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トップページ>>パオまるの小説>>退魔皇剣>>第九羽 蒼き閃光

第九羽 蒼き閃光



 赤紫に燃える夜闇をロンギヌスが走っていた。
 凄まじき惨状に顔をしかめる。
 これでは虐殺と変わらない。
 それがロンギヌスの正直な感想だった。
 極炎の退魔皇が暴走した時は、確かにひどかった。
 だが、あの時は延焼するまでに多くの時間がかかり、まだ逃げることの出来る人間は多かった。
 今回はそうではない。
 界裂の風を操る力を組み合わせ、一瞬にしてあたり一帯を火炎地獄としてしまった。
「何を考えている、須藤数騎……」
 この惨状をあの男が作り出しているとは到底思えなかった。
 それでも、界裂と極炎を持つ退魔皇は須藤数騎以外にいるとは思えない。
 何しろ、魔伏が脱落以来、退魔皇の戦いは感知されていない。
 退魔皇が脱落している可能性は皆無だった。
 しかし、それはあくまで退魔皇を倒せるのは退魔皇のみという常識に捕らわれての認識であり、
「待て、戮神の退魔皇」
 退魔皇でないものが退魔皇を撃破するなど考えもしていなかったということである。
 だから、ロンギヌスはその男に呼び止められて一瞬、対応に困った。
 顔には水色の仮面、魔伏の仮面だったものだ。
 手には刀に長剣、それだけではなくなぜか轟雷と天魔の気配もする。
 しかし、それなら仮面は青紫か真紅のはず。
 ようするに、あまりに全てが合致していなかったのだ。
 轟雷と界裂の戦いに介入しようとしていたロンギヌスは、そんな具合で目の前に立つ男に対処のしようがなかった。
 熱されるアスファルトの車道で向かい合う二人。
 口火を切ったのはその退魔皇、坂口だった。
「お前に話がある、いいか?」
「えっと、お前は……」
 返答に窮し、呼吸を整えてから言いなおす。
「お前は……誰だ?」
「坂口遼太郎、須藤数騎の退魔皇剣を継ぎ、退魔皇になった者だ」
「須藤数騎を……破った? 退魔皇でない人間が?」
「そう、そしてついさっき轟雷を撃破した。計四つの退魔皇剣を持っているわけだ、私は」
 坂口がそう言ったことで、ようやくロンギヌスは坂口を敵として認識した。
 槍を構え、切っ先を坂口に向ける。
「貴様、須藤数騎の仲間ではなかったのか?」
 そう、この声の男の輝光は感じた覚えがある。
 確か地下鉄のホームにおける乱戦で近代兵器で乱入してきた異層空間殺しだ。
 あの時、坂口は間違いなく須藤数騎の仲間として戦っていた。
 そのように認識をもつロンギヌスに、坂口は言った。
「裏切った、私にも目的があったのでな」
「目的?」
 問うロンギヌス。
 そんなロンギヌスに、坂口は答える。
「生き返らせたい人間がいる、そのために私は退魔皇剣を欲している。しかし、赤の魔術師は退魔皇剣を全て封印するつもりだ。そんな男と組んでいる須藤数騎は私の目的の邪魔になる、だから裏切った」
「合点がいった」
 口に出す。
 怒りを隠せない。
 退魔皇を打破するには退魔皇か、それに匹敵する異能者か、もしくはその差を穴埋めする要素が必要となる。
 これは想像だが、須藤数騎はこの男の前で魔装合体を解いたのではないか。
 退魔皇にとってもっとも無防備な瞬間。
 それをしてしまったなら、撃破されても仕方ないというもの。
「汚い男め、貴様を信用した男を裏切り、退魔皇剣を強奪するとは。しかも、仮面は魔伏から奪ったな?」
「仕方ないだろう、本来は退魔皇として参戦するつもりだったが、誰も私の所に来なかった。仮面も退魔皇剣も持っていなかったのだ」
 ため息混じりに答える坂口。
 そんな坂口の前で、ロンギヌスは槍を構えなおした。
「貴様のようなゲスと話す言葉は持たん、尋常に勝負しろ!」
 叫ぶロンギヌス。
 それを見て、坂口は言った。
「それはお前にとってろくな結果をもたらさないぞ、戮神の退魔皇」
「何だと?」
「そもそも、本気で勝ち残れるとでも思っているのか? 魔装合体もできず、皇技も使えない状態で、しかも手にする退魔皇剣は一振りのみときている。どう考えてもお前に勝機はない」
「しかし、それでも戦うのが武人というものだ」
 言い切るロンギヌス。
 しかし、言葉の端から動揺が感じ取れる。
 坂口は続けた。
「戮神の退魔皇よ、悪い事は言わない。私と組まないか?」
「貴様とだと?」
「あぁ、私とだ。退魔皇が皇技を使用するには四つのものが必要だ。契約者、退魔皇の仮面、退魔皇剣、そして退魔皇剣の精霊。これら四つが揃ってはじめて皇技が発動する」
「知っている」
「だろうな、お前はその条件において契約者を欠いている。退魔皇の仮面をかぶって戦う契約者を」
「それで?」
「私も一つ欠いている、退魔皇の精霊だ」
「……なんだと?」
 意外なその言葉に、ロンギヌスは思わず驚いて見せた。
 坂口は続ける。
「仮面は奪えばいい、退魔皇剣も奪えばいい、しかし奪える退魔皇剣には退魔皇の精霊が消滅した状態のものだけだ。精霊が健在では返り討ちにあう。私は須藤数騎から界裂を奪う際、界裂の仮面を砕いた。そして、界裂の精霊は具現化する力を失った」
「つまり?」
「私は退魔皇の精霊を欲している。それさえ手に入れれば私は皇技を使用することが出来る。そうすれば戦いに生き残れる」
「それで私を勧誘しているわけか」
「そうだ、他に仮面契約を済ませていない退魔皇の精霊は存在していない。お前だけが私と契約できるのだ」
「私が貴様と組むとでも?」
「組むさ、何しろ私はお前の契約者と違い魔装合体して供に戦う意志がある。その上に、四振りの退魔皇剣を手にしている。お前が私と組めば五振りの退魔皇剣を所持する退魔皇となる。途端に最強勢力の誕生だ、悪い話ではない」
「………………」
 無言で坂口を睨むロンギヌス。
 何も口にせず、ロンギヌスの返事を待つ坂口。
 どれくらいの時間がたっただろうか、ロンギヌスが口を開いた。
「私には悔いがある」
「?」
「はるか昔、二千年ほど前だろうか。ある浅黒い肌の男を殺した、神の力を操るが、決して神ではない特別な人間を」
「それがどうしたのだ?」
「磔にしたところを槍で突いて殺した。私以外の人間に殺せなかったから私が殺した。それがいけなかった」
 真っ直ぐ向ける視線。
 しかし、その目は坂口を見ていなかった。
「金が欲しかった、ローマ軍の兵士の給料では病気の妹を医者に診せられなかった。だから私は殺したくもなかった、私にしか殺せない男を殺した、それがいけなかった」
 ロンギヌスは過去を見ていた。
「男は三日後に蘇った。もちろん本当に生き返ったわけではない。男が残した教えが蘇ったのだ。隣人を愛せ、平和を愛せ、私以外を信じるな。慈愛の中に他者の拒絶を内包した教えだ」
 坂口も、ようやく話の意図が見えてきた。
 ロンギヌスはなおも続ける。
「殺したのがいけなかった。目をくり抜いて放置すればそのまま無様に朽ちるような男だった。しかし、死んだことで初めて男は神になった。現実に存在しない男は、その教えを信じる者たちの中で神になった。その教えはその後この世界に影響を与え続けた、けしてよくはない影響を」
 苦渋に満ちた声。
「信じるものの違いから人を殺し、自分と違うから人を殺し、自分の考えを受け入れないから人を殺し。殺し、殺し、殺し、殺し。殺してばかりだ、あの教えは救った人間よりも破滅させた人間の方が多い。何故だ? 何故こんな教えが二千年以上の時を越えて語り継がれる?」
 その声は、後悔の懺悔だった。
「私が原因だ。あの時妹を救おうとし、殺すべきでない男を殺したからだ。妹の心臓は止まっていた。しかし、医者は薬を飲めば妹の心臓は動くと言ったよ。妹を生き返らせたくて、私は男を殺し、薬を手に入れた。結局妹は生き返らなかった、私は妹を生き返らせようとして、結果億を超える人間を死に至らしめる教えを広げてしまったわけだ」
 騙り終え、ロンギヌスは悲しそうに笑った。
 そして、笑い終えると正面の坂口を睨みつけた。
「死んだ人間は生き返らせるものではない。死者はただ悼めばいい。貴様にはそれがわからないのだろうな。私にもわからなかった」
 坂口に、そして二千年前の自分に。
 ロンギヌスは、哀れむような口調で言った。
 槍を強く持ち直す。
「貴様に間違った道を進ませるわけにはいかない。ここで貴様を止めてやる」
「手を……組まないのか?」
「もしお前の目的が死者の蘇生でなかったとしても、手を組んでいなかっただろう。仲間を裏切り利益を得るなど武人として許せるものではない!」
 叫び、ロンギヌスは身体の重心を低くする。
 それはいつでも敵に向かい、踏み込める体勢であった。
「名乗れ、名前だけは聞いておいてやる!」
 戦いは不可避だった。
 それを悟り、坂口は仕方なさそうに刀と長剣を構える。
「坂口遼太郎、先程も名乗ったのだが」
「それは失敬。雑兵の名など、覚えるのは面倒だったのでな」
 その言葉が開戦の合図だった。
 先に動いたのはロンギヌスだ。
 爆発的な踏み込みと同時に突き出す槍。
 風を切り裂き、残像を伴いながらロンギヌスは突撃をかけた。
 肌に殺気を感じる。
 手に汗が生じ、口の中が急速に乾き始めた。
 殺される。
 それは直感。
 このまま動かなければ殺される。
 それは事実だった。
 だからこそ、坂口は動いていた。
 最小限の威力ながら、離閃を地面に向けて放つ。
 速射を優先する余り、あまりにも弱々しい風を発生させる界裂。
 そして、それが坂口の身体を傾け、ロンギヌスの攻撃をかわそうとする坂口の回避運動を助けた。
 槍の切っ先に込められた殺気は、坂口の脇をギリギリのところで突きぬけ、しかしあまりの速度にスピードを殺せず直進し続けた。
 直後、踏み込みの音がようやく聞こえる。
 ロンギヌスの踏み込みは音速を超える。
 音が聞こえるのが遅れたのはそのためだった。
 高速で突き進むロンギヌスは坂口のはるか後方、百メートル先まで突進を止めず、足で激音がなるほどブレーキを効かせ、停止した。
 坂口は回避したというのに首を失ったような気分だった。
 何という速度、それが感想だ。
 異常なまでの踏み込みの強さに、尋常でない程の突撃スピード。
 これが戮神の退魔皇が退技『速迅(そくじん)』。
 絶対貫通の槍の切っ先を敵正面に向けながら高速直線移動をする力だ。
 超々直線攻撃特化型絶対貫通魔剣の異名を持つこの退魔皇剣は、貫通と機動において他の退魔皇剣の追随を許さない。
 その代わりに、攻撃能力としては相当下の位置につけられてはいるのだが。
 そんな事を歯牙にもかけず、再び重心を低くするロンギヌス。
 一撃目を回避できたのは僥倖に過ぎない。
 坂口はとっさに界裂を一閃させた。
「はぁっ!」
 振りぬかれるその大太刀。
 剣から発せられる不可視の刃は周囲の建築物を切断しながら直進し、同時に爆風と供にあらゆるものを破壊しながらロンギヌスに迫った。
「ちぃっ!」
 歯を食いしばり、得意の高速移動でロンギヌスは斬撃と爆風を回避する。
 坂口には、もう一度速迅を繰り出されて、それを回避する自信はない。
 手に槌を出現させると、坂口はそれでアスファルトの地面を叩き砕く。
 轟雷の退技により、アスファルトは坂口の僕となった。
 回避し、着地しようとしていたロンギヌスの足元に突如として落とし穴が生じた。
 さらに、穴の口にトゲが生え、それが生き物の口のようにロンギヌスを噛み砕こうとする。
「甘い!」
 叫ぶロンギヌス。
 退魔皇を舐めてもらっては困るのだ。
 速迅は異常速度を伴う、単なる突撃攻撃などではない。
 それは究極の直線機動。
 こと、機動に関してこの槍を上回る存在はない。
 地上であっても。
 空中であってもだ。
 戮神の退技が発動する。
 ベクトルは真上に。
 足場を必要ともしないその踏み込みに、ロンギヌスの肉体は瞬く間に上空二百メートルの地点に移動していた。
 さらに横、真下へと移動し、ロンギヌスは坂口の真後ろ、三百メートルの位置に移動する。
「さて、私の空中曲芸はいかがだっただろうか」
 槍を構え、ロンギヌスは続ける。
「遊びはここまでだ、そろそろ決着をつけさせてもらうぞ。地、空を問わぬ我が踏み込み。いったい貴様は幾度回避できるものか?」
「やってみるがいい」
 答え、坂口は大太刀を構えた。
 坂口の作戦はこうだ。
 ロンギヌスの突撃よりも早く、離閃による絶対切断の斬撃を繰り出す。
 突撃方向にあわせて離閃を繰り出せば、ロンギヌスにとって最強の武器であるはずの機動力がカウンターの役割を果たし、逆に回避できず真っ二つになる。
 坂口はこの戦いのルールを理解していた。
 坂口に対処させるよりも早く突撃できればロンギヌスの勝ち。
 ロンギヌスが速迅を発動させた瞬間を狙い、回避不能のところに離閃を叩き込めば坂口の勝ち。
 つまりそういう戦いだった。
 お互いの距離は三百メートル。
 二人の退魔皇にとって、それは一足一刀の間合いに等しい。
 静寂。
 二人は物音一つさせずお互いににらみ合う。
 それを妨げるかのように、燃え上がる炎は轟々とうなり声を上げ続けていた。
 パチパチと爆ぜる街路樹、もはや原型など留めていない。
 この熱量の中、炭化していないのが奇跡だった。
 風に揺られ、へし折れそうになるその枝。
 風に揺れる。
 揺れて、揺れて、揺れて。
 そして地面に落ちた。
 それが合図だった。
 お互いに必殺の一撃を狙う二人は、ほとんど同時にその退技を繰り出す。
 ほとんど、同時だった。
 正確には同時ではない。
 速かったのは、
「はぁっ!」
 坂口だった。
 躊躇した。
 躊躇してしまった。
 ロンギヌスは突撃をかけようとしたその直前に、
「スワナン……」
 彼女の姿を見た。
 対峙する坂口よりも前、自分の真正面に。
 しかし、発動直前の退技を止めることはできない。
 故に退技自体は発動した。
 坂口のそれよりも遅く。
 界裂から切断の刃と爆風が迸る。
 その少し前。
 突撃の直前、二人は聞いた気がした。
「全てを映し出す鏡よ、いかなるものをも反射するアイギスの鏡よ、この世界を映し出す虚像を!」
 その詠唱を。
「反射する災禍の業(リベリオン・ストライク)!」
 皇技が発動した。
 必殺を実現すべく対峙する二人の中央に現れたのは、スワナンを左腕に抱き、右手で矛を構える陣内だった。
 存在確率の書き換えによって転移してきた坂口は皇技を発動した。
 それは魔伏の皇技。
 敵の攻撃を吸収し、それを自らの力として操る能力。
 陣内は坂口の離閃を吸収した。
 吸収し、坂口の輝光を自身のコントロール下に置いた瞬間、陣内は地面に向けてその一撃を解き放った。
 地面が切断され、爆風が吹き荒れる。
 その風圧に陣内は真上に、坂口とロンギヌスは正反対の方向に吹き飛ばされた。
 ロンギヌス以外の全てを思考の外においていた坂口はろくな対応もできなかった。
 きりもみに回転する肉体。
 地面に叩きつけられる身体。
 しかし、それよりも早く。
「終わりです」
 仮面の砕ける音を聞いた。
 地面に叩きつけられる。
 とっさに両腕でガードしたが、両腕の骨は簡単にへし折れた。
 転がり、ついでに右足の骨も砕けた。
 衝撃は胸の骨にはヒビまでプレゼントしてくれた。
 地面に転がり、吐血する。
 空を見上げる。
 地上が余りに明るすぎて、星さえも見えない。
 痛みにうめく坂口に、陣内が近寄ってきた。
「魔装合体もできない新入りのあなたが四振りも退魔皇剣を手に入れるとは驚きです」
 そう言いながら、坂口の周りに転がる退魔皇剣を一つずつ吸収し始める陣内。
 左腕の中にはぐったりと気絶して動かないスワナンが抱きしめられている。
「感謝しています、あなたのおかげで私は六振りの退魔皇剣を持つ退魔皇となれました」
 最後に転がっていた退魔皇剣であった界裂を吸収し、陣内は嬉しそうに微笑み。
「さて、あなたをどうしましょうか? 見たところ抵抗は出来そうにありませんが」
 思い悩む陣内。
 少し考え、答えを出す。
「一応殺しておきますか」
 言って、矛の切っ先を坂口に向けた。
「待て!」
 声が陣内の動きを止める。
 振り返ると、額から血を流すロンギヌスの姿。
「貴様、スワナンをどうする気だ!」
「どうする……と」
 少し考えながら、気絶するスワナンの顔を見つめる。
「あまりに美しい女性でしたので、とびきりの夜を供に過ごしたいと思いまして。思わず攫ってしまいました。ついでにあなたの動揺も誘えればと思ったのですが、大成功ですね」
「貴様ぁっ!」
 咆えるロンギヌス。
 しかし、陣内は気にした様子もない。
「さて、せっかく六振りの退魔皇を手にした状態であなたの前にいるわけですし、ついでにあなたも吸収してしまいましょうか。と、その前に」
 言って、陣内は着ているスーツの中から仮面を一つ取り出した。
 それはロンギヌスがスワナンと契約する時に使おうとスワナンに預けておいた退魔皇の仮面だった。
「何をする気だ?」
「こうするんです」
 空中に放り投げると、陣内は矛を一閃させる。
 その切れ味は、退魔皇の仮面を二つに断ち切るには十分な威力を持っていた。
 二つに割れ、地面に転がる退魔皇の仮面。
「これであなたは魔装合体できません。絶望的ですね」
「………………」
 一言も発さず、陣内に対し踏み込むべくロンギヌスは体勢を低くする。
「おっと、私に向かってくるならこの女性を殺しますよ。本当は明日の夜にでも殺そうと思っていたのですが」
 スワナンを一瞥し、陣内は言う。
 そんな陣内を前にし、ロンギヌスは退技を使った。
「むっ?」
 しかし、それは陣内に対してではなかった。
 右に跳び、直進し、そして左に跳ぶ。
 地面を、まるで氷の上を移動するスケート選手のように機動、槍を持たない左手で地面に転がる坂口を回収すると、そのまま陣内に背を向け逃走した。
 一瞬にして彼方へと逃げさるロンギヌス。
 ロンギヌスの消えた方向を見つめながら、陣内はため息をついた。
「しくじりましたね、逃がしました」
(そんな女を抱いているからだ、攻撃を躊躇させる効果があったのは否定しないが)
「まぁ、言わないでください。こちらとしてもショックなんですから」
 答える陣内。
 再びため息をつき、スワナンの顔を見つめる。
「それに、悪い事ばかりではありません。こないだの死体がなくなってからストックもなくなってしまいましたし、いい女性を手に入れたのですから、乾杯といきましょう」
(早速、今日楽しむのか?)
「いえ、明日にします。今日は少し疲れました。それに、彼女と彼の契約を解消させなければいけませんし」
(なるほど、通常契約を解約すればロンギヌスは退技さえ使えなくなる)
「戦うからには必勝を期するのがベストでしょう。さて、帰りますか」
 そう言って、陣内は自らの身体に矛の刃をつきたてる。
 次の瞬間、陣内とスワナンの姿は一瞬にして消え去ってしまった。
 存在確率を操り、転移したのだ。
 燃え盛る炎はすでに消えていた。
 炎の使用者が陣内に移り、転移と同時に陣内が炎を消滅させたからだった。
 一瞬にして鎮火する赤紫の炎。
 こうして、今夜の惨劇は終わりを告げるのであった。







 行儀悪くコタツの上に座り、二階堂は手のひらを開いたり閉じたりしていた。
 カラスの鳴き声を聞きながら二階堂は笑みを浮かべる。
 昨晩の戦いで負った火傷の傷、および離閃の爆風でへし折れた骨などもろもろは全て完治していた。
 少々痕は残ってしまうが気にしない。
 身体が傷だらけなのは今に始まったことではない。
 獣人であることに感謝する一瞬だった。
 と、二階堂は扉の方に視線を向ける。
 そこは剣崎の私室に繋がる扉。
 そう、二階堂は剣崎の部屋に厄介になっていた。
 負傷し、自力で動けない二階堂は剣崎によってこの学寮にまでつれてこられた。
 治療の術や傷の手当などの処置を受け、私室の隣のコタツのある部屋で眠っていたのだ。
 目を覚まし、洗面所で身支度を整えた二階堂はぼーっとしながら剣崎の部屋の扉を見つめ続けていた。
 剣崎は二階堂の覚えている人間とは全く違う存在に変わってしまっていた。
 いつでも揺るがぬ信念を持ち、常に凛としてそこに立っているような頼れる存在。
 しかし、今の剣崎は過去の罪に打ちひしがれ、全てに気力を失い、ただ赤ん坊だけが心の支えのように赤ん坊の相手ばかりしている。
 正直、昨日は赤ん坊の夜泣きがすごくてよく眠れなかった。
 一睡もしてないんじゃないだろうか?
 二階堂は思わずそう思っていた。
 と、ノックの音が聞こえる。
「どうぞ」
 二階堂が言うと、玄関の扉が開いた。
 外の肌寒い空気と供に部屋に入ってきたのはアーデルハイトだった。
「おはようございます、二階堂さん」
「おはよう、アリ……いや、アーデルハイトか」
 名前を言い間違え、二階堂は苦笑しながら頬を指でかいた。
「どうもあんたとは合う回数が少ないからよく間違える。アーデルハイトでよかったか?」
「はい、構いません」
 笑顔を浮かべながら後ろ手で扉を閉めるアーデルハイト。
 かわいらしい笑顔に柔らかく流れる金髪。
 思わず二階堂はドキリとした。
「それにしても何だ、あんたも難しいな」
「何がですか?」
 問い返すアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトに、二階堂は一呼吸置いて続ける。
「名前だよ、名前。確か本名はリベル・レギスとか言うんだろ? それなのにアリスとかアーデルハイトとか呼ばれたりさ。ん、アリスって呼んじゃいけなかったんだっけ?」
 聞いてくる二階堂に、アーデルハイトは首を横に振りながら答えた。
「いえ、どちらでもよろしいですよ。私の父は私をアリスと呼びましたが、桂原さんがその名を好まなかっただけですし」
 複雑な事情があった。
 柴崎司の死亡後、剣崎はクロウ・カードという男に引き取られた。
 アーデルハイトは元々、クロウ・カードの持つ法の書と呼ばれる魔皇剣の精霊だった。
 クロウ・カードはアーデルハイトを娘と呼び、アーデルハイトはクロウ・カードを父と呼んだ。
 契約者同士であるというのに、それは奇妙な関係であった。
 クロウ・カードはアリスと言う名の娘を亡くしていた。
 それで、寂しさのあまり法の書の精霊を娘と信じ込み、アリスと呼んで娘として扱っていたのだ。
 クロウ・カードに家にはクロウ・カードとアーデルハイト、そして剣崎以外に桂原という男が住んでいた。
 桂原はクロウ・カードの娘であるアリスと婚約し、そして先立たれた。
 そんな経緯から、クロウ・カードが現実から逃げるように魔皇剣の精霊を娘の名で呼ぶことに苛立ちを隠さなかった。
 そのため、他の人間たちは桂原を刺激しないように、ドイツあたりでアリスに対応する名前、アーデルハイトと彼女を呼んでいたのだ。
 そんな複雑な事情を知らない二階堂は、深く考えず口を開いた。
「まぁ、みんなが呼んでるしアーデルハイトって呼んでも構わないかな?」
「はい、そう呼んでいただければ」
 嬉しそうに答えるアーデルハイト。
 お盆を手に、二階堂の腰掛けるコタツまでやってくると、アーデルハイトはコタツの上に皿を置いた。
 ついでにコップに入った牛乳も置く。
 皿の上には四つほどサンドイッチが乗っていた。
「朝食、サンドイッチでよろしいですか?」
「ありがたい、腹減ってたんだ」
 そう言って、早速サンドイッチに手を伸ばす二階堂。
 と、食べようとするがアーデルハイトが剣崎の部屋の扉を見つめていることに気付いた。
「あー、あいつは食うかねぇ」
 居心地悪そうに、低い声で言う二階堂。
 つい三十分前まで剣崎は泣いている沙耶をあやしていた。
 それで目が覚めた二階堂としては、一晩中寝てないと思われる剣崎が空腹を感じるほど元気でいるとは到底思えなかった。
「食わないと思うけど、どうする?」
「一応持っていきます、お腹すいたらすぐ食べれないと困りますし」
 そう言ってアーデルハイトは剣崎の私室の扉の前に立つ。
「戟耶くん、入っていい?」
「……どうぞ」
 小さい声が聞こえてきた。
 扉を開き、アーデルハイトは中に入った。
 暗い部屋。
 窓からさし込む光の中、沙耶を抱きしめながら剣崎は床に座っていた。
 沙耶の顔を見下ろす無表情な顔。
 暗いからよく見えないが、目の下に隈ができているように見えた。
「戟耶くん、朝食作ったんだけど」
「いらない」
 剣崎は答えた。
「私はいい、腹が減っていないんだ。それより、沙耶の朝食は?」
「うん、一応哺乳瓶に粉ミルクと、あとサンドイッチ持ってきたわ。これなら柔らかいし食べられると思うし」
「そうか、いろいろありがとう。助かっている」
 小さく頭を下げる剣崎。
 見ていられなかった。
 アーデルハイトは胸を締め付けられるようだった。
 せっかく忘れていたのに。
 須藤数騎であると信じることで、剣崎戟耶は幸せな毎日を過ごせていたのに。
 全部、退魔皇剣を巡る戦いのせいだった。
 こんな事件さえ起きなければ、剣崎戟耶は死ぬまで須藤数騎でいられたのだ。
 死ぬまで幸せで。
 死ぬまで罪を忘れて。
 でも思い出してしまった。
 罪を、苦悩を、そして過去を。
 柴崎司という理想を求め続けた剣崎戟耶は、理想の代価に押しつぶされ、結局剣崎戟耶に戻ってしまった。
 須藤数騎になるという選択肢もあったが、もはやそんな偽善にさえ剣崎は耐え切れなくなっていたのだ。
 アーデルハイトはベッドの上にお盆を置いた。
「食事、ここに置いておくから」
「ありがとう」
「……戟耶くんもちゃんと食べてね」
「腹が減ったら、いただくよ」
 力なく言う剣崎。
 アーデルハイトは思わず唇を噛んだ。
 腹が減ったら。
 そう言い続け、剣崎はカラスアゲハが死んだ夜から何も食べていない。
 水だけでも飲んでくれていることが数少ない救いだった。
 肩を落とし、部屋から出て行こうとするアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトの背中に、剣崎が声をかけた。
「アーデルハイト」
「何?」
 振り返って聞くアーデルハイト。
 言いにくそうに顔を背け、剣崎は言った。
「もし君にその気があるなら、私との契約を破棄してくれて構わない。赤の魔術師にでも頼んでみるといい。きっと君にお似合いの魔術師を探してくれるだろう」
「……なんで……そんなこと言うの?」
 叫びだしたかった。
 そんな事を言わないで。
 昔みたいに、夢でいっぱいの元気な声で私に話しかけて。
 そう言いたかった。
 叫びたい衝動を抑えるアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトに、剣崎は続ける。
「私は君の契約者にふさわしくない。私は君の父さんを殺してしまった、君の大切なものを……」
「戟耶くんは……私の事が嫌いなの?」
「違う……違うんだ……」
 首を横に振りながら、剣崎は答える。
「疲れたんだよ、もう。何もかもが嫌になったんだ。もう、私はダメなんだ。この子の面倒を見ることくらいしか、することがないくらいに」
 そう言って、沙耶のすこやかな寝顔を剣崎は見つめる。
 アーデルハイトは感情を押さえつけながら口を開いた。
「私は……お父さんをあなたに殺されたことを恨んでいないわ」
 こちらを見ず、沙耶の顔ばかり見ている剣崎に、アーデルハイトは続ける。
「お父さんのことをどうでもいいと思ってたわけじゃないの。でも、お父さんは生きるのがつらそうだった。生きて欲しいとは思っていたけど、私は早くあの世で娘さんと会える時が来るのを望んでいなかったとしたら嘘になる。それに、あの人はきっと満足してたと思う。あなたが本当に正しい道を選んでくれたから」
 唾を飲み込み、アーデルハイトは凛とした声を出した。
「お父さんが託し、あなたが望んだからだけじゃない。私がそう願ったから私はあなたを契約者に選んだの。それだけは忘れないで」
 懇願するように言うアーデルハイト。
 そんなアーデルハイトに、剣崎は何も答えない。
「ご飯、それで足りなかったら下にいつでも用意してあるから、お腹が減ったら降りてきてね」
「……わかった」
 答える剣崎。
 しかし、顔をアーデルハイトに向けることはない。
 扉を開き、アーデルハイトは剣崎の部屋から出た。
 寂しげな表情で、玄関に向かって歩く。
 途中、サンドイッチを口にほうばりながら、二階堂がこちらを見つめているのに気がついた。
 こちらを見る二階堂の驚いた顔で、アーデルハイトは自分が泣いていることに気がついた。
 手で涙を拭き、玄関から外に出るアーデルハイト。
 後ろ手で扉を閉め、そのまま扉に寄りかかる。
 冷たい風にさらされる木製の扉は、アーデルハイトの背中に冷たさを伝える。
 泣き出したかった。
 両手で顔を隠すように、アーデルハイトは背中を扉に預けたまま座り込む。
 そして、思い出していた。
 剣崎と初めて会った時のことを。
 柴崎司を失い、柴崎司と名乗るようになった剣崎は、すぐさまフランスにあるクロウ・カードに家に引越ししてきた。
 アーデルハイトはその時はじめて剣崎に会った。
 自己紹介の時、剣崎は自分の名前を剣崎戟耶と名乗ってしまった。
 とっさに剣崎は柴崎司だと訂正したが、アーデルハイトは面白がって剣崎のことを下の名前、戟耶くんと呼ぶようになった。
 それからの生活は楽しかった。
 仕事があるため、クロウ・カードと桂原は常に外出していたため、家の中では剣崎と二人きりになることが多かった。
 その頃のアーデルハイトは、精神的にかなり追い詰められていた時期だった。
 法の書の精霊は永遠に近い寿命を持つ。
 多くの人間と出会い、別れ、そして自分は死ぬことがない。
 死にたいと思う時もあった。
 自殺したいと思ったこともなかったわけではない。
 しかし、死ねなかった。
 死ぬのが怖かったからだ。
 ずっと家で一緒にいたこともあり、友達になっていた剣崎に、アーデルハイトは話した事があった。
 永遠に生きる事のつらさを。
 大切な人の死を何度も経験する苦しみを。
 そして、恐怖のために死ねない悲しさを。
 柴崎司になろうともがき、修行の毎日を送っていたとは言え、まだ幼かった剣崎は答えた。
「それなら、誰かが死ぬときに一緒に死ねばいいと思う。一人なら怖いけど二人なら怖くない」
 一人で寂しいから怖いのだ。
 一人でお化け屋敷に入ると怖いだろ、とでも言うように簡単に剣崎は答えた。
 それは心中で、あまり良く無い事だとは思いながらも、アーデルハイトはその言葉に感心していた。
 なるほど、それはそうだ。
 誰かと一緒に死ねるなら、それはどれほど心強いだろう。
 すでにこの身は幾千の時を生き続けている。
 死ぬことの恐怖を除けば、この世界にいることに未練などない。
 そこでアーデルハイトは尋ねた。
 じゃあ、自分は誰と一緒に死んだらいいのか。
 剣崎は答えた。
「養父さんと死ぬんじゃ早すぎる、養父さんはもう年だし、そんなに長くは生きないと思う。桂原もダメだな、あいつはリベル・レギスのこと嫌ってるし」
 この頃の剣崎はアーデルハイトを本当の名で呼んでいた。
 アーデルハイトと呼ぶようになったのは、付き合いが疎遠になってからだった。
 そんな風に口にした剣崎に、アーデルハイトは問う。
 じゃあ、誰ならいいの?
 そんなアーデルハイトに、剣崎は親指で自分を指差した。
「じゃあ、オレと一緒に死ねばいい。オレならきっと長生きするし、リベル・レギスのこと好きだから」
 もちろん、愛しているなどという意味で言ったわけではない。
 剣崎は幼かったため、言葉の選び方が適当だったのだ。
 だが、その一言がアーデルハイトにとってどれほど嬉しいものだったか。
 クロウ・カードからは娘でいることを半ば強制されて自分自身をさらけ出す事もできず、クロウ・カードの娘を装うために本来なら二十歳くらいの女性の姿であるのに、わざわざ子供の姿をしているアーデルハイトを、桂原は蛇蝎の如く嫌っている。
 本来の姿をさらし、クロウ・カードの娘以外の存在と自分を見てくれるのは剣崎だけだった。
 その剣崎がそこまで言ってくれたのだ、恐らくその気持ちはアーデルハイト以外にはわからないだろう。
 その言葉を聞いた直後、アーデルハイトは思わず泣き出してしまった。
 剣崎は大いに慌て、なんとかアーデルハイトをはげまそうといろいろ頑張った。
 恐らく、そんなことを今の剣崎は覚えていないだろう。
 その後、剣崎はさらに厳しい修行を繰り返し、魔術結社の精鋭部隊に所属、アーデルハイトに会う機会さえなくなっていった。
 それでも、アーデルハイトは耐えた。
 クロウ・カードのことを嫌っていたわけではない。
 しかし、自分が死んだ後、お前は剣崎と供に生きてくれとクロウ・カードに言われたことを覚えていたからだ。
 いつか剣崎と供に生きられる。
 だからこそ、自分を自分として扱わないクロウ・カードのそばで何年も生きる事に耐えられたのだ。
 そして、クロウ・カードは死んだ。
 クロウ・カードが死んだのは悲しかった。
 十年近い時を供に過ごしたのだ。
 その間、クロウ・カードは自分ではなくアリスとしてではあったが、アーデルハイトの事を愛し、接してくれた。
 それだけは間違いではなかった。
 しかし、後ろめたさを覚えながらもアーデルハイトは嬉しくもあった。
 ようやく剣崎と供に生きられる。
 供に生き、供に歩み、そして供に死ぬ。
 それがアーデルハイトの願いだった。
 しかし、クロウ・カードの死亡後、剣崎の精神は砕けかけていた。
 他人として生きる歪さに耐え切れなくなっていたのだ。
 アーデルハイトにはすぐに理解できた。
 同じだったからだ。
 アリスとしてクロウ・カードの側にあった自分と。
 柴崎司として生き続けた剣崎戟耶は同じだった。
 他人として生きなければいけなかった二人は、本当に似通っていた。
 精神的に追い詰められていた剣崎は、普段なら絶対にしないような逃避を望んだ。
 それは、自分ではなくなる事。
 アーデルハイトは協力して剣崎の記憶を消した。
 そして、須藤数騎になった剣崎の側にいることを選んだ。
 アーデルハイトはそれで十分幸せだった。
 そう、幸せだったのだ。
 須藤数騎と名乗り、過去の記憶を失っていたとは言え、剣崎と供に生きる事ができて嬉しかった。
 しかし、もうダメだ。
 剣崎は思い出してしまった。
 もう、楽しい日々は戻らない。
 涙が止まらなかった。
 声を殺し、アーデルハイトは泣き続ける。
 静かに泣き続けるアーデルハイト。
 が、扉の向こうからだというのに、その声は二階堂にはよく聞こえた。
 獣人の聴力は、獣化していないときでも冴えている。
 声を殺してはいるものの、丸聞こえだった。
 歯軋りする二階堂。
「何腐ってやがるんだ、あいつは」
 剣崎のいる部屋の扉を睨みつけ、二階堂は呟く。
 しかし、それで何が進展するわけでもない。
 二階堂は、それからしばらくアーデルハイトのすすり泣きを聞き続けた。
 気の滅入るような時間は、それから十数分続くのであった。







 暗き部屋に眠り続ける少女。
 浅黒い肌をしたその美しい女の子は、スワナンだった。
 柔らかそうなダブルベッドに一人眠るスワナン。
 目は覚まさない。
 睡眠薬を嗅がされ、眠りについているからだ。
 ベッドの傍らに椅子があった。
 その椅子に座るのは陣内だ。
 まるで宝石でも見つめるような目つきで、ベッドに眠るスワナンを見つめていた。
「あ〜、辛抱溜まりませんね」
 唾を飲み込み、スワナンを熱い視線で見つめ続ける。
「本当に美しい女性だ。早くその温かい肉体を維持し続けるために動き続ける心臓を止めて、冷たくなった彼女を抱きしめたいものです」
「あいかわらず君の趣味は理解し難いな」
 頭を抱えながら、傍らに立つイザナギが言う。
「せっかく美しい女性を捕らえたというのに、何故わざわざ殺す必要があるんだ? 生きているのを美味しくいただけばいいだろうに」
 不思議そうな顔でイザナギは陣内の顔を見つめていた。
 そんなイザナギに、陣内はため息をついてみせる。
「全く、何度説明してもわからないんですね、あなたは。いいですか、生きているということは、すなわちこの世界に魂を束縛されているということに他なりません。死は救いであるとともに解放を意味します。現世と言う鎖を解き放ち、この世界の束縛から逃れた彼女たちの美しさがわからないとは、あなたも悲しい人間ですね」
 あ、人間じゃありませんでしたね。
 今気がついたとばかりに、露骨に言う陣内。
 今度はイザナギがため息をつくほうだった。
「何をキレイな言葉で装飾しているんだか」
 あきれ果てながらイザナギは続ける。
「束縛? 解放? 馬鹿らしい。そんなうわべだけの言葉で私が納得すると思ったら大間違いだ。用はアレなんだろ?」
 一呼吸置き、哀れむような目でイザナギは陣内を見つめる。
「要するに、君は死んだ女相手でないとナニが勃たないのでは?」
「わかるんですか?」
「わかる、それくらいは。いったい君に何体の死体を処理させられたと思っているんだ?」
「いえいえ、その説はお世話になりまして」
 笑いながら頭を下げる陣内。
 イザナギの言う通りだった。
 陣内は、死体となった女性でしか性欲を発散できない体質の男だった。
 初めて死体を美しいと思ったのはいつだったか。
 恐らく、自動車に轢き殺され、内臓を飛び出させた猫を見たときが最初だったろう。
 それを見たときの陣内の興奮は言葉に表すのも難しかった。
 震える心臓で全身が揺れていた。
 激しい呼吸に意識が朦朧とし、身体が火照って熱が出たかと思った。
 ただ、一点だけ陣内は驚いていた。
 それは、固く膨張した自らの陰茎だった。
 友達がふざけて、勃起した時のそれを見せてきた時、陣内はなぜそれが固く大きくなるのかわからなかった。
 友達はみんなそれが大きくなるという。
 朝起きた時。
 性欲を掻き立てる本を読んだ時。
 しかし、陣内はそれを体験したことがなかった。
 勃起という現象を知らなかったのだ。
 しかし、それを知った。
 猫の死体を見た時、それを初めて体験した。
 それは心地よくて、もどかしい体験だった。
 陣内はその後も、その体験を求めた。
 どう頑張っても固くならない彼の陰茎は、彼が死体を見たときに限って固く、そして大きくなった。
 ようやく陣内は気付いた。
 自分は死体を見なくては勃起することができない異常な男だと。
 大人になり、女性と初めてベッドを供にした時、彼は勃起することができなかった。
 彼女の事を愛していた、しかし彼の陰茎は反応しなかった。
 勃起不全の彼を、愛した女性は見限った。
 夜の生活を供に出来ない男と付き合う気はなかったからだ。
 交際をやめようと彼女に言われたその日、陣内は生まれて初めて人を殺した。
 彼女の家のベッドで、彼女を絞め殺した。
 白目をむき、舌を口から飛び出させた彼女の顔を見て、陣内は自分の陰茎が固くなるのを感じた。
 そして、彼女があの日の夜に望んだように、優しく、そして激しく抱いた。
 それからだった、陣内の女性との付き合い方が変わるようになったのは。
 好みの女性を見つけると、陣内はその女性を拉致し、殺害した。
 そして、女性の身体から耐え切れない程の腐臭が生じるまで、愛し続けた。
 殺した後は三匹飼っている愛犬に細切れにして食べさせた。
 普段から餌を与えず絶食させていた犬は問題なく死体を処理してくれた。
 骨まで食べてくれるのだ、至れり尽くせりだった。
 それでも死体の処理は困難を極めた。
 あまりに愛しすぎた場合、完全に腐らせてしまい、犬で処理できないからだ。
 そんな場合、陣内は遠いところまで彼女を埋めに行かねばならない。
 それはあまりにもスリリングすぎる体験だった。
 しかし、そんな生活はイザナギとの出会いによって変わった。
 彼はその矛の力で死体をあっという間に消し去って見せた。
 陣内は完全無欠になった。
 祖父から受けついた魔術は、どちらかというと戦闘向きのものが多く、死体の処理には役にたたなかったからだ。
 イザナギとの出会いに、陣内は心から感謝していた。
「これからもよろしく頼みますよ、イザナギ」
「何を今さら改まって」
 怪訝な顔をするイザナギ。
 そんなイザナギの顔を見て笑みを浮かべながら、陣内は椅子から立ち上がる。
「もう見なくていいのか?」
 聞くイザナギ。
 そんなイザナギに、陣内は息をつきながら答える。
「これ以上、彼女の顔を見つめ続けているとすぐ殺してしまいそうなので部屋を出ようと思いまして。彼女は今日の夜のメインディッシュと決めていますから」
「なるほど、いい考えだ。君の自制心は君が思っているほどに強固ではないことでもある」
「それはひどい言われようですね」
「事実だろう?」
「否定はしません」
 そう言って薄く笑うと、陣内は部屋から出て行った。
 後に続き、イザナギも部屋を出る。
 扉が閉められ、暗い部屋にはスワナンのみが残る。
 この後自分がどんな目にあうとも知らず、スワナンは静かに眠り続けるのであった。







 昼過ぎ、二階堂はコタツに入ったままテレビを見ていた。
 コタツの上にはミカンと緑茶。
 テレビは奥様向けのバラエティ番組。
 剣崎の部屋だというのに、二階堂は電気代も気にせずエアコンとコタツに電源を入れ、快適な時間を過ごしていた。
 昼食は終わったばかりで、二階堂は胃の中身までご機嫌だった。
 番組も終わりが近づき、翌日のゲストを紹介したところでエンディングに入る。
 それまでは真剣に見ていた二階堂だったが、次の番組がつまらないとわかると、リモコンを手にチャンネルを変更する。
 ろくな番組がやっていなかった。
 仕方無しにテレビを消す。
 そして剣崎の私室の方に視線を向けた。
 あいかわらず部屋に引きこもる剣崎は、その拒絶を閉じきった扉で示していた。
 たしか一時間前に沙耶が泣き出し、剣崎が必死にあやしている声が聞こえてきた。
 食事はちゃんととっているのだろうか。
 二階堂は少しだけ心配した。
 しかし、剣崎が自分を拒絶する以上、どうするわけにもいかない。
 なにしろ、こちらは現実逃避のために剣崎を二度も殺そうとしているのだ。
 顔を合わせずらいったらありゃしない。
 と、その時だ。
 ノックの音が聞こえた。
「どうぞ、アーデルハイトさん」
 二階堂がそう言うと、扉が音を立てて開いた。
「お初お目にかかる」
 扉が開くと同時にそんな声が聞こえた。
「ここが須藤数騎の家に相違ないだろうか?」
 凛としたその声。
 身長と子供らしい顔つきに似合わず、はっきりと意志のこもった強い声。
 その来訪者を見て、二階堂は目玉が飛び出しそうなほどに驚いた。
「……ロンギヌスか?」
「おや、私を知っているのですか?」
 二階堂ほどではないが、驚いてみせるロンギヌス。
「私とあなたは初対面だと思うのですが」
「いや、お前はオレを知ってるはずだぜ」
「申し訳ないが、あなたとお会いしたことは……」
 そこまで言って、ロンギヌスは該当する人物が一人いることに気がついた。
「……轟雷の退魔皇ですか?」
「ご名答だ、久しいな」
「全くです、もっとも再会したいとは露とも思いませんでしたが」
「お互い様だ。で、今日は何の用だ? 柴崎……じゃなくて剣崎に用事でも?」
「すまないが、剣崎という人物に心当たりがない。私はここが須藤数騎の自宅であると聞いてやってきたのだが」
「……あぁ、そうだったな。ちょっと待ってろ」
 立ち上がろうとし、その前に聞いておくことにした。
「で、何の用なんだ?」
 尋ねる二階堂。
 そんな二階堂に、ロンギヌスは苦渋に満ちた声で搾り出すように言った。
「開闢の退魔皇の殺害に協力してもらいにきた」







「で、つまりお前の契約者は攫われちまったわけか」
 二階堂は腕を組みながらそう口にした。
 コタツのある剣崎の部屋。
 二階堂はコタツに腰掛け、剣崎、アーデルハイト、ロンギヌスの三人は地面に座りながら会議をしていた。
 とりあえずロンギヌスの相談に応じるべく、二階堂は関係者である剣崎とアーデルハイトを呼び出した。
 剣崎はロンギヌスと会うのを渋っていたが、二階堂が力ずくでつれてきたのだ。
 腕力で獣人に敵う者は少ない。
 学寮にいる関係者を集めたところで、ロンギヌスはようやく何が起こったかを説明しはじめた。
 坂口が撃破されたこと。
 坂口の退魔皇剣が奪われ、陣内が六振りの退魔皇剣を所持していること。
 負傷した坂口を美坂病人に入院させたこと。
 そして、スワナンが陣内に攫われてしまったこと。
「それにしてもとんでもないことになったな、開闢の退魔皇が六振りも手にしたのか。過半数以上じゃねぇか」
 驚きを隠さない二階堂。
 そんな二階堂に、ロンギヌスは必死の表情を見せる。
「そう、開闢の退魔皇はもとより所持する開闢の他に、界裂、極炎、魔伏、天魔、そして轟雷を手に入れた。間違いなく現時点最強勢力だ」
「で、お前は戮神を一振り、しかも仮面を砕かれて魔装合体できないと」
「その上、ついさっき契約者との通常契約も解呪された。退技も使えない」
「さらにひでぇな」
 現状の悲惨さにため息をつく二階堂。
 しかし、ロンギヌスの表情はそこまで落ち込んではいなかった。
「こうなってはスワナンと仮面契約していないことが不幸中の幸いだ。仮面契約した状態で仮面を砕かれた場合、私はこうして現世に具現化する力を失うが、契約に使用していない仮面を砕かれただけで具現化に問題はない、ないが……」
 言いよどみ、続ける。
「供に戦う人間を見つけても私は魔装合体することが出来なくなった。皇技なしで陣内と戦う必要があるんだ」
「でも、開闢の退魔皇のせいでスワナンとの通常契約も切れちまったんだろ。退技も使えないお前がどうやってあの化物に勝てるんだ?」
 そう、ロンギヌスは元から使えなかった皇技はおろか、退技さえも使用不可能になっていた。
 魔装合体すれば皇技と退技を、通常契約すれば退技を使える。
 しかし、武器とは使い手がいて初めて力を放つものであり、使い手のいない武器は置物にほかならない。
 精霊付きの退魔皇剣であるためロンギヌスは行動可能で、しかも戦闘までこなすが、奥の手である皇技、牽制および決めの一撃である退技さえないのは陣内を相手にするにあたり、不利などという言葉がかわいくなるほどの悲惨さであった。
「たしかに、契約者を失った私では開闢の退魔皇に勝ち目はない。だからこそここに来た」
 そう言って、ロンギヌスは剣崎の顔を見る。
「須藤数騎、折り入って頼みがある。どうか、私と通常契約し、ともに戦ってはくれないだろうか」
 そう、ロンギヌスが来たのはそれが目的だった。
 スワナンを助け出すには最低限、退技くらいは使えないと話にならない。
 使えないのなら、新たな契約者を探せばいい。
 ロンギヌスの逆襲を警戒して、陣内はスワナンとの契約を断ち切っていた。
 であるなら、ロンギヌスには新たな契約者が必要となる。
 だからこそ来た。
 スワナンにそれなりの好意を持っている剣崎の元に。
 期待のまなざしを向けるロンギヌス。
 しかし、剣崎はロンギヌスの顔を見ようともせずに口を開いた。
「……悪いが断らせてもらう」
「なっ!」
 大声をあげた。
 驚いたからだ。
 信じられなかった。
 一度会話を交わしたとき、ロンギヌスは剣崎の人格を見抜いていた。
 この男なら力を貸してくれる。
 この男なら、命がけでスワナンを助ける手伝いをしてくれる。
 そう信じて、ロンギヌスはこの部屋を訪れたのだ。
「待て……もう一度言ってくれないか?」
 驚きを抑え、何とか言葉を紡ぐロンギヌス。
 そんなロンギヌスに、
「帰ってくれ、お前の頼みは断らせてもらう」
 冷たく、感情もこめずに剣崎は言い放った。
 ロンギヌスは顔を引きつかせるしかなかった。
 どうしたものとかと視線を彷徨わせ、決心して剣崎に言う。
「聞いてもらったと思うが、スワナンが攫われた。お前も知るあのスワナンだ。お前が私に守れと言い、私が無様にも守りきれなかったスワナンだ。開闢の退魔皇は私に今日の夜、スワナンを殺すと言っていた。今日の夜までしか時間がないんだ。頼む、協力してくれ」
「多分、そいつの言う事は本当だぜ」
 ロンギヌスに続いて、二階堂が言った。
「開闢の退魔皇、たしか陣内秋彦とか言ったか。大手製薬会社の社員で課長代理、三十四歳で独身。趣味は野球観戦。好きなチームは赤ヘルだったか」
「なぜそこまで知っているんだ?」
 驚いて聞くロンギヌス。
 そんなロンギヌスに、二階堂は笑みを浮かべてみせる。
「オレは情報屋だぜ、他の退魔皇の情報は全部調べつくしてある。一人だけ知らない奴がいるが、まぁ今は関係ないな」
 言葉を切り、続ける。
「で、問題なんだが。多分この男はあれだぞ、死体愛好家だ」
「死体……愛好家?」
「あぁ、何でもこの男、死体とヤるのが趣味らしい。死体を見て興奮するとか言ってたかな」
「そんな情報をどこで?」
「陣内の主治医から聞いた」
「主治医?」
「精神科のお医者さまだ、十数万握らせたら饒舌になってくれたよ」
 尋ねるロンギヌスに、二階堂は指を振りながら答える。
「死体を見ると興奮するだの、死体を見ながら自慰をするなど、果てには死体になった女と交わりたいなど、いろいろ危ない事を告白しているらしい」
「死体と交わりたいと言っているだけのように聞こえるが?」
「調べてみたら、何年か前にあの男と交際のあった女性が死んでいる。知り合いの女性も何人かだ。死体は見つかってないが、多分殺してヤったんだろうな。想像はつく」
「でも、想像にすぎないのでは?」
「あぁ、想像にすぎなかった。でもお前の言葉で確信に変わったよ。『あまりに美しい女性でしたので、とびきりの夜を供に過ごしたいと思いまして。思わず攫ってしまいました』だっけ? あとは『明日の夜に殺す』だったか? これだけで十分だ。明日ヤるために明日の夜まで生かしておいて殺すってところか。物騒な話だ」
「死んだ女性と交わって……嬉しいものなのか?」
「さぁな、そこらへん正常な思考をしてる人間にゃ理解できねぇよ。でもな、どこにでもそういう変な奴はいるもんだ。あいつはその一人に過ぎない、それだけだ」
 二階堂の的を射た発言。
 それを聞き、ロンギヌスはいてもたってもいられなかった。
 昨晩は連戦連夜、退技を使い続けた上に、直撃でなかったとは言え離閃の爆風をくらい、重傷を負った身体で最後の力を振り絞り、坂口を病院に入院させた。
 スワナンのアパートに帰った後、ロンギヌスは死んだように眠った。
 おかげで昼まで眠ったが、肉体の疲労と輝光の消耗は戦闘可能なまでに回復した。
 しかし、心配だった。
 明日殺すと言ってはいたが、陣内がいつスワナンを殺すか気が気でなかったのだ。
 目を覚ますやいなや、剣崎の輝光を思い出しながらこのアパートを見つけ出し、そこでこんな話をされてはロンギヌスの心境は決して穏やかではない。
「須藤数騎!」
 叫んだ。
 聞くのもいやになりそうな、必死な声で叫んだ。
「スワナンを救いたい、彼女の温かい身体を冷たくさせたくない。あの男の慰みものになるよりも早く、彼女を救いたいんだ!」
 手を握り、剣崎の顔を見つめる。
「私と……供に戦ってくれ……」
 しかし、剣崎は返事をしようとはしない。
 ロンギヌスはさらに続けた。
「いや、一緒に戦わずとも構わない。せめて、私と通常契約を交わしてくれ。そうすれば、私一人でも戦える」
 それは最低限の協力だった。
 退魔皇の精霊は契約者が側にいるほうがより大きな力を出せる。
 エアも言っていたことだった。
 ただでさえ退技しか使えそうになく、せめて少しでも全力に近づけようと思っていたロンギヌスはその僅かな優位さえ捨てて剣崎にすがった。
 だが、
「断る、何度も言わせるな」
 そんなロンギヌスの切なる願いを、剣崎は一蹴した。
「私には関係ない」
「頼む!」
 すがるように、ロンギヌスは頭を下げた。
 そんなロンギヌスに、剣崎は言う。
「何で私がお前に協力しなくちゃいけないんだ?」
「礼ならなんでもする。金が欲しいならいくらでも払おう。ほら、金はある。宝石だってこれだけある」
 ロンギヌスは持ってきていた金品を全て床に並べた。
 二階堂も目を見張るほどの大金。
 それは二千年前に、妹を救おうとして手に入れた金だった。
「全部やる、足りなければいつか稼いでお前に渡そう。だから、お願いだ」
 剣崎の腕を掴み、ロンギヌスは続ける。
「私に力を貸してくれ」
「うるさい!」
 叫び、剣崎はロンギヌスの手を払った。
「お前の契約者なんか知ったことか! 何で私にそんな事を頼む!」
 睡眠不足で気がたっていた。
 剣崎は容赦なく続ける。
「だいたい、スワナンが攫われたのだってお前のミスだろうが。お前が油断していたからスワナンは攫われたんだ。お前の失態だ」
「……その通りだ」
 つらそうにロンギヌスは言う。
 剣崎はさらに言った。
「何が武人だ、なさけないやつめ。女一人守れなくてなにが武人だ! スワナンだと? 知るかそんな女! テメェのケツくらいテメェで拭け。赤の他人の私に図々しく命をかけてくれなど抜かしてもらいたくないな!」
 舌打ちをする剣崎。
「無様な野朗だ」
「テメェ!」
 聞いていられなかった。
 立ち上がり、剣崎の服の襟を掴みあげると、二階堂は剣崎を無理矢理立たせた。
「言いすぎだ、剣崎!」
「いいじゃないか、私は本当のことしか……」
「腑抜けてんじゃねぇ!」
 叫び、二階堂は剣崎を殴り飛ばした。
「そんなんじゃなかっただろ、お前は。そんなんじゃ!」
 悲痛な声で搾り出すように言う剣崎。
 そんな二階堂に見下ろされながら、ふんばることもなく剣崎は床に転がる。
 そして、ゆっくりと身体を起した。
 殴られた頬を押さえる。
「出て行け……」
 小さな声。
「出て行け!」
 今度は大きな声で剣崎は言った。
「出て行け、ここは私の部屋だ。さっさと出て行けよ!」
 地面を殴りつけながら叫ぶ剣崎。
 そんな剣崎を見下すような視線で見る二階堂。
「あぁ、出て行ってやるとも。お前がそんな見下げ果てた野朗だとは思わなかったぜ」
 舌打ちし、剣崎に背を向ける。
「行くぞ、ロンギヌス。オレでよければ契約してやる」
「本当か?」
 途端に晴れ渡るロンギヌスの顔。
 そんなロンギヌスに、二階堂は力強く頷く。
「応とも、剣崎ほどの実力はないかもしれねぇが。隣で戦うくらいのことはしてやれるぜ」
「かたじけない、あなたにとっては見ず知らずの女性のために」
「女のために命を賭ける男は嫌いじゃない。ぜひとも応援したくなるね」
「ありがたい、なんと感謝すればいいか」
 難しい顔をしながら微笑むロンギヌス。
 そんなロンギヌスに二階堂は答えた。
「なーに、オレにだって得がないわけじゃない。お前と戦って上手く陣内を撃破できればオレは七振りの退魔皇剣を持つ退魔皇だ。皇技が使えるとは言え、二振りの退魔皇剣しかもたない双蛇ごときじゃ怖くねぇよ」
「そう言っていただけると」
 どんなに私の心が救われるか。
 みなまで言わず、ロンギヌスは二階堂に頭を下げた。
「さぁ、行こうぜ。お前の元・契約者が夜に殺されるってことは、それまでに仕掛ける必要がある。夕方が狙い目だな、奴のアパートに奇襲を仕掛ける。それまでは準備だ、襲撃にはいろいろとしておかないといけない準備ってもんがあるからな」
 そう言いながら、玄関に向かう二階堂。
 一度だけ振り返った。
「お前がそんな野朗だとは思ってもみなかった」
「お前が勘違いしていただけだ」
 冷たく答える剣崎。
 そんな剣崎を、二階堂は睨みつける。
「だろうよ」
 吐き捨てるように言い放つと、二階堂はそのままアパートから出て行く。
 悲しそうな目で剣崎を見ながら、ロンギヌスも二階堂の後に続いて出て行ってしまった。
 足音が遠ざかる。
 しばらくすると、完全に聞こえなくなった。
「戟耶くん」
 会話に一度も参加していなかったアーデルハイトが、剣崎に話しかけた。
「何だ」
 答える剣崎。
 うつむく剣崎の顔は、あまりに虚ろだった。
「あの……私……」
 話しかけたが、何と言えばいいかわからない。
 そんなアーデルハイトに、剣崎は言った。
「出て行ってくれ、誰の顔も見たくない」
「……わかった」
 悲しそうに、アーデルハイトは答える。
 玄関に向かい、扉を開く。
 もう一度だけ剣崎を見て、アーデルハイトは口を開く。
「私、買い物行ってくるから。お腹すいたら、下の部屋に料理はあるから」
「………………」
 そんなアーデルハイトの言葉に、剣崎は何も答えなかった。
 返事はない。
 それを理解し、アーデルハイトは扉を閉めた。
 少しだけ泣いた。
 剣崎は変わり果てた。
 もう、自分をリベル・レギスと呼んでくれた日々は、戻ってはこない。
 それを理解してしまったアーデルハイトは、静かに涙を流した。
 そして、ゆっくりとした足取りで、階段を降りていくのだった。







 真っ赤になってしまった鼻が元の色に戻るのを待って、アーデルハイトは買い物に出かけた。
 そろそろ冷蔵庫の中身が少なくなってきたからだ。
 補充しなくてはいけない。
 そうしないと、剣崎のために料理を作ってあげることができない。
 例え食べてくれなくても、剣崎の料理を作ることがアーデルハイトにとっての仕事の一つだった。
 これまでは楽しかったのに。
 道を歩きながら、アーデルハイトは泣きそうだった。
 剣崎が須藤数騎だった頃は、何もかもが上手くいっていたのに。
 思い出し方が悪かったのだ。
 もし、記憶を取り戻したのがカラスアゲハを殺害する時でなければ。
 そうすれば、沙耶という赤ん坊の両親を殺したという自責の念に捕らわれなくてよかったのに。
 そんな風に考えているうちに、スーパーについた。
 今日は何を作ろう。
 すぐに頭を切り替えた。
 商品を見て歩きながら思った。
 そうだ、今日は戟耶くんの好きなピザにしよう。
 それなら、さすがに食べてくれるかもしれない。
 何を作っても食事を取らない戟耶のために、アーデルハイトはいろいろな具材を買い込んだ。
 これだけ種類があれば、どれか一つくらいは食べたくなるだろう。
 そう考えたからだ。
 ビニール袋いっぱいに食料を詰め、アーデルハイトは会計を済ませてスーパーから出た。
 あとは帰るだけ。
 問題は、ピザを作っても剣崎が食べてくれるかわからないことだけだった。
 牛乳などで重くなってしまった袋を、アーデルハイトは重たそうに両手で持ちながら頑張って歩いていた。
 学寮と商店街をつなぐ道は人気がなかった。
 だからこそ、それは起きた。
「え?」
 驚く。
 突如として、目の前の景色が変化した。
 右にあったものが左に。
 左にあったものが右に。
 鏡内界にとりこまれたのだ。
 輝光の気配がする。
 とっさに振りむいた。
「あっ……」
 遅かった。
 胸に走る衝撃に、アーデルハイトは気絶して倒れる。
 アーデルハイトの持っていたビニール袋が地面に落ち、中身が地面にぶちまけられた。
 精霊とはいえ実体化している以上、現実の肉を持つ身体だ。
 急所を殴られれば昏倒もする。
 倒れるアーデルハイトの前に、立ち尽くす姿が一つ。
 蛇の仮面をかぶったその人物。
 それは双蛇の退魔皇だった。
 その目の前で、アーデルハイトの身体が光り輝く。
 そして、見る見るアーデルハイトの姿が消え去り、代わりに古びた本が地面に転がった。
「なるほど、精霊が実態を保てなくなると、魔皇剣だけが残るわけね」
 双蛇の退魔皇はそう口にし、アーデルハイトの宿る本を拾い上げる。
「さて、いろいろ協力してもらうわ。人々を救うために」
 そう言って、双蛇の退魔皇はコートの中にその本をしまいこむ。
 そして、鏡内界を消滅させた。
 鏡内界が崩壊し、現実世界に戻る双蛇の退魔皇。
 仮面を外し、それをコートにしまいこむと、そのまま黙って歩き出す。
 その光景を、誰も見ているものはいなかった。
 こうして、白昼堂々と行われた誘拐劇は幕を閉じる。
 夕方が近づいていた。







「ふぅ」
 剣崎は大きくため息をついた。
 二階堂たちが部屋を出て行った後、またしても沙耶が泣き出したのだ。
 オムツに出した便を処理し、お尻をキレイにしたあと新しいオムツを穿かせ、ついでに腹が減っているようだったのでアーデルハイトが剣崎のために用意していた昼食を与えた。
 お腹がいっぱいになった沙耶は、剣崎に遊んでくれるようにせがみ始めた。
 まだ二日やそこらしかたっていないというのに、ずいぶんなついたものだなと思いながら、剣崎は沙耶と積み木遊びをした。
 積み木を口に入れようとしたところを制止することおよそ十四回。
 積み木を部屋の隅に放り投げたのを取ってきてあげること二十三回。
 ようやく遊びつかれた沙耶は、積み木を抱きしめたまま眠りだしてしまった。
 剣崎は眠った沙耶を優しく抱きかかえると、自分の私室に移したベビーベッドの中で寝かせた。
 柔らかい寝顔。
 その寝顔を見つめているうちに、剣崎は心が穏やかになりはじめていた。
 もう、この世界で起きていることに関わりたくなどなかった。
 誰も側にいて欲しくない。
 世界に誰もいなくて、自分一人だったらどれほど煩わしさがないだろう。
 それでも、一人だけいて欲しいと思った。
 沙耶だ。
 この赤ん坊は、自分の罪を知らない。
 言わなければいい。
 この子の両親を殺したのが自分などと言わなければ、この子は自分を恨みはしないだろう。
 そうだ、自分のことを誰も知らない、どこか遠くの国に行こう。
 そうすれば自分の罪を知る人間はどこにもいなくなる。
 寂しくはない、沙耶を一緒に連れて行けばいい。
 そうだ、この子さえいればそれでいいではないか。
 この子さえいれば。
「くそぅ……」
 突然目頭が熱くなってきた。
 それと一緒に、涙が頬を伝う。
 どうしてこんな事になってしまったのか。
 苦しかった。
 こんな情けない考えが頭に思い浮かんでしまうほどに、自分自身を苛む罪深さが。
 消えない過去。
 消せない罪。
 胸が苦しかった。
 心臓が高鳴る。
 ストレスが原因だろうか。
 剣崎は胸を押さえながら、その場で蹲った。
 苦しかった。
 動悸が激しい。
 そのまま倒れこみ、苦しそうにあえぐ。
 どれほどそうしていただろうか。
 深呼吸をし続け、ようやく剣崎は苦しみから解放された。
 あえぐように呼吸しながら、剣崎はベッドに背を預け座り込む。
 さらに十分間休憩をとると、ようやく身体は回復した。
 同時に理解する。
 回復が思ったより早い。
 病気などではない、精神的なものだ。
 心が落ち着けば治る。
 落ち着かなければ苦しむ。
 今はいいが、これが続くと落ち着いている時もこうなる可能性がある。
 なんとかしなくては。
 剣崎は思った。
 その時だった。
「あ……」
 胃が鳴った。
 いや、鳴ったのは何もこれが初めてではない。
 カラスアゲハを殺した日の次の朝から、剣崎の胃は空腹を訴えていた。
 が、剣崎は無視した。
 何かを食べようと考えるたびに、カラスアゲハの死に顔を思い出したからだ。
 その顔を思い出すたびに、胸が苦しくなり空腹感が去っていくのだ。
 しかし、絶食二日目ともなるとさすがに空腹に耐え切れなかった。
 水は飲んでいたが、健康な青年が食事を抜くなど耐えられるものではない。
 しかも睡眠不足だ、すでに睡眠を絶って何十時間になるだろうか。
 胸が苦しくて眠れないのに加え、沙耶の夜泣きが効いている。
 不眠に陥っていた。
 もう限界だった。
 身体も理解していた。
 だから剣崎は立ち上がる。
 何か食べよう、そう思った。
 ふとベッドを見ると、沙耶が食べつくして空になった昼食の皿。
 それを手に、剣崎は私室の扉を開き、外に出る。
 コタツのある居間には、二階堂の姿はなかった。
 昼にロンギヌスと出て行ったからだ。
 その事実に少しだけ胸を痛め、剣崎はそのまま玄関から部屋の外に出た。
 アーデルハイトの部屋に行き、合鍵を取り出すと鍵を開けて中に入る。
 誰もいない暗い部屋。
 電気をつけ、剣崎は中を進んでいった。
 そして見つけた。
 テーブルの上においてあるサンドイッチを。
 確か朝食で持ってきてもらって、そのまま手をつけなかったためにアーデルハイトが持って帰ってしまったものだ。
 剣崎は上にかけてあるサランラップを外し、ハムとチーズを挟んだサンドイッチを手に取り、かじりついた。
 口の中に広がるハムとチーズの味、そしてパンの芳醇な匂い。
 おいしかった。
 胃が鳴り始める。
 もう止まらなかった。
 絶食を続けていた胃袋は、瞬く間に最初のサンドイッチを剣崎に平らげさせた。
 さらにもう一つ。
 そしてもう一つ。
 剣崎はサンドイッチを食べた。
 おいしかった。
 泣きながら、剣崎はサンドイッチを食べる。
 ありがたかった。
 物を食べる事ができるのがありがたかった。
 生きて何かを口にすることがありがたかった。
 死んでいなくて。
 自分が殺した人間たちのように、死んでいなくて生きていることがありがたかった。
「うぅ……」
 涙を拭き、剣崎はさらに食べる。
 いつもの味だった。
 絶食を始める前、毎日食べ続けていた味だ。
 ここニ年だけではない。
 もっとずっと前から。
 クロウ・カードの家を飛び出す前、アーデルハイトと一緒に暮らしていた時。
 彼女をリベル・レギスと呼んでいた頃に、毎日食べ続けていた味。
「そうか……」
 涙を拭う。
「いつも一緒にいてくれたのか……」
 幼い頃。
 たった一人でフランスにいて言葉も通じず寂しかった時。
 そして、全てを失いボロボロになって、須藤数騎と名乗って現実から逃げた時も。
 アーデルハイトはずっと剣崎の側にいた。
「どうすればいいんだ……」
 すでにサンドイッチはなくなっていた。
 剣崎は頭を抱えるようにして机に突っ伏す。
「私は、どうすればいいんだ……」
 何もかも失ったと思っていた。
 罪に苛まれて死のうとさえ思った。
 それでも、一人ではなかった。
 そばに彼女がい続けてくれた。
「でも……私は……」
 涙が止まらない。
 アーデルハイトの存在を感じられた嬉しさと。
 自らの許し難い罪。
 それが入り混じって、剣崎は涙を止めることが出来ない。
 どれほど泣き続けただろうか。
 ようやく考えがまとまった。
 謝ろう。
 どうすればいいかわからない。
 でも、とりあえず謝ろう。
 次に感謝しよう。
 アーデルハイトに。
 いつでも自分を助けてくれた女性に。
 自分は謝罪と、そして感謝をしなければならない。
 自分の罪について、どうしていいかはわからなかった。
 罪など償いようがないものだ。
 どうお詫びしようとも、害を加えた事実は消え去らない。
 なら、謝るしかない。
 そして、相手がどんな対応をしようと、自分が納得するまで謝る。
 それでも許されなければ、適当なところで自分で納得すればいい。
 結局、それが答えだったのだろう。
 なんて単純で、そしていい加減な答え。
 でも、真理なんてきっとそんな簡単なことなのだろう。
 苦しみ、嘆き、そしてもがいた。
 そんな剣崎が、考えに考え抜いた答えがそれだった。
 一つだけ決めた。
 ならせめて、相手が自分に何かした時、なるべくそれを許してあげよう。
 許せない時は仕方ないが、許せる時は許してあげよう。
 きっとそうやって、恩にしろ罪にしろ、人間は清算を済ませずに死んでいくのだ。
 だから、他の人間が自分に何かしたりしてされたりした時も、別の人間に返すのだと思うしかないのだろう。
 そう考え、剣崎は深く息をついた。
 ようやく解放された気がした。
 その答えに辿り着くのが、本当に難しかったから。
 それでも見つけた。
 なら、その答えを信じてに生きていこう。
 まずは謝らないと。
 剣崎は時計を見た。
 アーデルハイトはいつ部屋を出たのだろうか。
 恐らく買い物だろうか。
 なら、三十分も待てば帰ってくるだろう。
 そう考え、剣崎は椅子に座ったままアーデルハイトの帰りを待っていた。
 二日絶食の後だったので、あの程度のサンドイッチでは全然足りなかった。
 アーデルハイトが帰ってきたら、謝って、感謝して、そして図々しいかもしれないけど、何か食べるものを作ってもらおう。
 そう思った。
 しかし、いくら待っても帰ってこない。
 心配になった。
 剣崎はポケットに入れていた携帯電話を手に取る。
 アーデルハイトに連絡を入れるべく、アドレス帳を開いた。
 その時だった。
「なっ」
 携帯が震えた。
 画面にはメールの着信が伝えられていた。
 メールを開く。
 無題。
 しかし、何かの送付データが。
 剣崎はとっさにデータをダウンロードする。
 そして、見た。
 鎖で縛りつけられ、柱に拘束されたアーデルハイトの姿を。
 メールには写真が送付されていたのだ。
 写真のアーデルハイトがいるのはどこかの部屋だろうか。
 しかし、いったい誰がこんなことを。
 剣崎の疑問よりも早く、再び携帯が震える。
 次は電話の着信だった。
「もしもし!」
 勢いよく電話に出る。
「メールは見たかしら?」
 電話の向こうから声が尋ねてくる。
「見た。お前、アーデルハイトに何をした!」
「攫わせていただいただけよ、見ての通り傷はつけていないわ。監禁して、動けないように能力を封じているだけ。他に質問は?」
「お前は誰だ?」
「双蛇の退魔皇」
 その言葉に、剣崎は動揺する。
「ちょっと待て、退魔皇?」
「そうだけど」
「何だって退魔皇がアーデルハイトを誘拐するんだ」
「あなたに用があったからよ」
「私はもう退魔皇ではないんだぞ」
「そうよ、退魔皇でなくなったあなたに用があるの。仮面使いさん」
 その言葉に、剣崎は一瞬言葉を失う。
 唾を飲み込み、深呼吸して聞く。
「私を知っているのか?」
「それなりにはね。でも、今はあなたが仮面使いなどということなどどうでもいいわ。それよりも頼みがあるの」
「断ると?」
「あなたの大切な法の書、別に焼き捨ててしまっても構わないのよ」
「拒否権はないと?」
「無くはないわ。その場合、彼女とは二度と会えなくなるだけだけど」
「同じようなことだ!」
 怒りを露に、剣崎は大声を出した。
「いいだろう、お前の頼みとやらを聞いてやる。私に何をして欲しい」
「戮神の精霊と契約しなさい」
「何?」
「戮神の精霊と契約しなさいと言ったの。開闢の退魔皇は魔伏を所持しているわ。界裂も向こうの手にある以上、戮神以外に現状を打破できる退魔皇剣はないわ」
「そうかもしれないが、私が契約したところで焼け石に水だ。それに、もう別の人間が契約している」
「なら代わってもらいなさい」
「簡単に言うな」
「言うのは簡単なのよ」
 気楽に口にする双蛇の退魔皇に、剣崎は苛立ちを覚えた。
 しかし、ギリギリのところで自分を抑える。
「いいだろう、やれるだけやってみよう……待て!」
 剣崎はとっさに時計に目をやった。
 現在の時刻は午後四時。
「マズイぞ、双蛇の退魔皇」
「どうしたの?」
「タイムリミットが近い、戮神の退魔皇が動くぞ」
「どういうこと?」
「戮神の契約者が開闢に捕らえられている。戮神の退魔皇は彼女を奪還するつもりだ。夕方に奇襲をかけると言っていた」
「すでに動いている可能性もあると」
「多分ギリギリまで待つと思うから、四時半から六時だろう。まだ夕方にはなってない」
 そう、まだ何とか太陽はオレンジの輝きをともなっていない。
 あと三十分は時間に余裕があった。
 やることが決まると、剣崎の脳は高速で回転し始めた。
「双蛇の退魔皇、策がある」
「策?」
「乗るか?」
「言ってみて」
 剣崎は手短にその作戦を伝えた。
 感心し、電話の向こうで感嘆の声を漏らす双蛇の退魔皇。
「なるほど、それなら勝機もあるかもしれない」
「それしか勝ち目が無い、どちらにしろ時間の勝負だ。どこまで体勢を整えて開闢の退魔皇とぶつかれるか」
「足は用意するわ、あなたは駒を用意して」
「了解だ」
 そう言って、剣崎が電話を切る。
 そのままアーデルハイトの部屋から足早に出て行った。
 階段をのぼり、自分の部屋へ。
 そして、扉の前。
 鎖と南京錠で閉ざされた、開かずの扉の前に立つ。
 鏡内界では破壊されたが、現実世界では未だに過去を閉ざし続けるその扉。
 拳を握り締める。
 そして、叩き付けた。
 輝光で強化した拳に、扉がへこみ亀裂が入る。
 拳を引き、もう一度扉に拳を打ち込む。
 砕けた。
 小さな爆発音が聞こえた気がした。
 扉は真っ二つにへし折れ、木の破片を宙に舞い上がらせる。
 鎖が床に落ちた。
 重い音と供に、南京錠が床に転がる。
 小部屋の中に入った。
 壁を覆いつくす仮面。
 そして、目の前の台座の上に置かれた、彼が過去に使用した武器の数々。
 その後ろにキレイにたたんで置かれている、彼が戦場に向かう時に必ず身に纏った黒きコート。
 色あせたそれは、彼が憧れた女性の遺品。
 剣崎は音を立ててコートを身にまとう。
 翻るコートは、狭い空間であったため裾を壁に擦らせながら舞い踊った。
 引き結ばれた唇。
 その目には鋼鉄の意志。
 仮面使いは蘇った。
 壁にかけてある仮面のうち、必要そうなものをコートの中に収納する。
 そして、必要なだけの武器をコートに隠し、剣崎は部屋の外に出る。
 ポケットに手を突っ込んだ。
 携帯電話を取り出す。
 そして、電話をかけ始めた。
 時間が無い。
 携帯に二階堂の連絡先がないため、彼らを止める術が剣崎にはない。
 二階堂たちの襲撃時刻は近い。
 剣崎は焦燥に駆られながら、電話先の相手が電話に出るのを待つのであった。







 夕日が空をオレンジ色に染め上げた。
 時刻は五時半。
 あと少したてば、太陽が沈み夜と呼ばれる時刻になるだろう。
 そんな夕方の真っ只中、二人の男がマンションの廊下を歩いていた。
 説明するまでもない、二階堂とロンギヌスだ。
 マンションは最新型のカードキーで入るタイプであるために、カードキーを持たない人間は部屋の中はおろか、マンションの中に入る事さえできない。
 が、そんなことは情報を駆使する二階堂と言う男にとっては意味のないことだった。
 ロンギヌスと供に戦うと決め、自分が拠点にしているアパートに戻ると、二階堂は早速電話をかけた。
 この街に住む、パスポートの偽造やら何やらを手がける怪しい男のもとへだ。
 マンションの住所を説明するだけで、『カードキーの偽造かい?』などと聞いてくるあたりたいしたものだ。
 聞いてみると、このマンションに住む男の愛人がカードキーを作って欲しいとマスターキーを持ってやってきたらしい。
 男はそのカードキーをあっさりと複製、さらにいつでも作成できるようにデータを残してあったのだ。
 それを複製させるために二階堂が支払った金額は百五十万、足元を見られたせいで相当に払わされた。
「時間さえあったらな、ちくしょうめ」
 誰かに見つからないか用心して歩きながら、二階堂は思い出した屈辱に思わず声を出す。
 だってそうだ。
 交渉上手の二階堂は時間さえあればあの程度のカードキー、十万前後で買い叩くことさえできたのだ。
 その証拠に、揺さぶりをかけ弱みに付け込み、時間をかけて絞り上げた精神科医から陣内の情報を引き出すのに二十万もかけていない。
 とはいえ、今の二階堂はそんなことを気にしている時間はなかった。
 小奇麗なそのマンション。
 どこぞのデザイナーが手がけたのだろうか。
 ヨーロッパの某国にでもありそうな西欧チックなデザインに、広い庭に噴水のある構造。
 中庭には木がたちならび、タイルで張られた床は清潔そのもの。
 その上、天井をガラスで覆っているので雨の日でも平気ときている。
 十二階建ての高級マンション。
 一度住んでみたいものだった。
 そんな庭を眺められる廊下を、二階堂とロンギヌスは足音を殺して歩く。
 普通にしているのが一番だが、そうは言っていられない。
 何しろ、顔に傷が無数ある二階堂を見て、怪しいと思わない人間は少ないだろう。
 それが小さな外人の少年を連れ歩いているのだ。
 通報されてもおかしくはない。
 しかし、何より警戒しているのはその騒ぎで陣内に自分達の存在を感づかれることだ。
 見つかる事は許されない。
 だからこそ、二階堂たちは己の体表からあふれ出る輝光を限界まで落として行動している。
 陣内の部屋は最上階の十二階、一番奥の部屋、ベランダには庭まである高級仕様だ。
 このマンションで一番高い部屋らしい。
 階段をのぼる、これでようやく十一階。
 階段から死角に移動し、二階堂はようやく一息ついた。
「さて、この上がやっこさんのお家だ」
 深く息を吐きながら二階堂が言う。
 そんな二階堂に、ロンギヌスが小声で聞いた。
「どうやって仕掛けますか?」
「玄関から扉をぶち抜いて入る」
「現実空間でですか?」
「異層空間なんか展開したら奇襲にならねぇぞ」
 確かに二階堂の言う通りだった。
 荒っぽいが、そちらの方が確実に勝機が見出せる。
「何しろこっちには皇技って切り札がねぇ。なら敵が反撃できないうちに仕留めるしか選択肢が無い。作戦は覚えてるか?」
「もちろんです」
「オレが扉を砕く、道を作る。奴を発見したらお前が」
「退技を、そうですね?」
「よろしい、じゃあ行くか」
 気配を探り、誰もいないことを確認した。
 足音を殺し、それでも出来るだけスピードが出るように。
 二人は慎重に移動し、そしてその扉の前に辿り着いた。
 高級そうな木材で出来たその扉。
 扉の横にある木の板には、陣内秋彦という文字が掘り込まれている。
 二階堂は目を閉じ、大きく深呼吸した。
 肺に満ちる空気。
 それをゆっくりと吐き出す。
 輝光は生命のエネルギー。
 そして、それを操るには命の動作である呼吸が最も適しているとされている。
 肺の空気を搾り出した。
 目を見開く。
 そして、
「はあああああぁっ!」
 咆哮と供に、扉に殴りかかった。
 直後、煙と供に二階堂の身体が膨張する。
 出現するはライガーの獣人。
 二メートルを越えた二階堂は、壁もろとも扉をぶち破り、部屋の中に突入。
 虚空から槍を出現させ、ロンギヌスは二階堂の後に続いて部屋に入る。
 その時だった。
「ようこそ」
 違和感と供に声が聞こえた。
 目を向ける。
 広々としたリビング。
 剣崎の部屋を四つ並べても足り無そうな広さのそのリビング。
 電気もついていないその部屋の中央に、男が一人立っていた。
 それよりも、二階堂は思った。
 おかしい。
 さっきまで電気はついていたはず。
 声が聞こえたと同時に、電気が消えた。
「取り込まれたか」
 舌打ちと供に言う。
 無様だった。
 予想していたことではあったが、陣内は罠を張っていた。
 襲撃は想定内、そして来てもその場で対処すれば事足りる。
 要は奇襲されなければいいのだ。
 そして、陣内が予期した通りの時間に二階堂たちは訪れた。
 二階堂たちの出現と供に、陣内が鏡内界を展開したのはそれが理由だった。
「少々乱暴な部屋の入り方ですね、もう少し静かに入ってきていただきたかったのですが」
 微笑んでみせる陣内。
 しかし、その笑顔は見えない。
 簡単だ。
 陣内はすでに魔装合体を終えている。
 隙が無い。
 合体する前、体勢を整える前に仕掛けるという二階堂たちにとっての勝利の前提条件が早くも崩れ去った。
「どうする、ロンギヌス?」
「やるしかないでしょう」
 槍を構え、ロンギヌスは答える。
 と、陣内は獣化した二階堂に視線を向ける。
「おや、間違えたら失礼ですが。あなたはもしや轟雷の退魔皇ではありませんか?」
「わかるのか?」
「一度聞いた声は忘れません」
「なるほど、殊勝な心がけだ」
 拳を握りこみ、二階堂は口にする。
 体勢を低く、飛び込む構えを見せる。
 魔装合体していた場合、対処方法は一つしかない。
 すなわち、攻撃をかけ魔伏で防御させる。
 防御している時は攻撃できない。
 そこをロンギヌスが突けば、勝機がないでもない。
 ただ、問題が一つ。
 対処法自体は簡単だが、それを実現するのはあまりに難しすぎる事くらい。
 それでも退くわけには行かない。
 飛び込もうとする二階堂。
 それよりも早く、
「一つ聞きたい」
 ロンギヌスが口を開いた。
「どうぞ」
 応じる陣内。
 息を吸い込み、ロンギヌスは言う。
「スワナンはどこだ?」
「この部屋の隣の部屋に、といってもここではなく現実空間です。私達の戦いに巻き込んで殺してしまうわけにもいきません」
「生きているのか?」
「七時に召し上がろうと思いましてね」
「お前にはもう、その時刻は訪れない」
 言って、ロンギヌスは槍をしごく。
 腰を落とし、前傾姿勢を作った。
 そして、戦いが始まる。
 フローリングの床をけり砕き、すさまじい踏み込みで二階堂が爆ぜた。
 右腕が金色に輝き始める。
 二階堂の右腕には魔剣が組み込まれている。
 咆哮とともに飛び掛った。
 輝光が部屋に吹き荒れる。
「列覇(れっぱ)! 轟覇(ごうは)! 受けよ我が黄金の拳!」
 呪文詠唱。
 魔剣起動のその言葉を口にし、二階堂はすさまじき速度で悠然と構える陣内に迫り、
「獅子咆砕破(ししほうさいは)!」
 その一撃を叩き込んだ。
 近接格闘系魔剣、獅子咆砕破が炸裂した。
 大岩をも砕く金色の拳。
「おぉ、怖い怖い」
 しかし、
「ですが、この盾を貫通することはできないご様子で」
 陣内を包む、ドーム型の結界を突破する事はできない。
 わかっている。
 これは防御させるための一撃。
 本命は、
「今だぁっ!」
 これに続く追撃。
 二階堂の叫びと供に、背後に待機していたロンギヌスが飛び込んできた。
 手にはどんなものでも貫き通す槍。
 しかし、
「甘いですよ!」
 陣内がその先をいった。
 二階堂が攻撃中はロンギヌスは手を出せない。
 そこを突き、陣内は結界の中で轟雷を出現させていた。
 発動する退技。
 同時に結界を消し去る。
 轟雷によって空気が操作された。
 部屋を砕かんばかりに旋回する空気。
 無数の小型ハリケーンが発生した。
 天井が吹き飛び、床が抉れる。
 家具が、キッチンが、そして壁が。
 風の暴力に耐え切れず、次々と吹き飛んでいく。
 天井が消え、姿を現す夕焼け空の中。
 暴風に攫われ、残っていた壁にロンギヌスは叩きつけられた。
 二階堂はそうもいかない。
 吹き飛ばされ、十二階の高さから地面に落下していく。
 数秒後、何かが地面に叩きつけられる音がした。
「さて、契約者が倒れましたね」
「まだだ!」
 言い放つ。
 まだ死んではいない。
 二階堂とのつながりは消えてはいない。
 感じる。
 二階堂の鼓動を感じる。
 なら、もう一度行けばいい。
 輝光を槍に集中する。
 退技だ。
 速迅のスピードをもって、正面から奴を突破するしかない。
「学習能力の無い」
 口にし、陣内は槌を構える。
 轟雷の退技は叩いた物質を操る。
 正確には轟雷が触れている物質を操る。
 つまり、空気を操る事に関して、轟雷は槌を振るい対象に叩きつけることなく退技を行使できる。
 この速射性はロンギヌスにとっては決定的な意味を持つ。
 皇技が使えるならいざ知らず、退技のみで戦う必要のあるロンギヌスにとって、それは越えられない壁に等しい。
 それでもロンギヌスは怯まなかった。
 負ければスワナンの命は無い。
 それを理解していたからだ。
「さて、終わりにしましょうか」
 柔らかく口にする陣内。
 ロンギヌスは覚悟を決め、仕掛けようと再び姿勢を低くする。
 その時だった。
「む?」
 陣内が気付いた。
 右を向く。
 それにつられ、ロンギヌスもそちらを向いた。
 夕日が雲に隠れ、それほど明るくはない空。
 夕焼けの空に白い点が見える。
 それは見る見るうちに大きくなり。
「クワァーッ!」
 超高速でロンギヌスに迫った。
 それは巨大な烏だった。
 翼をはためかせ、飛来する白い鳥。
 ロンギヌスは知っていた。
 その鳥はロック鳥。
 数メートルの巨体を持ち、象さえも鷲掴みにする怪力の持ち主。
 その足に、黒に包まれた人間がぶら下がっていた。
 飛来するロック鳥。
 ロンギヌスの頭上に到達したあたりで、人間が足から手を話した。
 滑りながらロンギヌスの目の前に着地する人間。
 立ち上がり、指を鳴らした。
 直後、鳴き声をあげて飛行するロック鳥の姿が消え去った。
「ご苦労」
 そう口にし、その男は『幻獣使い』と名付けられた仮面を顔から外す。
 露になった顔。
 それは決意を固めた男の顔。
「ロンギヌス!」
 男が、いや剣崎が叫んだ。
「契約だ!」
 一瞬、ロンギヌスは呆然としていた。
 剣崎が現れたこと。
 わざわざ契約を申し入れてくること。
 しかし、同時に確信があった。
 この男なら大丈夫だ。
 この男と契約すれば、
「いいだろう、たった今この時を持って二階堂俊成との契約を破棄する!」
 全てが上手く行く。
 ロンギヌスはそう信じ、詠唱を口にする。
「此度結びたるは共闘の契約
 供に生き戦う契約の宣誓」
 蒼き輝光が迸った。
「我は汝と供にあり、汝が誉れの武具となり
 汝は我と供にあり、汝は我と舞踏を舞う」
 吹き荒れる旋風。
 それを前にして、陣内は笑みを浮かべる。
「その証はここに
その誓いはここに
その絆断たれるまで供に戦う契りを結べ」
 今さら契約してどうなる。
 退技しか使えない退魔皇など、どうとでもなる。
 それは嘲笑を意味する笑み。
「汝が我と征(ゆ)くのなら、誓いの言葉で契るがいい」
 そこまで口にし、ロンギヌスは剣崎をじっと見つめた。
 真っ直ぐと視線を受け止める剣崎。
 そして、その言葉を紡ぐ。
「供に戦う、死ぬまでだ!」
 契約は完了した。
 仮面を介さない通常契約。
 ロンギヌスとの繋がりを感じる。
 剣崎は小さく後ろに跳躍、ロンギヌスの隣に並ぶ。
 そんな剣崎に、陣内が口を開いた。
「契約完了ですね、それでどう足掻いてくれるんですか、須藤数騎くん?」
 余裕に満ち溢れた声。
 一見優しさに満ち溢れているようで、その声に含まれるは嘲笑。
 明らかに、剣崎たちを見下している。
 そんな陣内を、剣崎は睨みつけた。
「一つ、言っておくことがある」
「どうぞ」
「オレを須藤数騎と呼んだな?」
 笑みを浮かべ、続ける。
「誰と勘違いしているか知らないが、人違いだ。オレはそんな名前の人間じゃあない」
 言い放つ剣崎。
 その言葉に、陣内は困惑を隠せない。
 剣崎は歯をむき出しにして笑い、
「オレの名前を教えてやるよ!」
 力強く、ロンギヌスの肩を掴んだ。
「魔装合体!」
 叫ぶ。
 虚空に響き渡る咆哮。
 冗談だと思った。
 だからこそもう一度、陣内は笑っていた。
 魔装合体するには仮面が必要、それが常識だったからだ。
「な……」
 だから、
「馬鹿な……」
 目の前の光景が嘘だと思った。
 渦を巻く蒼き輝光が剣崎の肉体に流れ込む。
 どれほどの高揚感。
 どれほどの爽快感。
 あらゆる快楽に匹敵する愉悦を胸に、剣崎はその槍を手にした。
 側にロンギヌスの姿はすでにない。
 魔装合体を果たしたロンギヌスは、剣崎の肉体と、もはや一心同体だ。
 仮面もかぶらず、ブルーメタリックの鎧甲を身につける剣崎。
 その姿は、紛うことなき退魔皇の姿だった。
「退魔皇の仮面もなしで、魔装合体だとぉ!」
「たまにはな」
 今度は剣崎が嘲るように、陣内に言い放つ。
 そして、ロンギヌスの魂が剣崎に命じる。
 剣崎はそれに従った。
「命の温かさを知らぬ者よ、この姿を見るがいい!」
 叫んだ。
 周囲一体に響き渡る凛とした声。
 槍を天に掲げ、剣崎はさらに続けた。
「美坂町にぃっ! 契り結びしこの槍がぁっ! 少女を救えと震えて猛る!」
 槍を脇に構える。
(そうだ、名乗れ!)
 ロンギヌスが命じる。
 その要求に従うべく、剣崎は名乗りをあげた。
「オレの名は剣崎……剣崎戟耶だ!」
 雲に隠れた夕日が姿を現した。
 その夕日を背にし、威風堂々たる剣崎。
 夕日に目が眩みそうになりながら、陣内は声を漏らした。
「剣崎……戟耶……須藤数騎は……偽名?」
 そこまで言って、陣内は気付いた。
「剣崎……戟耶だとぉ!」
 驚きの声をあげた。
 日本に存在する魔剣士として最高の血統を誇る御三家。
 剣崎、戟耶、そして薙風。
 この御三家の中に、生まれてはいけない忌み子が数十年前に生まれたという。
 つまり、
「お前が……剣崎戟耶」
 剣崎と戟耶の混血。
 混血の許されない、御三家同士の禁断の落とし種。
 この地上で、一人しか存在しない仮面無しで戮神の退魔皇剣を操れる人間。
「剣崎戟耶」
 それが目の前にいると、ようやく陣内は理解した。
 そんな陣内に対し、剣崎は手にした槍を頭上に掲げ、両手で高速回転させた後、両手で槍を構え陣内にその切っ先を向ける。
「名乗ることはない、開闢の退魔皇。お前は墓も無く誰にも知られず朽ちるがいい。ロンギヌスほどオレは優しくないぞ」
 それだけ口にすると、剣崎は陣内の前でバック転をした。
 大きな跳躍。
 後ろに床は無い。
 空中で下を向き、そのまま退技を発動した。
 速迅、それは戮神の退魔皇が誇る高速機動。
 それでもって、剣崎は瞬く間に十二階の高さから地面に降り立つ。
 そして、それの後部座席に乗った。
「行けぇ!」
 叫ぶと同時にタイヤが空転。
 咆哮をあげるエンジンと供に、車が道路を走り始める。
 そう、剣崎は足(くるま)を用意していた。
 唸りをあげるその車は、三百キロの走行に耐えるオープンカー。
 それは双蛇の退魔皇が、剣崎のために用意した車。
 ヘルハウンド、イギリスのデザートラット社が開発した超高級車だ。
 これ一つ買うだけで家が一件建つほどのお値段の高級車。
 ギアはすでにトップ。
 鏡内界に映し出され、停止した命もたぬ車を、縫うようにしてヘルハウンドが走る。
「須藤、どうだ!」
「追ってくる、スピード落とすな!」
 指示を出す。
 ハンドルを握る男は、口笛と供にアクセルを踏み込む。
 それは剣崎の友人、村上だった。
 停車した車の間を縫うように走り、急カーブではドリフトしながら走行を続ける。
「お前が運転免許持ってるなんて知らなかったぜ!」
 風圧によって声がかき消されないように叫ぶ剣崎。
 そんな剣崎に、村上は答えた。
「言ってなかったか? これでも長期休暇の間は峠でブイブイ言わせてたんだ」
「走り屋だっけか、そういう人種って?」
「風に生きる男だ。ゲームしか脳のない北村とは違うってんだよ!」
 後部座席から聞こえてくる剣崎の声に、村上は叫ぶようにして答える。
 と、そんな二人に対して、助手席から声が聞こえてきた。
「おしゃべりしてないで早く! 追ってきてるわ!」
 助手席の女性が、はるか後方の空中を指差す。
 夕闇の中を飛翔する人影。
 それは、轟雷の力によって風を操り飛行する陣内の姿だった。
「全速で逃げ切りなさい!」
「了解!」
 命令する韮澤に、村上は嬉しそうに応じた。
 そう、剣崎は韮澤と村上に助力を仰いだ。
 運転手として村上を、援護役として韮澤を。
「おい、剣崎。説明しろ」
 同じく後部座席に座る二階堂が聞いてきた。
「こいつら誰だ? いきなり乗れとか言ってきやがった、わけがわからん」
「仲間だ、信頼しろ」
「こんな弱そうなのにか?」
 前の座席に座る二人を見て率直な意見を言う。
「使い方しだいだ、こいつらはこの状況下ならお前より役立つ」
「信じられねぇな」
「信じろ。それにしてもお前も頑丈な奴だな。十二階から落ちたんだろ?」
 言われ、二階堂は目をぱちくりさせる。
 そして、にやっとその獣の顔で笑顔を浮かべた。
「ライガーの獣人を舐めんな、あのくらいの高さなら余裕で着地できるぜ」
「何階から落ちれば死ぬんだ?」
「成層圏くらいの高さかな」
「化物め」
 嬉しそうに微笑む剣崎。
 と、数キロ先にある標識を見つけ、叫ぶ。
「村上、次を左折!」
「了解!」
 剣崎の指示に従い、村上はヘルハウンドを操った。
 左折し、坂を上る。
 その先にある料金所を突っ切り、ヘルハウンドは立体環状高速道路に侵入した。
「二階堂、刻銃を用意しろ!」
 言われ、二階堂はすぐさま刻銃を、伸縮性が高く獣化の影響でもやぶれないガンベルトから刻銃を取り出す。
「弾丸は?」
「通常弾、あと刻銃聖歌も用意しとけ」
「了解」
 頷き、マガジンを交換する二階堂。
 それを見届けた後、剣崎は運転席に顔を向けた。
「村上、エンジン気にするな。全力で行け!」
「承知!」
 エンジンが吼える。
 アクセルの踏み込みと供に、スピードメーターがぐんぐん跳ね上がる。
 オープンカーであるため、すさまじい豪風に身体が揺さぶられる。
 それでも剣崎たちは怯まない。
 二階堂以外は、だった。
「剣崎、説明しろ?」
「何を?」
 困惑しながら、二階堂は大声を張り上げる。
「どういう作戦だ?」
「カーチェイスをやる」
 自らも刻銃を用意し、剣崎は続ける。
「奴を仕留めるには皇技を使った隙を突くしかない」
「それが何でカーチェイスに繋がるんだ?」
「高速で逃げる、退技はスピードでかわす。小賢しく攻撃する。皇技を使わせる、その隙を突いて打破する。わかったか?」
「わかった……ちょっと待て!」
 風の音に負けないように、二階堂が大声をあげる。
「皇技を使わせるだと! 何を考えてやがる!」
「向こうは六つ、こっちは一つだ。皇技を使った隙でも突かないと勝ち目が無い」
「皇技の威力を忘れたか? 撃たれた瞬間にやられるぞ!」
「だからこそ車がいる」
「わけわかんねぇ」
 頭を抱える二階堂。
 そんな二階堂に、剣崎が力強く言う。
「信じろ、必ず勝つ」
「期待してるぜ、マジで」
 舌打ちし、言い放つ二階堂。
 すでに覚悟を決めていた。
 ここまで来たとあっては、もはや剣崎の言葉を信じるしかない。
 そこに、
「うわぁっ、車!」
 叫ぶ村上。
 視線を向けると、前方三車線を横一列に並んだ車が塞いでいる。
 剣崎は助手席に顔を向ける。
「村上、ブレーキ踏むなよ! 韮澤さん!」
「任せて!」
 韮澤が答え、車に術式を施した。
 速度を落とさず突き進むヘルハウンドが前方のトラックに衝突しようとする瞬間、ヘルハウンドがトラックの中にもぐりこんだ。
 直後、何事もなかったかのようにトラックの中からボンネットが顔を出し、車体全てが外に出る。
「壁抜けか、なるほど」
 二階堂は面白そうに言った。
 そう、韮澤は魔術師だ。
 魔術の中に、物質を通過する壁抜けの術式というのが存在する。
 それなりに高度な術式なのだが、韮澤ほどの魔術師ともなると使えないわけでもない。
「あと十五回!」
 叫ぶ韮澤。
 そう、あと十五回。
 それがこの術式の使用可能な回数だった。
 壁抜けは高度な術式であるため、使用回数が限られる。
 一度の使用の効果時間は一分しかないため、回数で補う必要がある。
「おっと、お客さんだ」
 後ろを振り向き、剣崎は刻銃を構える。
 数百メートル後方。
 十数メートル上空に、陣内の姿。
 高速道路を舞台に展開される、追走劇のはじまりだった。







 物音のしない白い病室。
 そこは病院だというのにあまりに静かすぎ、病室の中には夕日の光が差し込んでいる。
 そこにあるベッド。
 そのベッドに、一人の男が寝転がっていた。
「あの坊やめ、人使いの激しい事だ」
 楽しそうに罵る。
 病院のベッドに寝転がる男。
 その入院患者の名は、坂口遼太郎といった。
 入院した翌日、夕方ちょっと前に剣崎から電話がかかってきた。
 曰く、裏切ったのは許すから協力して欲しい。
 罪悪感がないわけでもなかった坂口は、その言葉に二つ返事で了承した。
 多くの骨が骨折状態の坂口が求められたことは二つ。
 一つは美坂町のどこかで戦闘の気配を感じ取ったら鏡内界に入る事。
 そして、その鏡内界で広域展開型の異層空間殺しを展開する事。
 この二つだ。
 これにより、この鏡内界では電子機器や近代兵器、そして車、なによりもヘルハウンドが運用可能になる。
 坂口遼太郎は、剣崎の考える陣内の打破のためには必要不可欠の男だった。
「見せてみせろ、須藤数騎。奇跡の起こる瞬間を」
 遠くに感じるその男の気配を、坂口は瞼を閉じて数十キロ先から感じ取る。
 高速道路のカーチェイスは、まだ始まったばかりだった。







 美坂町をぐるりと取り巻く立体環状高速道路。
 歪な円を描きながら、小さな枝葉にわかれ、さらにそれが円形を成している。
 つまり、道を知らない人間にとっては迷路のようになっているこの立体環状高速道路。
 美坂町で最も高い建造物、美坂ランドマークタワーを中心にして広がるこの立体環状高速道路を、剣崎たちは化物マシン、ヘルハウンドで疾走していた。
 高さはおよそ十メートル近いその立体環状道路では、もし落ちればもれなく地面に墜落後の爆死が待っている。
 三百キロの速度を出しながらであっても、ハンドルの取り間違いは許されない。
「落ちろっ!」
 叫びながら剣崎は引き金を幾度と無く引いた。
 銃口から光が放たれると同時に輝光弾が、自分たちを追尾する陣内に襲い掛かる。
 しかし、飛行する陣内はその弾丸を容易く回避する。
 撃ちつくした。
 六発しか入らないリボルバーは弾数が少ない。
 シリンダーから薬莢を出し、道路に捨てる。
 すぐさまスピードローダーで補充、ふたたび弾幕を張りはじめる。
「オートマチックにしときゃよかったな!」
 となりで射撃を続ける二階堂が叫んだ。
 風が強く、叫ばないと声が聞こえない。
「こっちは二十二発だぜ!」
 二階堂の言う通り、弾幕のほとんどは二階堂が構築したものだった。
 しかし、結局回避されてしまうので正直大差ない。
 剣崎は黙って刻銃を構える。
「げ、ジャムった!」
 横で声が聞こえた。
 オートマチックは優秀だが、たまに弾詰まりを起す。
 だが、たいした問題ではない。
 二階堂は勢いよくスライドを引き、薬莢を取り除く。
 そしてすぐに弾幕の展開に協力し始めた。
 空薬莢が拳銃から飛び出し、アスファルトの地面を転がっていく。
 二人は刻銃で必死に弾幕を張っていたが、陣内はそれを軽やかによけていく。
 正直、拳銃で十メートル以上遠くのものを狙うのは現実的ではない。
 刻銃が輝光を纏わせた弾丸を放つとはいえ、せいぜい二、三十メートルが限度だ。
 百メートル以上の距離を隔てる敵を狙うには難しすぎる距離だ。
 輝光のふくらみを感じる。
「来るぞ!」
 運よくカーブに入った。
 陣内の手にする大太刀が一閃される。
 直後、斬撃と供に爆風が襲いかかった。
 ヘルハウンドが時速三百キロで疾走するモンスターマシンである事が幸いした。
 ギリギリで破壊圏内から逃れ、逆に爆風が加速の役に立つ程度の距離まで逃げ切れた。
 もっとも、衝撃は凄まじく、シートベルトをしていない二階堂と剣崎は危うく車から落ちかけた。
 そんな状況でも、村上は運転をミスらない。
 自称、走り屋は伊達ではないようだ。
 長い直線、ヘルハウンドはアスファルトの地面に吸い付くように安定して走る。
 途中、韮澤が術式を使った。
 使用回数はこれで四回目。
 あと、十二回。
「来る、左右にブレながら走れ!」
 剣崎が村上に指示を出す。
 はるか後方、追いすがる陣内から炎が放たれた。
 それは赤紫に燃え上がる火炎弾。
 流星の如く降り注ぐ極炎の火炎弾を、村上は驚異的なドライビングテクニックで回避する。
 減速、加速、左右移動。
 あまりの動きに韮澤は吐きそうになる。
 他の三人は振動に強いのか、特に気になってはいない様子だった。
 直後、小さく銃撃の音が聞こえた。
 気のせいではない。
 剣崎はとっさに左腕に持っていたカタールを握り締める。
「Azoth(アゾト)!」
 光り輝く輝光の刃を出現させる。
 そして、
「はぁっ!」
 斜めに一閃させた。
 横では二階堂が空中に黄金の右拳を繰り出している。
 二人の行動によって生じた結果は、アスファルトの地面に転がる変形した銃弾。
 天魔の能力によって追尾能力をもった銃弾だった。
 運転手である村上を狙う銃弾を、なんとか二人は迎撃することに成功した。
 と、陣内が急加速をかけてきた。
 驚くに値しない。
 戮神までとはいかなくとも、大気を操る轟雷は驚くべき速度で空中を飛行する事ができる。
 いままでしなかったのは、安全な射撃戦でこちらを仕留めたかったからだろう。
「二階堂!」
 剣崎が叫んだ。
 頷く二階堂。
 言葉は要らなかった。
 剣崎は刻銃のシリンダーを開くと、弾丸を一発装填。
 シリンダーを回転させる。
 その横で、二階堂は刻銃のマガジンを換えていた。
 接近する陣内。
 その陣内に、二人は刻銃の銃口を向ける。
『我が放つは……』
 紡がれる詠唱、
『断罪の銀!』
 二つの声で詠われるそれは、
『刻銃聖歌(カンタスグレゴリオ)!』
 人間など軽く肉塊に変える威力を持つ輝光弾を繰り出した。
 二発同時の刻銃聖歌。
 いかに陣内といえど、防御せずにすむ代物ではない。
 とっさに魔伏の防御結界を展開、防御に徹する。
 魔伏の結界の代償は他の退魔皇剣の使用停止。
 結果、陣内の飛行速度は急激に低下。
 その隙を突き、ヘルハウンドは一気に陣内との距離を開く。
「あと八回!」
 韮澤の叫び。
 何回か聞き逃していた。
 いつのまにそんなに使ったのか。
 韮澤の使える術の回数は、最初の半分にまで減っていた。
「さぁ、そろそろやばいかな」
 額に浮かぶ汗を拭いつつ、剣崎は続ける。
「さっさと皇技を使ってくれ、このままじゃ」
 韮澤の魔術が尽きて、機動戦が出来なくなる。
 そして、それは剣崎たちの敗北を意味していた。
 剣崎たちがこれだけ善戦できるのはヘルハウンドの速度によるところが大きい。
 確かに単独ならロンギヌスと合体する剣崎は、退技によって車を上回る速度で機動できる。
 しかし、それには多くの輝光を用いる。
 剣崎の作戦を実施するに当たって、それは避ける必要があった。
 かといって、退技を使わずに地に足をつけて戦う場合、陣内の退技を回避する手段がなくなる。
 なら、車を使うしかない。
 ヘルハウンドの速度を生かした機動戦こそが、剣崎にとって唯一の活路。
 問題は、挑発にのって陣内が皇技を使ってくれるかだ。
「皇技を使えば大量の輝光を消費する」
 呟く剣崎。
「あまりに膨大な輝光量に、他の輝光の動きを感じることが出来なくなる」
 それは音に酷似している。
 最大音量で音楽をかき鳴らすスピーカーの側にいて、一キロ先に落ちた針の音など聞けるものではない。
 つまりそういうこと。
 剣崎戟耶の策とは、その程度の簡単なものだった。
「使え、使ってくれ、早く!」
 焦燥を隠せない。
 さらに二度、韮澤が術式を行使した。
 残り六回。
 もう時間が無かった。
 使い切れば、もれなく敗北が手ぐすね引いて待っている。
 そんな時だった。
(来る)
 ロンギヌスの声が聞こえた。
 そして、剣崎は急激に膨張する輝光の高まりを感じた。







「吹けば跳ぶような蠅程度の存在だと思っていましたが」
 生身で高速飛行する陣内。
 刻銃聖歌を防いだために、大きく距離を離されているというのに、陣内は薄くわらった。
 正直、あの程度のゴミを打破するために皇技を使用するのはもったいなかった。
 当然だ、皇技の使用には大きな代償を必要とする。
 しかし、どうやら使わなくてはいけないようだった。
 あのゴミを沈黙させるには、皇技の使用が不可欠。
 どれを使うか。
 界裂、否。
 必中の体勢ならともかく、命中しなければ意味のない界裂はこのスピード戦に向かない。
 極炎、否。
 やつらは鏡内界に入るときに使った鏡を携帯しているはず、逃げられては意味が無い。
 天魔、否。
 残り四発、死ぬ危険が高い。
 魔伏、否。
 使いようが無い。
 開闢、否。
 届かない。
 轟雷。
「そう、轟雷だ」
 この追撃戦。
 もっとも有効な退魔皇剣は間違いなく轟雷だった。
「行きますよ、イザナギ」
(了解だ)
 自分の中にいるイザナギに頷いてみせ、
「全てを操る槌よ、天変を司るミョルニルよ、この世界を構築する手腕を!」
 詠唱を唱える。
 環境を操るその退魔皇剣。
 その皇技を、炸裂される。
「打ち振るう凶き天災(ルシファーズ・ハンマー)!」
 そして、世界が動き出した。







「今だ!」
 剣崎の叫びと同時に、村上が青いボタンを押した。
 明らかに後付けでセットされた配線丸出しの怪しげな機械。
 皇技詠唱の隙を突いて、村上はその機械を作動させた。
 直後、ヘルハウンドから、もうもうと灰色の煙が上がる。
 煙幕だった。
 しかも一本ではない。
 オープンカーのいたるところに何本もセットしてある。
 ブレーキをかけながら急停車する。
 止まらない、しかし速度は落ちる。
 タイヤを滑らせながら、煙幕は瞬く間にヘルハウンドの姿を包み隠す。
 韮澤の肩に手を乗せた。
 あとは皇技を待つだけ。
 そして、三秒としないうちに皇技が発動した。







「打ち振るう凶き天災(ルシファーズ・ハンマー)!」
 そして、世界が動き出した。
 ミョルニル、それはトールと呼ばれる神が操った槌。
 投げれば手元に戻り、雷を操るとさえ言われるその退魔皇剣。
 それは後代、ルシファーと呼ばれる堕天使によって使用された。
 その力でもって、彼は神に挑み、敗北した。
 そして、ミョルニルはルシファーの槌と言う異名を持つようになる。
 もっとも、それは魔術結社でも一部の人間しか知らない極秘文献の中にしか垣間見れない情報ではあったが。
 雷を呼ぶ力を持つ槌。
 しかし、それはミョルニルの力の一部に過ぎない。
 ミョルニルは『環境』の属性を持つ退魔皇剣だ。
 それは文字通り、環境を操る能力を持つ事を意味する。
 視界に入る範囲内の環境を、自在に操る力。
 環状道路を陣内は視界に捉えた。
「願う、道路よ。のたうつ蛇の如く動け」
 直後、道路が振動した。
 コンクリートであることを忘れ、道路がゴムのように揺れる。
「願う、自らを折りたたみ、そこにある者を潰せ」
 道路が途中でちぎれた。
 そして、それが折り曲がり、まるで本を閉じるかのように道路と道路が折りたたまれた。
 空を飛ぶ陣内からは、普段なら下から見上げるはずの立体環状道路の底の部分が上から見えた。
 柱との接続部分は、粉々に砕け散っている。
 陣内はさらに周囲を見回した。
「願う、ビルよ我が意に従え」
 ビルが蠢いた。
 直後、見えない力によってビルが宙に浮かぶ。
 そして、底に土をくっつけたまま、百メートルの高さまで浮かび上がった。
「落ちろ!」
 叫びと供に、煙幕の立ちのぼるあたりにビルが弾丸のように落下した。
 轟音と供に砕け散る道路、そしてビル。
 映画でしか聞かないような轟音とともに、陣内の眼下に広がる光景は次々と崩壊していった。
 轟雷の皇技は環境を操る。
 それは、目にした生命体以外の物質、および他人の輝光の影響下にない物質を意のままに操る能力。
 代償は記憶。
 脳が保存できる記憶量を五分の一ずつ失う。
 つまり、ボケるのが早くなるとでも言うべきか。
 しかし、一度くらいなら問題は無い。
 今の戦いにおいて、一度くらいの皇技の使用はなんの影響も及ぼさない。
 だから使用した。
 そして、効果は絶大。
 煙幕に隠れれば確かに轟雷の皇技の対象から逃れられる。
 しかし、見える物質でその煙幕を叩けば何の問題も無い。
 念のために、あと五つくらいビルを投げ込んでおこうか。
 そんなことを考えた時だった。
 エンジンの音が聞こえた。
 見ると、はるか五キロほど先に再び爆走を開始したヘルハウンドが立体環状道路ではなく地上の道路を走っている。
 目をこらすしてみると、乗っている人間が一人消えている。
 その一人が重大だった。
 剣崎戟耶。
 それは、戮神の退魔皇。
 必死になって探す。
 輝光の気配を探る。
 そして、気付いた。







 作戦はいたってシンプル。
 カーチェイスにもっていき、機動戦を展開した場合、もっとも威力を持つのは間違いなく視界に入れただけで敵をなぎ倒せる轟雷の皇技に他ならない。
 剣崎は陣内が轟雷の皇技を使用することを前提にして作戦を組み立てた。
 皇技の使用を感じたら仕掛けておいた煙幕を起動。
 完全に姿を隠したところで、韮澤に壁抜けの術式を使用させる。
 車を回避するためではなく、立体環状高速道路のアスファルトの地面をすり抜けるために。
 そして簡易な術式で落下の衝撃を弱め、無音で地面に着地。
 そのままヘルハウンドを走らせ、轟雷の攻撃から逃げさせる。
 その間、剣崎は戮神の退技『速迅』を用いて陣内の後ろに移動する。
 そして、皇技の発動によって輝光感知が機能しない隙を突いて、剣崎は速迅でもって上空に直進した。
 高く、高く、もっと高く。
 寒さを堪え、輝光で肉体をガードしながら剣崎は空を跳躍し続けた。
 戮神の踏み込みは地、空を問わない。
 空中で踏み込み、高く高く高く。
 雲を突きぬけ空に舞い、そして辿り着いた。
 そこは上空三万フィート。
 最下層に位置する対流圏と、次層に位置する成層圏の間、対流圏界面と呼ばれる場所だった。
 気温は軽くマイナス五十度以下。
 輝光でガードした肉体にも、寒さを感じるほどの冷気。
 雲を見下ろし、剣崎は夕日を見つめた。
 もちろん直視はできない、すぐに手で目を覆う。
 それでも、オレンジに染まる美しい天体は剣崎の心を奪いそうになる。
(言っておく事が一つある)
 ロンギヌスが話しかけてきた。
(退魔皇の仮面はフィルターの役割を持ち、使用者を守る効果がある。それによって、皇技の代償を少なくしている)
 ロンギヌスはさらに続けた。
(戮神の皇技の代償は欲望、何かをしようと言う気力を代償にし、最後には生きるために必要な全ての欲求すら失う、本来ならだ)
 言いにくそうに、ロンギヌスはさらに語りかける。
(フィルターが無い状態で皇技を使えば、代償は寿命となる。これが一番大きな代償だ。界裂が最強と呼ばれるのは、代償を軽減するフィルターが無効になるほどの力を持つが故だ)
 ギリギリのところでそんなことをロンギヌスは伝えた。
「今さらだな」
 剣崎は言った。
「そんなことを言って、オレが怯むとでも思ったのか?」
 怯むわけがない。
 自分の命より大切なものを助けるために、命を惜しむ者がどこにいよう。
 下を見る。
 オレンジの染まる雲。
 槍の穂先を下に向ける。
 剣崎の真下。
 輝光の気配を感じる。
 それは陣内の輝光。
 禍々しく歪んだ、腐った臭いさえ感じる輝光。
 どんなに離れても嗅ぎ違えることの無い輝光を感じながら、剣崎は詠唱を始めた。
 剣崎の肉体を蒼き輝光が渦巻く。
 ブルーメタリックの鎧甲が夕日の光を反射させる。
 速迅による浮遊を解除した。
 落下し始める肉体。
「全てを貫く切っ先よ、神さえも殺せしロンギヌスの槍よ、この世界を貫きたる速度を!」
 身を切るような風を感じながら、その皇技を発動した。
「突き貫く暗蒼の閃光(ダークブルー・パニッシャー)!」
 剣崎の周りの輝光が突如として光り輝いた。
 直後、落下速度が何倍にも跳ね上がり剣崎と言う名の槍が急降下していった。
 槍の退魔皇は何故、槍の退魔皇か。
 槍を持っているから。
 いやそれは違う。
 この皇技を遠くから見る人間なら一目で理解するだろう。
 光り輝きながら落下する剣崎は激しい光を放ちながら陣内に迫る。
 そして、光は流れ星のように尾を引いて残っていく。
 真っ直ぐ直線に、だ。
 輝く退魔皇は穂先、そして残像のように残る光はまるで柄のように。
 その光の形が、真っ直ぐに伸びる槍のように見えるのだ。
 突撃開始は上空三万フィート。
 これこそが剣崎の策。
 陣内の真上に飛び上がり、美坂町上空三万フィート垂直落下突撃をかける。
 ただでさえ異常とも思える速度の槍の退魔皇の踏み込みは、落下によって速度を幾乗もされ、その速さは落下する雷のようにも見えた。
 陣内はすぐに気付いた。
 剣崎が皇技を発動するよりも早く、轟雷の能力によって対応する。
 そのため、剣崎がはじめに受けた妨害は暴風の洗礼だ。
 突撃を妨げるべく襲い来る豪風。
 退技『速迅』を退けたその風を、剣崎は一顧だにせず突破した。
 さらにさきほど持ち上げたビルも剣崎に迫る。
 同時五方向から迫るそのビルを貫通して、剣崎は反対側から飛び出した。
 甘すぎる。
 この皇技は貫通を極めし退魔皇剣の皇技。
 風の障壁、ビルの妨害。
 その程度が何だと言うのか。
 この槍は全てを貫通する。
 神をも守りし防壁を突破するこの退魔皇剣に、その程度の妨害などまさしく無駄の一言。
 雲を突破した。
 オレンジ色の地上が見える。
 輝きと供に落下する剣崎に対し、地上に降りた陣内は大太刀を構えていた。
「万物を切り裂く刃よ、天と地を分かつエアの剣よ、この世界を引き裂きたる光を!」
 詠唱。
 それは剣崎が上空にいた時と、同タイミングで唱えられていた術式。
 つまり、音を超える速度で迫る剣崎を迎撃可能な一撃だった。
 音よりも早く、陣内が大太刀を横薙ぎに振るう。
 そして、
「世界裂く真紅の閃光(クリムゾン・スラッシュ)!」
 皇技が発動した。
 それは最強の退魔皇剣の皇技。
 あらゆるものを切断する刃が、剣崎に襲い掛かった。
 そして、蒼い光が消え去る。
 陣内が消し去ったのは皇技。
 剣崎が発動した皇技を、陣内は皇技でもって消し去ってしまった。
 それは剣崎が陣内にやった事と全く同じ皇技の消滅。
「甘い……」
 笑みを浮かべる剣崎。
 予想通りだ。
 界裂の皇技は確かにあらゆるものを切り裂く。
 霊的、概念的なものでさえ斬り飛ばすことが出来る。
 しかし、できない。
 界裂はあらゆるものを消し飛ばせるが、神によりかけられた制限が存在する。
 それは同じ退魔皇剣と、その退魔皇と契約した退魔皇の二種。
 これだけが、界裂に存在する制約。
 これのために剣崎は斉藤と戦った時、斉藤を斬り飛ばさずに斉藤の皇技を斬り飛ばし、斉藤を直接皇技で斬り飛ばさなかった。
 つまり、そういうこと。
 予想した通り、この程度では剣崎は死なない。
 そして速度は落ちず、剣崎の落下は止まらない。
 だから、
「全てを貫く切っ先よ、神さえも殺せしロンギヌスの槍よ、この世界を貫きたる速度を!」
 槍の切っ先は陣内に、
「突き貫く暗蒼の閃光(ダークブルー・パニッシャー)!」
 連続発動した皇技は、開闢の退魔皇に向けて落下を再開する。
 無論、陣内も応じる。
「万物を切り裂く刃よ、天と地を分かつエアの剣よ、この世界を引き裂きたる光を!」
 剣崎の詠唱と全く同時に、紡がれる詠唱。
 お互いに削りあうのは寿命。
 しかし、すでに一度使用している剣崎と打ち合うとなれば最後に残るのは陣内の寿命だ。
 皇技合戦なら、陣内に分がある。
「世界裂く(クリムゾン)……」
 そのために、
「滅びをもたらす矢よ、神さえも滅するミストルテインの弓よ、この世界を消しさる運命(さだめ)を!」
 紫の輝光が膨れ上がる。
 それは数キロ先。
 歪で緩やかな円を描く立体環状高速道路。
 そして、その中央に建設された美坂町で最も高い建造物、美坂ランドマークタワー。
 その屋上から、今の今まで待機し続けていた退魔皇が皇技を発動した。 
「抹消する永遠の運命(エターナル・オブリタレイト)!」
 消滅の力を内包した直径三十メートルの矢が閃光と供に射出された。
 飛び道具が人間よりも早く動くのは常識。
 そのために、突撃する剣崎よりも速く、その矢は陣内に到達した。
 とっさに陣内は魔伏の結界を起動した。
 魔伏の退技は滅神の皇技などものともせずに防ぎきる。
 だから、陣内は怖じることなく魔伏によって現状を対処する。
 しかし、ダメだ。
 それは決定的に間違っていた。
 なぜなら、
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 三万フィートの高さから落下する退魔皇は、全てを消滅させる皇技も、それにすら耐えうる結界も全て、
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 有象無象の対象なく、あらゆるものを貫通する。
 紫の光を突破し、水色に光り輝く防御障壁を突破した。
 輝光に包まれた蒼き槍が。
 戮神の退魔皇たる剣崎が。
 結界に侵入し、大太刀を手にして呆然とする陣内を刺し貫いた。
 腹部に刺さった槍。
 落下は止まらない。
 滅神の皇技を突っ切り、立体環状道路の地面を貫通し、そのまま下まで落下する二人の退魔皇。
 そして、槍が地面に到達した。
 アスファルトの道路に亀裂が入る。
 突き刺さる槍。
 それは、陣内の腹部を貫通し、陣内を縫い付けるように柄の部分までアスファルトに埋まっていた。
 地面に着地する剣崎。
 両腕に力を入れ、槍を地面から引き抜いた。
「ぐっ!」
 同時に呻きをあげる陣内。
 腹部から血を流しながら、地面に転がった。
 あらゆるものを貫通する戮神の槍。
 しかし、弱点があった。
 貫通するだけで、攻撃力に目を見張るものが無い。
 正直言って、攻撃という点だけ見れば、魔伏や双蛇を除いて最弱に位置するのがこの槍だ。
 よって、皇技を起動してすら当たり所が悪ければ一撃必殺足りえない。
 しかし、十分に突破できた。
 それは間違いなく致命傷。
 魔の槍によって穿たれたその傷は、生半可な術では治療しようが無い。
 剣崎は槍を構える。
 トドメを刺すためだ。
 そう、トドメを刺すため。
 それは何を意味するか。
「距離を無にする玉よ……いかなるものをも逃さぬ魔弾タスラムよ……この世界を跳躍する弾道(とびら)を……」
 呻き声を上げながら聞き取られないように紡がれていた詠唱。
 トドメを刺すため。
 それが意味することは単純。
 つまり、まだ敵は生きている。
 陣内の手の中に銃が出現していた。
 それは天魔の退魔皇剣。
 それを剣崎に向け、陣内は皇技を発動する。
「自由射撃(ザミエル・ショット)」
 勝利を確信していた剣崎の対応は遅れた。
 引き絞られる引き金。
 そして、銃口から飛び出す弾丸。
 必中の一撃が心臓を貫いた。
 胸に入り込み、背中から飛び出す。
 情けない音を立てて、胸と背中から飛び出す血液。
「がっ……」
 漏れる呻き。
 そして、
「バ……カ……な……」
 事切れた。
 動かない。
 目を見開きながら死んでいた。
 六振りの退魔皇剣を手にした最強の退魔皇。
 陣内は、死んだ。
 剣崎は幸運に感謝した。
 七発ある内、一発のみ仕込まれた反逆の魔弾。
 陣内はそれを引き当てた。
 そして、反逆の魔弾は使い手の心臓を貫いた。
 それだけだった。
 六振りの退魔皇剣を手にし、勝利にもっとも近かった退魔皇は自滅した。
 それが、死した女性しか愛せなくなった悲しい男の最期だった。







































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