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トップページ>>パオまるの小説>>退魔皇剣>>第八羽 罪と苦悩と後悔と

第八羽 罪と苦悩と後悔と



 剣崎戟耶という少年がいた。
 彼には憧れていた女性がいた。
 それは、柴崎司という仮面使いだった。
 彼女に憧れ、いつか供に戦おうと鍛錬を惜しまなかった。
 柴崎司は理想を追いかける女性だった。
 人々を救うために、どんな苦しい選択をもしてみせた。
 十人を助けるために、一人を殺し。
 千人を助けるために百人を殺した。
 どんなにつらくても、決して人々を見捨てない。
 その姿が美しいと思った。
 だから憧れたのだ。
 まるでテレビに出てくるヒーローみたいで。
 友達がみんな特撮のヒーローに憧れていたころ、剣崎だけは柴崎司に憧れた。
 しかし、そんな日々も終わりが訪れた。
 剣崎戟耶は魔剣の御三家たる剣崎の子供だった。
 本来なら結ばれてはいけない戟耶との混血であるため剣崎家の後継者にはなれなかったが、剣崎は月に一度剣崎の屋敷に行く事が義務とされていた。
 そして、事件が起きた。
 消滅した退魔皇剣の情報を求めるアルス・マグナの人間が、屋敷に襲撃をかけたのだ。
 多くの人間が殺された。
 アルス・マグナは容赦がなかった。
 大人も、子供も、みんな。
 そんな中、庭の蔵に避難した子供達を守るために戦った女性がいた。
 柴崎司だ。
 百二十八の刺客に囲まれた時、柴崎司は一人だった。
 しかし、柴崎司は勝利した。
 刺客の四分の一を殺し、残りを撤退させた。
 それは柴崎司の命を対価にした。
 蔵に隠れていた剣崎戟耶が外に飛び出した時には、柴崎司は虫の息だった。
 柴崎司は言った。
「もう、私には誰も守れないわね。もっと守り続けるつもりだったのに」
 もっと多くの人を助けたかったと。
 死に際して、柴崎司はそれを望んだ。
 剣崎戟耶は言った。
「ならオレがあんたになってやる。オレがあんたの代わって人々を守り続けてやる」
 それを聞いた彼女は、三つの物を剣崎戟耶に与えた。。
 一つは仮面。
 一つは黒銃。
 そして最後の一つはアゾトの剣。
 剣崎戟耶がそれを受け取ったのを見ると、彼女は静かに目を閉じ、二度と開くことは無かった。
 剣崎戟耶はこの時決めたのだ。
 オレが柴崎司になると。
 この人間のやろうとしていたことを、代わりになしとげようと。
 そして、剣崎戟耶は柴崎司と名乗る事にした。
 自分が柴崎司を名乗れば、柴崎司は死んだことにはならない。
 子供みたいな理屈だった。
 しかし、剣崎戟耶はそれを押し通した。
 クロウ・カードと言う名の男の養子となり、魔術結社の尖兵となるために日夜修行を続けた。
 柴崎司が精鋭部隊であるランページ・ファントムの一員であったから、それを目指していたからだ。
 そして、見事にランページ・ファントムに就任、数々の戦いで功績をあげ、ランページ・ファントムの仮面使いを一躍有名にした。
 問題はただ一つだけ。
 剣崎戟耶は剣崎戟耶であった。
 名を騙ろうとも柴崎司ではなかったことだけだ。
 柴崎司の理想はあまりにも人間離れしすぎていた。
 常に多くの人を救う事に固執した柴崎司は、人間を常に数で見た。
 より多くの人間を救うためには親しい人間をも見捨て、自らの手で友人を殺害したことさえあった。
 柴崎司は平気だった。
 過去の経験が、特殊な精神状態を作り出していたために人間を数で見ることに慣れすぎていた。
 剣崎戟耶は違った。
 彼にとって人間は数ではなく、人間だった。
 親しい人もいれば好ましい人もいる。
 憎い人もいれば会いたくない人もいる。
 剣崎戟耶にとって、人間は数ではない。
 しかし、柴崎司たろうとする剣崎戟耶は人間を数として見ることにした。
 柴崎司をまねて、親友を見捨て他人を助け、仲間を見捨て民間人を救う。
 彼の知り合いは、次第に呵責なしに仲間を見捨てる彼を避けるようになった。
 ただ、それでも彼の元を離れない人間もいた。
 親友の二階堂俊成。
 自分に想いを寄せていた玉西彩花。
 唯一生き残った家族、薙風朔夜。
 兄弟子である桂原延年。
 養父であったクロウ・カード。
 この五人だけが、剣崎戟耶のかけがえのない支えだった。
 だが、剣崎戟耶はこの五人を失った。
 不本意にとはいえ、玉西を魔剣の呪詛によって死なせた。
 別行動が原因で、桂原を死なせた。
 目の前で二階堂を死なせた。
 自分を救おうと動いたため薙風を死なせた。
 そして、自らの手でクロウ・カードを死なせた。
 あらゆるものを失った。
 二年前美坂町で起きた反乱で、剣崎戟耶は全てを失った。
 それだけではなかった。
 須藤数騎という男がいた。
 一人でも多くを救いたいという剣崎戟耶と相反する理想を持つ男。
 たった一人の大切な人間を守るために、どれほどの人間を死なせようと躊躇しないという男が。
 剣崎戟耶はその男を、羨ましく思っていた。
 本当は大切な人間をこそ大切にしたかった。
 しかし自分は剣崎戟耶ではなく柴崎司だった。
 柴崎司は剣崎戟耶の思想で動いてはいけない。
 憧れながら、剣崎戟耶は須藤数騎を否定し続けた。
 そして、その否定が殺し合いに繋がった。
 剣崎戟耶は須藤数騎と殺しあった。
 理由は簡単だ、一人でも多く救いたい剣崎戟耶が、それの妨げとなる女性を一人殺したというだけ。
 そして、その一人こそが須藤数騎にとって、世界よりも大切な女性だっただけだ。
 異能者の中でも精鋭部隊に所属する剣崎戟耶に、無能力者の須藤数騎が勝てる道理などなかった。
 しかし、須藤数騎は切り札を持ち合わせた。
 彼の持つ戦闘術は燕返しの理論だった。
 極端に言えば、移動するには地面を蹴る必要があるから、上手く誘導して両足を地面から離れさせれば移動ができなくなり、移動できなければ攻撃をかわせない。
 そこを突いて攻撃すれば必中の一撃になる、そんな理論だ。
 この技術でもって、須藤数騎は剣崎戟耶に襲い掛かった。
 まず牽制の一撃を回避させ、回避のために地面を蹴り、両足が地面から離れたところに追撃を繰り出す、それが燕返しという戦闘技法。
 しかし、剣崎戟耶にとってそれは既知の理論だった。
 容易く打破し、剣崎戟耶は須藤数騎に致命傷を与えた。
 それでも須藤数騎はひるまない。
 次に繰り出したのは燕返しの応用だった。
 牽制攻撃を回避させるまでは同じだったが、追撃を斬撃ではなく武器の投擲に切り替えるものだった。
 今までは二連続の斬撃という技が、斬撃から投擲に切り替わる。
 それは大きな違いだ。
 斬撃は線による攻撃だが、投擲は点による攻撃。
 面積が少なければ迎撃は難しく、それによって剣崎戟耶は致命傷を負った。
 しかし、剣崎戟耶は死ななかった。 
 死ぬ直前、赤の魔術師によって救われたからだった。
 しかし、死の直前まで追い詰められた剣崎戟耶は錯乱していた。
 大切な人を失い、人の大切な人を殺し、復讐され、死にかけ。
 もう嫌だった。
 どこかに逃げ出したかった。
 もう、何かを失うのに耐えられなかったのだ。
 そんな時だった。
 剣崎戟耶の前にその少女が現れたのは。
 クロウ・カードの所持していた魔皇剣、法の書の精霊であるアーデルハイトだった。
 少し妙な因縁があって、クロウ・カードだけは彼女をアリスと呼んでいたが、他の人間は彼女のことをアーデルハイトと呼んでいた。
 彼女には信じたことを現実にする能力を持っていた。
 クロウ・カードの養子になってから、幾度となく彼を支えてくれたアーデルハイト。
 剣崎戟耶にとって自分を見放さなかった、人間ではないただ一つの存在。
 剣崎戟耶はアーデルハイトに願った。
 もう耐えられないと。
 柴崎司でいることも、剣崎戟耶として柴崎司に憧れる事も。
 どちらも耐えられないとアーデルハイトに泣きついた。
 そして、アーデルハイトに協力してもらい、剣崎は信じた。
 自分は剣崎戟耶でもなく柴崎司でもなく、須藤数騎であると。
 なぜ、須藤数騎であると信じたのか。
 多分、自分が殺したという罪悪感を紛らわせたかったからだ。
 柴崎司が死んだときに柴崎司に死んで欲しくなかったから柴崎司を名乗ったように。
 剣崎戟耶は、全く成長してなかった。







「そうか……」
 数騎は、いや剣崎戟耶は呟いた。
 うつむき、呆然とした顔で両目を見開いている。
「オレは……私は……仮面使いだったのか……」
 直後、世界に亀裂が走った。
 剣崎の住んでいたアパートのがひび割れ、粉々に砕ける。
 まるでガラスが砕け散るように。
 そして、アーデルハイトと剣崎は現実世界に戻ってきた。
 鏡内界を展開したカラスアゲハが死んだことによって、鏡内界が崩壊したからだった。
 そこは電気のついた明るい部屋。
 いまだについているテレビはニュースを流し続ける。
 剣崎の手にカタールはなかった。
 あれは鏡内界にあったもので、外に持ち出す事はできない。
 アゾトの剣もこっちに持ってこれなかったため、壁に張り付けにされて死んでいたカラスアゲハの死体も、畳の上に転がっていた。
「戟耶くん……」
 剣崎の記憶が戻ってしまったことに気付いたアーデルハイトは近づき、数騎の肩に触れようとする。
「触るな!」
 振り向き、剣崎は怒鳴った。
「触らないでくれ……」
 悔やむように下を向き、剣崎は歯を食いしばる。
 何かに耐えているようだった。
「戟耶くん、聞いて」
 そんな剣崎に、アーデルハイトは言った。
「もう一度信じて、そうすればあなたはまた……」
 須藤数騎に戻れる、そう続けようとした。
 しかし、
「いいんだ」
 アーデルハイトの言葉を紡がないよう、剣崎が口を開く。
「もう……いいんだ……」
 首を横に振る剣崎。
 そんな剣崎を、アーデルハイトは悲しそうに見つめた。
 全てを思い出し、朦朧とした意識の剣崎。
 しかし、二年前に死に掛けた時のように錯乱はしていなかった。
 他人になりすまして、逃げてはいけないことくらいわかっていた。
「そうだ……」
 思い出した。
 下を見る。
 そこには血まみれになって転がるカラスアゲハの死体。
 彼女が死ぬ間際に伝えた言葉。
 それはある場所に何かがあるということ。
 それが気になった。
「出かけてくる」
 まるで幽鬼のようにふらついた足取りで玄関に向かおうとする剣崎。
 その後を、アーデルハイトは追おうとするが、
「ついてこないでくれ」
 剣崎の一言でその足を止める。
 靴を履き、バイクの鍵を手に取ると剣崎はそのまま外に出てしまった。
 階段を降りる剣崎。
 裸足で靴を履いているので、履き心地は最悪だった。
 しかも片足から血が出て、靴が真っ赤に染まっている。
 血で濡れた靴で歩くのはいい気分ではなかったが、それ以上にカラスアゲハの言葉が気になる。
 バイクに鍵をさし、ヘルメットをかぶると剣崎はバイクを走らせた。
 カラスアゲハの言っていた中華料理屋には二十分もしないうちに着いた。
 バイクを止め、その中華料理屋の裏の方に周り、狭い路地裏を通る。
 数分歩くと、それを見つけた。
 木造のアパート。
 いったい築何年なのか気になる、お世辞にもキレイではないアパート。
 それが剣崎の目の前に広がっていた。
 看板で名前も確認するが、カラスアゲハの言っていたのと一致していた。
 剣崎はゆっくりとした歩調で階段をのぼる。
 204号室はすぐに見つかった。
 ドアを開こうとするが、鍵がかかっていた。
「どこと言っていたか?」
 口に出して考え、すぐに気付いた。
 郵便とか言っていたはずだ。
 剣崎は扉の側の郵便箱を開く。
 中には鍵が入っていた。
 鍵で扉を開き、中に入る。
 暗いく、小さな部屋だった。
 多分、剣崎のアパートとどっこいの大きさだろう。
 電気をつける。
 畳張りの部屋。
 中央にテーブルがあり、その上にはノートパソコン。
 右に襖があった。
 開く。
 電気をつけた。
 その部屋の中央にはベビーベッド。
 近づくと、中ではすやすやと赤ん坊が眠っていた。
「カラスアゲハが言っていたのは……これか?」
 と、ベビーベッドに三冊のノートが紐でぶら下げてあるのに気がついた。
 手にとって開く。
 それは育児日記だった。
 妊娠から出産、そして今日に至るまで。
 短い文章ではあったが、ほぼ毎日書かれていた。
 剣崎はそれを黙々と呼んだ。
 どうやら最初は妊娠を迷惑がっていたようだ。
 堕ろそうかと考えたが、子供の父親と思える人間に少しだけ好意があったので産むことにしたと書いてあった。
 産むまでは子供が邪魔なものだと考えていたようだが、日記の文字は少しずつ優しくなっていく。
 名前は生まれるまで決めてなかった。
 生後一ヶ月になって、ようやく赤ん坊に名前をつけた。
 名前は沙耶にしよう。
 初めて名前を呼んだら、嬉しそうに笑ってくれた。
 それからも日記は続く。
 今日はおっぱいをたくさん飲んだ。
 今日はよく便が出た。
 今日はオムツを買った。
 今日は夜中に夜鳴きされて眠れなかった。
 今日はおんぶしながら夜の町を散歩した。
 今日ははじめて離乳食を食べた。
 そんな何でもないけど素晴らしい事が日記には書かれていた。
 三冊目に入ると少し文章が違くなった。
 それは死んだ赤ん坊の父親のことだった。
 読めばすぐわかるが、カラスアゲハに子供の父親に対する愛情は一切ない。
 欲情したから交わった相手程度にしか思ってはいない。
 本当に愛がなかったことがわかる。
 でも、好意くらいはあったらしい。
 日記は剣崎に語った。
 自分にとって子供の父親というものはどうでもいいが、子供にとってはどうだろうかと。
 自分は父親がいなくて悲しかった。
 母親もいなくて悲しかった。
 自分の子供には自分と言う母親がいるが、父親はいない。
 この子は父親が欲しいと思うだろうか。
 それからは、日記に憎悪が混じるようになった。
 この子もきっと自分と同じように父親を恋しがるだろう。
 なぜ子のこの父親は死んでしまったのか。
 何故死んだのか。
 殺されたから。
 誰に殺されたか。
 仮面使い柴崎司に殺された。
 二年前のクリスマスに。
「そういうことか……」
 最後まで日記を読み、剣崎は悟った。
 名前は書いていないがわかる。
 赤ん坊の父親は須藤数騎だ。
 二年前のクリスマスに剣崎が殺害し、社会的に抹殺するために赤の魔術師が新聞記事を捏造する必要はあった人間は、須藤数騎以外に見当たらない。
 そういえば、二年前にカラスアゲハが須藤数騎に何かちょっかいを出していたことも覚えている。
 なら、この赤ん坊は須藤数騎とカラスアゲハの子供。
 そして気付いた。
「何て……ことを……」
 気付きたくなかったが気付いてしまった。
 そう、目の前の赤ん坊。
 その赤ん坊の両親である二人。
 その二人を……剣崎は殺してしまった。
「あ……」
 涙が流れた。
 一筋涙が頬を走ると、あとは堤防が決壊したように涙が流れ続ける。
「すまない……」
 ベビーベッドに手をかけ、剣崎は続けた。
「すまない……」
 崩れ落ちるように座り込み、ベビーベッドに寄りかかるようにして赤ん坊を見つめる。
 涙で濡れた瞳に映るのは、何も知らずにすやすやと眠り続ける赤ん坊。
「すまない……」
 答えない赤ん坊に謝罪を続ける。
 赤ん坊は何も答えない。
 眠り続ける赤ん坊を前にして、剣崎はなおも涙を流し続けるのであった。







 冷たい風が吹きぬけた。
 あと二日でクリスマスというこの時期は、やはり十分に冷え込んでいた。
 太陽が昇っているといっても、未だに空気は冷たい。
 時刻は十時。
 大抵の人間は動き出して仕事をしている時間だった。
 そんな寒空の中、アーデルハイトは困ったような顔をして立っていた。
 手にはお盆、その上には朝食。
 かなり多い種類の食材を用いて作られたその朝食は、見る人間が見ればどれほど手を込んで作っているかわかるだろう。
 アーデルハイトはそれらを手に、扉の前で立っていた。
 寮の二階の廊下、そこは剣崎の部屋の前の扉。
 いつもは何の気兼ねもなく開けていた扉だというのに、どうしても開けようにいう気にはならない。
 昨日のことがよほど尾を引いているのだろうか、剣崎は朝食を食べに降りてこなかった。
 健康に悪いから朝食を運びに来たのはいいが、扉からは異様な空気が漂ってきており、アーデルハイトのように輝光で相手の感情がわかるような熟練の異能者、というか魔皇剣の精霊にとっては入りたくないのが正直な感想だった。
 しかし、そうも言っては居られない。
 魔皇剣の精霊として契約者の健康には気を遣わなくてならない。
 それ以上に、剣崎戟耶のことが心配だった。
「戟耶くん」
 扉をノックする。
 返事がない。
 もう一度ノックするも、やはり返事がない。
「入るよ?」
 そう言って、ゆっくりと扉を開いた。
 電気もつけていない暗い部屋。
 窓から差し込む光だけが唯一の光源だ。
 そんな中で一際目立つのがベビーベッド。
 あの後、剣崎がカラスアゲハのアパートから運んできたのだ。
 玄関近くの部屋に剣崎の姿はなかった。
 アーデルハイトは靴を脱いで部屋に上がりこむと、剣崎がいるであろう私室に向かう。
「入るよ」
 言って、アーデルハイトは部屋の扉を開ける。
 窓から差し込む光を浴びて、二人の人間がそこにはいた。
 一人はもちろん剣崎だ。
 ベッドにもたれかかって座り込んでいる。
 もう一人は、確か沙耶という名の女の子。
 年齢は確か一歳半程度らしい。
 大きな頭に短い手足。
 かわいらしい服を着た女の子の赤ん坊だった。
 剣崎はそんな沙耶を優しく抱きしめながら哺乳瓶で粉ミルクを沙耶に飲ませていた。
 粉ミルクはカラスアゲハの家から持ってきたものだった。
 昨日の夜、赤の魔術師に連絡をいれたが返事が未だにないため、剣崎は赤の魔術師に連絡をとれるようになるまで沙耶を自宅で預かることにした。
 ベビーベッドやその他の必需品を運び込み、今に至る。
「戟耶くん、おはよう」
「……おはよう」
 顔をあげ、剣崎は答えた。
 目を薄く開いているためか、剣崎は妙に生気のない顔をしていた。
 心なしか顔が疲れている。
 記憶を取り戻してみたくもない現実を見せ付けられたショックだろうか。
 カラスアゲハの家から戻った時からこのような感じだった。
「沙耶ちゃん、どんな感じ?」
「空腹を訴えてきた、自分から粉ミルクの缶を叩いて私に作るように言ってきたよ。まだ上手く喋れるってわけでもないみたいだが」
「そう……」
 落ち着いた口調。
 それは、剣崎が柴崎司と名乗っていたころの喋り方だった。
 落ち着いた感じの口調、そんな喋り方を柴崎司はしていた。
 剣崎の子供のころは喋り方がもうちょっと乱暴だった。
 須藤数騎を名乗っていたころは地の喋り方に戻ったが、記憶が戻ってからはまた柴崎司の喋り方に戻ってしまっていた。
 そんな事を考えているアーデルハイトに、剣崎は言った。
「この年齢ならそろそろ離乳食離れしてるかもしれないが、心配だ。もしよかったら離乳食と柔らかい食べ物、両方作ってもらえないか?」
「うん、いいけど……」
 言いながら、お盆をベッドの上におろすアーデルハイト。
「戟耶くんも朝ごはんまだでしょ、持ってきたよ」
「ありがとう。でも、腹が減っていていないんだ」
「置いておくからお腹が減ったら食べて」
「……わかった」
 しぶしぶと頷く剣崎。
「戟耶くん、他に欲しいものはない?」
「そうだな、もしよかったら紙おむつでも買っておいてもらえないか。残りが少ない」
 部屋の隅に詰まれた紙おむつを見て剣崎は言う。
「あれと同じ銘柄とサイズで、頼めるか?」
「大丈夫、買ってくるわ」
「そうか、ありがとう……」
 剣崎は腕の中に抱きしめている沙耶に視線を戻す。
「そういえばさ、泣かないんだよ」
「え?」
 突然の言葉に、アーデルハイトは反応できなかった。
 沙耶を見つめ続けながら、剣崎は続ける。
「泣かないんだ、この子は。母親がいなくても、はじめてみる人間に世話されても。慣れてるのかな、母親以外に面倒みてもらうのに。そういえばカラスアゲハは魔術結社で働いていたな、結構託児所に預けたりしてたのかもしれない」
 静かな声で囁くように言う剣崎。
 そんな剣崎の様子が気にもならないのか、沙耶は口もとを汚しながらミルクを飲んでいる。
「ご飯、ちゃんと食べてね」
 そう言い残し、アーデルハイトは静かな足取りで部屋を出て行く。
 扉を閉め、しばらくの間扉を見つめ続けた。
 しかし、どうすることも出来ない事を悟ると、ため息をついて剣崎の部屋から出て行く。
 結局、剣崎はアーデルハイトが持ってきた朝食を口にしなかった。







 暗くかび臭い道をジェ・ルージュは歩いていた。
 傍らには黒猫の燕雀がつき従う。
 そこは天井から床、壁全てが石で作られた迷宮のような道だった。
 人が居る時は燭台に火を灯すのだろうが、遺棄されたこの迷宮を管理するものはなく、溶けきった蝋燭が燭台に残るだけだった。
 ジェ・ルージュはその暗い空間を、暗闇を照らす術式を唱え進んでいた。
 顔から一メートルくらいのところ、宙に炎を浮かせながら歩いていたのだ。
 揺れる炎が暗い迷宮を照らす。
 そんな中を、ジェ・ルージュはなぜか足音も立てずに歩いていた。
「懐かしいか、燕雀」
 ふと、ジェ・ルージュが口を開く。
「ここは二年前にクロウ・カードが要塞化した迷宮だそうだ、お前にも縁があるだろう?」
「数千年前の話だ、あまりよく覚えてはいない」
「嘘をつけ、お前はほとんど寝てばかりだったろうに」
 ジェ・ルージュにとって、燕雀は眠り続ける猫だった。
 自身の使い魔であるはずなのに命令に従わず、一度眠ると数十年は眠り続ける事もある。
 起きるのは決まって予言をする時だけだ。
 もっとも、予言は未来から来た身であるために歴史の知識に他ならないのではあったが。
 そんな指摘を受け、燕雀はため息混じりに言った。
「まぁ、確かにそうだ。だが、起きていた時間だけで言うならざっと百年近くはたっている。どちらにしても覚えてはいないよ」
「なるほど、そうかも知れないな」
 納得するジェ・ルージュ。
 何しろ自身が四千年を生きる魔術師だ。
 百年前の事を覚えているか、と聞かれても印象に残った事くらいしか思い出せない。
 それでも忘れてはいけないことは覚えているつもりだった。
「まぁ、いいがね。それにしても、わざわざ歩かなくてはならないとは面倒なものだな」
「いつも転移呪文ですませているからな、たまには運動にちょうどいいだろう」
 答える燕雀。
 そんな燕雀に、不機嫌な口調でジェ・ルージュは言った。
「それにしても、いやらしいこと甚だしい、なんだこの迷宮は。術式妨害のせいで転移呪文さえままならんとは。後で絶対に解呪してやる」
「多分、クロウ・カードがこの迷宮に何か仕掛けていたんだろうな」
「まぁ、私に突破できない類の術式ではない。私程度でなくてもちょっとした高位魔術師なら十分に対抗できるような結界だが……」
 舌打ちし、ジェ・ルージュは続ける。
「今のこの身体では無理な突破できないときている、口惜しい限りだ」
「でも、歩いていけば平気なんだろう。そこまで悪い取引じゃない」
「そうではあるがな」
 ため息をつくジェ・ルージュ。
「どちらにしろ、これが最後の切り札になる。問題はあの男が使い物になるかどうかだが」
「大丈夫、あいつは立ち直る」
 燕雀が強い口調で言う。
「あいつは強いよ、頭は悪いがそれだけは確かだ。オレはそう思ってる」
「そうか、それを信じるしかないな」
 燕雀に、ジェ・ルージュは頷いてみせる。
「一応、いざとなったらコレがある。コレを見せればあいつも驚いて頑張るに違いない」
 言ってジェ・ルージュは懐から刃物を取り出した。
 それはサバイバルナイフだった。
 柄の部分に宝玉が取り付けられている。
 燕雀は顔をしかめた。
「それは……」
「呪牙塵さ、なじみ深いだろう?」
 そう、それは呪牙塵という名の魔剣だった。
 切り裂いたものに呪いをかけ、八日間という時間が経過した時呪いが解けない場合、呪いをかけられた被害者は塵となって死亡する。
 燕雀にとって、最も忌まわしい魔剣だった。
「そんなものをどうする気だ?」
「いや、なに。これがあの男の尻を叩いてくれるはずだ、お前にとっても驚きのビックプレゼントになるかも知れんぞ」
「それであいつが立ち直るとでも?」
「それを期待しているんだよ」
 やや楽しげに、ジェ・ルージュは言う。
「だが、まずはアレを手に入れるのが先決だ。紫水晶の大空洞にある、アレをな」
「最後の一振りか」
「そうだ、それを手に入れないことには活路は見出せないだろう」
「封印はどれくらいで?」
 聞く燕雀。
 そんな燕雀に、ジェ・ルージュはアゴに手をあてて答える。
「おそらくは一日か、元の姿なら一時間とかからなかっただろうが。それまでに勝負に決着がつかなければいいのだが」
「時間の勝負か」
「そうなるな」
 緊張感を孕んだ声でジェ・ルージュは答える。
 それを耳にし、燕雀はそれ以上言葉を紡ごうとしなかった。
 言葉を交わすことなく迷宮を歩く二人。
 暗く長い迷宮は、延々と続いているのであった。







 剣崎は沙耶の遊び相手をしていた。
 昼寝を終えた沙耶は、カラスアゲハの部屋から持ってきたオモチャを、こねくりまわして遊ぶ。
 すぐオモチャを口に入れようとするので、それを押し留めるのが剣崎の主な役割だった。
「ダメだよ、食べちゃ」
 優しい口調でオモチャと口から取り出す剣崎。
 沙耶は剣崎から取られたオモチャをすぐに奪い返すと、唾液まみれのプラスチックのキリンを手でいじって遊んでいた。
 沙耶が寒がるといけないので、剣崎はいつもなら入れないエアコンを入れて部屋を暖めていた。
 自室のベッドを背もたれに座る剣崎。
 そんな剣崎の前で、沙耶は飽きることなくオモチャで遊び続ける。
 お腹いっぱい食事を食べた沙耶は、それこそ元気いっぱいだった。
 昨夜から一睡もしておらず、疲れている剣崎に構うことなく元気はつらつに動き回っている。
 ベビーベッドに移して寝かせようとしても遊びたいのか、ぐずりだしてしまう始末だった。
 言葉はまだ話せないようだ。
「あー」
 とか、
「うー」
 とか、うめき声に聞こえなくもない一文字だけを発している。
 確か育児日記では『ママ』と言うようになったと書いてあった気がするが、それだけなのだろうか。
 その内に疲れてきたのか、沙耶の動きが少しずつ鈍くなる。
 剣崎の膝の上にやってくると、そのまま目を閉じて眠ってしまった。
 遊び疲れたのだろう。
 剣崎は眠ってしまった沙耶を抱きしめ、立ち上がると沙耶をベビーベッドに運ぶ。
 ベビーベッドの上に沙耶を寝かせると、剣崎はその場に座り込み、眠る沙耶を見つめ続ける。
 やることがなかった。
 何もする気が起こらなかった。
 沙耶の面倒を見る以外に、何も行動する気が起きない。
 剣崎は気力を失った顔で沙耶の寝顔を見つめ続ける。
 その内に、瞼が重くなってきた。
 昨日あれだけ動き回ったため、身体が疲れていた。
 それでも眠らなかったのは、ある種の罪悪感が剣崎の心に重くのしかかっていたからだろう。
 赤ん坊の両親を殺してしまったという、罪悪感が。
 それが、沙耶の顔を見つめているうちに薄れてきていた。
 何も考えずに眠るその寝顔が、剣崎に罪を忘れさせた。
 剣崎は沙耶を見つめ続け、そして座ったまま眠りにつく。
 規則正しく呼吸をして肩を揺らしながら、剣崎は沙耶のすぐ側で眠ってしまったのであった。



 それからしばらくたち、剣崎は目を覚ました。
 泣き声が聞こえてきたからだ。
 窓から刺し込むオレンジ色の光からもう夕方が近いことに気付く。
 結構、眠っていた。
 それよりも、剣崎には大切なことがあった。
 それは聞こえてきた泣き声。
 目の前で、沙耶が鳴いていた。
 すぐさま身体を起し、沙耶の側による。
「どうした、何があった?」
 オムツを見る。
 別にお漏らしをしたわけではなさそうだ。
 沙耶の顔を見る。
 泣き声を発する涙に濡れたくしゃくしゃの顔。
「まーまー!」
 呼んでいた。
「まーまー!」
 泣き叫びながら、沙耶は呼んでいた。
 自分にとって唯一の親を。
 自分を守り続けていたカラスアゲハのことを。
 愕然とした。
 立っていられなくなり、剣崎は肩を落として座り込む。
 沙耶は泣き続ける。
 母親を呼んで。
 帰らぬ人を呼んで。
 剣崎がその手で、殺した女性の名を読んで。
「まーまー!」
 泣き声は止まない。
 なぜ忘れていたのか。
 なぜ平気な顔で眠ってしまったのか。
 胸が痛かった。
 吐き気がこみ上げてくる。
 涙が止まらなかった。
 溢れる涙で、沙耶の顔が歪んで見える。
 それは自分に両親を殺された赤ん坊の顔。
 この世界に存在しない人間を呼んで、泣き叫ぶ赤ん坊の顔。
 耳を塞ぎたかった。
 ここから逃げ出したかった。
 しかし、剣崎は逃げなかった。
 この赤ん坊を一人にするわけにはいかなくて。
 この赤ん坊を見捨てることができなくて。
 剣崎は震えながら立ちあがり、沙耶を持ち上げると、腕の中に抱きしめた。
「よしよし、いい子だ。いい子だから」
 優しく胸で抱きとめる。
 それでも沙耶は大きな声で泣き続けた。
 剣崎は知らない。
 託児所に沙耶を預けていたカラスアゲハが、いつも夕方に迎えに来る事を。
 夕日が差す時間になってもカラスアゲハが来ないから、沙耶が泣いていることを、剣崎は知らなかった。
 あやし始め、どれくらいの時間が経っただろうか。
 泣き続けることに疲れ果て、沙耶は剣崎の胸の中で静かな寝息を立て始めた。
 その顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。
 胸の中の沙耶を見つめながら、剣崎は泣いていた。
 泣きながら沙耶の顔を見つめていた。
「すまない……」
 呟く。
「すまない……すまない……すまない……」
 呟き続ける。
「もう、誰も殺さないから……」
 その呟きは悲しく。
「もう、誰も助けたりしないから……」
 その呟きは儚げで。
「もう、戦ったりしないから……」
 それはまるで、己を縛る呪いのようで。
 そんな誓いを、剣崎は沙耶に捧げていた。
 寝息を立てる沙耶は答えない。
 それでも、剣崎は泣きながら言葉を口にし続けた。
 何を間違えたのか。
 生き方だ、そんなことは決まっている。
 人を助けるために人を殺して。
 他人を救うために知り合いを見捨てて。
 嫌われて、疎まれて、邪魔にされて。
 それでも助けようとして、仲間は去っていく。
 残ってくれた人間も死んだ。
 死なせたり、助けられなかったり、殺したり。
 もう嫌だった。
 柴崎司でいることになど、耐えられなかった。
「ダメだよ、司姉さん……」
 この世界にいない女性に囁く。
「オレは……あなたにはなれない……」
 涙が止まらなかった。
 己の弱さが悔しくて。
 己の罪深さが恐ろしくて。
 後悔の涙を、剣崎は流し続ける。
 そんな嘆きを、アーデルハイトは聞いていた。
 買ってきた紙おむつを数騎の部屋に運ぼうと扉の前まで来ていたのだ。
 しかし、剣崎が泣いているのに気付き、入ることもできない。
 音を立てないように、アーデルハイトは自分の部屋に戻っていく。
 剣崎は、その後もずっと啜り泣きを続けるのであった。







「ここか」
 夜の八時、月が地上を照らす時刻。
 痩身長躯の男が電信柱の前に立っていた。
 身に纏うは渋めの色のコート。
 薄く笑みを浮かべる男の顔には、無数の傷が走っていた。
 火傷の痕、切り傷さえ走る顔。
 視力を失っているのか、それとも眼球がないのか。
 男は左目を閉じたまま、右目だけを開いていた。
 残った一つの目で手に持つ紙切れを見る。
 紙に描かれた住所と地図は、間違いなく目の前の建造物を示していた。
「ここだな」
 紙をコートの中にしまいこみ、男は寮の敷地内に入る。
 階段をのぼり、その扉の前まで来る。
 扉をノックする。
 返事がない。
 さらに扉をノックする。
 返事がない。
 砕かんばかりの力を込めてノックした。
 流石にこれなら出てくるだろうと思ったが、部屋の主は動こうとしない。
 怪訝に思い、ドアノブに手をかけてみる。
 開いていた。
「閉めてないのか?」
 口に出しながらドアを開く。
 と、途中で手を止めた。
「これをしておくか」
 そう言って、懐から仮面を取り出す。
 それは、青紫の仮面だった。
 仮面を被り、ドアを開いて玄関のあがりこむ。
 もう暗い時間だというのに部屋には電気がついていなかった。
 見回す。
 コタツの横。
 ベビーベッドの隣に座り込んだ人影が見えた。
 男は黙って部屋に電気をつける。
 それでようやく剣崎の視線が来訪者に向けられた。
「お、お前は!」
 今まで気力を失っていた男がようやく目に光を取り戻し、すぐさま立ち上がろうとする。
 だが、すぐにそれも消えうせた。
 脱力し、ため息混じりに床に座りなおす。
「轟雷の退魔皇か、私に何の用だ」
「へぇ、覚えていただいているとは恐悦至極ってところか?」
 扉を後ろ手で閉め男、いや轟雷の退魔皇は部屋の中に入ってきた。
 そんな轟雷の退魔皇に、剣崎は視線も向けずに尋ねる。
「私に何の用だ? あいにくと私は退魔皇剣を失った敗残者だ」
「何?」
 言われ、轟雷の退魔皇は周囲を見回す。
「へぇ、負けたのか。で、どの退魔皇にやられたんだ? 戦いがあった気配は感じられなかったが。あったらもちろん駆けつけたんだがな」
「仲間に裏切られた。仮面をはずしたところを狙われて仮面を砕かれたよ」
 それを聞いた瞬間、轟雷の退魔皇は笑い出した。
「なんと、魔術結社にその名を轟かせる仮面使いがその様か。なさけぇねな」
「お前……私を知っている口ぶりだな」
 ようやく剣崎は轟雷の退魔皇に視線を戻した。
 そんな剣崎に轟雷の退魔皇は頭を抱えて見せた。
「薄情な野朗だ、声を聞いて思い出せないのか?」
「悪いが記憶力はあまりよくないんだ、二年前以前のことを昨日まで忘れていたくらいだ」
「法の書を使ってたんだっけか?」
「知っているのか?」
「当然だ、アーデルハイトとは既知の仲だ。まぁ、お前ほど密な付き合いだったってわけでもねぇが。会った事はある」
「お前は誰なんだ?」
「知りたいか?」
「いや、いい。もう魔術結社の人間とは関わりたくない」
「……何だと」
 声に怒りが混ざった。
 靴を投げ捨てるように脱ぐと、轟雷の退魔皇はズカズカと部屋の中にあがりこむ。
「オレを思い出せないとはともかく、魔術結社の人間と関わりたくないだと?」
「そうだ、私はもううんざりなんだ」
 力なく答える剣崎。
「もう私に関わらないでくれ、昔のことなんて……思い出したくない……」
 否定するように首を横に振る剣崎。
 瞬間、
「ざけんなっ!」
 轟雷の退魔皇が吼えた。
「過去を否定する気か、お前は! 自分の罪も忘れやがって!」
「私の……罪?」
「あぁ、そうだ。テメェはまだ何も償っちゃいねぇ!」
 近寄り、轟雷は襟元を掴み、剣崎を立たせる。
 立ってわかったが、轟雷の退魔皇は剣崎よりも身長が高かった。
 百八十二センチの身長をもつ自分より身長が高いことに、剣崎は少しだけ驚いた。
「ついて来い、根性叩きなおしてやる」
 引きずるようにして轟雷の退魔皇は剣崎を玄関まで引っ張る。
 足だけで靴を履き、乱暴に扉を開ける轟雷の退魔皇。
「履け、行くぞ」
「………………」
 無言で靴を履き、剣崎は轟雷の退魔皇の後をついていった。
 その歩みは、ふらふらと揺れていた。
 階段を降りていく二人。
 そこに、声がかけられた。
「戟耶くん!」
 下から聞こえてきた声。
 二人が見下ろすと、そこにはアーデルハイトの姿があった。
「どこに行……あなた!」
 轟雷の退魔皇を見て、アーデルハイトが驚きの声を漏らした。
 青紫の奇妙な仮面をつけているのも奇妙だったが、そんなことではない。
 轟雷の退魔皇から感じる気配が尋常のものではないと気付いたのだ。
「戟耶くんを……どこに連れて行くつもり?」
 尋ねるアーデルハイト。
 轟雷の退魔皇は首をかしげた。
「戟耶、誰だそれ?」
 立ち止まり、ちょっと考えると剣崎の顔を見た。
「あぁ、柴崎のことか。何かのあだ名か、それ? 昔から気になってたけどよ」
「っ! あなたは!」
 声で誰か検討がついたのか。
 アーデルハイトが目を見開く。
「おっと、黙りな」
 轟雷の退魔皇はひょうきんな声で言った。
「久しぶりだ、アーデルハイトさん。何年ぶりかな、二年か?」
「あなた、どうしてここに? それに、その仮面……」
「あぁ、オレは退魔皇だよ。わかるだろ、結構強いんだ、これで。いくらあんたが魔皇剣でも勝ち目ないだろ、邪魔すんなよ」
 そう言って階段を降り、コートの中から携帯を取り出すと電話をかけ始めた。
「あ、トールか。おう、オレだ。ちょっと例のアパートまで来てくれ。やっこさんがついてきてくださるそうだ」
 少し黙る、電話の向こうの人間が喋っているのだろう。
「そうだ、ここだ。何? 道がわからない? 迂回しろ。そう、そこを左だ」
 それから数分して、寮の前に白のワゴン車がやってきて停車した。
「乗れ、行くぞ」
 剣崎に背を向けて歩き出す轟雷の退魔皇。
 何も考えずについていこうとする剣崎。
 そんな剣崎の手を、アーデルハイトが掴んだ。
「ダメ、戟耶くん。行っちゃダメ!」
「……そうかな」
 意志の弱くなっている剣崎はアーデルハイトの言葉に従おうとした。
 直後、轟雷の退魔皇が口を開いた。
「お前が来ないならこの寮をぶち壊すぞ、いいのか?」
「……ダメだ」
 答え、アーデルハイトの手を振り払って轟雷の退魔皇の所に向かおうとする剣崎。
「戟耶くん!」
「黙りな、邪魔するといいことは起きないぜ」
 鋭く言い放つ轟雷の退魔皇に、アーデルハイトは口を閉じざるを得なかった。
 そんなアーデルハイトを剣崎は振り返る。
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるから」
「戟耶くん……」
「沙耶が泣いてたら……頼む……」
 それだけ口にすると、轟雷の退魔皇がドアを開いて待っていたワゴンの中に剣崎は乗り込む。
 それに続き、轟雷の退魔皇も乗り込んだ。
「トール、例の場所だ。出来るだけ早く行ってくれよ」
「承知」
 ドアを閉めながら行き先を指定した轟雷の退魔皇に、答えたのは日本人ではなかった。
 ハンドルを握り、運転席に座るその人物。
 それは壮年の男だった。
 顔には幾本もの皺が刻まれ、干からびたその顔にはもうもうと髭が生い茂り、かるいパーマのかかった薄汚れたブロンドの髪が両耳を覆い隠す。
 彼は槌の退魔皇剣の精霊だった。
 精霊なのに運転技術を持つのか、アクセルを踏み込みワゴンを走らせ始める。
 丁寧な運転だった。
 スピードは遅かったが、乗っている人間が安心できるような上手な運転。
 それほどの技術を精霊が持っているのに驚いている剣崎に、轟雷の退魔皇が声をかけた。
「なつかしいな、柴崎。お前と最後に車に乗ったのはいつだったっけ?」
「悪いが、お前の事を覚えていない」
「ひでぇ話だ、オレはこの二年お前を忘れたことはなかったぞ」
「お前は誰だ?」
「教えてやらねぇ、声でわかれっての」
 意地悪く笑う轟雷の退魔皇。
 と言っても仮面に隠れて轟雷の退魔皇の顔は見えないのではあったが。
 それから二人は言葉も交さず各々の側にある窓の景色を見ていた。
 夜の闇の中に輝くネオン。
 窓から見える蛍光灯の輝きや信号の色、そして車のライト。
 さまざまな光が織り成す美しい光景を、中で誰も言葉を交さない車が走り続ける。
 最初は車が多い場所を走っていたために速度が遅かったが、次第に車の停車回数が減っていく。
 それと同時に周りの車が減っていく。
 比例するように、ネオンや窓の明かりさえも少なくなる。
 繁華街を抜けた。
 向かっているのは美坂町のはずれだ。
 剣崎は景色を見ながらそう思った。
 町外れには工場群があったはず。
 剣崎の記憶は正しかった。
 遺棄された廃工場も存在するその区画。
 その中の一つの工場の前で、ワゴンが停車した。
「降りな」
 そう言いながら轟雷の退魔皇はワゴンから降りた。
 後に続き、剣崎もワゴンから降りる。
「ついて来い」
 背を向けて工場の門に向かう轟雷の退魔皇。
 電気もついていないその工場。
 錆びた鉄の門に汚らしい壁。
 どう見ても遺棄された廃工場だ。
「トール、やれ」
 轟雷の退魔皇がそう言った瞬間、いつの間にワゴンから降りていたトールが轟雷の退魔皇の前に飛び出した。
 その手には青紫に煌く槌を手にしている。
 槌が門に叩きつけられた。
 同時に門がひとりでに開く。
 鎖が引きちぎられた。
 轟雷の退技は槌で叩いた物質の操作だ。
 門を同時に左右に移動させ、無理矢理鎖をちぎったのだろう。
 轟雷の退魔皇はトールの横をすり抜け、開かれた門を通過する。
 剣崎もそれに続いた。
 二人が工場内に入ると、後ろでトールがちぎれた鎖を槌で叩いていた。
 鎖は宙に浮き、門を一つずつ起用に引っ張ると、見事に門を閉じてしまった。
 直後、鎖は自分から側にあった茂みの中に飛び込む。
 見事な証拠隠滅だった。
 それが終わるとトールも後からついてきて、結果三人で工場の敷地内を歩く事になった。
 数分歩き、轟雷の退魔皇は工場の中に入っていった。
 剣崎もその後に続く。
 そこは一体何を作っていた工場なのだろうか。
 緑色の機械が立ち並び、何かを転がすようなローラーが取り付けられた機械があった。
 何かの流れ作業でもするようなところだったのだろうか。
 そんな事を考えながら歩く剣崎の前で、轟雷の退魔皇が振りかえった。
「さぁ、ここなら誰の邪魔も入らないだろう」
 剣崎は足を止め、周囲を見回す。
 薄暗く、窓からさし込む月明かりのみが光源であるその工場。
 どう考えても、近くに人がいるようには思えない。
 いるとしても、せいぜい別の稼動している工場にくらいか。
「さて、オレが誰か気になっている様子だったな」
 そう言うと轟雷の退魔皇は、剣崎の後ろに居るトールを手招きした。
 剣崎の隣を通り抜け、轟雷の隣まで歩いていくトール。
 そして、轟雷の退魔皇は自らの仮面に手をかける。
「見せてやるよ、オレの顔を。それで思い出せないようならオレたちはお終いだ」
 言って、轟雷の退魔皇は青紫の仮面を顔から外した。
 傷だらけで片目しか開いていない顔が仮面の下から露になる。
 痩せてアゴの尖ったその顔。
 剣崎は怪訝な顔でその顔を見た。
 一瞬誰かわからなかった。
 しかし、似ていた。
 その顔は、あの男に似ていたのだ。
「思い出せないか?」
 聞いてくる轟雷の退魔皇。
 しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「その顔じゃ、思い出したか?」
「待て……」
 驚きが大きすぎたせいか、剣崎の声はかすれていた。
 呼吸を整え、剣崎は尋ねる。
「間違っていたらすまない……お前は……」
 唾を飲み込み、口にする。
「二階堂か?」
「覚えててくれたか、流石は親友だぜ!」
 嬉しそうに口元を歪ませる轟雷の退魔皇、いや二階堂。
 そんな二階堂に、剣崎は顔に驚きを張り付けたまま聞いた。
「しかし……お前は……」
 死んだはずだ、その言葉が口から出ない。
 が、みなまで言わずとも二階堂には言いたい事がわかる。
 剣崎の驚いた顔がよほど楽しいのか、二階堂は楽しげに言った。
「あぁ、お前は死んだと思ってたかもしれないな。そりゃそうだ、頭上に瓦礫の山が落ちてきたらそりゃ普通は死ぬわ、普通ならな。あいにくオレは普通じゃない、お前も承知の通り」
 言って、二階堂は閉じた左目を指差す。
「もっとも、結構ダメージは残ってな。目は回復しなかったよ、潰れちまった。ついでに体中傷だらけだ」
「内臓も出てたぞ」
「それくらいで死ぬほど柔じゃねぇよ」
 鼻を鳴らして答える二階堂。
「さて、じゃあ思い出してもらったなら早速殺しあいでも始めるか」
 その言葉に、それこそ剣崎が上ずった声で応じた。
「ちょっと待て、殺しあいだと?」
「そうだ、殺しあいだ。お前はまだ罪を償っちゃいねぇ」
「罪?」
「玉西のことだ!」
 地面を右足で踏みつけるように叩きつけ、二階堂は絶叫した。
「忘れたとは言わせないぞ、お前の罪だ! お前の失策だ! お前のせいで玉西は死んだんだ!」
 剣崎は思い出す。
 それは自分に好意を寄せてくれていた女性。
 いつも元気で、かわいらしくて、大切な友達だった女性。
 そんな彼女の好意に剣崎は答えなかった。
 自分の生き方が、柴崎司になろうとする生き様があまりに歪だと理解していたからだ。
 自分には他人を幸せに出来ない、そう思っていた。
 そんな玉西に、二階堂は想いを寄せていた。
 しかし、玉西は呪牙塵という魔剣の呪いにかかり、死んだ。
 事の発端は二階堂と玉西が、魔術結社の敵から奪い返した魔術結社の魔剣だった。
 それが呪牙塵だった。
 玉西がそれで敵に呪われ、その敵を倒そうと二階堂は使用者の肉体を乗っ取る邪悪な魂を持つ妖刀を引き抜き、その身体を乗っ取られた。
 結局、二階堂は玉西に叩きのめされ、右腕を切断される大怪我をしながらも正気に戻った。
 そして二階堂がダウンし入院している間に、玉西は呪いで死んだ。
 助ける方法はあった。
 実際、それを剣崎は手にした。
 しかし、剣崎の不注意からその方法は他者の手によって奪われた。
 結局、死霊術士であった優秀な魔術師、玉西彩花は呪牙塵の呪いにより死亡した。
 助けるチャンスがなかったわけではないのだ。
 そんな剣崎を、二階堂は許せなかった。
 二階堂は怒り狂い、剣崎に挑み、そして撃退された。
 その折に天井が崩壊、瓦礫に飲まれて二階堂の姿は消えた。
 剣崎はそれで二階堂が死んでいたと思っていたのだ。
 思い出し、剣崎は自分の過去の失態に歯を食いしばって耐えた。
「お前は玉西を死なせた罪を償っちゃいない。二年前は遅れを取ったが、今度はそうはいかねぇ。お前が二年間ふぬけてる間にこっちは実戦でいろいろと培ったんでね。おかげで相当痩せちまったぜ」
 二年前の二階堂はどちらかと言うとぽっちゃりしていた。
 しかし、今は痩せている。
「トール、持ってろ」
 二階堂はトールに青紫の仮面を手渡した。
「ワゴンの中で待ってな、レッカーされちゃ堪らねぇ」
 無言で頷き、青紫の仮面を受け取ると、トールは黙って工場の外に出て行った。
「しばらく待ってな、すぐにはじめるぜ」
 楽しげに言う二階堂。
 それから一分もしないうちに、輝光の奔流を感じた。
 直後、剣崎は何が起こったかを知った。
 鏡内界に取り込まれたのだ。
「トールに外から異層空間を展開させた。さすがに現実世界でドンパチする気はないからな」
「待ってくれ!」
 剣崎が叫んだ。
「確かに玉西が死んだのは私の責任だ。だが、私はお前と殺しあう気は……」
「遅ぇ!」
 叫ぶように剣崎の言葉をかき消す二階堂。
「遅いって言ってんだよ! 二年前も殺しあった、オレたちは殺し合いでしか言いたい事を言っちゃいけねぇんだ!」
「それは違う!」
「いいや、違わないね。何でオレが魔装合体せずにいると思う? 何でオレがトールを現実空間に残したと思う? この戦いに介入させないためさ、お前にも勝機はある。お互いがお互いを殺せるから殺し合いだ、そうだろう?」
 歯を見せ付けるように笑う二階堂。
 傷だらけになった顔でそれをやったために、まるで悪鬼が笑っているようにも見えた。
「行くぞ、いつもみたいに仮面舞踏でもはじめやがれ!」
 直後、二階堂は着ていたコートを脱ぎ捨て獣のような咆哮を上げた。
 そう、獣のような。
 人間も咆哮はする。
 が、それはあくまで人間の喉で作り出されるものにすぎない。
 しかし、それは獣の咆哮だった。
 二階堂の身体から煙が立ち上る。
 急激に温度を上昇させ、細胞が高速で分裂し、肉体を一気に作りかえる。
 膨れ上がった体重のために地面が陥没した。
 ギチギチと盛り上がる筋肉が二階堂の着ていた服を引きちぎる。
 布は伸びるものだと言うのに、そんな事実さえ気にもせず。
 骨格が変形し、身長が伸びる。
 そして、その獣人が姿を現した。
 黄金の毛に覆われた右手。
 そして全身は百獣の王を思わせる毛で覆われている。
 その獣人に類似した動物を剣崎は知っている。
 それはライオンと虎の混血児、ライガーだ。
 二階堂はライオンと虎の魂を吸収した獣人だった。
 二つの魂は交じり合い、二階堂にライガーとしての力を授けていた。
 二階堂は口から蒸気のような煙を吐き出す。
「さぁ、楽しもうぜ柴崎。早速行くぞ!」
 過去に剣崎が名乗っていた名前で呼び、二階堂は突撃した。
 人間だった時では考えもつかないその踏み込み。
 異常なまでの速度を伴いながら、二階堂は右拳を剣崎に叩き込む。
 二階堂の目に映ったのは、先程までふぬけていた男には到底できそうもない回避行動だった。
 足に輝光を集中させ、高めた機動力で横に大きく跳躍。
 緑色の機械の上に飛び乗り、剣崎は二階堂を見下ろす。
「やめよう、二階堂。オレたちが殺し合う必要は……」
「あるだろうが!」
 跳躍し、飛び蹴りを仕掛ける二階堂。
 さらに大きく後方に跳び、その蹴りを回避する剣崎。
 しかし、
「我が放つは……」
 二階堂が唱え始めた詠唱は、
「断罪の銀!」
 剣崎にとって既知のものであった。
「刻銃聖歌(カンタスグレゴリオ)!」
 破壊を内包する輝光が銃口から迸る。
 光り輝く破壊の閃光。
 もし、剣崎が鎖付きのナイフを隠し持っていなかったらとても回避できなかっただろう。
 拳銃を向けられた瞬間、剣崎は回避中に取り出していた鎖ナイフを近くの機械に絡ませ、空中で軌道を変更した。
 それにより、剣崎はきわどいところで銃撃から逃れる。
 工場の床に着地し、鎖を持つ手を小刻みに動かす。
 鎖が解け、ナイフが剣崎の手に戻った。
 それと同時に折りたたみナイフを取り出す。
 二刀を構え剣崎は、刻銃を手にする二階堂を睨みつけた。
「おいおい、そんな貧相な武器でオレとやりあうつもりか?」
 刻銃を手にする獣人、二階堂は嘲笑した。
 二階堂の握る刻銃。
 剣崎がカラスアゲハとの戦いで使ったものとは別の形をしていた。
 それは、マーゼル社が三年前に開発したウケ狙いの拳銃。
 人間が撃つことが可能な限界ギリギリの威力を誇る実用性皆無にして世界最強の拳銃、ケルベロスS480。
 普通の拳銃ではもはや売れ行きが悪いと考えたマーゼル者が社運をかけて発売した拳銃だったが、世界最強の拳銃の名は伊達ではなく、予想以上の反響を受けた拳銃だった。
 これを撃つことの出来た男はそれだけで勲章ものであり、撃って肩を外したり衝撃で怪我をする人間が後を絶たない。
 巨大なグリップには二十八発の装弾数。
 そんな自動拳銃を、二階堂は手にしていた。
 それに対し、剣崎の武器はナイフ二振り。
 今でこそ思い出したが、これは元々須藤数騎が使っていた武器だった。
 自分が須藤数騎であると思い込むために持ち歩いていたものだが、それが剣崎の命を助けるとは皮肉なものである。
「二階堂、もう一度だけ聞く。私達の殺し合いに意味はない、もうやめよう」
「悪いがそうはいかない。オレたちは今度こそ決着をつけなくちゃいけないんだ」
 そう言うと、二階堂は咆哮をあげた。
「本気を出せ、柴崎。仮面をかぶれ!」
「仮面……だが、私は仮面を持ってきていない……」
 そう、剣崎の武器は全て、寮の開かずの扉の中だ。
 持っていない仮面などかぶりようがなかった。
 しかし、二階堂は言う。
「仮面使いは仮面なしでも仮面をかぶれると聞いたが、それは嘘だったのか?」
「何?」
 驚き、剣崎は二階堂の顔を仰ぎ見る。
「何だ、自分が仮面使いだってのに知らないのかよ。オレもそれなりに調べた。仮面使いは仮面がなくとも仮面をかぶる。全ての仮面を同時にかぶるってな。オレの聞き間違いだったか?」
 アゴをかきながら言う二階堂。
 それを耳にし、剣崎は思い当たることがあった。
 そういえば、仮面をかぶらなくても仮面の力を使えたことがあったような。
「……悪いが、私にはそんな芸当はできない。残念だが」
「あぁ、そういやお前は本物の仮面使いじゃなかったな。たしか師匠から仮面使いになれる仮面をもらったとか。まぁ、いいや。仮面無しでもお前は十分強いからな!」
 叫んだ瞬間、二階堂の輝光が迸った。
 強烈なまでの踏み込み。
 弾丸のように突進してくる二階堂に、剣崎は短刀を投擲した。
 鎖につながれた短刀、ハイリシュ・リッター。
 金属の擦れるような音を鳴らしながら、二階堂に向かって飛来する。
「邪魔だ!」
 左拳で叩き落すべく、拳を振るう。
 しかし、空中でハイリシュ・リッターが軌道を変えた。
 剣崎が鎖を引いたのだ。
 後ろに戻るハイリシュ・リッター。
 それと同時に剣崎も突撃をかけた。
 戻したハイリシュ・リッターを再び二階堂に投げつける。
 二階堂は、今度は右拳でハイリシュ・リッターを叩き落すべき拳を振るった。
 剣崎はそれに対し、鎖をいじって拳からハイリシュ・リッターを逃がそうとするが、
「させるか!」
 剣崎がハイリシュ・リッターの軌道を変えるよりも早く、ハイリシュ・リッターの柄につけられた鎖を握り締める。
 だが、それこそが狙いであったことに二階堂は気付かなかった。
 二階堂がハイリシュ・リッターに集中している隙を突いて、剣崎は二階堂の潰れた左目、つまり剣崎から見て右の死角に飛び込んでいた。
 手にしたもう一つの短刀、ドゥンケル・リッターでその左手を深く切り裂く。
 柄の直前の、ギリギリの部分まで腕の中に食い込ませ、筋肉、神経、脂肪、さらに骨を削りながら刃を走らせ肘のあたりで抜ける。
 そのまま勢いを殺さず走りぬけ、跳躍すると機械の上に飛び乗った。
 上にいた方が戦闘では有利だからだ。
 左手が使えなくなるほどの負傷を与えたが、失ったものも大きかった。
 囮にしたハイリシュ・リッターは捨てるしかなかった。
 剣崎の手には血に濡れたドゥンケル・リッターが残るのみだ。
 後は輝光を活用して肉体強化をもって戦うしかない。
 しかし、そんな強化よりも獣人への変化による筋力強化の方が上だ。
 こんなちっぽけな短刀でどこまで戦えるか。
 背中に冷や汗をかきながら思考する剣崎。
 しかし、
「笑わせるな、柴崎!」
 大声で二階堂が笑い出す。
「そんなことくらいで、獣人が怯むとでも思ったか!」
 咆哮をあげ、負傷した刻銃を握る左手を天井に突き上げる。
 直後、腕の傷から白い煙が上がりはじめる。
 煙が消えると、そこに現れたのは血がべっとりとついた、傷の消えた左腕だった。
「こちとら瓦礫に潰されても生き残ったんだ、この程度の傷どうってこたぁないぜ!」
「馬鹿な……」
 呆然とする剣崎。
 いくら獣人とはいえ、ここまでの蘇生力は持たない。
 ただの獣人ならだ。
 二階堂はただの獣人ではない。
 二種類の獣の魂を持つ混魂の獣人。
 つまりキメラタイプと呼ばれる存在だった。
 キメラタイプの獣人はあらゆる面において通常の獣人を上回るとされる。
 二階堂の場合、特に耐久力と再生力に特化していた。
「さぁ、反撃開始だ。覚悟してもらうぜ!」
 刻銃を構え、言い放つ二階堂。
 その時だった。
「なっ!」
 どちらのあげた声だったか。
 それは二階堂にも剣崎にもわからない。
 どちらも声をあげたのかもしれないし、もしかしたら空耳かもしれない。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
 大切なのは別のこと。
 彼らが立つ空間に、亀裂が走っていることだ。
「これは!」
 剣崎はこれを見たことだあった。
 二年前に一度、そして昨日に一度。
 ひび割れた空間は、バラバラとその破片をこぼしていく。
 落ちる破片の向こうには暗き闇。
 破片は一つずつ虚空に消え、そして全てが暗くなる。
 それは鏡内界の消滅だった。
 異層空間を展開した術者が死亡するか、鏡内界を展開する基点にする鏡が破壊されるか、術者が鏡内界を消滅させる時にのみ起こる現象だった。
 鏡内界が消滅し、異層空間が解かれた。
 次の瞬間、剣崎と二階堂は炎に包まれた工場の中にいた。
 それはただの炎ではない。
 赤紫の炎だった。
「お前は!」
 驚き、剣崎は声をあげる。
 炎に包まれた工場。
 その入り口に、一人の男の姿があった。
「坂口か!」
 そう、工場の入り口に立ち、二人を見つめているのは剣崎を裏切った坂口だった。
 右手に大太刀を握り締め、剣崎に視線を向ける。
「久しぶりだな、須藤くん」
「何のつもりだ、この炎は?」
 問う剣崎。
 そんな剣崎に、坂口はため息混じりに言った。
「いや、偶然そこで轟雷の精霊に出会ってね。好機と思ってしかけさせてもらったのだが、大惨事になってしまったようだ」
 遠くから爆発音が聞こえた。
 それで理解した。
 坂口は二階堂がいない隙を突き、魔装合体できないトールに戦闘を仕掛けたのだ。
 恐らく魔炎と離閃の合成退技を使ったのだろう。
 それで工場群一面が火の海と化し、他の工場にあった化学薬品に引火して爆発が起きた。
 そう考えるのが妥当だった。
 剣崎は坂口を睨みつける。
「まさか、全力で退技をつかったりはしていないだろうな?」
「無茶を言わないでくれ、轟雷の精霊相手に手加減などできない。恐らく周囲十キロは大災害と言ったところだろう。心苦しくはあるが」
 そう言った坂口は少し悲しそうに顔を伏せる。
 手段を選ばない男のように思っていた剣崎は、そういう思考を坂口ができることに驚きを隠せなかった。
 剣崎は何を言うか迷った。
 そしてとりあえず何か言おうと口を動かそうとする。
 それよりも早く、二階堂が叫んだ。
「テメェ!」
 身体を震わせ、続ける。
「トールに何しやがった!」
 完全な失策だった。
 剣崎に固執したあまりに、精霊と離れて行動していた。
 そういえばトールの輝光をどこにも感じない。
 どこに行ったのか。
 その答えは、坂口がすぐに教えてくれた。
「ここだ」
 左手を掲げる。
 直後、虚空から槌が出現し、坂口の手の中に納まる。
 答えは簡単だった。
 トールは坂口に撃破された。
 そして、吸収されたのだ。
「テメェ……よくもトールを……」
 怒りに両腕をわななかせる。
 刻銃を投げ捨てた。
 右拳に輝光を集中させる。
 直後、右拳が黄金の輝きを放ち始める。
 二階堂の右拳は魔剣で構成された義腕だった。
 破壊の輝光を敵に叩きつける近接戦闘型の魔剣。
 その魔剣を起動させ、二階堂は前傾姿勢で坂口に向かっていった。
 先程、剣崎に仕掛けた速度は何だったのだろう。
 少なくとも、明らかに手を抜いていたのだけはわかる。
 それほどまでに凄まじい速度で、坂口に向かっていく。
 だと言うのに、坂口は平然とし右手の大太刀を構え、
「はぁっ!」
 鋭く大太刀を横薙ぎに振りぬいた。
 直後、切断の一撃と供に爆風が工場内を駆け巡った。
 とっさに斬撃は回避したものの、二階堂は続く爆風で吹き飛ばされた。
 きりもみしながら宙に浮かされ、緑色の機械に突っ込む。
 機械を変形させながら、二階堂の身体は機械の中に埋まってしまった。
 坂口は剣崎に向き直る。
「さて、私は去らせていただこう。とりあえず一つだけ置き土産だ。生き残れるならぜひとも生き残ってくれたまえ」
 そう言って、坂口は近くの壁に轟雷の槌を叩きつけた。
 直後、工場全体が鳴動する。
 それと同時に、工場は崩壊した。
 轟雷の退技、それは叩いた物質を自在に操る。
 ただし、相手の輝光の支配下に置かれていない状況においてだ。
 結果、他者の肉体自体や他者が触れている物質などを操る事ができないが、工場は誰の支配化にも置かれてなかった。
 そして、その現象が起こった。
 工場を組み立てる全てのパーツがその役割を忘れ、所々に欠陥を作る。
 そして、工場が崩壊した。
 天井が崩れ落ち、瓦礫が剣崎たちの頭上に降り注ぐ。
 その隙を突いて坂口は逃げ出していた。
 出口に逃げようとするが間に合わない。
 剣崎はとっさに逃げようとし、
「ちぃっ!」
 機械にすっぽりとハマってしまった二階堂の姿を見た。
 二階堂が投げ捨てた刻銃を拾い上げると、二階堂の元へ急行。
 二階堂のハマった機械の上に立つと、頭上に刻銃を向ける。
「我が放つは……」
 紡がれる詠唱、
「断罪の銀!」
 それは、聞くものの心を掻き立てる旋律を伴いながら、
「刻銃聖歌(カンタスグレゴリオ)!」
 破壊の輝光を迸った。
 頭上の瓦礫が消し飛ぶ。
 しかし、危機は去らない。
 瓦礫はいくらでもある。
 剣崎は手に持つ刻銃がリボルバーではなくオートマチックであることを喜んだ。
 リボルバーはシリンダーがあるために一度に複数の種類の銃弾を入れた方が戦いの選択肢が広がるため、好き好んでいろいろな弾丸を入れるケースが多い。
 しかし、オートマチックはそうはいかない。
 マガジンに入れた銃弾は発射する弾丸の順番を変えられない。
 よって、オートマチックの刻銃使いはマガジンごとに銃弾の種類を統一する傾向がある。
 それを信じた。
 剣崎は刻銃を天に向け、術式を放つ弾丸を乱射する。
 銃から放出される薬莢が飛ぶごとに、頭上の瓦礫が消し飛んだ。
 瓦礫が落下するまでに繰り出した弾丸は合計で十二。
 それは、剣崎と二階堂が助かるスペースを作るの十分足りるだけの空間だった。
 剣崎は刻銃が暴発しないようにセーフティをかけると、二階堂を見下ろす。
「逃げるぞ、二階堂」
「………………」
 答えない二階堂。
 剣崎は機械から降り、二階堂の正面に立つ。
 そして気付いた。
 どれほどの重量があるかわからない機械の中に、二階堂は動けなくなるほど深くハマってしまっていた。
 しかも変な格好で窮屈な空間にメリこんでいる。
 これでは常に負傷し続け、傷の治癒さえもままならない。
「うわっ!」
 顔を覆う。
 剣崎の顔に火の粉が飛んだからだ。
 燃え盛る赤紫の炎。
 水では決して消えない魔の炎は、劫火と化し工場であった空間を燃やし尽くしていた。
「ダメだ、すぐに逃げないと」
 焼け死ぬ、直感でわかった。
 しかも悪いことに、二階堂を助けようとして機械に触ると、機械が炎の熱で熱くなり始めていることに気付かされた。
 直接触れている二階堂がどれほどの苦痛を受けているか。
 剣崎には想像も出来なかった。
「今助けてやる」
 熱さを省みず、剣崎は二階堂を捉える機械に手をかける。
 しかし、
「触るな!」
 二階堂が一喝した。
 思わず剣崎は機械から手を離す。
 しかし、すぐに口を開いた。
「でも、何とかしないと逃げられない!」
 すぐに二階堂を助けようと機械に手をかけようとした。
「ふざけるな!」
 大声で叫んだ。
 怯む剣崎。
 そんな剣崎に、二階堂は続ける。
「お前は誰だ! 自分自身を何者だと思っている!」
 怒りを孕む咆哮。
 叩きつけるように二階堂は続ける。
「お前は仮面使いだ! お前は柴崎司だ! お前は何のために生きている! オレを助けるためか? 玉西を助けるためか? 違う、お前はそんな存在じゃない!」
 息を吸い込む。
「お前は柴崎司だ! 一人でも多くの人間を助けるために戦い続ける正義の味方だろう! なら行け、お前はここにいるべきじゃない!」
 驚きに目を見開く剣崎。
 そんな剣崎に二階堂は言う。
「オレは助からない、このまま焼け死ぬのが正しい道だ。だが、それよりもだ。お前は助けなくちゃならない。深夜だからそう人間はいないかもしれないが、他の稼動していた工場にいる人間をお前は助けなくちゃならない」
「私は……」
「お前は!」
 剣崎の言葉を遮る二階堂。
「お前は、柴崎司だ! 一人よりも十人を助けろ、百人よりも千人を助けろ! そう生きて行け、オレなどに省みずだ!」
 それだけ言うと、大きく息をつく。
「最後にあやまることがある、玉西の件だが。あれはお前のせいじゃない、オレのせいだ。オレの目の前で玉西は呪牙塵の呪いを受けた。あの時、オレがもっと頑張れば、玉西は死ななかった。オレが頑張れば、お前が玉西を助ける必要さえ生じなかった。オレのせいなんだ」
 つらそうに二階堂は続ける。
「オレは耐えられなかった、オレのせいで玉西を死なせたなんて考えたくなかった。弱かった。力だけ手に入れても、オレは弱かった。だからクロウ・カードに利用されたんだ。様ねぇよ」
 うつむく。
 しかし、すぐに顔をあげた。
「行け柴崎、勤めを果たせ。お前は何者だ?」
「オレは……」
「お前は……柴崎司だ」
 苦痛を堪え、二階堂は無理矢理笑みを浮かべる。
「さぁ、行けよ親友。お前の信念を貫け。柴崎司の生き様を、無様なオレに見せてくれ。お前はずっと……」
 オレの憧れだったんだ。
 その言葉は言わず、二階堂は静かに目を瞑った。
 見られていては剣崎は二階堂を見捨てられないと思ったからだ。
 剣崎は覚悟を決めた。
 二階堂に背を向け、刻銃を発射する。
 輝光弾によって魔炎が吹き飛ばされ、道が出来た。
 剣崎は二階堂を何度も振り返りながら、二階堂を置いて、炎に包まれた工場を突破した。
 残される二階堂。
 しかし、心の中は穏やかだった。
 醜い自分の心。
 それを見つめたくないため、親友を殺そうとまでした。
 しかし、追い詰められてようやく正直になれた。
 憧れていた親友に謝罪し、そして憧れであり続けてくれと願えた。
 それで十分だ。
 それで十分、二階堂は心地よかった。
 二階堂は一度だけ去りゆく剣崎の背中を見る以外は目をあけなかった。
 そして、赤紫の炎が二階堂の肉体を飲み込んだ。







 赤紫に燃え上がる炎は十数キロの範囲を火炎地獄に変えた。
 天まで昇らんばかりの炎は、工場にあった化学製品に引火し、さらに被害を大きくする。
 呪われし炎はさらに火力を増し、逃げ遅れた人間を蠢く灼熱の舌で嘗め尽くし、炭化させる。
 その阿鼻叫喚の様を見つめていた。
 それは火災現場から数十キロはなれた丘の上の公園。
 騒がしい火災現場からは、程遠い場所だった。
 ベンチの側に立ち、剣崎は遠い火災現場を見つめる。
 後で知ることだが、この火災で死んだ人間は百十三人、行方不明は三百人近くにのぼったという。
 しかし、今の剣崎にそれを知ることはできなかった。
 ただ、後悔の念にとりつかれながら赤紫に輝く夜空を見つめる。
 人を殺戮する炎だというのに、こんなに美しいのはなぜだろうか。
 そんな事を思っていた。
「なぜだ?」
 声が聞こえた。
「お前は柴崎司だ」
 声は続く。
「お前は一人よりも二人を、百人よりも千人を、一億よりも十億を助ける男だろう」
 声は止まらない。
「お前は柴崎司だ、知り合いだからといって心を動かされたりはしないはずだ。既知であろうがなかろうが、人間の重さを数で図る男だったはずだ」
 その声は悲鳴のようで、
「だというのに……何故戻ってきてオレを助けた……柴崎!」
 天を揺るがすかと思えるほどの叫び声で、ベンチに横たえられた二階堂は叫ぶ。
 赤紫の炎から視線を外し、剣崎は二階堂に顔を向けた。
「違う……」
 震える声。
「違う……」
 さらに声は揺れる。
「違うんだよ……」
 くしゃくしゃに歪む顔。
「オレは柴崎司じゃない……」
 目からはとめどなく涙が流れる。
「柴崎司じゃ……ないんだよ……」
 崩れ落ち、蹲るようにして言葉を搾り出すと、剣崎は泣き出した。
 いつでも誇り高く高貴で、決して折れることのないと思っていた親友が見せたこの姿に、二階堂は言葉を失う。
 恥も外聞も捨てて、剣崎はなおも泣き続ける。
 その背後で赤紫の炎は、虐殺の宴を続けるのであった。








































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