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トップページ>>パオまるの小説>>退魔皇剣>>第七羽 剥がれ落ちた仮面

第七羽 剥がれ落ちた仮面



 目を開くとアイボリーが眼前に広がっていた。
 そう、そんな色をした天井だった。
 横を見る。
 そこには自分が頭を埋めている白。
 ベッドに寝かされていた。
 布団を跳ね除け、上体を起す。
 アイボリーを基調にして構成された部屋。
 金色のラインがそこかしこに走り、壁には西洋の絵画が飾られている。
 高級ホテル?
 数騎はそんな風に思った。
「あら、お目覚め?」
 声をかけられた。
 声の方を振り向くと、入り口のドアの横の個室から、女性が扉を開けて出てくるところだった。
「怪我はないかしら?」
「特になさそうだ」
 自分の体を見回し、再び女性に顔を向ける。
「ここはどこだ?」
「美坂ホテルの二十階」
「あんたは誰だ?」
「魔伏の退魔皇って言ったらわかるかしら?」
 その言葉に、数騎はとっさに身構える。
 それを見て、韮澤は両手を左右に振った。
「違うわ、もう退魔皇じゃなくなっちゃったし。今の私はただの韮澤ってケチな女よ」
「そうか……」
 顔を伏せる数騎。
 そんな数騎を見て、ベッドの隣に置いてあったイスに腰掛ける韮澤。
「間違ってないはずだけど、あなた界裂の退魔皇よね?」
「あぁ、でも長いから須藤って呼んでくれ。それにもう界裂の退魔皇じゃない」
「じゃあ私のことも韮澤って呼んで。私も、もう魔伏の退魔皇じゃないわ」
「わかった」
 頷く数騎。
「それで、どうしてオレはここにいるんだ?」
「それはね……」
 韮澤は話し始めた。
 戦いが終わり、目が覚めたら自分の側で倒れている数騎を見つけた事。
 放っておくわけにもいかないので、自分の泊まっているホテルに連れてきたこと。
「で、今目を覚ましたってわけ。随分眠ってたわ、二十時間ってところかしら」
「そんなに寝てたのか?」
 驚いて時計を探す数騎。
 壁にかけられた時計の針は午後の六時五分を指している。
「やべぇ、外泊しちまった」
 思わず頭を抱える。
 外泊する時はアーデルハイトに連絡を入れる約束があった。
 寮に帰ったらどう説明しようか。
 それよりも、数騎は思いだす。
 エアがいなくなってしまった。
 自分の失策のせいで、エアが。
 数騎は悔やむように歯を食いしばる。
 もし、坂口などという男を信頼しなければこんなことにはならなかった。
「無様だ……」
 思わず口に出していた。
 それを見て、韮澤が口を開く。
「負けたことが?」
「裏切るようなやつを信頼したことをだ」
 答え、数騎は韮澤に坂口のことを伝えた。
「へぇ、あの坂口がねぇ」
 説明を聞き、知ったような口で頷く韮澤。
「知ってるのか?」
「当然よ、ランページファントムの藤堂の師匠でしょ。世にも稀な広範囲異層空間殺しじゃない」
「なんだそれ?」
「本来、自分の周囲数メートルの空間でのみ科学兵器を扱える能力を数キロに渡って展開できるってことよ。この能力者が一人いれば一個軍が鏡内界での戦力になり得るわ」
「すごいのか?」
「当然よ、魔術結社の人間なのにそんなことも知らないの?」
「いや、オレは一般人だし」
「ふ〜ん、てっきり魔術結社の人間かと思ってたんだけど」
「何でだ?」
「なんとなくよ」
 小さく息をついて答える韮澤。
 そんな韮澤に、数騎は尋ねた。
「それで、なんでオレをここに運んだんだ?」
「放っておけなかったからよ」
「他にも理由があるんだろ?」
 真っ直ぐ見つめられ、韮澤は目を閉じた。
「わかるか、さすがね」
 言って目を開き、数騎の顔を見つめる。
「この町に広域結界が張られているのは知ってるわね?」
「知ってる、だから異能者は外からも中からも移動できないんだろ?」
「そうよ。退魔皇を逃がさないための結界、これのおかげで私達は外に逃げられないのよ」
「逃げる? 何でだ?」
「巻き込まれたくないからに決まってるでしょ、私達はもう退魔皇じゃないのよ。この町にい続けるメリットは存在しないわ」
「まぁ、確かに」
 数騎はアゴに手をあてて考える。
 極炎の時もそうだったが、退魔皇が現実空間で暴れたらその被害は計り知れない。
 すでに美坂町は火災でその十分の一を失っている。
「だから私としてはすぐにでもこの町から……いえ、この国から脱出したいと思ってる」
「でも、できないと」
「そうよ、そこであなたに話があるわけ」
 と、ここまで言ったところで韮澤はスカートのポケットから携帯電話を取り出した。
「私達はある意味、運命共同体よ。生き残った退魔皇はそれぞれの安全は自衛によって手に入れるしかない。だから私達は結束する必要がある」
「オレと……あんたでか?」
「あと一人も含めてね、呼んでいいかしら?」
「誰を?」
「天魔の退魔皇よ」







 二十分後、ドアが開き一人の男が入ってきた。
「あっ!」
「んっ!」
 お互いに驚く。
 手早くドアを閉めると、入ってきた男は数騎の側まで早足でやって来た。
「何で須藤がいるんだ?」
「村上こそ」
「あら、初対面じゃなかったの?」
 二人が既知であることに、韮澤は少し驚いていた。
「まぁ、とりあえず座りなさいよ。積もる話は後回しにしなさいな」
 そう言って韮澤は丸テーブルを囲むイスを村上に勧めた。
 ちなみに数騎も韮澤の近くに座っている。
 村上が席に着くと同時に、数騎が口を開いた。
「お前、天魔の退魔皇だったのか?」
「あぁ、内緒にしてて悪かったな」
 申し訳なさそうに顔をそむける村上。
「まさかお前が……世間は狭いなぁ」
 感慨深く言う数騎。
 と、それでようやく合点がいった。
「なるほど、だからか」
 そう、ようやく気付いた。
 思えば魔伏の退魔皇の行動は数騎に利することが多かったことに。
 極炎を撃破した直後の消耗状態を轟雷の退魔皇に襲われた際、銃弾でもって轟雷を牽制したこと。
 滅神の退魔皇が皇技を使用する際、それを皇技で妨害してくれたこと。
 地下鉄のホームで轟雷が酸素濃度を操った時、轟雷に対し皇技を使用したこと。
 結果的にではあるが、全てが数騎に利する行為であった。
「いろいろ助けられちまったな」
「オレはたいしたことはしてないよ」
 数騎の言葉に、村上は首を横に振る。
「全てルーのおかげだ、オレは一緒にいただけみたいなもんだ」
「ルー?」
「玉の退魔皇剣の精霊のことだ、いいヤツだったんだ」
「そうなのか?」
「あぁ、あいつは元々は神様だったんだ。自分の祖父を殺すっていう運命に流されて、結局殺して、後悔して。優勝して八岐大蛇になれたら、家族をみんな生き返らせて、故郷で暮らしたいって何度もオレに話してくれたよ」
 拳を震わせながら、村上は続けた。
「でも、オレのせいでダメになっちまった。それなのに、消える直前あいつはオレの心配をしながら消えていったんだ。オレは全然ダメだったのに」
「………………」
「悔しいよ……」
 無言でいる数騎を前にして、村上は目に涙を浮かべた。
 しかし、気取られまいとすぐに袖で涙を拭いた。
 話題をそらすべく、韮澤に顔を向ける。
「で、韮澤さん……だっけ? 相棒を無様に散らせて何の力もなくなったオレに何の用だい?」
「さっきも話したけど、あなたに助力を仰ごうと思って」
「助力? 悪いけどオレは一般人だぜ。何の力も持ってないんだ。悪いけど力にはなれないよ」
「まぁ、場合にもよるけどね。実際、戦力としてのあなたにはあまり期待してないけど、何かであなたの力を借りる時が来るかもしれないし。その時のためにね。もちろん、あなたがピンチな時は、連絡さえ取れればあなたを助けに行くわ」
「相互救済条約って感じか?」
 韮澤の言葉を要約する数騎。
 韮澤は嬉しそうに微笑み。
「そう、そんな感じね」
 そして、数騎と村上双方の顔を見た。
「この町にはまだ五人の退魔皇が残ってるわ。それに比べて私達の力はあまりにも弱い。もし、退魔皇たちが現実世界で戦いをはじめたらきっと大きな被害が出るわ。その時に死なないように、私達は結束しなくちゃならない」
「まぁ、利にはかなってるな」
 納得したように頷く村上。
「でも、大変なのはきっとあんたの方だぜ。オレたちは異能者じゃないからそっちを大して助けてやれないし、こっちは力が無いからあんたに頼る事になると思う」
「わかってるわ、どちらかというとこれはあなたたちのために言ってるんだし」
「どういうことだ?」
「まぁ、殺しあったとは言え一応は知り合いだしね。このまま見捨てるっていうのは何かさっぱりしないし。それにまぁ、あなたたちでも使いようによってはそれなりの戦力になるかもしれないわ」
「そういうもんなのか?」
「そういうものよ」
 優しく微笑み韮澤。
 そんな韮澤に、村上はちょっと困った顔をした。
「まぁ、こっちとしてもそっちに助けてもらえるなら助かるし、迷惑かけるかもしれないけどそうしてくれると助かる」
「オレもだ、依存は無い」
 村上に続いて数騎も言った。
 そんな二人を見て、韮澤は頷いた。
「じゃあ交渉は成立ね。あなたたちに渡しておきたいものがあるわ」
 そう言って、韮澤はイスの側に置いておいたカバンの中から拳銃を二つ取り出した。
「じ、銃!」
 村上が驚いてイスを揺らした。
 数騎は口に手をあてて、その禍々しい鉄の物体を見つめている。
 銃をそれぞれの目の前において、韮澤は口を開いた。
「それは刻銃と呼ばれている拳銃。銃と言っても銃から放たれるのは弾丸じゃなくて輝光によって編まれた輝光弾よ」
「ってことは?」
 尋ねる数騎。
 そんな数騎に、韮澤ははっきりと告げた。
「これは魔剣よ」
「ちょっと待て、異能者じゃない人間って魔剣を使えないんじゃなかったのか?」
 驚いて声を上げる村上。
「問題ないわ、これは無能力者、もしくはそれに近い異能者でも使えるようにした特殊な魔剣なの。使い勝手のいい魔剣なんだけど、製作費が高くて量産はできないわ」
 韮澤の言葉を耳にしながら、数騎はずっしりとした重量のある刻銃を持ち上げる。
「どうしてこんなの持ってるんだ?」
「知り合いのパトロンがくれたのよ、まぁ、そんなことどうでもいいわ」
 韮澤はさらにカバンの中からに弾丸を取り出した。
「銃本体も高いけど、弾丸もすごく高いのだから、これしか渡せないわ」
 言って数騎と村上のそれぞれ二発ずつ弾丸を手渡す。
「銃に装填してトリガーを引けば普通に撃てるわ。魔剣だからもちろん鏡内界でも使える」
「詠唱とかは?」
 聞く数騎。
 韮澤は首を横に振る。
「それは通常弾っていう連射できる弾丸でね、詠唱は必要ないの。『無音詠唱(ダムキャスト)』って呼ばれてるわ。全部で九発ある魔弾の中で一番安価なんだけど、私の財力じゃそれが限界だったわ」
「なるほど」
 村上は納得顔で手のひらの弾丸を見つめる。
「とりあえずそれがあれば最低限の異能者への対抗手段を手に入れたことになるわ。いざとなったらそれで戦ってもらうけど……正直戦力になるとは思えないわね。そんな弱い弾丸が二つっきりじゃ」
「じゃあ、何でオレたちに?」
 尋ねる数騎に、韮澤はため息とともに言った。
「保険代わりよ、あなたたちに武器を渡しておけば、いつか何かの役にたつかもしれないし。あ、もっともこの戦いが終わったら返しなさいよ、高いんだから」
 しっかりと付け加える韮澤。
「じゃあ、話はこんなところかしら。本当は帰ってもらっても構わないんだけど、一応その銃の取り扱い方を説明しておくからそれだけは覚えていってね」
 そう言って、数騎と村上に拳銃の扱い方、メンテナンス、いろいろなことを教えた。
 一応全ての工程を書き記した紙を用意してあり、それを二人に渡して各自自宅で勉強する事、と言って二人を解放した。
 数騎と村上がホテルを出たのは、午後八時を過ぎてからだった。







「腹……減ったな」
 夜の町を歩きながら、数騎は思わずそう口にしていた。
 よく考えたら、随分長い間メシを食ってなかった。
 よほど疲れていたのか、二十時間も寝ていたわけでもある。
「お前、メシ食った?」
「喰ってないけど、腹は減ってない」
 疲れた顔をして村上は答えた。
 ホテルから出た後、途中まで道が一緒ということで供に歩いていた二人だったが、会話は少なかった。
 二人とも、パートナーを失って傷心していたのだ。
「なぁ、村上」
「ん?」
「お前、どうしてあの韮澤って女に番号教えてたんだ?」
「教えたつもりなんてねぇ」
 面倒くさそうに村上は答えた。
「オレが脱落した時な、あの女に助けられたんだよ」
「えっと、地下鉄のホームでの戦いか?」
「あぁ、仮面砕かれて気絶して。で、目が覚めたら公園のベンチで寝かされてた。いつか連絡でも取ろうと考えたんだろうな、あの女。オレが寝てる間にアドレス交換してたらしい、ポケットに携帯入れっぱなしだったし」
「なるほど」
 納得する数騎。
 それで会話は終わりとばかりに、村上は黙り込んでしまった。
 空気が気まずい。
 歩いているため後ろへと流れていく飲食店を物欲しげに見ながら、数騎は言った。
「それで、お前これからどうする?」
「そうだな、特にやる事もないしな」
 少し考え、結論を出す。
「学校が実施してるボランティアにでも参加するよ。北村も頑張ってるみたいだし」
「そうか」
「お前はどうするんだ?」
 こちらに顔を向けて聞いてくる村上。
 数騎は小さく唸る。
「そうだな、それがいいかも知れないけど……」
 敗北した事をジェ・ルージュたちに報告していない。
「退魔皇以外の連中と共闘しててな。そいつらと話しつけないと自由に動けそうにないや」
「あの天狗面の武者のことか?」
「知ってるのか?」
「お前が契約したところも見てたんだぞ、オレは。隠れて戦うのが天魔の退魔皇だからな」
 そう言った時、村上の顔は少し元気そうだった。
「でも、お前に協力してるってのはお前が退魔皇で価値があったからだろ? 今のお前は無価値じゃないのか?」
「まぁ、そうだろうけどな。一応だよ、命がけで協力させてたってこともあるし。言いだしっぺは向こうだけど」
「お前も大変だな」
「確かにそうだけどさ」
 言葉を切り、数騎は続ける。
「運がよかったよ、オレら」
「そうか?」
 訝しげに問う村上。
 そんな村上に、数騎はいやにマジメな顔で言った。
「そりゃそうさ、オレはこの戦いに参加する時、敗北する時は死ぬときだって思ってた。でも、実際戦いで死んだ人間はオレが殺した極炎の退魔皇だけだ。意外と死なないもんなんだな」
「でも、それは決定打を撃ったのが天魔の皇技だからだろ? 天魔は退魔皇剣の中でも特に攻撃力が低いからな。それでも、退魔皇の仮面を狙うなら一番効率がいい」
 確かにそうだった。
 数騎に切り殺された極炎を除き、他の三名はいずれも天魔から放たれた一撃で脱落している。
 皇技で仮面を砕かれた滅神。
 皇技を跳ね返され、仮面を砕かれた天魔。
 皇技に皇技を重ねられ、精霊に命を救われた魔伏。
 いずれも天魔が退魔皇脱落の要因になっている。
「結局、半分になるまでさえ残れなかったなオレら」
 ため息混じりに呟く村上。
「命あっての物種さ」
 返答する数騎。
 そして、二人で顔を見つめあい力なく笑った。
 それから五分も歩くと十字路にたどり着く。
 そこでお別れだった。
 村上は右に、数騎はそのまま直進する。
 信号を渡り、数騎は左右を見回す。
 腹が減っていた。
 どこかにいい飯屋はないか。
 しばらく歩くと、美味しそうな匂いを放つ牛丼屋を発見した。
「牛丼か、そういやしばらく食ってないな」
 腹がけたたましく泣き叫んでいた。
 けっこうな音に、通行人の何人かが数騎を振り返る。
「ダメだ、限界っぽい」
 呟き、数騎はその牛丼屋に入ることに決めた。
 財布は持ってきてないが、小銭がポケットに残っている。
 取り出してみると五百円硬貨が一枚。
 いける、セール中なのもあって、並丼二杯はいけるぞ。
 ほくそ笑み、数騎は自動ドアに手を触れた。
 人間の存在を確認し、ドアが開く。
 数騎はさっそく食券の券売機を探した。
 右にあった。
 数騎は右を向いたまま店内に入っていき。
「あれ?」
 次の瞬間、左を向いていることに気付いた。
「え?」
 音が消えていた。
 聞こえてくるはずの雑踏が、人々の会話が。
 思わず周囲を見回す。
 しかし、誰の姿も無い。
 ただ、店のテーブルの上に食べかけの牛丼が存在するだけだ。
「まさか、鏡内界?」
 口に出して思い出す。
 鏡内界に侵入する方法は鏡、もしくは物を映し出す事のできる物質を介する事。
 しかし、時たま低い確率で鏡に映っている人間を取り込むことがあるという。
「取り込まれ……」
 た、と続けることは無かった。
 それよりも早く、数騎は何かに急かされるような衝動を感じ、店の外に飛び出した。
 同時に切断される店内。
 イスが、テーブルが、食器が、壁が。
 あらゆるものが銀線の煌きと供に切断される。
 音を立てて崩れた。
 店の中に巻き上がる調度品の破片。
 そんな中を平然とした顔で、女性が歩いていた。
 店内の惨状を呆然と見つめている数騎に、女性は一歩一歩近づいてくる。
「今のをかわすなんて、本当に記憶を失っているのかしら?」
「お、お前は?」
 裏返った声で叫ぶ。
 数騎の目の前にいる女性は、
「お久しぶりね、元・界裂の退魔皇」
 はっきりとした口調で、数騎の現状を体現する言葉を放つ。
 長く黒い髪に、やや疲れた感じの顔。
 忍者のような黒装束の衣装に身を纏う女性。
 それは、すでに脱落したはずの滅神の退魔皇だった。
 数騎は思わず声を張り上げた、
「お前、何でオレにちょっかい出すんだ? オレはもう退魔皇じゃないぞ!」
 うろたえながら後ずさる。
 そんな数騎に、黒装束の女性は言った。
「別に今まであなたが退魔皇だから狙ってたってわけじゃないわ」
 冷たく言い放つ黒装束。
 言われて数騎は、自分が界裂と契約する前から彼女が自分を襲っていたことを思い出す。
「何でオレを殺そうとするんだ? オレがお前に何かしたのか?」
「覚えてないの、二年前のことを?」
「……二年前から記憶喪失なんだ、悪いが覚えちゃいない」
「そう、残念ね」
 嬉しそうに残念がる黒装束。
 数騎はさらに後ろにさがる。
「お前、オレの過去を知ってるのか?」
「知ってるわよ、それなりに長い付き合いだったし。って言っても一年も関係があったわけじゃないけどね」
「オレは過去のことを思い出せない、だから教えてくれないか。オレはあんたに恨まれるようなことをしたのか?」
 その言葉に、黒装束はゆっくりと目を伏せた。
「恨まれるようなことをしたですって? まぁ、その時はそれほど気にはしなかったけど、したと言えばしたわ。私があなたを殺したいと思う程度のことはね」
「何をしたんだ?」
 尋ねる数騎に、黒装束はゆっくりと目を開いた。
「二年前の……いえ、正確には二つ前のクリスマスっていうべきかしら、二年たってないし。その日、あなたは何をしていたか覚えてる?」
「……確か、交通事故にあった。それで記憶を失った」
「交通事故? へぇ、交通事故ね」
 まじまじと数騎の顔を見つめる黒装束。
「あなた、本当に交通事故にあったの?」
「どういう意味だ?」
「さぁね、そこまで親切に教えてあげる筋合いなんてないわ。それに、何が理由でわからないまま死んでいくってのも、気が晴れなくて無様だろうし。ヒントをあげただけ優しいでしょ、私って」
 そう言うと、黒装束は両腕の手首をスナップさせた。
 それと同時に銀色の線が閃いた。
 黒装束の周りに漂い始める銀色の糸。
「死になさい、あなたに生きていられると鬱陶しいのよ。一応、名乗ってあげるわ。死に行くものに名前を教えるのは礼儀だから」
 そう口にし、黒装束はここに来てはじめて数騎を睨みつけた。
「私の名はカラスアゲハ、あなたが死に逝く理由は胸に手をあてて考えなさい!」
 言い放ち黒装束は、いやカラスアゲハは右腕を振るった。
 指先から繋がるは魔鋼で作られた鋼糸。
 壁面を切り裂き、券売機を両断しながら鋼糸が数騎に襲い掛かる。
「うわぁっ!」
 数騎はとっさに後ろに跳んだ。
 障害物を切り裂きながらの攻撃だったのが原因だったのだろうか、鋼糸は速度を落としわずかな差で数騎に回避される。
「逃げ足だけは速いのね」
 余裕を持った口ぶりで、カラスアゲハはゆっくりと店の外に出た。
 数騎はすでに背中を向けて逃げ出している。
 所詮、今の数騎は無能力者の青年だった。
 退魔皇で無くなった数騎はカラスアゲハにとって恐ろしい相手ではない。
 カラスアゲハはすぐさま数騎の後を追って走り出す。
 輝光で脚部を強化しているため、その速度は数騎のそれの軽く三倍は速く、
「追いつかれた?」
 数騎を攻撃範囲に収めるのに、十秒も必要としなかった。
 カラスアゲハは左手を振るった。
 左手から伸びる鋼糸が、弧を描きながら数騎に襲い掛かる。
 その時だった。
「魔幻凶塵餓狼無哭(まげんきょうじんがろうむこく)」
 旋律を伴う詠唱が響くと同時に、
「憑惹破滅緋炎葬刻(ひょうひはめつひえんそうこく)」
 その魔皇が眼前に現れたのは。
「魔飢憑緋(まがつひ)」
 数騎の正面に、天狗面の武者が真上から、垂直に落下してきた。
 真紅の具足から金属音を響かせる。
 いかなる体術か着地音は皆無。
 両手で真紅の刀を構える天狗を数騎が追い抜いた。
 それと同時に襲い来る鋼糸。
 だが、
「魔幻凶塵(まげんきょうじん)、呪刻(じゅこく)」
 詠唱と供に、天狗は真紅の刀、魔飢憑緋を一閃させた。
 同時に、光り輝く真紅の刃が空中に三十出現した。
 カマイタチのような切れ味を誇るその輝光の刃は、迫り来る鋼糸をズタズタに切り裂く。
 しかし、カラスアゲハがその程度で止まるはずがない。
 さらに右手を振り、鋼糸による攻撃を仕掛ける。
 天狗を狙ったその一撃は、
「無駄」
 その言葉と同時に天狗の差し出した左手によって封殺された。
 腕を高速で旋回させ、カラスアゲハの鋼糸を巻き取るようにしてその手に握り締めてしまう。
 さらに、その鋼糸を右手に持つ魔飢憑緋で両断する。
 天狗は切断されて役に立たなくなったその鋼糸を地面に投げ捨てる。
 カラスアゲハの動きは速かった。
 邪魔になる両手の鋼糸を投げ捨てると、天狗に背中を見せて一気に逃げ出したのだ。
 すぐさま追いかける天狗。
 天狗の方が速度では上だったが、カラスアゲハのほうがビルに近かった。
 窓を叩き割りながら、飛び込むように暗いビルに飛び込む。
 天狗は、それを追おうとはしなかった。
 しばらくビルを睨みつけた後、静かにビルに背を向けてこちらの方に歩み寄ってきた。
「大丈夫?」
 低くくぐもった声。
 天狗の仮面のせいだろうか、聞こえてくる声では男女の判別がつかない。
 数騎は困惑しながらも答えた。
「だ、大丈夫。怪我は無い」
「そう、よかった」
 安心したのか、安堵の息をもらす天狗。
「気をつけて、あの女はあなたを狙ってる」
「知ってるのか?」
「知ってる」
 頷いて答える天狗。
「あなたを憎んでる」
「何でだ?」
「知らない方がいい」
 数騎の質問に、天狗は首を横に振った。
 数騎はとっさに天狗の両肩を、正確には甲冑の肩の部分を掴んだ。
「頼む、教えてくれ。オレは記憶が無いんだ、オレが昔、何をしたのかオレにはわからない。なぜあの黒装束に狙われてるかわからないんだ」
 必死な、すがるような表情で数騎は天狗を見つめる。
「もし知っているなら、オレの過去を教えてくれないか」
 その懇願に、天狗はどうすべきかと視線を彷徨わせた。
 天狗の仮面の下からのぞく瞳が、動揺しているのか僅かに揺れている。
 天狗は口を開こうとした。
 しかし、何か言葉が口から漏れるよりも速く、数騎の身体を突き飛ばす。
「痛てっ!」
 アスファルトに地面に叩きつけられ、数騎は後頭部を地面にぶつける。
「何す……」
 んだ、とまで口に出来なかった。
 数騎を突き飛ばした天狗。
 その右足に、銀色の糸が絡み付いていたからだ。
 糸の先には先ほど逃げたはずのカラスアゲハの姿。
 カラスアゲハが鋼糸を思いっきり引いた。
 右足をとられ、肩から倒れこむ天狗。
「はあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 気合と供にカラスアゲハは輝光を集中させた。
 筋肉に輝光が駆け巡り、カラスアゲハの筋力が通常の何倍もに強化される。
 思いっきり鋼糸を引っ張り、天狗の身体を宙に舞い上がらせる。
「はぁっ!」
 短い気合がカラスアゲハの腹から響き渡る。
 それと同時に、天狗の身体がビルの壁面に叩きつけられた。
 激突の後、重力に従い落下する天狗。
 地面に転がる天狗。
 よほどの衝撃だったのか、天狗はぴくりとも動かなくなった。
「鋼糸が効かない頑丈な甲冑でも、こうされちゃ堪らないわよね」
 嬉しそうに笑みを浮かべるカラスアゲハ。
 どこから現れたのか。
 確かにどこかに逃げ去ったはずなのに。
 カラスアゲハを睨みつける数騎は、その側に転がっているものに気がついた。
 それはマンホール。
 合点がいった。
 つまりカラスアゲハは、地下道伝いに数騎たちの後ろに回りこんだのだ。
「いくら正面からは強くても、私の陰影に気付けないようじゃ私の相手には不足よ。授業料として早速殺しちゃおうかしら」
 そう口にした後、思い出したように数騎に顔を向ける。
「あら、忘れてた。まずはあなたから殺さないとね」
「それは困る」
 声は数騎の真後ろから聞こえた。
 そう、真後ろだ。
 振り返る。
 数騎の後ろに存在していたのは、ジェ・ルージュだった。
「誰が異層空間を展開したのかと思えば、お前かカラス」
 例の空間転移呪文で数騎の影から現れたのであろうジェ・ルージュ。
 ジェ・ルージュは数騎の正面に回りこむと、真っ向からカラスアゲハを睨みつけた。
「その天狗も、この小僧も私の盟友だ。殺させるわけにはいかない」
「邪魔をするわけ?」
「当然だ」
 言い放つジェ・ルージュ。
「もっとも、こちらはこの通り小さくされて弱体化している。もしどうしてもと言うなら仕掛けてみるがいい。勝算はあるかもしれんぞ」
 その言葉に、カラスアゲハは舌打ちした。
「冗談じゃないわ、腐ってもあなたは赤の魔術師なのよ。何考えてるかわかったもんじゃない」
 そういうと、カラスアゲハは手にしていた糸を上下に振った。
 上手い具合に絡まった糸が解け、天狗の右足が鋼糸から解放された。
「今日のところは去らせてもらうわ。命拾いしたわね」
 数騎を睨みつけてそう言うと、カラスアゲハは数騎たちに背中を見せ、どこかにそのまま逃げ去ってしまった。
 それを見届け、数騎は安堵の息を漏らす。
「そうだ!」
 思い出し、数騎は走り出す。
 自分のために戦い、倒れた天狗の元へ。
「大丈夫か!」
 仰向けに倒れ、動かない天狗の肩を叩き、目覚めさせようとする数騎。
「ん……」
 天狗が声を漏らした。
 それを聞き、天狗が生きていることを知り、数騎は安堵する。
 と、その時だった。
 紐が緩み、天狗の顔から天狗の仮面がとれた。
 そして、その顔が露になる。
「え?」
 それは女性だった。
 顔にかかる柔らかそうな黒い髪。
 瑞々しい肌をした、それは間違いなく若い女性。
「嘘だろ?」
 あれほどの立ち回りを見せた天狗が女性だったことに驚き、数騎は思わずそう口にしていた。
「ほら、邪魔だ」
 後ろから数騎をジェ・ルージュが払いのけた。
 女性の顔に天狗の仮面をかぶせると、首筋に手をあてた。
「ん〜、軽度の打撲。さらに頭を打って脳震盪と言ったところか。気絶ですんで何よりだったな」
「助かるのか?」
「当然だ、私は赤の魔術師だぞ」
 そう言うと、ジェ・ルージュは両手で印を結び始めた。
「とりあえず安全な場所に移動する、掴まれ」
 その言葉に従い、数騎はジェ・ルージュの肩に手を乗せる。
 すぐに術式は完成した。
 数騎、天狗、そしてジェ・ルージュの身体が少しずつ影に沈みこんでいく。
 それはジェ・ルージュが好んで使う影を利用した空間転移呪文だった。
 足、腰、胸、肩、そして頭が影に飲み込まれ、三人は転移を完了した。
 誰もいなくなった鏡内界。
 そこには、切断されて捨てられたカラスアゲハの鋼糸が残るのみであった。







「おぉ」
 不思議な光景だった。
 例えるならばガラス張りのエレベーターだろうか。
 上の階の床のあとには次の階がガラスの向こうに見える。
 影から地面に浮かび上がるのは、それによく似ていた。
 まず首が地面に生える。
 端から見たら、生首が転がっているようにも見えるだろう。
 それに続いて肩、胸、腹、腰、膝、足。
 数騎たちは一瞬にしてその一室に転移した。
 そこは部屋だった。
 どこかのマンションだろうか、そこまで大きくない部屋から数騎はそう思った。
 テーブル、キッチン、テレビ、本棚、食器棚。
 狭い空間に、生活に必要なそれらが整然と置かれていた。
「おい、力を貸せ」
 見るとすぐそばで倒れる天狗をジェ・ルージュが持ち上げようとしていた。
「向こうの部屋にベッドがある、そこまで運ぶぞ」
「あ……あぁ」
 頷き、数騎はジェ・ルージュと協力して天狗を背負い、ベッドまで運ぶ。
 動かない人間を運ぶというのは想像以上に大変だった。
 その上、天狗は甲冑を身に纏っている。
 その重さは半端なものではない。
 二人寝ても大丈夫な広さのあるベッドに天狗を寝かせた時、数騎は思わず大きく息をついてしまった。
「ふむ、とりあえずこれで大丈夫だな」
 言ってジェ・ルージュは天狗に布団をかぶせる。
 数騎は慌てた。
「おい、そのままかよ」
 天狗は仮面も甲冑もしたままだった。
 こんな状態では回復など望めない。
 そんな数騎の顔をジェ・ルージュはまじまじと見た。
「もちろんわかっている、とりあえず出て行け」
「なんでだ?」
 尋ねる数騎。
 それを聞いて、ジェ・ルージュは深くため息をつく。
「お前に見られたくない事をするのだ、気をきかせて去れ」
「わ、わかった」
 そう言って、数騎は部屋から出た。
 扉を閉めると同時に、扉の向こうから輝光の奔流を感じる。
 それからしばらくして、ジェ・ルージュが部屋から出てきた。
「もう大丈夫だ、鎧も脱がせたし傷口の消毒もした。催眠の術式を使ったからぐっすり眠れるだろう。まぁ、命に別状はないな」
「よかった」
 嬉しそうに顔を崩す数騎。
 そんな数騎の足を、ジェ・ルージュはいらだたしげに蹴った。
 子供の力であるためあまり痛くは無かったが、数騎は驚いて声をだした。
「な、なんだよ」
「よかったじゃない、全然よくはないぞ。お前のせいで天狗は当分使い物にならなくなってしまった」
「……悪ぃ」
 申し訳なさそうに数騎は言った。
 それを見てジェ・ルージュは鼻を鳴らし、テーブルの前にあるソファを指差した。
「とりあえずそこに座れ、茶くらいは出してやる」
 そう言うとキッチンに向かい、ポットから湯を出して急須に入れた。
 湯飲みに茶を入れると、ジェ・ルージュはそれをテーブルにおいて自分も対面のソファに座った。
「飲め、二番煎じでよければな」
 言ってジェ・ルージュは茶を口にした。
「さて、今回の出来事は当方にとっては相当に面倒なことだと言わざるを得ない」
 湯飲みをテーブルの上に置き、ジェ・ルージュは続ける。
「お前のおかげでこっちの、唯一の戦力と言っていい天狗がノックアウトだ。数日は寝かせとかないと魔剣の起動も心配でさせられん」
「すまない」
「それにしてもカラスは貴様に何の恨みがあるのだろうな」
 疑問を口にするジェ・ルージュ。
 数騎は身を乗り出した。
「そうだ、教えてくれ! お前、オレの過去を知ってるんだろ?」
 必死に聞く数騎。
 そんな数騎を前にして、ジェ・ルージュは考え込むように視線を上に向ける。
「ん〜、お前の過去を知っているというよりは。過去にお前を知っていたと言った方が近いか。悪いが私はお前と面識がない」
「じゃあ、知ってる事だけでも」
「お前は須藤数騎だ、事故で記憶を失った。ついでに言うと昔、魔術結社の人間とかかわりがあったとでも言ったところか? 私も詳しくは知らん、天狗が知っているらしいから目が覚めたら天狗に聞くといい」
「でも……」
「しつこい男だ、私は知らんと言っているだろう。気になるなら人から聞かずに自分で調べてみろというのだ」
 言って、ジェ・ルージュは音を立てて茶をすすり始める。
 相当怒っている。
「まぁ、あの忍者のことはどうでもいい。お前が襲われたのはどうせ痴情のもつれか何かだろう。天狗が巻き込まれた事以外はこっちにとってどうでもいい。それよりもあれだ、お前についてた」
 ジェ・ルージュはついに本題を口にする。
「よくぞまぁ、あっさりと脱落してくれたものだ」
「あのオッサンに裏切られたんだ、しょうがないだろ」
「まぁ、それについてはヤツの動きを見抜けなかったこちらのミスでもあるがな」
 ジェ・ルージュはため息をつく。
「まさかあいつが裏切るとは。だが、それ以上にお前のマヌケぶりに腹が立つ」
「どういうことだよ?」
「他人がいる側で魔装合体を解くとはどういう了見だ貴様は、退魔皇としての力を失い、しかも退魔皇剣の精霊が一時的に消滅しているその瞬間こそが退魔皇の最大の隙なのだ。いくら味方とはいえ、他人の目の前でそれをやる了見がどうかしている」
 怒りながら言うジェ・ルージュに、数騎は何も言い返せなかった。
「まぁいい。こちらも全ての手が尽きたというわけでもない」
「まだ、手があるのか?」
「こっちは眉唾だが、奴らに対抗できる武器がまだ完全にないというわけではないのでな」
 言ってジェ・ルージュは髪の毛をかく。
「正直信頼できる筋の情報ではない、だがこれ以外にすがるものがなくなった。轟雷か坂口が最終勝者になってでもくれればありがたいが恐らく無理だろう」
「その二人が勝つといい事があるのか?」
「よくわからん。が、素性を知らないわけではないから、恐らく八岐大蛇を悪用しないとは思うが……正直期待できん」
 腹ただしげに言うジェ・ルージュ。
「とりあえずこちらはその武器を探してみようと思っている、最悪は私が単独で奴らと渡り合わざるをえんがな」
「戦えるのか、あんたが?」
 驚いて聞く数騎。
 この一桁の年齢にしか見えない子供が、とても戦えるとは思えない。
「なめるな、小僧。これでも赤の魔術師だ、奥の手がないわけじゃない」
 言って、ジェ・ルージュはポケットからビニールで包まれた飴玉を取り出した。
「見ろ、存在確率屈折投影現象に対抗するために即席で作った魔道具だ」
「存在……なんだ?」
「存在確率屈折投影現象、つまりあの矛の退魔皇の皇技だな」
「どういうことだ?」
「あの矛が存在確率を変えるというのは……そうだな。例えるなら水面と光だ。光を水面に当てると、光は直進せず屈折する。つまり本来照らそうとしている範囲とは違う場所を照らすこととなる」
「で、それがどうしたって言うんだ?」
「つまり存在確率の変更とは存在確率の屈折ということだ。本来ある物を別の場所に移動するのが基本、もしくは置き換えだな。だからあの矛は無から有を生み出せない。あくまで何かの存在確率を低下させた後、それを別のものに、もしくは別の場所に置き換える。屈折させているわけだ、その存在の居場所を」
「つまり?」
「私が子供の姿をしているのは、四千年の時を生きた私を水面、つまり矛の力のせいで世界を屈折させ、はるか過去の私を投影しているわけだ。もっとも、影響を受けたのは肉体だけで中身の魂は変わらない。おかげで私は知識を保ったままだが……」
 自分の体を見おろすジェ・ルージュ。
「この身体ではろくな術式を使えん。そこでこの飴玉の出番だ」
 飴玉を数騎に見せ付ける。
「これで水面たる矛の力をかき消す。水上から放たれた光は屈折せず、現在存在するはずの私を照らし出す。つまり、元の姿に戻れる」
「じゃあ、あんたも戦えるのか?」
「短時間ならな、この飴玉の力を用いるには口に入れて噛み砕く必要がある。しかも、噛み続けないと効果が切れる。一分も持たない」
「それってつまり」
「長時間は戦えない、しかも材料がないからこの一個しかない。正直、先ほどはカラスが退いてくれて助かった」
 そう、カラスの撤退は双方に利を与えた。
 カラスは死を免れ、ジェ・ルージュは飴玉の消費を免れた。
「まぁ、そんなわけでこちらに切り札がないわけじゃあない。で、これからのことだが」
 言葉を切り、ジェ・ルージュは続ける。
「私達の盟約を解消しよう。お前が退魔皇でなくなった以上、こちらがそちらと手を組む利点が無い」
「まぁ、そうだろうな」
 数騎は納得した顔で頷いた。
 もとより、この言葉は予想通りだったからだ。
「そんなわけで私達がお前を守る理由も失せた。カラスがなぜか君を狙っているようだが、悪いがこっちは君を助ける気は無い」
「……仕方ないな」
 助けてくれ、と叫びたかった。
 しかし、ジェ・ルージュたちと自分はお互いがお互いに利益を与えるからこそ協力していた。
 見返りも無いのに動く理由は無い。
「こちらとしても心苦しいが、悪いがそちらに構っている暇はない。残る退魔皇はあと五人だ。下手をすると今日中にでも戦いが終わってしまう。それまでにやれる事はやっておきたいのでな」
 そう言うと、ジェ・ルージュは暗い廊下を指し示した。
「納得してもらえたなら話は終わりだ。出口はそっちだ。帰り道は……たぶんわかるだろう、お前の住んでいるアパートから二キロもない距離だからな」
 数騎はしばらくうつむいて黙っていたが、目の前に出されたお茶を一口で飲み干すと、意を決して立ち上がった。
「最後に一つ、頼みがある」
「何だ?」
「あの天狗が目を覚ましたら、連絡をくれないか」
「聞くのか、お前の事を?」
「そのつもりだ」
 はっきりと告げる数騎。
 それを聞いて、ジェ・ルージュはあきれたように目を瞑り、首を横に振る。
「約束しよう、それまでにお前が生きていられたらだがな」
 それだけ聞いて満足したのか、数騎はジェ・ルージュに背を向けて部屋から出て行った。
 閉じられた玄関の扉を見つめながら、ジェ・ルージュは呟く。
「これでよかったのか、燕雀?」
 その言葉に惹かれるように、ジェ・ルージュのソファの影に隠れていた燕雀が姿を見せた。
「たぶんあいつなら大丈夫だ、カラスアゲハ程度には取られることはないと思うが……」
 困ったように顔を伏せる燕雀。
「なぜ、あいつが……」
 何か言いたそうだったが、燕雀はそれ以上の句を続けなかった。
 ジェ・ルージュもあえて聞こうとはしない。
 ただ、黙ってお茶をすするだけだ。
 少し渋めのお茶が、ジェ・ルージュにはとてもおいしく感じた。







 暗い夜道を、数騎は一人歩いた。
 途中、数騎は寮に戻るために橋を渡った。
 それは、飲川橋と呼ばれる橋だった。
「そういえば、ここでエアとはじめて会ったんだよな」
 川原を見つめながら数騎は呟いた。
 鏡の中で蒸発させられた川は、現実世界では何の問題もなく水の流れる音を聞こえさせている。
 行き交う車のライトが数騎の顔を照らす。
 腑抜けたようにゆっくりと歩く数騎だが、その内心は決して穏やかではなかった。
 いつカラスアゲハが仕掛けてくるかわからなかったからだ。
 さきほどは、いきなり襲われたので心の準備ができていなかった。
 しかし、
「これがある」
 数騎はコートの中のふくらみを触った。
 そこには堅く冷たい手ごたえ。
 韮澤から渡された刻銃と呼ばれる魔剣があった。
 弾丸は二発。
 しかし、飛び道具であることとそれなりの殺傷力があることが数騎に自信を持たせた。
「問題は……」
 いざとなったら怖気ずくのではないかといことだった。
 魔装合体している時は恐怖をかき消す高揚感のおかげで戦いに恐怖を感じなかったが、それなしで自分が戦えるほど勇敢だとはとても思えなかった。
「どうしたもんかなぁ」
 空を見上げながら呟く。
 そこに煌く星々。
 しかし、美しい星は何も語らない。
 数騎は落ち着かない表情で、寮までの道を歩いた。
 数十分程度で数騎は寮まで辿り着いた。
「さぁて、どうしたもんか」
 人の気配があるからだが、寮の窓からは光が灯っている。
「アーさんに何ていうかな……」
 なんたって無断外泊したわけだし。
 数騎は首をひねりながら考える。
 と、その時だ。
「数騎……くん……?」
 後ろから声が聞こえた。
 振り返る。
「アーさん……」
 そう、アーデルハイトがいた。
 買い物にでも行っていたのか、手に膨らんだ白いビニール袋を持っている。
 柔らかい表情で見つめてくるアーデルハイト。
 しかし、ハッとしたような顔をすると、早足で数騎の目の前まで歩み寄ってきた。
「もう、どこに行ってたの! こんな時間まで!」
「わ、悪い……」
 どなられ、数騎は思わず後ずさる。
「昨日も勝手に外泊しちゃうし、どこ行ってたのよ!」
「え、えっと……」
 答えに窮する数騎。
 そんな数騎の様子を見て、ふと思い出したようにアーデルハイトは言った。
「あれ、エアくんは?」
「エアは……」
 数騎は言葉を切り、続ける。
「エアは、自分の国に帰ったよ。オレは空港まであいつを送りに行ってたんだ」
「バイクを置いて?」
 そう、バイクは家に置きっぱなしだった。
 数騎は頷いてみせる。
「あぁ、電車で行った。高速だと金もかかるしな」
「バイクの方が安く済むと思うけど、ん〜?」
 考え込むアーデルハイト。
 車やバイクに乗らないので、高速料金の相場とかに自信がないのだ。
「まぁ、そんなわけ。連絡入れなくて悪かったよ。もしかして今日もエアの分作ってた?」
「別にそういうのはいいんだけど、保存して食べればいいし。でも、お別れなら最後に会っておきたかったわ」
「すまないな、気がつかなかった」
 申し訳なさそうに言う数騎。
 その顔があまりに悲しそうだったので、アーデルハイトは慌てていった。
「いいのよ、別に。そんなに親しかったわけでもないんだし」
「そうか」
 ならよかった、と数騎は心の中で続ける。
 と、アーデルハイトが数騎の手を掴んだ。
「そうだ、ご飯はもう食べた?」
「えっと……」
 答えようとした数騎。
 しかし、それよりも腹の虫が鳴く方が速かった。
「あ、食べてないんだ。なら良かった。今日はカレーなの。温めればすぐ食べられるわよ」
「そうか、悪いな。ちょっと腹減ってたんだ」
 何たって丸一日食べてない。
 数騎はアーデルハイトの手に引かれて、アーデルハイトの部屋に入った。
 誰もいない部屋は冷えていた。
 アーデルハイトはエアコンを入れ、電気コンロにスイッチを入れると、数騎をテーブルの前にイスに座らせた。
 すぐにポットからお湯を出し、インスタントのレモンティをコップに入れ、数騎の前に置く。
「これ飲んで待っててね、五分くらいでできるから」
 そう言って数騎に背中を向けると、エプロン姿のアーデルハイトは鍋の前に立ち、カレー鍋の中身をかき混ぜ始める。
 その背中を見つめながら、数騎はレモンティに口をつけた。
 温かい。
 本当に温かかった。
 飲み込むと、胃がほんのりと温かくなる。
 ありがたかった。
 二十時間寝たはずなのに、イスに座ってレモンティを飲むだけで、今までの疲れが一気に出た気がした。
 けだるい感じを覚えながら、数騎はレモンティを飲み続ける。
 アーデルハイトが出してくれたカレーを食べ終わると、数騎は部屋に戻り倒れこむようにして寝た。
 疲れが取れていなかったので、その夜数騎は何に邪魔されることなく、熟睡したのであった。







 カラスが鳴く声とともに数騎は目を覚ました。
 相変わらず寒い朝。
 とてもではないが布団から出る気にならない。
 数騎は布団の中でもぞもぞと動き、何とか布団から出ようと頑張るが、布団の暖かさはまるで魔力を持っているように数騎を布団の中に釘付けにする。
 が、小さな音がその魔力を打ち払った。
 腹の音である。
 空腹に苦しみ、腹がステキな音をかき鳴らした。
 こうなると数騎も、いつまでも布団の温もりを楽しんでいる場合では無い事に気付かされる。
 仕方なく布団から出た。
 冷えた部屋の空気に身体を震わせながら、数騎は自室から出る。
 コタツの前までやってきて、ふと気付いた。
「いないんだっけ」
 そう、いなかった。
 数騎の最近の習慣、それはコタツで寝ているエアを蹴っ飛ばして叩き起こす事だ。
 と、言ってもエアは寝覚めがいいので足が触れた瞬間、跳ねるように起き上がるのだが。
「オレと比べたら天と地の差だよな」
 呟く数騎。
 しかし、答える者はいない。
「顔でも洗うかな」
 そう口に出して、数騎は洗面所に向かって歩いていった。







「今日はスクランブルエッグにあらびきウィンナー、それにおいしいトーストよ、ジャムはどうする?」
 アーデルハイトは妙にご機嫌だった。
「えっと、じゃあマーマレードで」
「はい、どうぞ」
 冷蔵庫からジャムのビンを取り出すと、数騎の目の前に置くアーデルハイト。
 外に出ても恥ずかしくない格好になった数騎は、早速アーデルハイトの部屋で朝食をとることにした。
 いつもどおりのテーブルにアーデルハイトと数騎が二人。
 ふと右を見る。
 昨日まで居たはずのエアの姿がないのが妙に気になった。
「そーよねぇ、何かエア君がいないと不自然世ねぇ」
 首をかしげながら口にするアーデルハイト。
 心でも読んだのか、と数騎は驚いてアーデルハイトの顔を見る。
 アーデルハイトは呆れ顔で言った。
「言っとくけど私はエスパーじゃありませんからね。そんな顔してエア君の席見てればわかるわよ」
「そうか……」
 さりげなく言ったつもりだったが、数騎の声は少し沈み気味だった。
「なによー、元気ないぞ。エア君がいなくなったのがそんなに寂しい?」
 どうなの?
 という顔で見つめてくるアーデルハイト。
「まぁ、寂しいと言えば寂しい。短い時間だったけど同じ釜の飯を食べたわけだし」
「そうよねぇ、エア君かわいかったし」
「ああいうのが好みなのか?」
 数騎にそう聞かれると、アーデルハイトはきょとんとした顔をする。
 直後、いきなり慌て始めた。
「ち、違うわよ。べ、別に私小さい子が好きってわけじゃないんだからね!」
「わかってるよ、そんなに慌てるなって」
 鼻で笑いながら、数騎はマーマレードジャムを塗ったトーストにかじりつく。
 温かく、柔らかで、鼻につく甘い匂い。
 やはり焼きたてのトーストはおいしかった。
 と、数騎はあることを思いついた。
「そうだ、アーさん」
「何?」
「あのさ、ちょっと調べたいことがあるんだけど」
「調べたいこと?」
「そう、ちょっと昔あったことを調べたいんだけどさ、パソコンとかって持ってない?」
「持ってないわよ、私の部屋見たことあるでしょ?」
「いや、ノートの方かもしれないだろ」
「どっちにしても持ってないわよ」
「そうか、どうしたもんかな?」
 数騎は両手を組んで考え込んだ。
 パソコンはあるにはあるのだが、数騎が使えるパソコンは学校にあるやつだけ、しかも北村のサークルが所持しているやつしかない。
 学校が開いていない以上校舎に入れない上、村上がいないとパスワードを知らないのでログインもできない。
「それにしても数騎くん、何調べるつもりなの?」
「いや、たいしたことじゃないよ」
「ふ〜ん、ならいいけど。あんまり変なことに首突っ込んじゃダメよ」
「わかってるって」
 頷き、数騎は一気にミルクを飲み干す。
 と、アーデルハイトが思い出したように手を叩いた。
「そうだ!」
「ん?」
「パソコンが使いたいなら、ネットカフェとか行ってみれば?」
「ネットカフェ?」
「本とかパソコンとか置いてある喫茶店よ、三十分いくらとかで利用できると思うわ」
「ふ〜ん、そんなのがあるんだ」
「若者ならみんな知ってると思ってたけど、知らない?」
 首をかしげて聞くアーデルハイト。
 確かに、言われて見ればそんなこともあったような。
「まぁ、後で行ってみるよ。教えてくれたありがと」
「どういたしまして」
 それで会話は終わった。
 数騎は残っていた朝食を平らげると、飛ぶようにして自室に戻った。
 歯を磨き、財布を持つとそのまま外に飛び出す。
 ヘルメットをかぶり、バイクに跨る。
 エンジンを唸らせ、数騎はアパートから出ると、そのまま駅付近にあるはずのネットカフェ目指して走っていくのであった。







 数時間後、数騎は呆然とした顔で、いろいろなテナントが参加しているビルの四階にあるネットカフェから出てきた。
「ダメだ……」
 ため息しかでない。
 そりゃそうだろう、何時間も調べた挙句、収穫ゼロでは泣きたくもなる。
「う〜、条件検索なら出ると思ったんだけどなぁ」
 うなだれる数騎。
 頑張って調べたつもりだったが、調べ方が悪かったのかもしれない。
 だってそう、何があったのかもわからないのだ。
 殺人事件なら何とか殺人事件と検索をかければ一発で表示されただろう。
 収穫と言えば、この二年の間に連続殺人事件と連続強姦殺人事件、他に猟奇事件があったことがわかったことくらいだった。
 一つは一年と半年前、六月に起きた連続斬殺事件。
 長物で人を切り殺す通り魔が十数人の人間を殺して回ったという事件。
 もう一つは一年と四ヶ月前の夏に起こった凶悪事件。
 女性を拉致し、乱暴を働いた末に殺害して死体を放置するという事件だ。
 こちらの方は合計で三十に近い被害者が出たという。
 最後は一年と一ヶ月前におきた手首連続切断事件。
 これは殺人ではなく傷害事件で、人の手首を切り落として持ち去っていくという事件だ。
 この事件では死亡者こそ出ていないが、十に近い人間が片手を失ったという。
 ちなみにこの事件とは関係ないが、特定指定暴力団の人間が夜中に複数惨殺されるという事件もあったそうだが、恐らく暴力団同士の抗争とかそのあたりだろう。
 しかし、数騎が知りたいのは二年前(正確にはあと数日で二年前になる)のクリスマスに起こった出来事だ。
 日付だけ入れて検索しても、わけのわからないページが出るだけで、結局何もわからなかった。
 わかったのは、美坂町という町は思っていたより物騒だという事くらいだ。
「や〜れやれ」
 ため息をつき、数騎はエレベーターに乗ってビルの一階まで降りると、外に出て路上に置いておいたバイクに跨る。
「ま、じっくり時間かけて調べるとするかな」
 呟き、フルフェイスヘルメットをかぶり、数騎は寮に帰る事にした。
 二十分ほど走り、数騎は寮に戻ってきた。
 ヘルメットをバイクの中にしまうと数騎は金属の階段を、音を立てて上っていく。
「ただいま〜」
 誰も居ないのはわかっていたが、数騎は自分の部屋に入るとそう口にした。
「疲れた〜」
 かなりの時間パソコンをいじっていたため、脳が相当疲労していた。
 少し休もうかな。
 そう考え、コタツを目指す数騎。
 部屋には誰もいなかったため、寒かったのでコタツに入るのは実にちょうどいい。
「あ……」
 と、数騎はそれに気付いた。
 カーテンに隠されたそれ。
 数騎はゴミをかきわけ、ゆっくりとそれに近づく。
 カーテンをめくる。
 そこには、鎖と南京錠で封鎖された扉があった。
「これ、何なんだろうな」
 思わず独り言を口にする。
 部屋に来た時からずっと開かない扉。
 いつのまにか、開かずの扉とか呼んでいたその扉。
 中に何があるのか。
 数騎は思わず扉に手をかける。
 引っ張るが開かない。
 押してみても開かない。
「中に何があるんだろう?」
 気になったが開かないんじゃ仕方がない。
 扉を砕くか?
 いや、そこまでして見たいというわけでもない。
 それでも、妙にこの扉が気になった。
 何か、開いてはいけないような気がしないでもない。
 それでも、数騎は扉を開きたかった。
 と、何かを叩く音が聞こえた。
 音の発生源に視線を向けるとそれはこの部屋の玄関。
 それはノックの音だった。
「どちら様だ?」
「僕だよ、佐藤だ」
「あ〜、今開けるよ」
 答え、数騎は仕方なしに玄関に向かった。
 本当はコタツに入りたかったのだが、わざわざ来たんじゃ仕方ない。
 数騎は鍵を開け、扉を開く。
 数騎の部屋の前に立っていたのは数騎より頭一つ分小さい男だった。
 ぱっとしない服装に黒縁メガネ、中途半端に伸びた手入れをしていない髪に、とてもではないが美形とは言い難い顔。
 佐藤陽平、二十一歳。
 数騎の通う美坂大学の三年生だった。
「どうしたんですか、佐藤さん」
 身長の低めな上級生を、見下ろすようにして数騎は尋ねた。
「いや、ちょっと手伝って欲しい事があってね」
「また何か買ったんですか? 冷蔵庫とか運ぶのはもう勘弁なんですけどね」
 小さくため息をつきながら言う数騎。
 数騎はこの上級生とそれなりに親しかった。
 アーデルハイトほど世話になっているわけではないが、佐藤はなかなか優秀な頭脳の持ち主で、あまり勉強の出来ない数騎はよく佐藤に勉強を教わっている。
 そのお礼とばかりに、数騎は佐藤の雑用を手伝うようになった。
 佐藤は身体が小さいので力がない。
 そのため、何か大型の電化製品を買った場合、数騎が移動を手伝わされるのだ。
 冷蔵庫、パソコン、電子レンジ、今のところ数騎が運んだ電化製品はざっとこんな感じだった。
「いやいや、今日はそんなに大変なことじゃないよ」
 苦笑する佐藤。
 そんな佐藤の顔を数騎はまじまじと見る。
「で、今日は何をすればいいんですか?」
「ちょっと部屋の片づけを手伝ってもらおうと思ってね」
 その言葉を聞いた瞬間、数騎は急に嫌な顔をする。
「えっと、それはちょっと勘弁していただきたいのですが」
 思わず顔が引きつる。
 佐藤は学校が終わると家を出る事は少なく、休みの日などはそれこそ一日中家にいるが、部屋の掃除や片付けなどは基本的にする男ではない。
 よって部屋は散らかり放題で、しかも朝起きられないため出しそびれたゴミ袋が部屋の隅に転がっているという惨状だ。
 片付けようと思ったら一日や二日ではとても足りない。
 その考えに気付いたのか、佐藤はあわてて言った。
「違うよ、部屋の片づけを手伝って欲しいんじゃなくて、雑誌とかをビニールロープで縛るのを手伝って欲しいんだ。ちょっとそろそろ片付けたいからね」
「あ〜、それくらいならいいですよ」
「よかった、とりあえずスペース作って部屋の隅に山にしてあるから、それをお願いするよ。じゃあ来てくれ」
 そう言って数騎に背中を向ける佐藤。
 数騎は靴を履き、すぐに佐藤を追いかけた。
 佐藤の部屋は寮の一階、アーデルハイトの部屋からは二つ離れたところにある。
 扉を開け、数騎は妙に臭う部屋に顔をしかめる。
 掃除せず、ゴミも出さないからそれなりに異臭がする。
 しかし、それをカバーするかの如く消臭剤が置いてある。
 薬局とかで売ってるプラスチック容器に入ったアレだ。
 かすかに漂う匂いからラベンダーの香りだと気付いた。
 しかし、使用してから何日かたってるのか消臭剤の効果が弱くなっている。
 おかげで異臭と芳香が変に混ざって微妙な感じがした。
「須藤くん、こっちこっち」
 佐藤が手招きする。
 ジャンクフードの袋やゴミやら何やらで埋め尽くされた部屋(とてもアーデルハイトの部屋と同じ間取りとは思えない)の隅で佐藤が手招きしている。
 靴を脱ぎ、数騎は佐藤のいるところまで移動した。
 そして辟易した。
 そこに広がっているのは大量の紙だった。
 週刊誌、新聞、チラシ、その他もろもろ。
 いや、正直ここまでひどいとは思わなかった。
 だって、これは間違いなくそれなりに大きい家庭用冷蔵庫なみの体積がある。
 というか天井に届いてるよね、コレ。
「悪いね、須藤くん。この寮に来てから取り続けた新聞と買った雑誌とか全部捨ててなかったんだ。そろそろ部屋も狭くなってきたし、いい加減に捨てようと思ってね。はい、コレ」
 言って佐藤は数騎に白くて丸いものを手渡す。
 それはビニールロープの束だった。
「じゃあ協力して縛っちゃおう。僕は本を中心にやるから数騎くんは新聞をお願いね」
 そう言うと、佐藤は本を中心に積み上げている部分まで移動し、少しずつではあるが紙の山を切り崩し始めた。
 数騎は少しの間、天井まで積みあがった紙の山を見つめていたが、観念して作業を始める事にした。
 なんとかビニールロープで縛れるだけの紙を引き抜き、それを十字になるようにビニールロープで縛っていく。
 たいした作業と言うわけではなかったが、これだけ量があると正直半端ない。
 さっきまで寒かったはずなのにいつの間に汗が出てきた。
 残りはあとどれくらいだ。
 あ、ようやくオレの身長を下回ったみたい。
「ほらほら、須藤くん。さぼってたらいつまでも終わらないよ」
 本を縛りながら叱咤してくる佐藤。
 数騎は小さく息をつき、作業を再開した。
 さっきから新聞ばっかり縛っていて正直飽きてきた。
 どれくらい作業しているだろうか。
 ちょっと時計に目をやると、すでに三十分が経過していた。
 三十分でコレかよ。
 あとどれくらいで終わるかと思うと、かなり嫌な気分になる。
 しかし泣き言を言ってもいられない。
 数騎は仕方なしに、新聞を縛るスピードを上げ、少しでも速く作業から開放されるように頑張るのであった。
 それからしばらく数騎は新聞を縛り続ける。
 どれくらい時間がたっただろうか。
 休憩がてらに数騎は腰をおろした。
 時計を見るとさらに一時間が経過。
 そろそろ紙の山も半分近く減ったあたりだった。
「おや、須藤くんも休憩?」
 聞いてくる佐藤。
 佐藤も床に腰を降ろし、疲れているのか肩を落として胡坐をかいていた。
「はい、ちょっと疲れましたんで」
「そうだ、麦茶でも飲む?」
「いただければ」
「ちょっと待っててね」
 立ち上がり、佐藤はコップを持って冷蔵庫に向かうと、麦茶をなみなみと入れて数騎に手渡す。
「どうぞ」
「どういたしまして」
 礼を言い、数騎は麦茶を一気に飲み干した。
 よほど水分が欲しかったのだろう。
 いきなり身体に活力がみなぎる。
 いい気分になり、小脇に空になったコップを置くと、気分転換に新聞でも読もうと、床に転がる新聞を手に取る。
「えっと、二年前の十月十五日のか」
 新聞に書かれた日付を読む。
「……えっ!」
 自分の言葉に驚き、数騎はもう一度その日付を見る。
「十月……十五日……二年前の……」
 数騎はその新聞を投げ捨てると、床に散らばる新聞を一つ一つ調べ始めた。
 九月八日。
 違う。
 十二月三十日。
 違う。
 十一月二十三日。
 違う。
 十二月二十二日。
 近い。
 数騎は周辺をくまなく探し、そしてようやく見つけた。
二年前の十二月二十六日の新聞を。
「もしかしたら」
 何か書いてあるかも知れない。
 数騎は両手で新聞を広げ、詳しく読む。
 そして、
「これは……」
 その記事を見つけた。

 二十五日午後十二時ごろ、東京都神鍵市美坂町の国道十四号で、ひき逃げ事件が発生した。
 被害者は東京都樋上市に住む須藤数騎さん(十六)で、頭部に怪我をする重傷を負った。
 病院に運ばれたが三時間後に死亡、警察は目撃情報を求めて事故現場付近の捜索にあたっている。
 
「は?」
 目が点になった。
 ちょっと待て、須藤数騎?
「オレと……同じ名前だ」
 一応、念のために他の事件もチェックしてみたが、たいした事件は見当たらない。
 どこかの教授が海外の何とか賞を受賞したとか、知らない名前の政治家が汚職で捕まったとかその程度だ。
「これか? オレが狙われる理由って」
 ただ単に自分と同姓同名の人間が交通事故にあっただけの話だった。
 とてもコレが原因とは思えない。
「ん?」
 ふと気付く。
 何も事件は事件発生の翌日に必ず新聞に載るとは限らない。
 一応クリスマスから一週間後までの新聞を全部チェックしてみることにした。
 結果、出てきた大きな事件で人が死んだりしたような事件は最初のをあわせて三つだけ。
 あとはどうでもいいような事件ばかりだ。
 ちなみに残りの二つは県外で起きており、北海道が一件に長野が一件。
 美坂町で起きた事件は他になかった。
「この二つか? それにしても……二年前?」
 交通事故といえば自分も交通事故で記憶喪失になっている。
「まさか、この須藤数騎ってオレのことじゃないよな?」
 たしかにクリスマスに交通事故に会うというのはピッタリ合致する。
 問題はこの新聞の須藤数騎は死亡しているという点だ。
 言うまでもないが自分は死んでいない。
「まさか……」
 つまらない仮説を立ててみる。
 交通事故で死亡したはずの須藤数騎が実は生きていた。
 しかし、頭部に怪我をしたために記憶を失い今に至る。
 もしかしたら、ここにない新聞で奇跡の蘇生とかいう記事があるかもしれない。
「いや、考えすぎか」
 首を横に振って否定する。
 だが、これではないとすると、一体カラスアゲハという女は二年前のクリスマスに何が原因で自分を恨んでいるかが謎のままになる。
 もしかして、新聞に書かれなかったようなことが原因とでもいうのだろうか。
 わからなかった。
 新聞を睨みつけ、思い悩む数騎。
 そんな時だった。
「須藤くん、そろそろ始めようか」
 立ち上がり、ビニールロープを手にこっちを見てくる佐藤。
 頷いて見せ、数騎も立ち上がる。
 念のために新聞はもらっておくことにした。
 ゴミと一緒にされないように新聞を端によけ、数騎は再び作業を始めた。
 結局、作業が終わったのは夕方近くになってからだった。
 手に入れた二年前の新聞を手に、数騎は自室に戻ると、溜め込んだ疲れを解き放つようにコタツで熟睡するのであった。







「そろそろ慎重になってきたか?」
 坂口がぼそりと呟いた。
 下に落ちていく夕日を見つめる坂口の顔は、淡いオレンジに染まっている。
 ベッドに腰をかける坂口がいるのは、美坂駅近くのビジネスホテルの一室だった。
 坂口が座るベッドには長剣と大太刀が鞘に入った状態で置かれていた。
 ベッド脇のテーブルの上には水色の仮面が転がっている。
「せっかく退魔皇となったというのに、これでは拍子抜けだな」
 窓を見つめながら、坂口はそう独り言を言った。
 そう、坂口の目的は最初から退魔皇になることだった。
 二年前にこの町で起こった魔術師クロウ・カードの乱。
 その反乱には、坂口の弟子が参加していた。
 その弟子、藤堂という男から坂口が仕入れた情報。
 それは失われた退魔皇剣をこの世界に蘇らせることだった。
 結果、反乱は失敗したが、坂口はこの美坂町にやって来た。
 それはこの戦いが始まる一年前にことだった。
 久しぶりに休暇に妻の墓参りに来ていた坂口はこの町の山から異様な輝光が溢れているのを感じ取った。
 山を登り、そこに教会を見つける。
 そして、地下へと繋がる地下道を発見した。
 明かり一つない地下道を何十階分も下に下りた。
 ペンライトで視界を確保する坂口が、そこを進みながら思った感想は、まるで迷宮だな、というものだった。
 石で天井、床、壁を構成したその狭苦しい通路は、間違いなく迷宮じみていた。
 もっとも、ダンジョンというわけではないのでモンスターは出現しなかった。
 最下層まで辿り着くと、そこには大空洞があった。
 そこにだけなぜか明かりがあった。
 今まで暗かったため、その明るさに坂口は一瞬視力を失う。
 そして、見つけた。
 その大空洞。
 壁面に、紫に輝く水晶を貼り付けた空間。
 間違いない。
 そこは古の昔、術士たちの儀式に使われた呪法空間だ。
 紫水晶は輝光の増幅と術者の能力のバックアップを助ける。
 ここの力を使いこなせば、最下級の魔術師でも最上級魔術師並の術を使えるに違いなかった。
 問題は、そこに展開されていた術式だ。
 人間が誰も居ないというのに、何かしらの術式が展開途中だったのだ。
 数時間におよぶ解析の結果、坂口はここで行われているのが再現の呪法であることを理解した。
 弟子であった藤堂が参加した魔術師クロウ・カードの乱。
 その際の最大の目的であった退魔皇剣の再現。
 それは阻止されたと言われていた。
 確かにそうだった。
 しかし、不完全で途中とはいえ再現は成功していた。
 妨害にあったため、再現途中で術者が殺されたのかもしれない。
 そのためか、術者が死んだ後も非常にゆっくりとした速度で術が構築されていたようだ。
 解析の結果、この術の完成にはあと一年かかる。
 が、妨害しようとすれば坂口でも簡単に出来た。
 術者の居ない状態で進行する未完成の術式とは、それほどまでに不安定で弱いものだったからだ。
 坂口はこの術式を、あえて放置した。
 妻を失った後の坂口は、何をするでもなくただ生きているだけの男だった。
 結局、妻との間に坂口は子供を作ることができなかった。
 どちらに原因があったのだろうか、しかしどうでもいいことだった。
 支えるべき人間もなく、供に生きる人間もいない。
 だからこそ、魔術結社に対して反逆を起そうとしていた弟子に協力したりもしたのだ。
 が、坂口には新たな目的が出来た。
 それは退魔皇剣を手に入れることだった。
 曰く、退魔皇剣には死んだ人間を生き返らせる力があるらしい。
 好都合だった。
 退魔皇剣再現の術式を発見した事も。
 死んだ妻を生き返らせる方法があることを知った事も。
 それから、坂口の生き方が決まった。
 怪しまれぬよう、普通に職務をこなしながら退魔皇剣の情報を集める。
 そして、退魔皇剣開放予想日の二週間前から美坂町に訪れ、現地の地形を頭に叩き込んだ。
 ちなみに坂口が予約しているホテルはこのビジネスホテルだけではない。
 町中のホテルにそれぞれ一部屋ずつチェックインしていた。
 拠点が知られても、いつでも移動できるようにだ。
 居場所を知られた後、別のホテルにチェックインするのは素人のやる事だ。
 それでは居場所が知れた後にホテルにチェックインした人間がいるか調べるだけで居場所が割れてしまう。
 玄人は違う、最初から居場所を知られた時のために複数の拠点を用意する。
 しかも、予約する日付をわざわざ変えてだ。
 予約者の名前も全て偽名、年齢も一律ではなく、性別もランダムで変更している。
 これだけやれば問題はない。
 もし手段を選ばない人間がいたとして、この戦いの間にホテルや民宿で泊まっている人間全てが怪しいと建物ごと破壊するようなヤツがいないかぎり問題のない行動だった。
「それにしても、動きがないというのは気になるな」
 最初に口にした疑問に意識が戻った。
 そう、魔伏の退魔皇が撃破され、イライジャが消滅し、須藤数騎が退魔皇の座から引き摺り下ろされた次の日の夜、なぜか戦いが起こらなかった。
 いつでも戦いにいける準備をしていた坂口だったが、肩透かしをくらった感じだ。
 一度だけ誰かが異層空間を展開した気配があったが、そこに退魔皇の動きはなかった。
 坂口には他の退魔皇が持たないハンディキャップがあった。
 いや、正確には同じようなのが一人いるが、それとはまた違った事情によるハンディキャップだった。
 そんなわけで他の退魔皇に劣る坂口としては、退魔皇同士の戦闘中に乱入して奇襲するのが狙いだったが、なぜか連日連夜繰り広げられていた深夜の戦いがその日に限って起こらなかったのだ。
「やはり数が減ったからだろうか」
 一人ごちる。
 そう、退魔皇の数は確実に減っていた。
 残る退魔皇の数は五人。
 内、二人がハンディキャップ持ちで動きが制限されるため、動くのは三人。
 轟雷、双蛇、開闢。
 しかし、昨日この三者が動く事はなかった。
 結果、待ちに徹する坂口が動く事もない。
 もしや、二日前の戦いで消耗したからだろうか。
 十分にあり得る
 双蛇、開闢はともかく、轟雷は炎をかき消すために酸素濃度ゼロの空間を展開するのにそうとう消耗したはずだ。
 その上、三日前に天魔が脱落した戦いでもトンネルの空気から酸素を吹き飛ばすために相当な無茶をしている。
 何日か輝光を回復するために休息する可能性はかなり高かった。
 そして残りの二名、双蛇に開闢。
 開闢は矛に加え鏡を。
 双蛇は元々持っていた杖に加え、弓を手に入れた。
 見ては居ないが、感じ取った輝光の気配でわかる。
 問題はこの二つの組み合わせだ。
 非攻撃系の退魔皇剣は基本的に二つしか弱点を持たない。
 鏡は刀と槍、杖は刀と弓だ。
 そして、矛と鏡を持つ開闢と杖と弓を持つ双蛇。
 双方が敵にトドメをさせる決定打を持たない状態だった。
 何しろ杖には刀と弓しか効かないのに、そのうちの弓を自身が所持しているのだ。
 これでは開闢が動きたがるとは思えない。
 つまり、開闢が狙うのは双蛇以外。
 そして、その三者が動かない以上、開闢も動かない。
 全ての退魔皇が待ちに入った、坂口は思った。
 これでは戦いが進展しない。
 退魔皇の戦いには制限時間があるが、ギリギリまで粘るつもりだろうか。
 数日で決着すると思われていた戦いが持久戦に突入したのを坂口は悟る。
 誰かが動かない限り、この状況は変わらない。
 なら、誰が動くかだ。
 もちろん自分から動く気はない。
 これは待ちの勝負だった。
 誰が最初に動くか。
 それにあわせて全員が動く。
 そのようなことを坂口は難しい顔をしながら考えていた。
 ふと気付くと、夕日は完全に沈み、代わりに月が顔を出してた。
 さぁ、夜の時間が来た。
 それは退魔皇たちが戦うにふさわしい時間。
 だれかが動き出したらすぐに動けるよう、坂口はベッドに腰掛けながらじっと輝光の流動を感じる。
 夜はまだ始まったばかりだった。







「ふぁーっ、喰った喰った」
 腹を叩きながら階段を上る数騎。
 ふと空を見上げると、星が煌いていた。
 アーデルハイトの部屋で夕食を平らげた数騎は、満腹になった腹を叩きながらアパートの階段を上っていく。
「ただいま〜」
 部屋に戻り、誰もいないというのにそう口にした。
 扉を閉め、急いでコタツに入る数騎。
 電源を消してはいたが、アーデルハイトに起されて食事に行くまで電気が入っていたため、十分に温かい。
 コタツとエアコンを両方つけられるほど数騎に経済的余裕はない。
 だからこそ、数騎はコタツだけでこの冬を越すつもりでいた。
 コタツの上に置かれたリモコンに手を伸ばす。
 テレビをつけると、ニュースがやっていた。
 それは極炎によって引き起こされた火事についてのニュースだった。
 未だに見つからない行方不明者を必死に捜索する消防隊員の姿がカメラに映し出されている。
 恐らく、行方不明者の半分以上はすでに帰らぬ人になっているのだろう。
 それでも懸命に探す消防隊員たち。
 すでに何日も経過しているため、二日前あたりから発見された行方不明者は一人もいなくなっていた。
 残った人間は恐らく、生きてはいないのだろう。
 そう考えると数騎は気分が落ち着かなかった。
 もし、極炎を止めることができていたら、こんな事件は起きなかったはずだ。
 もし、最初の戦いの時に仮面契約をしてれば。
 もし、あの時皇技を使う覚悟ができていたなら。
 極炎はあの橋の戦いで撃破されていたはずなのだ。
 しかし、歴史にifがないように、過去は変えられない。
 すでに失われた命はどうにもならないのだ。
 それを悲しく思いながら、数騎は静かにテレビを見続ける。
 と、その時だった。
「痛っ」
 頭に頭痛が走る。
 直後、テレビが消えた。
「ん?」
 それと同時に部屋の電気も消える。
 温かいのでわからないが、コタツの電気も消えていた。
「停電か?」
 面倒だったが仕方ない。
 数騎はコタツから出た。
 途端、冷え切った室内の空気がコタツによって守られていた数騎に襲い掛かる。
 数騎は震えながらブレイカーのある場所に向かう。
 そこは開かずの扉のすぐ側だった。
「気をつけないとな」
 扉の側にはゴミが転がっている。
 カーテンをした窓の隙間から差し込む月明かりだけを頼りに、数騎は暗い部屋を縫うようにして進む。
 そしてようやく辿り着いた。
 上の方は暗くて全く見えないので手探りでブレイカーを探す数騎。
 カーテンぐらい開けてくれば良かったと思いながら探していると、すぐにブレイカーに手が触れた。
 一つずつ触りながら確認していく。
「あれ?」
 変だった。
 あきらかにおかしい。
 だってそう。
 ブレイカーは一つも落ちていないのだ。
「ブレイカーが原因じゃ……ない?」
 外で何かあったのだろうか。
 疑問に思う数騎。
 瞬間、身体が震えた。
 寒さだろうか。
 いや、違う。
 何か忘れてることはないか。
 違和感はなかったか。
 暗いから気がつかなかったか。
 気のせいか、ブレイカーのある場所が変わってはいなかったか。
 そうでなければブレイカーなど探すまでもなくすぐに……
「ちっ!」
 異常に気付くよりも速く数騎は後方に飛びのいた。
 目の前で何かが光ると、直後にすぐ側にあった開かずの扉が粉々になった。
 音を立てて床に落ちる切り刻まれた南京錠に鎖、そして扉の木材。
 その機敏な動作に、室内の空気が乱れた。
 振りかざされた腕によって起された風圧がカーテンをめくり上げる。
 そして、月明かりの下にその姿が浮かんだ。
 両手の指から銀の糸を生やすその姿。
 黒装束を身にまとう、カラスアゲハの姿がそこにはあった。
「こんばんは、会いたかったわ」
 口元に手をあてながら数騎を見つめるカラスアゲハ。
 とっさに数騎は理解した。
 なぜ停電したか。
 それなのに何故ブレイカーが落ちていないか。
 考えればすぐにわかった。
 またしても取り込まれたのだ、鏡内界に。
 異層空間を展開したのは間違いなくカラスアゲハだろう。
 鏡内界の中なら一般人に邪魔されずに他者を襲うことができる。
 恐怖を押し殺しながら、数騎はカラスアゲハを正面から見据えた。
 何か言おうとするが、数騎は口が乾燥している事に気付く。
 たったこれだけの時間だというのに、恐怖で呼吸が速くなり、口の中の水分がほとんどなくなっていたのだ。
 背中にはとめどない冷や汗。
 唾を飲み込み、口の中を湿らせた。
「何の用だ、カラスアゲハって言ったっけ?」
「あら、名前を覚えててくれるなんて嬉しいわ。でもね、昔は何度もその名前で呼んでくれたのよ」
 やはり、カラスアゲハは数騎の過去を知っている。
 数騎は凶器を手にするカラスアゲハを睨みながら、ひそかに左右に視線をめぐらす。
「お前、オレの過去を知ってるんだよな」
「もちろんそうよ」
 答えるカラスアゲハ。
 そんなカラスアゲハに、数騎は続ける。
「教えてくれないか、オレは自分に何があったか知りたいんだ」
「教えるまでもなく知ってるじゃない」
「記憶がないんだよ、オレは!」
 言って数騎はカラスアゲハの足元、そこに転がる新聞を指差す。
「お前に言われてオレも自分で調べた。お前が言ってるのはその事件のことか?」
 それは佐藤の部屋から持ってきた新聞。
 須藤数騎と言う名前の男が、交通事故で死亡したという記事の載っている新聞だった。
 カラスアゲハはふと視線をおろし、新聞を見つめる。
 この暗さで読めるのか?
 その距離であの小さな文字を?
 しかし、数騎の心配は杞憂だった。
「あら、何を調べたと思ったらこんなくだらない記事だったの?」
「くだらない?」
「そう、くだらないわ。あなた本当に全て忘れてるのね」
 ため息をつき、カラスアゲハは続ける。
「この記事は捏造された記事よ、赤の魔術師も愉快なことするわね」
「捏造?」
 驚いて聞き返す。
 そんな数騎を前にして、カラスアゲハは両腕を組んだ。
「須藤数騎は交通事故になんてあってないわ、あいようがないもの。だって、須藤数騎は……」
 言葉を紡がず、カラスアゲハは組んだ腕を解くと、右手を疾風のように振るった。
 月明かりに煌く鋼糸が、カーテンを、壁を、そしてコタツに爪あとを残す。
 それよりも速く、数騎は跳躍していた。
 転がるようにして逃げる数騎。
 続いて繰り出された左腕の糸を、数騎は跳ぶようにして避けた。
 扉をぶち破りながら、部屋に転がり込む。
 それは自分の私室だった。
 乱れた布団を横目に、数騎は部屋を走りぬける。
 こちらを追うように背中から放たれる殺気。
 振り向かず、数騎は全速力で部屋を走った。
 カーテンで閉ざされた窓は開いてない。
 開けてる暇はない。
「くそっ!」
 叫び、歯を食いしばりながら窓に飛び込んだ。
 数騎のタックルを喰らった窓ガラスは、その衝撃に耐え切れなかった。
 音を立てて、窓ガラスが砕け散る。
 飛び込む数騎の身体をカーテンが包み込んだ。
 そのカーテンに身体を守られるようにして、外に飛び出す数騎。
 ちなみにここは二階だ。
「ちぃっ!」
 外に飛び出ると供に後ろを振り向く。
 窓の三十センチ横に、壁を縦に走る排水用のパイプ。
 それを掴み、数騎は落下を食い止めた。
 パイプにつかまる数騎の目の前で、月明かりを照り返しながら落下していくガラスの破片とカーテン。
 ふと頬に痛みが走る。
 パイプを掴んでいない左手で触れるとべったりと血がついていた。
 さらに足を見ると右足がぱっくりと横に切れている。
 窓に飛び込んだ時に切ったのだろう、部屋の中だったから裸足だったのが災いした。
 頬の方は多分破片で切ったやつだ。
 殺気を感じた。
 とっさにパイプにつかまっていた右手を離す。
 途中、壁を蹴り飛ばし、ガラスの破片が落ちていないところ目掛けて数騎は落ちていく。
 地面に落下するのと、壁が鋼糸によって斬解されたのは全く同時だった。
 地面に着地した数騎は脚に襲い掛かる衝撃よりも、落下してくる壁だったものを気をつけなければならなかった。
 この学寮の庭は意外と広い。
 雑草の生い茂るあたりに落下した数騎はすぐさま走り出した。
 切り裂かれた足、しかも裸足で石の転がっている地面を走るのだ。
 正直言ってかなり痛い。
 しかし、気にしてもいられない。
 今は逃げるのだ。
 逃げる、どうやって?
 何も考えずバイクに向かって走っていた。
 飛び乗ろうとして気付く。
「鍵……」
 鍵を持っていなかった。
 しかも致命的なことに鏡内界ではバイクは使えない。
「くそっ!」
 仕方無しに数騎は寮に向かって走る。
 カラスアゲハが地面に飛び降りたのは、数騎が寮の階段に足をかけた直後だった。
 この足では逃げ切れない。
 なら逃げても無駄だ、戦うしかない。
 どう戦う?
 包丁やらで武装しても勝ち目がないのはわかっている。
 接近戦などもっての他だ。
 あの鋼糸相手に、接近戦などしかけようと思ったら命が何個あっても足りない。
 階段を上りきった。
 カラスアゲハはまだ追いつかない。
 数騎は蹴破るようにしてドアを開き、自分の部屋の中に入った。
 カーテンの閉まった暗い部屋。
 その床に転がっているカバンに向かって数騎は走る。
 黒い、通学用に買ったノートパソコンも持ち歩けるというステキな横長のカバンのチャックを開き、数騎はそれを取り出した。
 黒光りする金属。
 手に吸い付くようなグリップ。
 それは、韮澤に託された刻銃と呼ばれる魔剣だった。
 シリンダーに弾丸を二つ装填。
 両手で刻銃を構え、数騎は玄関を睨みつける。
 来るなら玄関、そう思ったからだ。
 しかし、数騎は常識に捕らわれすぎた。
 異能者にとって、地面から二階まで跳躍することは非常に容易で、そのついでに窓ガラスを叩き割って中に押し入る事くらい、わけないことだったからだ。
 窓ガラスを叩き割り、カーテンを押し広げてカラスアゲハが部屋の中に飛び込んできた。
「ふざけんな!」
 叫びながらも銃口をカラスアゲハに向ける数騎。
 想定外のことが起こっても、呆然としないだけ数騎は戦闘センスのあるほうだった。
 立て続けに発射される魔弾。
 しかし、カラスアゲハは平然と二発とも回避してみせる。
 それと同時に右手をふるって鋼糸による攻撃を仕掛けていた。
 数騎は銃撃直後、衝撃で握りが弱くなっていた刻銃を破棄して大きく後ろに跳んだ。
 そうしていなかったら、刻銃と供に数騎の身体は切り刻まれていただろう。
 空中で刻銃は五つのパーツに分解され、地面に転がる。
 一方、後方に跳びのいたはいいもの数騎は後転するような感じで床を転がり、壁に激突して止まった。
 全力で跳んだだめ、衝撃が凄まじい。
 後頭部を壁に叩きつけ、数騎は背中を壁に預けるような格好で座り込んでしまった。
「さぁ、追い詰めたわよ」
 嬉しそうに笑うカラスアゲハ。
 数騎は頭部の衝撃で朦朧とする頭で、自分がどんな状況にいるか確かめた。
 目の前にはカラスアゲハ。
 左右には壁。
「壁?」
 小さく声に出す。
 そう、左右には壁があった。
 こんな狭いスペースを、数騎は自分の部屋に存在することを知らない。
 トイレくらいだ、こんなに狭いのは。
 足元に転がる木と金属の破片。
 そして気付いた。
 ここは開かずの扉の奥にある部屋だ。
 トイレくらいの広さのその空間。
 と、数騎の手に何かが触れる。
 見下ろすと、そこには変な物体が存在していた。
 握りがあるところを見ると、握るものなのだろう。
 手甲のようなつくりをした木製の物体。
 その先端には、並べるようにして取り付けられた三本の剣の柄。
 カタール、そんな名前が数騎の頭に浮かんだ。
 たしかインドかそこらの刀剣の名前だ。
 先端に複数の刃がついてるとかいうアレ。
 でも、このカタールについているのは三本の剣の柄だけだ、刃がない。
 と、数騎は暗さに目が慣れてきた。
 そして気付いた。
 トイレ程度の広さしかないその空間。
 壁、天井、そこに隙間なく飾られた顔の群れ。
 それは仮面だった。
 いろいろな色に塗られた仮面。
 これほどの数の仮面を、数騎は今までに見たことがなかった。
(本当か?)
 自分の声が聞こえる。
(オレは本当にこの仮面を見たことがないのか)
 あるようなないような気がする。
 だが、問題はそんなことではなかった。
 問題は目の前のカラスアゲハ。
 武器はない。
 弾丸は撃ちつくし、刻銃は破壊された。
 身体も傷だらけ、しかもまだ脳が揺れててろくに動けない。
 武器と言えば、この刃のついてないカタールだけだ。
 それでもないよりはマシだった。
 数騎はカタールを持ち上げ、カラスアゲハに向けて構える。
「ふ〜ん、懐かしいもの持ち出してきたじゃないの」
 楽しそうに微笑むカラスアゲハ。
「でも、残念。これで終わりよ」
 そう言って両腕を前に構えるカラスアゲハ。
 その時だった。
「数騎……くん?」
 声が聞こえた。
 身体を起して、数騎は狭い部屋の中から外に顔を出し声のした方を見る。
 玄関に人影があった。
 長い金髪のその女性。
 アーデルハイトがそこにはいた。
「数騎くん!」
 数騎の顔を見て、アーデルハイトが叫ぶ。
 そして、数騎は気付いた。
 突然現れたアーデルハイトをカラスアゲハは睨みつけていた。
 すぐさま身体を反転させて、アーデルハイトの方を向く。
 次の瞬間、無言でその右手を振るっていた。
 手に導かれるようにして動く鋼糸。
(使え!)
 誰かの声が聞こえた。
「あ……」
 声を漏らす。
(使え!)
「あ……」
 何か必要だった。
(使え!)
 カラスアゲハから迸る殺気が、アーデルハイトに襲い掛かる。
(使え!)
 カタールを握り締めた。
 アーデルハイトを助けるにはカラスアゲハの右手を止めなくてはならない。
 どう止める。
 破壊。
 切断。
 焼却。
 消滅。
 違う、そんな事じゃない。
(使え!)
 頭に響く声。
 そうだ、この魔剣の使い方はそんな効果を生み出さない。
 いつの間に立ち上がっていた。
 カタールを手にした右手で強く柄を握り締める。
 振りかぶり、そしてカラスアゲハの右手が糸を導くよりも速く、横薙ぎの斬撃を繰り出した。
「Azoth(アゾト)!」
 斬撃と同時にその名前を口にする。
 それは魔剣起動の詠唱。
 カタールの先に取り付けられた、アゾトの剣という魔剣に命を吹き込む言葉だった。
 カタールに装着されていた柄に刀身が出現する。
 数騎の輝光で編まれた光り輝く剣。
 それが、柄を離れて矢のように飛翔、カラスアゲハの右腕に突き刺さった。
「くぅっ」 
 激痛にうめき声を上げるカラスアゲハ。
 その衝撃に、カラスアゲハは後方に飛ばされ、腕を壁に縫い付けられる。
「まだっ!」
 叫ぶと同時に残った左腕を数騎に向けて繰り出す。
「Azoth(アゾト)!」
 それよりも速く、数騎はカタールを振るっていた。
 放出される光の刀身がカラスアゲハの左腕までも壁に縫い付ける。
 それで戦いは終わった。
 腕を壁に縫い付けられたくらいで人は死なない。
 だが、鋼糸によってはじかれた三本の内の剣の一本が左胸に突き刺さっていれば、戦いの終わりはおのずと知れる。
「Azoth(アゾト)!」
 詠唱を口にし、今度は射出せずにカタールに刀身を補充した。
 光り輝く三本の刃がカタールの先に取り付けた柄の先に生える。
 刃の生えたカタールはまるで、獣の爪のような異様さだった。
 胸に剣突き刺されたカラスアゲハは、咳と供に大量に吐血する。
 顔色が悪くなっている。
 もう長くない。
「何か……言い残す事はあるか?」
 近づき、数騎は聞いた。
 カラスアゲハは地面に向けていた顔をゆっくりと持ち上げる。
「もし……あなたに少しの……慈悲が……あるなら……」
 喉にこみ上げてくる血を口元に垂れ流しながら、
「歌舞伎町にある……中華料理屋『中華嗜好』の裏の方……狭い路地裏を通ったあたりにある……『暁』っていうアパート……204……鍵……郵便……中……」
 途切れ途切れに口にするカラスアゲハ。
「……に……が、いる……赤の……に……頼んで……」
 もはや喋る事も難しいのか、言葉が途切れがちになる。
 力がなくなり、上げていた顔が下に向く。
 しゃがみこみ、数騎はカラスアゲハの顔を覗き込んだ。
 必死な形相で聞く。
「聞こえなかった、アパートに何がいる?」
 もはやそんな数騎の言葉が耳に入らないほどまで衰弱したカラスアゲハは、数騎の顔を見て、
「沙耶……お願……仮面……使い……」
 カラスアゲハは目を閉じる。
 震えていた身体が動かなくなる。
 呼吸が止まった。
 最期にそれだけを言い残し、カラスアゲハは死んだ。
 まるで標本の蝶のように壁に縫い付けられた女性。
 月明かりに青く輝くその髪と身に纏う黒装束は、名前どおり烏揚羽を思わせる。
 しかし、数騎にはどうでもいいことだった。
「ぁ……」
 カラスアゲハの言葉がきっかけだった。
「あ……」
 声が漏れる。
「あぁ……」
 頭が痛い。
「ああぁ!」
 そして……全てを思い出した。































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