の姿も見えない。
「気のせいか」
 そうだ、この部屋は鍵をしめているのだ。
 誰も入ってこれるはず無い。
 そう考える陣内。
 しかし、その直後に陣内の背後で炎が生じた。
 驚き振り返る陣内。
 陣内の背後。
 そこに、陣内のライターを手にして火をともす一人の男の姿があった。
 年齢は四十代、落ち着いた雰囲気のセーターに白のズボンをはいている。
 細い目で真っ直ぐに見つめてくるその男に、陣内は眉をひそめた。
「どこから入った?」
「どこからでも、具体的に言うのならこのホテルの屋上から」
「屋上だと?」
「そうだとも、存在確率に干渉さえすれば私が存在できない場所などどこにもない。まぁ、それはさておきだ」
 男はライターの火を消すと、そのまま部屋の明かりをつける。
 白い蛍光灯は輝くと部屋が一気に明るくなった。
「君は人生をどう思うね?」
「?」
 男の突然の質問に、陣内は訝しむ顔をした。
 そんな陣内に、男は続ける。
「人生、それは一度しか訪れないものだ。それを最大限に楽しむための努力を惜しむべきではない。それなのに人間の法律というのは人間ができることを制限しすぎている。人間はもっと自由であるべきだ。世界の誕生の時には人間は法律などで縛られる事はなかった。世界の原則だけが私達のルールだったはずなのだ。違うかな?」
「君の言葉には同意したいのだが、こんな状況でするような話ではないだろう?」
 視線を走らせ、武器になるものを探そうとする陣内。
 当然だろう。
 突然、部屋にわけのわからない人間が現れて安心できるわけがない。
 優位に立つためには武器が必要だ。
 どのみち目の前の男をこの部屋から逃がすわけにはいかない。
 しかし、男は陣内の考えを見透かしていた。
「武器など探す必要はない。何、君を窮地に追い込むつもりはないのだよ。むしろ共犯者になりたいとさえ思っている」
「何だって?」
「私は君を否定したりはしないと言っているのだよ。手を組もう。私と契約すれば何もかもが上手くいくようになる」
「僕と手が組みたいだって? 知らないわけではないのだろう? 複数で犯罪を行う場合は共犯者の自白が解決に糸口になることが多いと」
「わかっている、わかっているともさ。それも踏まえた上で言っているのだ。私は君に普通の人間にはない力を与えられる。例えば……」
 男は部屋の扉まで歩くと、静かに木製の扉に手のひらを当てる。
 次の瞬間、その扉が消え去った。
 まるで最初から取り付けていなかったかのように。
 それを見て、陣内は目を見開いた。
「ばかな! どうやったんだ?」
「ただの簡単な手品だよ、正確にはこの扉の存在確率を引き下げただけ。大したことではない」
「何でもそうやって消せるのか?」
「お申し出とあれば。しかし、私の力は決して消すだけでは無い。あなたには信じられないかも知れないがこの世界には常識では考えられない現象というのがいくらでも存在する。私はそれを君よりよく知っているにすぎない。さて、もう一度聞こうか」
 小さく咳払いし、男はさらに言った。
「私と手を組まないか、契約を交したならば君にも私のこの力を分け与えよう。楽しいぞ、世界が違って見える」
「本当に僕にもできるのか?」
「信じられないなら私を殺してでもみるがいい、その場合は他の人間を探そう。だが、君以上に私を使いこなせる人間は恐らくいないとは思うのだがな。まぁ、これも運命だ。君のような人間が偶然この町に八人いることも何もかもな」
「八人?」
「あぁ、蛇足だったか? まぁ、それはいい。大切なのは君と私が契約をするか否かという事だ、どうする?」
 それはあまりにも唐突な申し出だった。
 普通ならありえない状態で、普通ならありえない現象を見せ付けられ、普通ならありえない申し出を受けている。
 普通なら断るべきだ。
 だが、今は普通ではなかった。
 いつもなら犯罪を犯した後に頭のどこかから聞こえてくる警報が聞こえてこない。
 なぜだろう、頭のどこかでこの男を信用しても構わないという声が聞こえてくるような気がした。
 普通なら信用しない。
 普通なら共犯者などいらない。
 だというのに、この男だけは特別だと思い込ませる何かがあった。
 だからだろうか、陣内は知らず知らずの内に右手を男に差し出していた。
「いいだろう、お前と組もう。供に犯罪者として」
「ありがとうございます、お互いにとってそれはとても素晴らしい結果を招くことです」
 満面の笑みを浮かべて男は陣内と固い握手をかわした。
 手が離れる。
 すると、陣内は部屋から出て行こうとした。
「おや? これは置いていくのかな? 置いておいては、余りいい結果は訪れないのでは?」
「消せるんだろう? 痕跡も何もかも、その存在確率とやらで。僕のいた痕跡を残らず消しておいてくれたまえ」
「もうそこまで信じてしまっていいのかね? まだ知り合って五分だぞ?」
「構わないさ、自分の人生を託せないようで何が共犯者か」
「確かに」
 そう言ってベッドの上の女性に触ろうとする男。
 その時だ、陣内が男の背中に声をかけた。
「そうだ、聞きたい事がある」
「何だね?」
「君の名前は?」
 その問いかけに、男は顔だけ振り返らせ、陣内の目を見つめながら言った。
「イザナギ、そう呼んでもらえれば」
「わかった、じゃあイザナギ。一つだけ頼みがある」
「どうぞ」
「僕のいた痕跡は消して欲しい、代わりにその女性だけは消さないでくれ」
「事実が残るぞ」
「それが目的だ。彼女は美しかった、それを無に帰すにはあまり美しいことではない」
「なるほど、それも一興」
 そう呟き、イザナギは己の力を駆使してこの部屋に陣内がいた痕跡、その全てを消し去った。
 二人は並ぶようにしてその部屋から出て行く。
 部屋に残されたのはただ一つ。
 皺一つ無いシーツに、唯一皺を作る存在である、裸の女性の死体だけだった。







 月に照らされる夜の町。
 ネオンに光り輝くその町を見下ろす位置、二十階建ての高層ビル。
 その屋上に、その男はいた。
 胡坐をかき、ビルの端に腰掛けているその男。
 髪は長く。恐らく立った時は腰のあたりまであるのだろう。
 首の後ろで結んだその髪は、生え際から結び目までが白、その先は赤に染めていた。
 風に揺られる赤髪。
 二十代中盤のような若さに見えるその男は、アゴを手の上に乗せながら背中を丸めて座っていた。
「燕雀、どう思う?」
 男が口を開いた。
 すると、どこにいたのか。
 男の影から突然出現するように黒い猫が現れた。
 右目を閉じ、左目だけをあけている妙な猫だった。
「どう思うと言われても困る。オレに輝光を感知する能力がないのは知ってるだろう?」
 猫は小さな口を動かして喋った。
 猫、いや燕雀に対し男はさらに続けた。
「お前、四千年も私と供にあって基礎的な輝光感知すらできないのか、バカにするのもそろそろ飽きてくるぞ」
「そう言うな、オレの能力は暗影だけだ、それに……」
「未来予知だろう、何度か助けられた」
「いや、予知はできない。知っているだけだ」
「お前はいつもそれだ」
 男はつまらなそうな声で言った。
「未来の事を私に教えるくせにお前は未来予知はできないと言い続ける。つまるところ、本当のところはどうなのだ?」
「いつかは教える」
 燕雀は目をそむけてそう答える。
 男は大きくため息をついた。
「確か昔言ったな、四千年後に理由を教えてやると。もうすぎたと私は思うのだが」
「そうだな……」
 燕雀は空を見上げ、続ける。
「あと一週間以内には教えることになるだろう」
「そうか、四千年待った後だ、一週間など短いものだ」
 そう言うと、男は後ろを振り向いた。
「そう思うだろう、ゲド」
 その言葉が聞こえると同時に男の背後に気配が生まれた。
 それは茶色の毛並みをした猫。
 だが、毛の色以外は燕雀の姿と酷似していた。
 ただ一つ違うのは右目。
 燕雀はずっと閉じていたが、ゲドは開いていた。
 その右目が明らかに違った。
 左目が黒いのだから黒であるはずだが、ゲドの右目は赤かった。
 いや、正確には瞳が赤いのではない。
 右目は義眼だった、それも周りの白目はそのままだが、瞳の部分だけ瞳を模しておらず、変わりに赤いルビーが埋め込まれている。
 文字通り、ルビーの右目を持つ猫だった。
 ゲドと呼ばれた猫は、ゆっくりとした歩調で男の隣までやってくる。
「まぁ、四千年は長いだろうな。正直オレには想像がつかないぞ。まだ十八年しか生きてない。それでも一週間は短いだろうな、比較ない場合は」
「そうかそうか」
 答えに満足なのか、男は嬉しそうに何度か頷く。
 ゲドはさらに続けた。
「それで、オレも輝光感知はできないが、ジェ・ルージュは何か感じたのか」
「あぁ、感じた。どうやら今日の夜までの間に、さらに二人の人間が退魔皇剣と契約したようだ」
「もう、仮面をかぶったのか」
「そのようだな……待てっ!」
 男、ジェ・ルージュは鋭い言葉を放つとともに目を見開いた。
「契約者が増えた、四人! いや、五人だと!」
「どうしたんだ?」
 ゲドが驚きも露にジェ・ルージュの顔を見る。
 ジェ・ルージュは唾を飲み込みながら答えた。
「何てザマだ、同時に契約者が二人増えた。これでこの町の退魔皇は五人だ。私以上の実力者がこの町に五人。トゥレインスでも最終戦争に至るまで一度も起きなかった現象だぞ」
「まさか儀式の準備がここまで整ってきたとはな」
「燕雀、これもお前の予知通りか?」
 首を巡らせ燕雀を見るジェ・ルージュ。
 燕雀はゆっくりと目を瞑り。
「まぁ、そういうことにはなるな」
「なぜ教えなかった?」
「教えるべき時ではなかったからだ」
 燕雀を睨みつけるジェ・ルージュ。
 四千年の時を供に生きながらジェ・ルージュは燕雀を信用しきってはいなかった。
 ジェ・ルージュは赤の魔術師と呼ばれる、四千年の時を生きる世界最古にして最大の魔術師だった。
 そして、常にその傍らにい続けたのが彼の使い魔として動く黒猫、燕雀だった。
 燕雀は敵に存在を察知されないという隠密能力、そして予知能力を持っていた。
 しかし、燕雀は常に予知の内容を教えてくれるというわけではなかった。
 燕雀自身が必要と感じた時以外、決して予知をしないのだ。
 最終的にそれで問題のない時もあるが、大損害が出る時もあった。
 しかし、その大損害も最終的、それこそ三千年後には必要なことであったような場合もあった。
 燕雀の予言に間違いはない。
 何しろ、こっちが燕雀の予言を無視した時でさえ、燕雀の予想通りなのだ。
 燕雀の言葉にこっちが従おうと従うまいと構わない、燕雀はそれすらも予言して未来を語っているのだろう。
 わざと嘘を教えることもある。
 だから、この態度はいつものことなのだ。
 ジェ・ルージュは苛立ちを感じながらも、ため息をついて怒りを抑えた。
 そんなジェ・ルージュに、燕雀は申し訳なさそうに口を開く。
「ジェ・ルージュ、お前がオレに対して抱く不信感はわかる。オレもお前には普通に接したいと思い続けていた。ようやくそれが叶う時が来る。信じてくれ、あと少ししたらオレはお前に正直になれる」
「どういうことだ?」
「今はまだ話すべきときではない」
 そう言うと、燕雀はジェ・ルージュに背を向けた。
「それとゲド、お前は後でオレのところに来い」
「なんだよ、またお前達のいた世界の勉強か? お前と会ってから二年間そればっかじゃねぇか。別世界の歴史なんて何の役に立つんだよ」
「いいから、お前にいつか必要になる」
 そう言うと、燕雀は素早い動きでその場から立ち去ってしまった。
「なんだよ、まったく」
 舌打ちし、ゲドはジェ・ルージュの顔を見上げた。
「ジェ・ルージュ、燕雀に言ってやってくれよ。あいつオレのこと嫌いなんだ」
「そうなのか?」
「オレがキライだって正面から言ってきた、いつまでつまらないことで拘るのかってさ。それと同族嫌悪とかも言ってた、同じ猫だからか?」
「まぁ、それもあるだろうな。それにしても、お前いつまで毛の色を染めるつもりだ?」
「ん、これのことか?」
 ゲドは自分の茶色の体毛を目で示す。
「お前の側に燕雀がいるからだよ。あいつ黒猫だし、オレと同じ猫だろ。だから混ざるのがイヤなのさ、だから茶色に染めてるんだ」
「黒猫は黒いままでいいと思うのだがね」
「いいじゃねぇか、個人の趣味さ」
「まぁ、構わないがな」
 そう言うと、ジェ・ルージュはその場から立ち上がった。
「ゲド、燕雀のいる本拠に戻っていろ」
「どこかに行くのか?」
「行くかだと? 当然だろう、私は行く。あと残る退魔皇剣は三振り。なんとしてもどれか一つを手に入れるのだ」
「健闘を祈るぜ」
「じゃあな」
 そう言うと同時にジェ・ルージュの身長が縮んだ。
 いや、正確にはその足首から下が消失した。
 それだけではない、足首から下だけではなく、太もも、膝、腰までもが影に沈んでいく。
 それは影にもぐる事によって別の影に転移する空間転移呪文だった。
 胸が、肩が、最後は頭が消え去りジェ・ルージュはその場から消え去った。
 それを見届けた後、ゲドも動いた。
 燕雀が消えた方角に向かって走り始める。
 こうして、ビルの屋上には人影はおろか猫影すらもが消えた。
 あとに残るは、拭いては消え去る冷たい冬の風だけであった。







 何かを連続して叩く音が聞こえてきた。
 それは聞き覚えのある音だった。
 柔らかく、そして優しい音。
 何か温かい気がした。
 布のこすれる音と感触。
 自分が布団に入って眠っていることにようやく気がついた。
 ゆっくりと目を開ける。
 目に入ってくるのは青いシーツと青い枕。
 意識が覚醒してきた。
 数騎は目をこすり、あくびをしながら体を起した。
「あ〜、よく寝た〜」
 体を伸ばしながら両腕を天井に突き上げる数騎。
「あれ?」
 そして気付いた。
 三百六十度視界を巡らせる。
 そこは白い壁紙。
 薄いピンクの花が描かれた壁紙のその部屋は、実に女性的だった。
 キレイに配置された家具。
 部屋の隅にはソファ、なぜか毛布が置いてある。
 家具の上にはいたるところにヌイグルミ。
 よほど好きなのだろう、軽く二十以上はある。
 下を見る。
 そこはベッド。
 かわいらしい青いベッドだった。
 つまり総合するとこういうことになる。
 オレは女性の部屋で寝ていた。
「マジか!」
 覚えてないぞ、まったく。
 一体どんなおいしいことがあったのだ、昨日の夜に。
 そこでようやく気がついた。
 ソファの上にある毛布。
「あ、そうか」
 簡単な話だ。
 つまり、オレは女性の部屋で寝てはいたが一緒には寝てないということ。
 どうやら部屋の持ち主はソファで寝たらしい。
 ちょっと罪悪感。
 とりあえずベッドから降りることにした。
 ここはどこだろう。
 そんな事を考えている間にも聞こえ続ける何かを連続して叩く音。
 いや、これは包丁の音だ。
 何かを切っているのだろうか。
 数騎は頭をかきながら、部屋の出口にある扉を押して部屋を出た。
 そこはそこまで大きくはないキッチンルーム。
 そして、そこにいた人物は。
「アーさん」
 アーデルハイトだった。
 セーターにロングスカート、そしてエプロンをつけたアーデルハイトは鼻歌を歌いながら包丁でキャベツを切っていた。
 数騎の声に、アーデルハイトは包丁を動かす手を止めて数騎を振り返った。
「あら、数騎くん。おはよう」
「おっ、おはよう。アーさん」
 思わず背筋を伸ばして答える数騎。
 とりあえず気になることを尋ねてみる。
「もしかしてここって、アーデルハイトさんの部屋?」
「そうよ、いつもご飯食べに着てるでしょ」
「いや、私室に入るのは初めてだから」
「あら、そうだったの」
 心なしか喋り方が丁寧な気がする。
 あと、なぜか顔が怖い気がする。
 もしかして怒ってる?
「えっと、アーさん。何でオレ、アーさんの部屋で寝てたの?」
「あら? 聞きたいの?」
 急に声のトーンが下がった。
 包丁をまな板の上に置き、アーデルハイトはゆっくりと数騎の側に近づいてくる。
「本当に、聞きたいの?」
「あ、いえ、結構です」
 部屋に逃げようとする数騎。
 しかし、そんな数騎をアーデルハイトは服の袖を掴む事で止めた。
「実はね、昨日、数騎くんは酔っ払って帰ってきたのよ」
「あれ? そうだったっけ?」
「そうよ、さぞたくさんお酒を飲んだのね。数騎くん、私の事を別の人と間違えてたわよ」
 優しく微笑んでみせるアーデルハイト。
 でも、そこに温かさを一切感じられないのは気のせいでしょうか。
「スワナンって誰?」
「げっ!」
 数騎は思わず目を見開いた。
 背中を冷や汗が流れる。
 アーデルハイトはさらに数騎に歩み寄り、ほぼ真下から見上げるようにして尋ねる。
「スワナンって、誰のことかしら?」
「えっと、アーデルハイトさん。それはですねぇ……」
 引きつった笑みが顔に浮かぶ。
 まずい、かなりまずい。
 数騎は頬の痙攣を何とか押さえつけ、そして言った。
「いや、大学の知り合いだよ。ちょっとタイから留学したらしくてね」
「へぇ、そうなの」
「そうそう、それで一緒に飲み屋に行ったわけ」
「どこの飲み屋?」
「変な場所じゃないよ。普通の飲み屋。えっと、確か店名は松竹酒屋だったかな」
「クラブ・チャーミング・プリンセスじゃなくて?」
 アーデルハイトのその言葉で数騎の血の気が一気に引いた。
 顔がどんどん青ざめていくのがわかる。
 体が震え始め、恐怖で直立する事さえ難しい。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、アーデルハイト様。な、な、なぜ、その店名を……」
「えっとね、数騎くんのコートのポケットに入ってたの、このマッチが」
 言ってポケットからマッチ箱を取り出すアーデルハイト。
 ピンク色の細長いマッチ箱、そこに書かれている文字はよほどおかしな読み方をしないかぎり、クラブ・チャーミング・プリンセスと読めた。
「ねぇ、数騎くん。教えてくれる?」
「は、はい! 何でございましょうか!」
「このお店って、どんなお店?」
「はい、ごく普通の飲み屋でアリマス!」
「あら? マッチ箱の裏にキャバクラって書いてあるわ」
 本当はとっくに見つけていただろうに。
 わざわざ『今初めて気がついたわ』とばかりにマッチ箱をひっくり返してみせるアーデルハイト。
「どういうことかしら、数騎くんは普通の飲み屋って言ったけど、キャバクラなんじゃないの?」
「あ、その、実は友達に無理矢理誘われちゃって」
「そうなの、楽しかった?」
「あ、そ、それは……」
「楽しかったわよねぇ、わかるわぁ。昨日、寮に戻ってくるなり私の部屋に来て私の事を、あろうことかスワナンちゃんって言う可愛らしい女の子と間違えちゃうくらいだもんね?」
「え、あ、その……」
「それだけだったらまだよかったんだけどね。数騎くん、右のほっぺたにすごいものつけてたわよね〜」
「な、何でしょう?」
 そう口にした瞬間、アーデルハイトが大声で怒鳴った。
「キスしてもらったんでしょ! ほっぺたに真っ赤なキスマークがついてたわよ!」
「そ、それは、こっちから頼んだわけじゃなくて……」
「うるさい! 言い訳なんて聞いてないわよ! 何? お金がなくて学寮入ってる苦学生がキャバクラなんていいご身分じゃない! しかも酔って帰ってきて人にさんざん絡んだ挙句、勝手に人のベッドで寝ちゃうなんて、一体何様のつもりなの!」
「ご、ごめんなさい……」
「言い訳なんて聞きたくない! さっさと出てって!」
 そう言うとアーデルハイトは数騎の腕を掴み、無理矢理玄関まで連れて行くと数騎を玄関から外に叩き出した。
 思いっきり外に突き飛ばされたので、数騎は地面に尻餅をついてしまった。
 冬の寒空で冷やされたコンクリートの地面は冷い。
「今日は朝ごはん抜きよ! 少しは反省しなさい!」
 そう言い放つと、アーデルハイトは勢いよくドアを閉めた。
 数騎は尻餅をついたまま、アーデルハイトの姿を遮るアパートの扉を見つめ続ける。
「やっちまった……」
 げんなりした顔で口にする。
 どうやらアーデルハイトさんをかなり怒らせてしまったようだ。
「朝飯抜きか〜」
 泣きそうだった。
 育ち盛りの苦学生にとって、朝飯がどれほどの価値があるか。
 もちろんそれを知るからこその処罰なのだ、アーデルハイトさんは野郎が胃袋の中身で動くということをよくわかっていらっしゃる。
 と、風が吹いた。
 昨日外にいたままの恰好だからそこそこマシだが、それでもコートが無いから結構寒い。
 数騎は体を震わせながらようやく立ち上がった。
「うぅ、とりあえず部屋に戻るか」
 幸い、ポケットの中には財布が、そして財布の中には鍵がある。
 問題はコートだ。
 部屋に戻ってもコートは無い。
 かと言って、アーデルハイトさんの部屋にまた入る勇気はオレにはない。
 数騎は深くため息をついた。
「二度と行かない事にしよう」
 村上と北村のせいで散々な目にあった。
 学校であったらどうしてくれようか。
 そんな事を考えながら、数騎は部屋に戻るために階段に向かって歩き出していた。







 韮澤綾子は困っていた。
 間違いなく困り果てていた。
 今から二日前の夜。
 高級ホテルの二十階にある一室。
 窓の近くに置いてあるイスに座り、外の景色を眺めながら韮澤は大きくため息をついた。
「これからどうしよう」
 思わず一人ごちる。
 韮澤綾子、三十六歳独身。
 最近、顔に表れ始めた皺の処理に奔走し始めるお年頃。
 白のシャツに黒のズボンでビシっと決めている。
 一目で印象を言うなら仕事も出来るいい女だ。
 なまっちょろい若い娘にはない重厚な雰囲気と魅力。
 体のラインは常に気にしているので、年をとってもプロポーションは衰えを見せない。
 他の同年齢の女だとこうはいかない。
 特に結婚した女性に顕著なのが、男の目を意識しなくなるために太りだすことだ。
 肉体の肥満も気にせずに食事の制限もせず肥え太る毎日。
 それじゃ旦那に浮気されるわ、と誰もが思う中年女性にならないために韮澤は可能な限りの努力をし続けた女だった。
 食事制限、適度な運動はもちろんのこと。
 しつこくない化粧、顔の皺とりやシミ取り、エステに行って完全にボディを保ち、あらゆるマッサージやシェイプアップを駆使して見た目マイナス五歳を維持し続けた。
 それでも服装まで若作りはしない。
 いや、実際いるのだ。
 もうヤバイだろうという年齢なのにミニスカートを履く痛いおばさんが。
 それは無様を通り越して憐れだった。
 艶を失った醜い太ももを周囲に見せ付けて誰が喜ぶのか。
 もちろん誰も喜ばない。
 嬉しいのは若く見られると勘違いしている本人だけだろう。
 韮澤の高校の教師にそういう女性がいた。
 誰もが吐き気をこらえてその教師を見ていたものだ。
 ウェーブのかかった髪をかきあげ、韮澤はまたため息をつく。
 韮澤は日本に住んでいる人間ではなかった。
 韮澤自身、人種としては間違いなく日本人なのだが、出生地が違ったのだ。
 生まれはフランス、育ちもフランス。
 母国語もフランスで、三十六年の生涯の内、三十五年間生きた場所もフランスだった。
 韮澤の父親は日本に生まれ日本に育ったがフランスに行き、そこで傭兵として数々の戦場を戦った。
 そんなある日、韮澤の父親はフランス旅行に来ていた女性と知り合い結婚、韮澤綾子をが誕生することになる。
 ちなみに韮澤の父親がフランスで帰化したため、韮澤の国籍はフランス籍である。
 韮澤はフランスでは比較的普通の生活をしていたが、家の中では違った。
 韮澤の母親には秘密があった。
 なんと、韮澤の母親は魔術師と呼ばれる闇の世界の住人だったのだ。
 韮澤は母親から魔術を教わり、とりあえず一人前と呼べるだけの魔術を習得した。
 高校を卒業する時、韮澤はそこで始めて魔術師達が集う学校へと行く事になった。
 そこの大学で韮澤はさらに魔術を勉強した。
 韮澤は幼い頃から老いて死ぬ事を恐れていた。
 いや、死ぬ事は実際どうでもいいのだ。
 人生というものはなかなかつらく、いつか終わってゆっくりできるならそれでいいと思っていた。
 我慢ならないのは老いることだった。
 生きていけば必ず老い、そして死ぬ。
 その老いるという現象が我慢ならなかったのだ。
 醜くなり、弱り、苦痛を感じながら生きていくその人生の結末。
 そのヴィジョンを想像しただけで韮澤は人生というものを憎悪さえした。
 だから魔術師となった韮澤は生命を探求する学部を選んだ。
 どうすれば人間は長生きできるのか、それを研究する学部だった。
 そこにいる多くの魔術師は不老不死を求めて研究を続けていた。
 その学部は他の学部の人間からは蔑みの対象になっていた。
 決められた寿命に抗い、何とか生にしがみつきたい人間の掃き溜め。
 それが大学での一般認識とされており、事実そうだった。
 歴代の学部の長は一生大学の学部で研究を続け、そして寿命が訪れて死ぬ時には完成しなかった不老不死の技術を死の瞬間までギリギリで完成し、間に合うことを祈り続け、死んでいく。
 無様だった。
 韮澤もそう思った。
 それでも韮澤が学部に入ったのは不老を求めてだ。
 もし、若く美しい姿のままで寿命を迎えられたらどんなにすばらしいだろう。
 死の瞬間まで健康な体で世界を堪能し、そして眠るように死んでいく。
 それこそが自分にとって素晴らしい人生だ。
 人間は泣きながら産まれてくる、でも死ぬ時まで泣いていたくはない。
 死は老いて弱った体から逃避するためではなく、健康な肉体を維持して精一杯の人生を楽しんだ後にこそ訪れるべきなのだ。
 その決意を胸に、韮澤は頑張り続けた。
 不老のみを考え不死に全く興味を持たない韮澤を学部の人間は村八分にし、他学部の人間は生命学部に入った韮澤を嘲笑し続けた。
 大学を卒業した韮澤はそのままその魔術大学の教師となり、教鞭をとって生徒を導く立場となった。
 それでもたまに学部に顔を出し、他の仲間の資料を参考に研究を続ける。
 一般に魔術師たちの研究成果は門外不出なのだが、生命学部だけは違う。
 常に全員が全員の結果を公表しあい、研究を進める。
 つまらない意地など張っている場合ではないのだ、不老不死の技術が必要となるタイムリミットは各々たった数十年しかないのだから。
 自分ではなく、他の誰かが技術を確立しても何の問題もない。
 欲しいのは名誉ではなく不老不死なのだから当然だろう。
 それでも研究は一向にはかどらなかった。
 老いを妨げる方法はいまだ確立されず、韮澤は現代科学の恩恵によって見た目の若さを維持している。
 研究に煮詰まったある日のことだった。
 夜まで残って研究を続けていた韮澤は帰る際、校舎である男と出会っていた。
 この学校を運営している魔術師たちの組織である魔術結社、その魔術結社においてナンバー2の実力を持つとされる、クロウ・カードの異名で呼ばれる壮年の男だった。
 頭の天辺は禿げ上がり、耳の上辺りと後頭部にしか髪が残っていない男で、顔中が皺だらけだったが、ハゲだからといってとてもバカに出来そうな男ではなかった。
 まずその顔だ。
 情けなさなど一切ないその顔は威厳に満ち溢れ、禿げ上がった頭頂部さえもが必要だから髪がなくなったと思えるほどその雰囲気に溶け込んでいた。
 体つきは横に広く、かといって太っているわけではないのはその身長の高さからも分かる。
 多くの男が、この男を見たら将来はこのようにして老いたいと思うだろう。
 それほど理想的な壮年であった。
 クロウ・カードは韮澤に近づいてくると、はっきりとした声で言った。
「あなたが生命の探求をしている韮澤綾子女史か?」
「は、はい。そうですが」
 萎縮しながら答える韮澤。
 そんな韮澤にクロウ・カードは続ける。
「私はアルカナム。いや、あなた方にはクロウ・カードと言った方がわかりやすいでしょうか」
「はい、そちらの方がよく耳にします。ところで、こんな夜中に一体どうなさったのですか?」
「いや、何。あなたの論文を読ませていただきました。実に素晴らしい。特に細胞を輝光で循環させ、汚物を取り除き病の元となる悪性の輝光を洗い流すという論文に心惹かれました。もしこの理論が実現すれば、この世界に直せない病気はなくなる」
「は、はい。そうです。ですが、あれだけ小さな細胞だと、一つでも輝光によって浄化させるのは難しく、それが人間の体を構成するに値する億以上の数となると間違いなく不可能です。ですが、魔術がそこに至る可能性は決してないわけではないと思うのです」
「なるほど、それは確かに。ところで、聞いた話ではあなたは今の学部に満足なさってはいないようですね」
「は、はい。そうです」
「なら、私の家で研究するといい。こう言っては何だが、生命学部にはたいした金を大学が回していないようだ、研究するにも費用の限界に突き当たってしまうと思う。そこでだが、私の工房を使ってはどうだろうか。こう見えても金は持っていてな、きっと君の満足いく研究をさせてあげられると思うのだが」
 そして、その言葉に韮澤は首を縦に振った。
 それが五年前だ。
 それから韮澤は学鞭を取りながら、クロウ・カードの工房で研究を続けた。
 しかし、生命の探求は難しく、なかなかいい結果が出せなかったが、いくら金を湯水のように使ってもクロウ・カードは何も文句を言ってこなかった。
 むしろ足りないのではないかと尋ねてくる始末だ。
 もうしわけなくなった韮澤は一度こう尋ねた。
「なぜ、結果も出せない私にこんなに出資してくださるのですか。もしかして、クロウ・カード様はお病気で、私の研究が完成すればそれが治る、そうお考えなのですか?」
 その言葉にクロウ・カードは首を横に振った。
「昔、娘がいた。何年も前に死んだ、病気だった。現存するいかなる魔術を用いても治すことが出来なかった。娘は死の間際に言った、この世界で私みたいに病気で苦しむ人がいなくなればいいのに、とな。娘は死んでもう手遅れだが、それでもこの先娘のように死ぬ人間がいなくなれば、それはきっと素晴らしいことだと思うのだ」
 それでようやく、韮澤はクロウ・カードが無限の出資さえ辞さない覚悟だということを知ることになったのだ。
 その好意に酬いるべく、韮澤はさらなる研究を続けた。
 ようやく出来た風邪の予防薬程度の力しか持たない魔術を、クロウ・カードは手放しで褒めてさえくれた。
 魔術は怪我の治療は可能だが、病気の治癒はできない。
 怪我の治療は自己修復能力を高める術式だが、病気は細菌の殺傷をはじめとする様々な対処方があるため系統が全く別なのだ。
 韮澤の研究は魔術界の中でも、病気に対する初の魔術として一気に評判になった。
 これからもがんばって研究を続けよう、韮澤はそう決意した。
 その矢先だった。
 二年と半年前の話だ。
 韮澤はあるとんでもない事実を知らされた。
 魔術結社とはそもそも、ある敵対組織に対抗するために存在する組織だった。
 そしてその組織の名前はアルス・マグナ。
 いつか来るであろうこの世界の滅亡、それを食い止めるための組織。
 世界とはそもそも何か。
 それは生物が住まい、生を育む空間のことだ。
 そして、生物は世界に生き、そして生きるために世界を汚し、やがては滅ぼしてしまう。
 だが、これは途方もないほど未来の話だ。
 大抵はそうなる前に惑星が滅びるため、星に住まう生物も共倒れするだけだ。
 そこに人間という要素が登場する。
 人間は知識を得、科学を用いることによって世界のバランスを崩壊させた。
 今や、数人の人間が狂気に走るだけで世界を荒廃させることすら可能だろう。
 そこまで科学は進歩してしまった。
 そして危惧する者はその危機感をさらに増し、元々存在していたある組織が急激な成長を遂げた。
 その組織は紀元前から存在した。
 いずれ訪れるであろう星の、いや世界の滅びすらも知覚する人間たち。
 彼らはいずれ世界が滅びる事を知っていた。
 永遠に続くものなど存在しない、それが彼らには認められなかった。
 なら、どうすれば世界を救う事ができるか。
 そんな事は簡単だ、ただ世界をあるがままの状態に保てばいい。
 そうすれば星は自分の力によって活気付き、いざという時はその星に住まう自分達が助力すればいい。
 だが、魂の多くは不純なものに満ちていた。
 選ばれし者たちが世界を守ろうとする反面、不純なる者は星の力を弱め、来るべき災厄を知らず好き勝手にやり続けた。
 これではいけない。
 このままでは世界が滅びてしまう。
 やつらは守らなければならない世界を守る事より、自分達が生き残る事をこそ優先した。
 彼らは恐怖した。
 世界の滅びをもたらす敵は、自分達の種族にこそいたのだ。
 何とか現状を打破するべく彼らは不純なる者たちに歩み寄ったが、やつらは自分達以外のことはどうでもよいと、自分たちが死ぬならこの世界も道連れにしてやるとまで言った。
 知識と力を持つ人間はどんどんと数を増し、それに比例して世界のバランスが乱れ、世界は壊れ始めた。
 彼らはついに立ち上がった、世界を救うため。
 世界を救済するために。
 彼らは星の再生を企図した。
 この汚れてしまった世界を元に戻す事は不可能だ。
 なら作り直すしかない。
 まず世界を破壊する。
 そして一部の、世界にとって有益な優良種たる生命だけを残し、他の全てを再生させなければ世界は有益な存在しかいなくなる。
 これを幾度となく繰り返せば、世界は半永久的に存続が可能だろう。
 そう、彼らは世界の再生を目指す者。
 世界を救済する救世主。
 だが、そのためには世界に存在する総人口の九割以上が死滅する結果を生み出す。
 言わば汚れ役、穢れた闇だ。
 構うものか、それが世界のためならば。
 そして彼らは名乗る。
 我らは闇の救世主。
 世界を救うために活動する、世界を再生させる者。
 我らは世界再生(アルス・マグナ)の闇の救世主(ダーク・メサイア)なり。
 そう宣言した彼らは、常に歴史の影で暗躍を続けた。
 全ては世界を救うために。
 そして、あろう事かクロウ・カードはその組織の人間だった。
 世界の秩序維持を目的とする魔術結社に所属しながら、アルス・マグナにも所属していたのだ。
 彼は今、韮澤がいるこの町、美坂町において魔術結社に反旗を翻した。
 裏世界の者たちの語り草とされている『魔術師クロウ・カードの乱』と呼ばれる大反乱を起したのだ。
 退魔皇剣と呼ばれる世界最強の魔剣の開放を狙ったクロウ・カード、しかしそれは彼の同胞であった魔術結社の人間によって防がれた。
 いかなる偶然か、美坂町には魔術結社でも最強の少数精鋭集団と呼ばれるランページ・ファントムのメンバーが勢ぞろいしていた。
 そして彼らはクロウ・カードを止めるために戦い、ほんの数人を残して全滅した。
 結果は悲惨に満ちていた。
 魔術結社はナンバー2のクロウ・カードを失うだけでなく、最強の精鋭集団までも失ったのだ。
 中でも表世界の人間たちの安全を脅かす異能者を狩る事で世界に名を馳せていた魔剣士、仮面使い柴崎司の死はあまりにも大きなものだった。
 そんなわけでスポンサーを失った韮澤だったが、彼の工房から立ち去る間際、韮澤はある研究資料を目にした。
 それはクロウ・カードが遺した遺稿だった。
 そこには世界最強の魔剣、退魔皇剣について書かれていた。
 それを目にし、韮澤は生まれて初めてフランスから出る決意をした。
 有給を最大限に使い、日本の関東地方に位置する美坂町にやって来た。
 そして、その遺稿を頼りに行動しているのだが、一向に進展が無い。
「はぁ、どうしよう」
 せっかくの有給を使っているのにもう二週間が過ぎた。
 あと一ヶ月半しか残っていない。
 これで何も見つからなかったら次ここに来れるのは何年後になるか。
 そうため息をついた時だった。
 突然、高出力の魔力が、いや裏世界の人間たちが輝光と呼ぶエネルギーが町を覆いつくす気配がした。
 それはすぐさま意味のある構成を織り成し、一つの魔術として完成した。
 韮澤はとっさに魔術解析を行う。
 一体、この町にどんな術式が作り出されたのか。
「これは……」
 読み取り、愕然とする。
 その結界は、外と中の行き来を条件付で制限するものだった。
 条件はただ一つ、異能を操れるか否かだ。
 つまり魔術をはじめとする異能力を持つ人間は町から出る事ができず、入ることも出来なくなる。
 一体何が起こっているのか、韮澤は検討もつかなかった。
 これが、今から二日前に起こった韮澤綾子の体験した内容だった。






 
 渋い色のコートを翻し、坂口遼太郎は道路を歩いていた。
 道路の脇には居並ぶ桜の木。
 しかし、十二月中旬では華麗に咲き誇る姿は見せようが無い。
 この町には雪桜という言葉があり、雪の舞い散る中で咲く桜の花が名物だという。
 しかし、それはこの地方の気候が四月くらいになって突然冷え込み、季節はずれの雪を降らせる現象に過ぎず、けっして桜が寒さの中でも花を咲かせる特殊な種というわけではない。
 美坂町とはそういう町なのだった。
 吹く風は冷たく、坂口は四日間剃るのを忘れたアゴの髭を触りながら道を進む。
 見ると、坂口のコートのところどころに水で濡れた後があった。
 履く茶色のブーツはわずかに泥で汚れている。
 そう、坂口は墓参りを済ませた所だった。
 坂口は今年で四十五を数える、顔に皺を走らせた中年だった。
 生粋の日本人である坂口だったが、彼が実際に日本に暮らしていた時間は人生の半分ほどでしかない。
 坂口はいわゆる傭兵と呼ばれる仕事をしていた。
 高校を卒業して後、自衛隊に入った坂口だったが日本は戦争をせず、祖国を守りたいと願う坂口の願いは空振りに終わった。
 任期を終えた坂口は、少々のフランス語を勉強し、フランス外人部隊に入隊を決意する。
 十九世紀、ナポレオンが欧州統一を目指して戦った一連の戦いナポレオン戦争。
 二十年以上も続いたこの一連の戦いのため、その中心となり続けたフランスでは戦争により人口が激減してしまう。
 そして設立されたのが、フランス外人傭兵部隊だ。
 外国人のみが入隊できる部隊で、あらゆる人種がこの部隊に志願できる。
 給料はまぁまぁだが、一番の魅力は任期を勤め上げればフランスの国籍を得られるという点だ。
 食うに困る貧困国の人間、ただ戦いの場を求める荒くれ者、名誉を求め部隊に入ろうとする男達。
 そう言った連中の住処となった外人傭兵部隊はその士気の高さと戦闘力から数々の武功をあげている。
 一説には正規軍よりも強いという噂さえ聞く。
 少なくともナポレオン戦争後のフランスの勝利の半分近くに関わっている(単独での勝利というわけではない)のだ。
 そんな傭兵部隊に坂口は入隊、そして数年後に軍曹に昇進した。
 ところで、ローマ帝国時代には軍の強さは百人隊長の力量によって左右されると言われた。
 なるほど、指揮官が命令を下した際、それを実行できるか否かは兵士たちに直接命令を下す百人隊長の存在が重要になってくるわけだ。
 実際顔を合わせない指揮官よりも兵士と会話を交す百人隊長の影響は非常に大きい。
 歴史において名将とは優れた戦略眼と指揮のみで敵を撃破したように描かれるが、一説にはそのような優れた指揮官は、むしろ優れた指揮能力ではなく優れた百人隊長、いわゆる下士官を所持していたに過ぎないという。
 そして、現在の百人隊長はいわゆる軍曹だ。
 彼らが軍隊の骨格を形成し肉体を支え、指揮官たる脳の指令を筋肉である兵士達に実行させる。
 フランス外人部隊はそれをよく理解している。
 そのため、彼らは熟練の軍曹に去られないように軍曹の、給料をはじめとする待遇を非常によくしている。
 そして、坂口は軍曹となり多額の給料を得、自由気ままに暮らしていた。
 三十を過ぎた坂口はフランス国籍を入手することはせず、日本人として生きていた。
 理由は簡単だ、彼の祖国は日本だ。
 外人傭兵部隊はその傭兵の祖国と戦争する場合、その傭兵が参加しなくてもいいという法律を作っている。
 だから坂口は国籍をもらわず、日本人であり続けた。
 それもあって坂口はたまに日本に帰国する、そして稼いだ金を湯水のように使った。
 いつ死ぬかわからないのだ、好きなだけ遊んでも誰も文句は言わない。
 そんな坂口にも人生の転機が訪れた。
 ある日訪れた風俗店の風俗嬢に入れ込んでしまったのだ。
 彼女はその風俗店ではやや年齢の高い、二十七の女性だった。
 疲れた感じの、耳の後ろにあるほくろが妙に艶っぽい女性だった。
 特に魅力的な体をしていたわけではなかったが、気付くと毎日のようにその女性目当てに店に足を運び続けた。
 風俗の仕事と聞くと、肉体的なサービスばかりが思い浮かぶかもしれないが、実際の所そうではない。
 風俗嬢に必要な資質は男性に快楽を与えるためのテクニックもそうだが、何よりも彼女たちは話し上手でなければならない。
 基本的に風俗店にくるのは男性的魅力を欠如させた男達で女性という存在に縁がない。
 だから、肉体的な交わりにも縁がないだけでなく、会話といった通常の交わりすらもないのだ。
 そのために風俗嬢たちは客と会話をする、それ目当てで来る客さえいる。
 だが、そんな中でも坂口は異常だったかもしれない。
 坂口はほとんどその女性と交わるようなことはせず、ただ会話をするために店を訪ね続けた。
 服を脱がせず、抱きつくこともなく、ただ話すだけだった。
 もともと孤高を装い、フランスでも軍隊以外には友人一人作らなかった坂口だ。
 異性との会話が楽しくてたまらなかったのだろう。
 そんな事を一ヶ月も続けていたのが原因だったろうか、気がつくと坂口はヒモのようにその女の家に転がり込んでいた。
 そして、少したつと二人は結婚してしまった。
 休暇が終わり、フランスに戻らなくてはいけなくなった坂口が求婚を申し入れたのだ。
 彼女はその言葉に首を縦にふった、そして二人はフランスへ向かい、暮らした。
 彼女との結婚生活は幸せだった。
 坂口は軍隊での仕事が終わり、数日の休暇で妻といる時間だけが人生の支えとなっていた。
 幸せな時間はあっという間に過ぎ去った。
 坂口の妻は三年前に死んだ、突然の心臓発作によるあっという間の死だった。
 中東の紛争地域に派遣されていた坂口は妻の死に目にあえなかった。
 自宅に戻った坂口は、妻が前々から死んだら故郷の墓に入りたいと言っていたのを覚えていたため、そこに妻を葬った。
 そのため、坂口の妻の墓はこの美坂町にある。
 坂口は一年に一度、妻が死んだこの季節になるとこの町に戻ってくる。
 しかし、今回戻ってきたのはそれだけが理由ではなかった。
 坂口はコートのポケットに両手を入れながら道を歩き続ける。
 と、二人の青年が車道をはさんだ向かい側の道路から歩いてくるのが見えた。
 その内の一人に坂口は注目した。
 それは鍛え抜かれた人間の歩き方だった。
 真っ直ぐにした背筋に、その流れるような歩き方。
 いつどこから襲撃されても対応できるような、そんな美しい機能美をもった歩き方だった。
 自分の他に儀式に参加しようとしている人間か。
 坂口は思わず疑った。
 しかし、会話をしながら歩いているその姿は全く普通の学生のそれだった。
 悪意も害意も感じ取れないその表情は、坂口に警戒心を忘れさせた。
 と、その青年がこちらに視線を向けた。
 ずっと坂口が見つめていることに気付いたのだ。
 その表情には警戒心の欠片も無く、ただこっちを見ているのに気付いたという顔をしただけだった。
 プロみたいだがプロじゃあないな。
 坂口はそう納得した。
 これ以上見つめ続けるのもなんだったので、坂口は青年から視線をそらし、そのまま進んでいた方向に向かって歩き出した。
 外は寒い。
 これからどうするかをゆっくり温かい部屋で考えるために、坂口は日本に滞在する間、借りつづけることにしたホテルの一室へと足を向かわせるのであった。







「どうした、須藤?」
 訝しんで村上が尋ねた。
 道路を並んで会話をしながら歩いていた村上と数騎だったが、数騎が突然立ち止まったのだ。
「いや、誰かに見られてるような気がしたんだ」
「マジで? もしかして、須藤つけられてんじゃねぇの。ストーカーか?」
「いや、違う。なんかオッサンがこっち見てただけだった。ほら、どっか行っちまったよ」
「な〜んだ、つまんねぇ」
 嫌味にならないように軽く舌打ちする村上は、そのまま数騎に背を向けて歩き出した。
 その背中について歩きながら、数騎は小さく苦笑するのであった。







「須藤〜、いるか〜?」
 教室の中に村上の声が響き渡った。
 授業が終わり、教室から人々の姿が消えていくなか、数騎は非常にゆったりとかばんの中に教科書をはじめとする勉強道具を片付けている最中だった。
 そんな数騎を発見すると、数騎は軽快な歩調で人の波をかきわけながら数騎の元に近づいてきた。
「どうした、須藤。行動が遅いじゃないか」
「そうでもない、みんなが我先にと教室を出ようとするからゆっくりしてるだけだって。ちょっと待てば混雑した廊下を歩かなくて済むからな」
「でも、授業が終わったら早く家に帰りたくならないか? オレはいつも走って教室出るぜ」
「まぁ、お前はな」
 そう言うと、数騎はかばんを片手にイスから立ち上がった。
「それで、今日は何の用だ? まさかまたカラオケに行こうとかいうわけじゃないだろうな?」
「違う違う、今日は中年組は関係ねぇよ。ついでに北村もいない」
「どこに行くんだ?」
「それがさ、駅の近くに新しく店ができたんだよ」
「店? 何のだ?」
「クレープだよ、クレープ。オレが甘いもの好きなのは知ってるだろ?」
 確かに村上は甘党だった。
 よほど甘味が好きなのか、数騎はよく学校帰りにつき合わされている。
 それでも村上がほっそりしているのは、食生活に気をつけているからだそうだ。
 三食をカロリーの低い食品で上手くバランスを取り、開いた隙間に高カロリーの甘いものを食べるのだそうだ。
 村上はポケットから四枚ほど小さな紙切れを取り出した。
「見ろ、これは新装開店のクレープ屋の半額チケットだ。これ一枚でクレープ四枚が半額になるという魔法のチケットだ。これは喰いにいくしかあるまい」
「で、今日は何枚くらい食べる気だ?」
「まぁ、三枚くらいかな。本当は四枚食べたいけど、お前も一枚くらいは食わないとな」
「オレは食わなくていいよ、同席させてもらうだけで構わない。コーヒーでも飲むさ」
「ふざけんなよ、どうせ来るなら食べなくちゃ嘘ってもんだぜ。お前も絶対一枚は食わなくちゃダメだからな、オレが許さん」
「そう言ってもらえるなら、そうさせていただこうか」
 苦笑しながら答える数騎。
 そんな数騎に、村上は本当に嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「よし、じゃあ早速行こう。クレープ屋はオレ達の来店を待ってるぜ!」
 そう言うと、数騎を置いていきそうな速度で村上は歩き出した。
 数騎も早足になってそれを追いかける。
 玄関で靴を履き替え、校舎の外に出る二人。
 その頃には歩く速度を落とした村上は、道路で隣を歩く数騎に尋ねた。
「そういえばよ、アーデルハイトさんどうだった?」
「どうだったって、何がだよ?」
「昼飯の時に言ってただろ、キャバクラ行ったのがバレてメチャメチャ怒られたんだろ」
「あぁ、おかげで朝飯抜きだったんだ」
 数騎は、今は中身を満たされている胃袋のあたりをさすって見せた。
 そんな姿を見て、村上は歯を見せるようにして笑う。
「日ごろの行いが悪いからさ、今度から酒の飲みすぎには注意ってことだ。でも、お前帰り際はそんな酔ってるようには見えなかったけどな。帰ってからアーデルハイトさんに絡んだんだろ、お前」
「オレは酒が後から回るタイプなんだ。そういうお前は平気だったのか?」
 尋ねる数騎に、村上は胸を叩いて見せた。
「オレは平気さ、下戸だからな。あんまり飲まないんだよ、その代わりに甘いものが好きなんだ」
「酒が好きな奴は甘いものが嫌いで、苦手な奴は甘いものが好きとはよく聞くが、本当なのか? 少なくともオレは両方好きなんだが」
「ま、そういう奴もいるんじゃないのかね。オレはその通りだと思うけど。少なくとも須藤は特殊なんだよ」
 決め付ける村上。
 その村上の言葉に、数騎はアゴに手を当てて考え込むような仕草をしてみせた。
 と、その時だった。
 会話を弾ませ笑顔を浮かべていた村上の顔が凍りつく。
 それに気付き、数騎も村上の見ている方を見た。
 そこにいたのは、
「あら、数騎くんと村上くんじゃない」
 明らかに低いトーンで話しかけてくるアーデルハイトだった。
 温かそうなコートを着込むアーデルハイトは、金髪を揺らしながらゆっくりと近づいてくる。
「二人とも、こんなところで会うなんて奇遇ね」
 その言葉に、思わず二人は一歩引き下がった。
 村上を見ると、動揺の仕方がすごく、口元が軽く痙攣している。
 アーデルハイトは普段優しいのだが、怒るとかなり怖い。
 一度数騎のアパートに訪れ、アーデルハイトと数騎が仲良くしているのを見て冷やかした村上は、激怒したアーデルハイトに怒鳴られている。
 その記憶が村上に恐怖を覚えさせた。
 アーデルハイトは村上に笑顔を貼り付けた顔を向ける。
「村上くん、昨日は数騎くんをありがとうね。すごい楽しかったって言ってたわ」
「ははは、そですか」
 村上は気持ちの伴わない返事しかできなかった。
 理由は簡単だ。
 語りかけてくるアーデルハイトの声が、顔に浮かべる表情に全く合致していなかったのだ。
 アーデルハイトの視線が数騎に移った。
「数騎くん、とっても楽しそうね。今から二人でどこかに行くのかしら? もしかしてまたクラブ・チャーミング・プリンセスかな?」
「ち、違いますけど」
 思わずかしこまる数騎。
 その時、アーデルハイトの隙をつくようにして、村上が数騎の後ろに回りこんだ。
 数騎の左手を背中に回させると、数騎の手に一枚の紙を手渡す。
「須藤、オレは去る。アーデルハイトさんをここに連れて行って誤解を解け」
 小声で語りかけてくる村上。
 そんな村上を数騎は首だけ振り返るようにして睨みつける。
 オレを見捨てる気か、目がそう語っていた。
 そんな数騎に、村上は続けた。
「これはお前の問題だ、お前が解決しろ。大丈夫だ、甘いものがキライな女の子はこの世にいない、年齢を問わずだ」
 そう言うと、村上は数騎の後ろからアーデルハイトに姿を見せた。
 そしてわざとらしく言う。
「あ、そうだアーデルハイトさん。数騎からアーデルハイトさんに話があるって言ってたぜ」
「あら、何かしら数騎くん」
 にっこりと笑ってみせるアーデルハイトさん。
 村上め覚えていやがれ、と考えながらも数騎はちらりと渡された紙を盗み見た。
 それは先ほど村上が語っていたクレープ屋の半額チケットだった。
「えっと、アーさん。今日暇かな?」
「暇だけど、どうしたのかしら?」
「あの、もしよかったらだけど、一緒にクレープ屋にでもいかない?」
「えっ?」
 どれだけの奇襲効果をもっていたのか、アーデルハイトの驚きはすごかった。
「え、え、えっと……どういうこと?」
「その、クレープ屋の半額チケットを村上からもらってさ。家に帰ったらアーさんを誘ってクレープ屋にでも二人で行こうかなって話をしてたんだ」
 もちろん嘘である。
 しかし、そんなことはアーデルハイトにはわからない。
 数騎の言葉が真実だと思い込み、アーデルハイトは困ったような顔をした。
「ご、ごめんなさい。そんな事考えてたなんた思わなくて、私……」
 恥ずかしそうに顔を赤らめるアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトの普段とのギャップに驚きながらも、数騎はさらに続けた。
「それで、どうかな。もしよかったら一緒に」
「うん、大丈夫よ。ちょっと今日の晩御飯を買いに行こうと思ってただけだから、ちょうど良かった。先にクレープ屋によってから買い物しようかな?」
「ならよかった」
 アーデルハイトが喜んでくれているのが嬉しかったが、何よりも怒りが霧散したのが嬉しかった。
 と、ここで会話に参加してなかった村上が声を出した。
「あー、いけねー、オレ今日家で用事があるんだったー」
 いかにも棒読みのセリフ、演技力ゼロである。
 しかし、村上は気にせず続けた。
「悪い須藤ー、オレもう帰らなくちゃいけないわー」
「そ、そうか。じゃあまた明日な」
「じゃあなー」
 最後まで棒読みの台詞回しな村上。
 数騎とアーデルハイトに背を向けると、全力疾走でその場から立ち去ってしまった。
 その後ろ姿を見送った後、数騎はアーデルハイトを振り返る。
「じゃあ、行こうか」
「うんっ!」
 はしゃぐようなアーデルハイトの声。
 甘いものを食べられるのがそんなに嬉しいのだろうか。
 ほのかに赤く染まる頬は、アーデルハイトが本当に嬉しそうにしている証拠のようにも見えた。
 そんなアーデルハイトの姿を見るのが嬉しくて、数騎は村上の言葉を肯定することにした。
 甘いものがキライな女の子はこの世にいない、年齢を問わず。
 まさにその通りなのだろう。
 数騎は改めて女の子の甘味好きをまさに目の前で確認するのだった。







「ったく、お羨ましいかぎりだよ」
 村上はそう愚痴りながら繁華街を歩いていた。
 時刻は数騎とアーデルハイトの二人と別れた十分後。
 楽しみにしていた甘味を楽しむ事もできなかった村上は、ため息をつきながら歩き続ける。
「大体よぉ、引っ越したアパートに若くて美人な寮母さんがいるなんて反則だろ、現実的じゃねぇよ。誰かが裏で糸引いてるに決まってる、そうじゃなかったらどんなラブコメなんだっての。寮母さんがいたって三十路過ぎたオバサンがセオリーだろうが。ちっきしょうめ」
 口にする言葉は呪いの如く。
 生存年数イコール彼女いない暦の男、村上義史。
 当年とって十九歳の若者だった。
「オレも彼女が欲しいぜ、こんちくしょー」
 泣きそうになりながら歩く村上。
 と、風が吹いた。
 寂しい身の上に冷たい風はコートの上からでも冷たく突き刺さる。
「やだ〜、寒い〜」
「おいおい、そんなに抱きつくなよ」
 横からラブラブイチャイチャしたカッポーの声が聞こえる。
 長身の男の腕に、かわいらしい笑顔を浮かべた女の子が抱きついている。
 幸せそうだ。
 本当に幸せそうだ。
 村上は目を細め、物欲しそうな顔をしながら恋人達の姿を見る。
「オレも……彼女が……欲っすぃ〜よ〜」
 もう泣きそうだった。
 別の店で甘いものを食べようと思っていた村上だったが、これ以上幸せな恋人達の姿を見るのは精神衛生上、非常によろしくない。
 村上はふらふらとした足取りで、家に帰ろうと歩き出す。
「ねぇねぇ」
 後ろから女の声が聞こえる。
「ちょっと〜」
 聞こえはするが知らない声だ。
「聞いてるの〜?」
 どうも話しかけられているような気がするが気のせいだろう。
 オレはこの町に女の子の知り合いなぞ……
「こらーっ!」
 いないはずだったのだが。
 怒鳴られて村上は後ろを振り返る。
 そこには目をみはるような美女がいた。
 可愛らしいベージュのロングコート、その下から覗くのは柔らかい足の感触を見るものに伝えるボディラインに沿ったジーンズ。
 短く切りそろえた赤毛の髪を揺らしながら、その少女は村上に近づいていった。
「あのねぇ、人が声をかけてるんだから、すぐに返事をするのが普通でしょ」
「ご、ごめん。オレに話しかけてるとは思わなかったから」
「ん〜、まぁ許してあげるけど」
 唇に右手の人差し指を当てながら、その女の子は笑顔を浮かべた。
 年齢は十八くらいだろうか、身長は百六十センチほどだが、出るところは出ている魅力的な赤毛の女の子は、村上に顔を近づけながら口を開いた。
「ねぇ、お兄さん。今、ヒマ?」
「ひ、ヒマだけど、それが?」
「もしよかったら〜、私と遊ばない?」
「えっ?」
 驚いた。
 なぜ、見も知らぬ女の子がオレと遊ぼうなどと言ってくるのだ。
 はっ、まさか!
 これが噂に聞く逆ナンというやつか!
 ついに、ついにこのオレにも春がやってきたというのか!
 これは断る手は無いぜ!
「えっと、オレでよかったら。遊ぼうか」
「うん、よかった。断られるんじゃないかと思って心配してたんだよ」
 胸に手を当てて、安堵の息を漏らす女の子。
 その姿に、村上は早くも鼻の下を伸ばしはじめる。
 そんな村上の腕を、女の子は自分の胸の中に抱きしめた。
「じゃあ、ちょっとそこの喫茶店でお話しましょ」
「うんうん、そうしよう」
 思いがけないサービスに、村上の顔は幸せにゆるんでいた。
 ゆっくりとした速度で喫茶店に向かう二人。
 村上の顔を見上げながら、少女が口を開いた。
「私の名前はルー、あなたは?」
「オレは、村上」
「そっか、いい名前だね。村上かぁ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「んふふ、よかった。喫茶店ではいっぱいお話しようね」
「そうだね」
 微笑みながら口にする村上。
 そんな村上に、ルーは楽しそうに言った。
「ついでに契約も結んでもらえると嬉しいな」
「契約? 何の?」
 一瞬ドキっとした。
 もしや、この娘は僕に何かしらの契約を結ばせようというのか。
 そんなことだろうと思ったよ。
 村上は心の中で泣き始めた。
 金目当てかよ、ぬか喜びさせやがって。
 村上は絶望してルーを振り払おうとした。
 しかし、次の言葉を聞いてそれを取りやめた。
「私といっぱい遊んでもらう約束」
 再びドキっとした。
 だが、今度は違う意味でだ。
 村上は心の中で後悔していた。
 ルーというかわいい女の子を一瞬でも疑ってしまったことを。
 喫茶店に入ったら、おいしいものをたくさんごちそうしてあげよう。
 そう心に誓いながら、村上はルーと二人で喫茶店の中に入っていったのだった。







「すごい、何て事なの……」
 眠そうに目をこすりながら韮澤綾子は深いため息をついた。
 もう二日も眠っていないが、そんなことは気にもならなかった。
 真昼間、ホテルに備え付けてあるイスに座りながらテーブルに座る韮澤は手にした何十枚にも及ぶ紙を見ながら好奇心に目を輝かせていた。
 二日前に起こった異変について調査をした結果、クロウ・カードの遺稿に書かれた言葉の意味を理解することに成功したのだ。
 この町で起こっている異変、それが全てこの遺稿に書かれていたのだ。
 はるか昔、魔皇と呼ばれる者たちがこの世界を支配していた。
 魔皇たちは魔皇剣と呼ばれる絶大なる威力の魔剣を持って世界に君臨し、暴虐の限りを尽くした。
 その配下たちには魔皇剣の弱体化版レプリカである魔剣を与え、自らの王国を築いた。
 しかし、世界はその暴虐を許しはしなかった。
 世界によって生み出されしは魔皇たちを退ける力を持つ魔剣、退魔皇剣。
 世界を作り出した時に用いられた天地開闢の力を持つ退魔皇剣は、その力を用いて魔皇たちを次々と討伐していった。
 この戦いによって一つであったこの世界の大陸がバラバラになったという研究者さえいる。
 神話において描かれた最終戦争こそがこの戦いであるともされ、この戦いは退魔皇戦争と呼ばれた。
 これが退魔皇剣誕生の伝説だ。
 だが、その伝説には続きがある。
 いわく、魔皇たちを滅ぼした退魔皇剣は怪物の肉体を身に纏っていたという。
 その怪物は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)。
 首一つ一つに退魔皇剣としての能力を持ち、八の絶大なる退魔皇の力によって魔皇を退けた。
 しかし、魔皇を滅ぼした後も八岐大蛇はその絶大なる力をもってこの世界を荒廃させ続けた。
 それを阻んだのがスサノオと呼ばれる魔剣士だった。
 彼によって振るわれた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)により、八岐大蛇はこの世界から消滅させられたという。
 ちなみに草薙の剣ではない。
 有名な草薙の剣は八岐大蛇の尾から取り出された魔剣であって、八岐大蛇を倒したのは天叢雲剣である。
 そして、八岐大蛇を討滅した時にスサノオが繰り出された一撃は、そのすさまじさを恐れられ『剣裂(けんさ)き戟矢薙(げきやなぐ)ぐ風(かぜ)』と呼称されたという。
 このためスサノオは剣崎戟耶薙風(けんざきげきやなぎかぜ)の異名をいただくこととなり、その名は子孫に受け継がれていく。
 日本に存在する最上の魔剣士を輩出する一族に三つの家があり、剣崎(けんざき)、戟耶(げきや)、薙風(なぎかぜ)と呼ばれる御三家があり、その御三家の人間はスサノオの子孫を称している。
「ここまでが世界の異能者たちの知る伝説、そして真実」
 韮澤は口にした。
 伝説は真実であり、世界中の異能者がそれを認めている。
 日本に存在する御三家は世界中の魔術結社が垂涎のまなざしを向ける優れた存在であり、誰もそれを否定しない。
 問題はそれではない。
 この遺稿にはさらに続きがあった。
「退魔皇剣はスサノオによって全てが消滅した。しかし、それが四百年ほど前にこの世界に復活したという伝承を発見した」
 韮澤が朗読した文章。
 それこそがこの遺稿が書かれた本当の理由だ。
 四百年ほど前、日本は戦国時代まっただなかだった。
 そんな時、美坂町という町にマイナーな戦国武将が存在した。
 その武将の名は式神桜花。
 彼は何でも切り裂くことの出来る名刀を持ち、獅子奮迅の活躍をしたという。
 そしてちょうどその頃、イギリスに当時存在した魔術結社が極東の方角に異常な魔力を感知したのだった。
 魔術師たちは極東に向かおうとしたが、瞬間的に魔力を感知することが複数回あったのみで、半年もするとその魔力は感知されなくなったそうだ。
 しかし、この時に観測された魔力数値に問題があった。
 西洋では魔力、東洋では輝光と呼ばれるこのエネルギー。
 それは魔術を使うものたちが魔術を使用する際に消費するエネルギーであり、魔剣士たちが魔剣を起動する際に用いる力だ。
 普通の術士たちは五以上の数値を放出することが一人前の証とされる。
 どんなに修行を重ねても五十以上の数値を放出することは人間には出来ず、過去の魔皇の遺物である魔皇剣、もしくはそれの劣化コピーである準魔皇剣と呼ばれる魔剣でなければ五十以上の数値を出すことはできない。
 どんなに頑張っても三桁までしか放出できないこの輝光。
 しかし、その時観測された数値は千を上回っていたという。
 観測ミスか捏造された伝説とされているこの記録をクロウ・カードは熱心に探求し、そして式神桜花に辿り着いた。
 この世界には魔眼とよばれる特異な力を有した魔眼が存在し、その中で過去に存在した物体をこの世界に再び蘇らせることが出来る『再現の魔眼』というものが存在するらしい。
 クロウ・カードの説では式神桜花は『再現の魔眼』の魔眼師なのだそうだ。
 そして、消滅した退魔皇剣を式神桜花が『再現』した。
 クロウ・カードはその事実を突き止め、そして現代に生きる『再現の魔眼』を持つ魔眼師を発見、十年がかりで大儀式の準備を整え、実行に移したのだという。
 それが二年前に起こった魔術師クロウ・カードの乱。
 しかし、結果クロウ・カードは死に、魔術結社の精鋭集団が全滅。
 退魔皇剣という名前は一言も囁かれてはいない。
「でも……」
 韮澤は思った。
 クロウ・カードは再現の魔眼を用いた退魔皇剣再生の儀式に失敗したのだろうか。
 それならば退魔皇剣という名がクロウ・カードの乱の終了後に囁かれないことに納得できる。
 しかし、しかしだ。
 もしかしたら儀式は成功していて。
 いや、完全な成功ではなく、部分的な成功をしていたという可能性はないだろうか。
 例えば、儀式中に魔眼師が負傷して、退魔皇剣再生の構築式を整えはしたもののその後死亡、不完全な儀式により『再現』に遅れが生じ、後になって退魔皇剣がこの世界に『再現』されるのだとしたら。
 もしそうなら、近い将来『再現』された退魔皇剣がこの世界に復活する可能性は充分ある。
「それにしても、これは何のことなのかしら?」
 韮澤は思わず口にした。
 それは遺稿の最後に書いてあった部分。
「退魔皇剣の内の特殊な一つが蘇ると連鎖的に他の退魔皇剣も蘇る。この世に再び現れた退魔皇剣は一つではなく複数に分かれている。そして、分かれた退魔皇剣たちは儀式を行う」
 儀式。
 一体何のことなのだろうか。
「一つではなく複数ってどういうことなのかしら? 退魔皇剣って魔皇たちを滅ぼした八岐大蛇のことじゃないの?」
「似ているようで違う、と言ったところかしら?」
 声は後ろから聞こえてきた。
 とっさに振り返る韮澤。
 韮澤のすぐ後ろ、ホテルの部屋の扉のあたりに小さな人影があった。
 それは十代前半の小柄な少女。
 身長は低め、おそらく小学生と呼んでも問題ないくらい小さい。
 一見、ドレスのようにも見えるフリルのついたかわいい服を着たその少女は、柔らかそうに丸まった茶色の髪の毛を揺らしながら韮澤に近づいてきた。
「八岐大蛇は複数の退魔皇剣が一つに融合した姿、退魔皇剣は八岐大蛇一つではなくて、その首の数と同数の八振りあるの。八岐大蛇はスサノオに切り裂かれて八つの退魔皇剣に分離した。そしてそのまま消滅したの。すさまじい一撃だったわ、まるで存在まで引き裂かれてしまいそうなほどに」
「あなた、何者なの?」
 とっさに身構える韮澤。
 すでに魔術を構築し、いつでも戦闘に入れる体勢を整えている。
 が、少女はにっこりと笑ってみせた。
「私の名前はアイギス」
「そう、アイギスって言うのね。ところでアイギスさん、私に何か用?」
「用事ならもちろんあるわ、そうじゃないとあなたに会いに来た意味がないもの。私が何者かって聞いたわよね、答えてあげるわ。私は精霊、退魔皇剣に宿る退魔皇の精霊よ」
「退魔皇剣の……?」
 その言葉に韮澤は思い出した。
 優れた武器には魂が宿るという言葉があるが、それは間違っている。
 逆なのだ。
 優れた武器に魂が宿るのではなく、魂が宿った武器こそが優れているのだ。
 そして、その代表例が魔皇剣だ。
 魔皇剣には魔皇剣の力を封じられた精霊が宿っている、そしてその劣化コピーである準魔皇剣は無理矢理魔剣に生物の魂を封じ込めて能力を底上げしたもののため魔皇剣に力が劣る上、加工する技法は非常な困難が伴い現代の技術でも、いや過去においてすら数えるほどしか製作された成功例がない。
 しかも製作方法は失伝しており、作り方さえわからないときているのだ。
 当然、魔皇剣を超える退魔皇剣にも精霊が宿っているはずだと研究者は唱えていたが、それが目の前に現れるとは韮澤は夢にも思っていなかった。
「あなたが、退魔皇剣の精霊なの?」
「そうよ、私は鏡の退魔皇剣の精霊、アイギス。よろしくね」
「よ、よろしく……」
 見た目の年齢どおりの可愛らしい笑顔を浮かべてくるアイギスに、韮澤はあっけに取られたような表情をした。
「その、退魔皇剣の精霊さんが、どうして私なんかのところに?」
「契約してもらうためよ」
「契約?」
 聞き返す韮澤。
「私達はスサノオに斬り裂かれ八つの退魔皇剣に分かれてしまったわ。そして、私達は元の一つの姿に戻らなくてはいけないの」
「どうして? 分かれた姿ではだめなの?」
「ダメなのよ、私達はバラバラの状態では一週間もしないうちに消滅してしまう。だからスサノオに裂かれた時も私達は消滅した。退魔皇剣は八岐大蛇となって魔皇を滅ぼすための存在、天地開闢の力を持つ私達は魔皇を討伐する以外にこの世界にいてはいけない存在なの。世界を作る力があれば世界を破壊できる。だから、魔皇を倒した後も私達は八岐大蛇として存在し続けた。それなに、スサノオはそんな私達を殺したのよ」
「そうだったの……」
「そうよ、でも私たちは二日前にこの世界に蘇った。誰のおかげかは知らないけど、また生きるチャンスを手に入れたのよ。私達は八岐大蛇になれば生き長らえる、でも八岐大蛇は単独の生物で、私達は八人。意志を持って八岐大蛇として自分を認識できるのは一人だけ。そして、その一人になるには他の退魔皇剣全てを吸収して八岐大蛇にならなければならないの。自分として生きられなければ死んだも同然よ」
「それで、私に何をさせたいの?」
「供に戦って欲しいの、私達は死なないために八岐大蛇にならないといけないけど、自分自身であるためには他の退魔皇剣を吸収しなくてはいけないの。そしてそのためには他の退魔皇剣の精霊を全て粉砕して無抵抗になった退魔皇剣を吸収しなくちゃいけないの」
「それはわかったけど、退魔皇剣の力は絶大よ。とても私達一般の異能者のレベルじゃ太刀打ちできないわ」
 胸に手をあて、首を横に振りながら口にする韮澤。
 そんな韮澤に、アイギスは続けた。
「そうじゃないの、よく聞いて。私達はいかに尋常じゃない力を持っているとしても緒戦は魔剣なの。その力を発揮するには契約者が必要なのよ」
「つまり、私はあなたの力を引き出すためだけの存在ってこと?」
「違うわ、それ以外にも理由があるの。私達は最強の存在と言われてるけど、それは何故だと思う?」
「わからないわ」
「私達はそれぞれ皇技(おうぎ)と呼ばれる最強の一撃を持っているの」
「皇技?」
「そうよ、この世界を作り上げるときに用いられた最強の力、それが皇技。そして、その皇技を使うには契約者が絶対不可欠の存在なの」
「そんなにすごい技なの?」
「もちろんよ、でも皇技を操るにはそれに必要なだけの血の力が必要よ。それこそスサノオの子孫たちのような」
「それじゃ私には仕えないわ」
「大丈夫、これがあるから」
 そう言ってアイギスは韮澤にそれを手渡した。
 韮澤は受け取り、それをじっくりと見つめる。
 それは、ピカピカに磨かれた銀色の仮面だった。
「これは?」
「退魔皇の仮面よ、これを被って契約を交せば私とあなたは融合し、私の技能と私の力があなたと一体化する。そして、その仮面を被って融合している間だけ、あなたは皇技を扱う事ができる」
「そのために、契約するの?」
「そうよ、他の退魔皇剣も皇技を使ってくるわ。私達が使えなければ勝利は決して訪れない」
 そこまで聞いて、ようやく韮澤は儀式という言葉を理解した。
 つまりこれは退魔皇剣たちが自分自身の存在をかけた殺しあいの儀式なのだ。
 勝利者は自分自身を存続させ、八岐大蛇としてこの世界で生きていく事ができる。
 そして、その儀式を行うために退魔皇剣は人間と契約する。
 つまり、そういうことだ。
「ちょっと待って、つまり契約すると、私達は退魔皇同士で殺しあう戦いに参加しなくちゃいけなくなるわけ?」
「そう、八岐大蛇再誕の儀式よ。破格の威力を持った退魔皇同士の潰しあい。そして、それに参加する現世の人間たち、壮観よ」
「壮観って、何で私が命をかけて殺しあいしなくちゃいけないわけ? 利益もないのに」
「利益ならあるわよ」
 クスリと笑い、アイギスは続ける。
「私の契約者となってこの戦いに勝ち抜けば、あなたは最強の退魔皇剣『八岐大蛇』の退魔皇になるのよ。つまり、この世界を作り出す力を手にすることができる」
「別に世界なんて作りたくないわ」
「ん〜、やっぱ普通の人間にはこう言った方がいいのかしら。あのね、もし私達がこの戦いに勝利できたら、あなたは不老不死を手に入れることができるのよ」
「不老不死?」
 目を見開く韮澤。
 それを見て、アイギスは嬉しそうに顔を緩ませる。
「やっぱり飛びついたわね」
「本当なの、それ?」
「もちろんよ、八岐大蛇は全ての退魔皇剣の力を操れる。生命を操る杖の退魔皇剣は持ち主に不老不死を与えるわ」
 その言葉をしっかりとかみ締めるように聞き、韮澤は考え込む。
 そんな韮澤にアイギスは続けた。
「あと、決めるなら早く決めてね。早く契約しないと契約して強くなった他の退魔皇剣と皇技(おうぎ)も退技(たいぎ)も無しで戦う事になっちゃうから、契約しないなら別のところに行くけど」
「待って!」
 大声を出し、韮澤は言った。
 そして、ゆっくりと続ける。
「待って、契約するわ。その代わり教えて、何で私を契約者に選んだの?」
 その言葉に、アイギスは微笑みながら答えた。
「戦場となるこの町にいる人間の中で、あなたが一番輝光の扱いに長けているように感じたわ。あなたと組めば有利に戦いを進められそうだった、これが答えじゃダメかしら?」
「ダメじゃないわ、了解よ。契約しましょう、アイギス」
「そうこなくっちゃ」
 頷いてみせると、アイギスはゆっくりとした歩調で韮澤に近づいた。
「じゃあ早速、契約の儀式を行いましょ」
「儀式? でも、大掛かりな魔術道具は持ってきてないけど」
「いらないわ、その仮面を被って一言口にするだけでいいの。儀式の組み立ては私がやるわ」
「一言だけでいいの?」
「そうよ、こう言えばいいの」
 そして、アイギスはその言葉を韮澤に教えた。
 韮澤はそれを暗記すると、アイギスに頷いてみせる。
「じゃあ、始めるわよ」
 そうアイギスが口にした瞬間、強烈な輝光がホテルの一室を満たした。
 いつの間に床に描かれた光る魔方陣、迸る輝光は膨大で、恐ろしいまでの奔流を生み出し部屋をかき乱す。
 迸る光の渦の中、その中心にいるアイギスが言葉を紡ぐ。
「此度結びたるは仮面の契約
 死を賭し全を掴む争奪の宴なり
 我は汝と供にあり、汝が誉れの武具となり
 汝は我と供にあり、汝は我と舞踏を舞う
 その証はここに
 その誓いはここに
 その絆断たれるまで供に戦う契りを結べ
 汝、仮面を被るなら、誓いの言葉で契るがいい」
 唱え、アイギスはじっと韮澤の顔を見つめた。
 数秒見つめあった後、韮澤は額に浮かんでいた汗を手で拭い、唾を飲み込む。
 そして、その言葉を口にした。
「仮面を被る、死ぬまでよ」
 こうして、美坂町に新たな退魔皇の魔剣士が誕生した。







「あ〜ん、とろけちゃいそ〜」
 嬉しそうに悲鳴をあげるアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトの笑顔を見ながら、数騎は思わず店内を見回した。
 女性をターゲットにしたことが一目で分かるピンクを基調にした店内。
 ウェイトレスが忙しく動き回る、ファミレス並みの大きさのクレープ屋。
 それがこの『スウィート・ハッピー』である。
 クレープ専門店かというとそうでもなく、あくまでクレープが売りの軽食店だ。
 オムライスやドライカレーといった感じの食事も置いてあるので、けっして甘いものだけというわけでもない。
 ただ、店の売りは間違いなくクレープで、商品の半分はクレープだ。
 実に多彩な品揃えで、果物だけでも二桁に及ぶトッピングの種類がある。
 店の中を見回すと、やはり女性客が多く若い子から中年女性まで実に様々。
 正直男は入りにくい店だ。
「数騎くん、ここすっごくいいお店ね」
 目を輝かせながらクレープにかじりつくアーデルハイト。
 ほっぺに白い生クリームをつけて食べ続けるあたりが実に可愛らしかった。
「そうだな、村上に感謝しないとな」
「うんうん、明日にでもお礼言っておいてね」
「そうするよ」
 そう答えながら、数騎もクレープを口にした。
 クレープの生地にパイナップルと生クリーム、そしてチョコチップを振り掛けるだけというシンプルな商品だったが、なかなかおいしかった。
「ふむ、これはおいしいな」
「でしょ〜」
 頬を緩ませながらクレープを食べていくアーデルハイト。
 数騎が半分も食べない内に、アーデルハイトは早くもクレープを食べ終えてしまった。
「あ〜、おいしかった。ここのお店のクレープは格別ね」
「おかわりする?」
 尋ねる数騎。
 その言葉に、アーデルハイトは胸に手を当てて驚いた表情を浮かべる。
「えっ、おかわり?」
「うん、おいしかったならもう一つ食べる?」
「ん〜、本当はもう一つ行きたいんだけど。ちょっと最近……」
 急に口ごもるアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトを見て、数騎は思わず苦笑した。
 そう、甘いものは女の子全員の味方だが、一転して甘いものは女の子の天敵となる。
 簡単に言ってしまうと食べたら太るとでも言ったところか。
 アーデルハイトはもっと食べたそうにそわそわとメニューを何度も見たり目をそらしたりしていたが、小さくため息をついた。
「やめておくわ、あとは紅茶でも注文しようかな」
「じゃあ、オレも」
 言って数騎はボタンを押した。
 テーブルに備え付けられている機械のボタンを押すと、ウェイトレスが席までやってくるというシステムのこの店。
 ボタンを押して一分もしないうちに、ウェイトレスが丸いお盆をもってやって来た。
「はい、お客様」
 小さく礼をするウェイトレスのお姉さん。
 そんなウェイトレスに、数騎はメニュー表を指差しながら言った。
「ロイヤルミルクティーを一つお願いします、アーさんは?」
「えっと、じゃあレモンティを」
「ホットですか? それとも……」
「ホットで」
「かしこまりました」
 そう言ってお辞儀すると、ウェイトレスは厨房へ向かって歩き出した。
 紅茶が届くまで数騎はクレープにかじりついていたが、食べ終わるのとほぼ同じタイミングで紅茶が届いた。
 数騎はウェイトレスの置いていったレシートをいじって値段を見ながら片手で器用に砂糖の袋を破り、紅茶の中に注ぐ。
「数騎くん、片手で袋切るなんて下品よ」
 文句を言うアーデルハイトはきちんと両手で砂糖の袋を切り裂いていた。
 数騎はばつが悪そうに苦笑しながら紅茶をスプーンでかき回し始めた。
「思ったけどさ、ここの店ってクレープはおいしいけど、男が来るにはちょっとキツイ店だよな」
「そうかしら?」
「そうだよ、ここまでピンク色の店だとちょっとな」
「もう来たくないって事?」
 少ししょぼくれた顔で聞くアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトに、数騎は紅茶を口にしながら答える。
「違うよ、男一人じゃ行きにくいってことさ、アーデルハイトさんとなら別に気にならない」
「そう? よかった、それならまた来れるわね」
 言って紅茶を口にするアーデルハイト。
 その言葉を聞いて、数騎は紅茶をすすりながら思わず思ってしまった。
 村上と男二人でこんな店にこなくてよかった。
 心からそう思った。
「ところで数騎くん?」
「ん?」
 そんな事を考えていると、アーデルハイトが真っ直ぐこっちを見つめてきた。
 アーデルハイトは、コホンと小さく咳払いしてみせながら続けた。
「そろそろ、何か思い出せた?」
 真摯に見つめてくる瞳。
 そんな目でアーデルハイトに見つめられながら、数騎は小さく首を横に振る。
 アーデルハイトは寂しそうな顔をした。
「そっか、まだ思い出せないんだ」
「あぁ、さっぱりね」
 数騎は申し訳なさそうに、目をそらしながら紅茶を口にする。
 そう、数騎は思い出せないでいた。
 数騎の記憶は、今から二年ほど前からのものしか存在していない。
 全生活史健忘。
 発症以前の出生以来すべての自分に関する記憶が思い出せない状態。
 いわゆる記憶喪失とか言われている症状だ。
 数騎自身は覚えていないが、どうやら交通事故で頭を強く打ったらしい。
 なかなかにひどい事故だったらしいが、奇跡的に体のどこも欠損せず、後遺症もなかった。
 ただ一つ、記憶以外は。
 社会的な常識、言語、知識などは全て残っていたが、自分の名前や自分に関する全ての記憶を数騎は失ってしまっていたのだ。
 そんな数騎の面倒を見てくれたのが目の前のアーデルハイト、そして数騎の兄である須藤想真(すどうそうま)だった。
 想真は数騎の面倒をみるためにわざわざ海外の出張先から美坂町に帰ってきて、数騎の面倒を終始みていた。
 しかし、いつまでも日本にいられなかったため、想真は美坂町に住んでいる知り合いに数騎を預けていった。
 それがブラウンシュバイク家、具体的に言うとアーデルハイトの実家である。
 記憶を失った数騎は金銭面では想真の、生活面ではアーデルハイトに面倒を見てもらって大学進学までの期間を過ごした。
 そしてアーデルハイトの祖母のいる学寮に行く事が決まった瞬間、アーデルハイトの祖母が倒れ、アーデルハイトが寮母さんとなり、アーデルハイトの両親を実家に残して二人で学寮に移り住んだのだった。
 ちなみに数騎の実家は美坂町からわりと近くにあり、二十キロほどしか離れていない。
 それなのになぜ実家に戻らないかと言えば、家族との仲が悪いからだ。
 実は想真と数騎は血が全く繋がっていない。
 想真は母方の連れ子で、数騎は父方の連れ子だった。
 数騎は義理の母親との相性が悪く、虐待されて育ち家を飛び出した。
 そしてその後、家出をして美坂町で暮らしていた数騎だったが一年ほど美坂町で暮らしていた時に事故にあってしまったというわけだ。
 想真もとてもではないが、実家には送り戻せなかったと申し訳なさそうに口にしたことはしっかりと記憶に残っている。
 と、言っても数騎は記憶を失っているので自分が虐待されたことや、そもそも継母の顔すら覚えていなかった。
「早く思い出せるといいのにね」
 紅茶をスプーンでかき回しながらアーデルハイトは言った。
 そんなアーデルハイトに数騎は微笑んで見せた。
「まぁ、思い出せるにこしたことは無いけど、別になくても大丈夫だよ。オレはこうやって元気にやってるわけだしさ」
「そうかも……しれないけど……」
 数騎の笑顔を直視できず、アーデルハイトはわずかに目をそらした。
 正直、数騎自身は記憶を失ったことをさほど大変なこととは思っていなかった。
 忘れた記憶なんてものは最初からないようなもので、別に失ったという感覚がないのだ。
 ただ、気になることが一つだけあった。
 この手の記憶喪失は時間が経つと少しずつ記憶が戻ってくるケースが多いらしい。
 だと言うのに、数騎はこの二年間の間で、思い出した過去の記憶と言うものが皆無だった。
 これから先、昔のことを思い出すことができるのだろうか。
 わからない答え。
 そんな事を考えながら、数騎は紅茶の甘みを楽しむのであった。







 夜。
 太陽が沈み月が地上を照らす夜。
 午前二時を過ぎたその時間に、少女が路地裏を歩いていた。
 薄い紫のボディコンスーツに白のダウンコート、足にはロングブーツを履いている。
 ブーツのヒールが十五センチ以上あるので少々歩きにくそうだが、少女は慣れたもので特にふらつく事も無く歩いていた。
 少女の名前はスワナン・コンイン。
 当年とって十六歳の少女だった。
 少々色黒の肌をしたスワナンは、月を見上げながら歩いていた。
 日本にやってきてすでに一年が過ぎている。
 知り合いが一人もいないこの日本にやってきた時は本当に怖かったが、今では話も出来る仲間が増えたので寂しくはなかったが、それでも故郷が恋しかった。
「たまにはお姉ちゃんたちに会いたいな」
 思わずタイ語でそう口にしていた。
 スワナンは日本に来る前からタイに旅行に来た日本人を相手にしていたこともあって、日本語を覚えるのはそんなに大変ではなかった。
 それでも、使わないと忘れると知り合いのタイ人に言われたこともあって、スワナンは時々はタイ語を使うように心がけていた。
 スワナンは足を止めてじっと月を見上げる。
 月を見るとタイを思いだす。
 大好きな両親と優しい二人の姉が待つタイ。
 月を見上げるのは、空に輝く月がタイにいた頃と全く同じものだからだ。
 世界中のどこに行っても、月は変化しない。
 だから、スワナンは寂しい時はいつも月を見上げる事にしていた。
 そんな時だった。
「あっ!」
 男の声が聞こえた。
 慌ててスワナンはその声が聞こえてきた方に目をやる。
 そこには、三人の若者の姿があった。
「お前、二日前の!」
 スワナンの目の前に現れた三人の男。
 それは二日前の夜、スワナンに絡んできた三人の不良だった。
「ひょお、奇遇だねぇ」
 笑みを浮かべながら近づいてくる茶髪の男。
 鼻の辺りに白いガーゼとテープを張っているのは、恐らく数騎に鼻を砕かれたからだろう。
「へぇ、あの時の娘じゃないか」
 嬉しそうに笑みを浮かべる紫髪の男。
 右腕を折られていたため、右腕をつるしている。
 その後ろには金髪の男がいたが、包帯を頭に巻いた姿だった。
 全員が数騎にやられ、病院送りになっていたのだった。
「アナタ達ハ!」
「よぉ、久しぶりだねぇ」
 回りこむように金髪がスワナンの後ろに移動する。
 さらに紫髪の男が動き、三人はスワナンの逃げ道をふさぐように囲んだ。
 茶髪の男がスワナンにゆっくりと歩み寄る。
「いやぁ、偶然会えるとは嬉しいな」
「ワ、ワタシ二何ノ用デスカ?」
「用、用ならあるさ。いくらでもな!」
 そう言い放ち、茶髪の男はスワナンの右腕を掴み、捻りあげるようにして自分の近くにスワナンを引き寄せた。
「二日前は変な野朗が邪魔に入ったが、今日はそうはいかねぇ。コケにしてもらったからな、しっかりとお嬢ちゃんに落とし前つけてもらうぜ」
「イヤ、離シテ!」
「うっせぇ、舐めたこと言ってんじゃねぇ!」
 叫び、男はスワナンを投げるようにして壁に叩き付けた。
 スワナンは転倒し、しりもちをついてしまう。
 そして、見上げる視線の先にはにじり寄る三人の男。
「イ、イヤ……」
「イヤじゃねぇよ、うるせぇ女だな。大体よ、そんな格好でオレ達のこと誘っておいて何がイヤだよ」
「違ウ、誘ッテナイ……」
「もう遅いんだよ!」
 しゃがみこみ、茶髪の男が座り込むスワナンに組み付いた。
「ヤメテ!」
「うっせぇ!」
 スワナンを地面に押し倒し、服を脱がせるためにボディコン服に茶髪の男が手をかけた。
 その時だった。
「ごわっ!」
 くぐもった声が響いた。
 驚き、声のほうに顔を向ける茶髪の男。
「がっ!」
 鈍い音が響くと同時にさらに声が続く。
 茶髪の不良は目を見開いた。
 自分がスワナンに組みかかってから数秒もしないうちに、それが起こっていた。
 地面に倒れ、気絶する二人の仲間。
 そして、その二人のすぐ側には、先ほどまでいなかった人物が立っていた。
 白のパーカーと青のジーンズに身を包んだ少年。
 身長は百五十センチくらいだろうか。
 若々しい顔立ちから中学生のようにも見える小柄なその少年は、両手をパーカーのポケットに突っ込んでいた。
 浅黒い肌に黒髪黒目、特徴的な彫りの深い顔立ちは、中東に住む人間を思わせた。
「その女性を放せ」
 少年が口を開いた。
 中東の人間を思わせる容姿を持ちながら、その少年の日本語は実に流暢だった。
 突然現れたこの少年に、茶髪の不良は言葉を失っていた。
「聞こえなかったのか、その女性を放せ」
 二度目の言葉に、茶髪の不良はようやく我に返った。
 スワナンの服から手を離し、立ち上がって少年と対峙する。
「おい、テメェ。オレのダチに何しやがった」
 見下ろしながら少年を睨みつける茶髪の不良。
 比較的身長の低い少年を、茶髪の不良はすごんで見せながらも、どうやって仲間を一瞬で倒したのか疑問に思っていた。
 が、次の瞬間、茶髪の不良の両足が宙に浮く。
 そして茶髪の不良の足が地面につくと同時に、茶髪の不良は横倒しに倒れた。
 スワナンからは見えない角度だったが、少年は茶髪の不良に拳を繰り出していた。
 みぞおちに深くめりこむ身体を持ち上げるほどの一撃だった。
 うめき声を漏らす事も無く、倒れて気絶する茶髪の不良。
 そんな不良の倒れた様を見ることも無く、少年はスワナンに歩み寄り、ゆっくりと彼女を立ち上がらせる。
「ア、アリガト」
 スワナンは礼を言いながら自分よりも小さい少年を見下ろす。
 すると少年は、
「どういたしまして」
 と、流暢なタイ語で答えた。
 スワナンは驚いた顔をする。
「タイ語、話せるんですか?」
「話せる、この世界の言葉ならなんでも」
 そう言うと、少年はスワナンの顔をじっと見つめる。
「君、名前は」
「えっと、スワナン・コンイン」
「いい名前だ、スワナンか。タイ人の名前だな、どうりでタイ語を知っているわけだ」
 嬉しそうに笑みを浮かべると、少年は続けた。
「私の名前はロンギヌス、今日は君に用があって尋ねにきたんだ」
「用? 私に?」
 首をかしげてみせるスワナン。
 そんなスワナンに、ロンギヌスは真剣な表情を浮かべて言った。
「私と契約して欲しい」
「契約……?」
 ロンギヌスの言葉を反芻するスワナン。
 それは運命の出会い。
 この時、この瞬間をもって、八岐大蛇誕生の儀式に参加する予定にある八人の人間が八振りの退魔皇剣とそれぞれの出会いを終える。
 退魔皇達の戦いは、この時より本格的に始まりを告げるのであった。




















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